その泡沫のような時間はかけがえのないものだろう。
取り戻した今となっては当たり前のように感じるが、もしも呪いに縛られたままであったら。
そう考えると恐ろしい、と。呪いから解かれた部員達は呟いた。
「――という訳です、先輩わかりますか?」
「は、はい。とりあえず、ノイズがなくなったとはいえ、まだ不安は残っているって言いたいの?」
「ええ。あたしとしても不本意ですが、本調子絶好調とは断言はできません」
部活に向かう途中、後ろから呼び止められ、くいくいと学生服の背中を引っ張られた。
振り返ると、卯月真中華がご機嫌顔でニンマリと笑っている。
最初の頃とは違い、素直な態度も増えて先輩としては微笑ましく思う。
「なので、先輩はもっと交流を深めるべきだと思います」
「今以上に? というよりも、僕にできることはもうないよ?」
「先輩は釣ったお魚には餌をあげないタイプですか? 救ったら救いっぱなしですか?」
「え、えぇ……? それにしても、真中華は出会った頃からは考えられないくらい、言うようになったね」
「そうした方がいいって言ってくれたのは先輩ですから」
本来の彼女は物事を一人で背負いがちで意地っ張りな少女であったが、傷を調律する関連で強く関わってからは周りにも素直に頼ることを覚えるようになった。
姉であるというプレッシャーもあったのだろう、弱みをあまり見せずに冷静沈着を装っていたけれど。
今では、年相応に無邪気な一面も部活内で見せてくれるようになった。
「あたし達は呪いを解かれたとはいえ、いわば、療養中みたいなものです。
だから、先輩はもっと部員のことを見るべきだと思います。…………あたしのこととか」
「これでも十分に見ていると思うんだけどな。
それに、あんまりべったりと引っ付かれるのは真中華も嫌だと思って」
本当に、微笑ましい。そうは感じているが、まさかここまで懐かれるとは思わなかった。
最初は頑なに自分一人でこなそうとしていた真中華がこうも素直に要求してくるなんて。
「別に、今は嫌じゃないです。昔は昔、今は今です。そういうことなので、その、ですね?
………………もっと、構ってくれてもいいのに」
出会った頃とは違い、ストレートに好意を表現してくる真中華を見て、チューナーは何ともいい難い気持ちで、苦笑する。
ただ、偶然でしかない。真中華とも、百花部長に見出されていなければ関わることもなかった。
元々、男性がいない器楽部でチューナーが無事に入部できたのはたまたまなのだから。
「智美とか面倒見がいいし、真中華のことをよく見ているでしょ」
「そういうことではなくて、ですね。はぁ、チューナー先輩は意地悪です」
「如何せん、出会った頃とのギャップの違いに慣れていなくてね。
最初は真中華、僕のこと警戒してただろうし」
「む、昔のことを引っ張り出さないでくださいっ」
顔を真っ赤にしてムキになる真中華を見て、少しだけ口元を緩めた。
もしも、妹が生きていたら、こんな風なやり取りをしていたのだろうか。
「……先輩?」
湧いた寂寥感が胸に染み渡り、表情が崩れる。
もしかするとあったかもしれない未来。
この道を歩むことなく、真っ当に夢を追いかけられた可能性を想起して、握り潰した。
そんなありもしないイフの話はしても仕方がない。
「何でもないよ。って、全く信じてないね、その目」
「それはもう当たり前です。チューナー先輩はすぐ無茶をしますから。
見ている側からするとハラハラして困るし、もうチューナー先輩が一人で頑張る必要はないんです」
それでも、那由多の可能性の一つで取り戻せるならば。
家族の笑顔が見れるならば。チューナーはきっと――――。
「これからは、どんどん付き合ってもらいますからね、先輩」
かつて取り零した夢と思い出を取り戻す代償がチューナー自身の未来であっても、喜んで差し出すだろう。
そして、その時は近づいている。
チューナーに対して、いう少年は全ての罪過を受け止めろと“呪い”が囁いてくる。
(言われなくても。僕にこれからはいらない)
未来を投げ捨てる覚悟はとっくにできている。
この無邪気な笑顔を退けてでも、過去は絶対に渡さないし譲らない。
“英雄”が犯した最初の罪が、今も胸で脈動している。
■
部活も終わり、夕暮れが校舎を照らす。
チューナーはぼんやりと窓から帰宅する部活の生徒達を見つめ、懐古する。
一人きりの教室。思えば、長い一年間だった。
器楽部を救う。“英雄”として愚直に前を向く。
過去の誓いとほんの僅かに残った夢の欠片を原動力に走り続けてきた。
「やあ、チューナーくん。待たせたわね」
ひょっこりとドアから顔を出して茶目っ気のある笑顔を浮かべているのは、部長である草薙百花だ。
いつも最後まで残っている部長と帰るのは極めて稀だ。
彼女自身はもっと自分に構って欲しいとは言うが、学年も違うので中々に難しい。
加えて、人気者である彼女と二人きりというシチュエーションは先にはもうないだろう。
「君から一緒に帰りませんかなんて誘ってくれるものだから、今日は気分がいいんだ。
いつも、他の部員と一緒にいることが多くて、嫉妬してしまうよ」
「それを言うなら、僕の方こそ。百花先輩は人気者じゃないですか」
「人気がなくちゃ部長は務まらないよ。卒業までに少しでも器楽部で交流したいからね。
今まで出来なかった分、私はもっと皆と話したい。
君とは特にさ。私にとって、君は特別な存在なんだから」
二人連れたって、校舎を出て夕暮れの街を歩く。
他愛のない話をしながら、ゆっくりと帰路につく。
もう呪いに悩まされることなく、大切な友人達との音楽を考えることができる。
それが、百花にとってどれだけの救いだったことか。
そして、成し遂げたチューナーにどれだけ感謝していることか。
年下の男の子。頼りなさげな彼に、全てを託したことに負い目はある。
だからこそ、彼のことを人一倍に気にかけた。
距離感を縮めることも遠ざけることもせず、中間で見続けた。
「君には感謝してもしきれないから。部長としてではなく、一人の女の子としてね」
「そこまで言われると気恥ずかしいですね。それに、頑張ったのは僕ではなく、皆です。
感謝を述べるべきは部員の皆なんで、もっとストレートに伝えてあげて下さい」
「ふふっ、君は出会った当初と変わらないわね。謙遜が過ぎると、嫌われるわよ?」
「性分ですから、こればかりは何とも。それに、事実なので。
僕が皆の頑張りを掬い取るのはいただけませんよ」
彼は変わらない。チューナーは変わるつもりはない。
あの日あの時と寸分違わないまま、貫いてしまった。
どんな状況であっても、諦めず踏破する。“英雄”ならば、こうする。
狂気を以って凶気を制する。
常人ならとうに精神が壊れるだろう光景を見ても尚、歩みを止めない少年は、今も一人だ。
誰も、彼の内を知らない。そもそも伝えるつもりがない。
自分を理解しているのは自分だけでいい。
「全く、困ったなあ。そうやって感謝すらも跳ね除けられるなんて、先輩悲しいなあ。
それに、言ったでしょ。これは個人的好意――一人の女の子として、って。
だから、先輩の好意はちゃんと受け取りなさい」
「光栄です。僕みたいな奴が百花先輩にそう思われているのは釣り合いが取れてませんよ」
「……はぁ。これでも大分ストレートに言ったんだけど。君は自分を下にしすぎね。本当に、出会った頃と変わらない」
はにかむ笑顔を見せる百花に対して、自分は何も報いてはいない。
その好意はたまたまだ。“英雄”として当然のことをしただけなのに、感謝は必要ない。
「卒業後はあまり会えなくなっちゃうけど、時間を見つけて会いにきたいな。
私達がいなくなった後の器楽部を君達がどう広げていくのか、とても楽しみ」
その輪に、チューナーという存在は不必要だ。
だからこそ、こうすると決めていた。
入部して呪いについて知った最初から、チューナーは選択肢を選び取っていた。
「そうですね。本来ならそうする所でしょう。けれど、まだ終わっていない。
最後の呪い――器楽部の呪いを駆除しないといけませんよ」
「えっ、何を、言ってるの?」
「僕を排除して、器楽部は元に戻る。それでは……最後の仕事をしましょうか、百花先輩」
ゆっくりと、チューナーは百花へと顔をむける。その瞳には、確かな決意が宿っていた。
チューナーの声は、あらゆる色彩が抜け落ちたかのように静かだ。
ぞくり、と。百花はこれまでの人生で感じたことのない寒気が身体に迸った。
何かがおかしい。いつも浮かべている微笑が能面のように見えてしまう。
「僕の役目はもう終わりました。これからの器楽部に、僕は不純物でしかない。
楽器の演奏もできない僕はいてもいなくても変わらない。
調律も、何かあったら楽器屋さんに行けば解決できますしね」
「やめて、聞きたくない! 君が言ってることを、理解したくない!」
「嫌だなぁ……これからの器楽部にとって大切なことなんですよ、“器楽部部長”。僕も輝かしい器楽部が戻る最後の仕事をしようと思いましてね」
事務的に。もう何の興味もないかと言う風に。
チューナーの言葉には感情が全く乗せられていなかった。
当然だ、チューナーが魅せられたのは“自分のいない器楽部”が行った演奏だ。
そこに、自分がいては不協和音が生まれてしまう。
それじゃあ、ダメだ。器楽部はいつまでも、あの魔法の音を奏でてもらいたい。
ただそれだけが、“英雄”ではない自分”が求めたことだから。
「これが“チューナー”として、“英雄”として、僕が器楽部に接する最後です。受け取って下さい」
差し出された封筒に書かれている文字は、百花が一番見たくないものだった。
退部届と書かれたそれを、百花は掴むことができなかった。
微動だにしない瞳で、あらゆる感情が抜け落ちた表情で、彼は残酷に置き去りにしていく。
「あれ、どうしましたか、そんなに表情を青ざめて。体調が悪いなら、早く家へと帰宅した方がいいかと。その前にこれを受け取ってもらわなくていけませんけどね」
「そうじゃ、ない! 君は、どうして! そうか、何か困ってることでもあるのね。
よし、先輩に全部話してよ、解決するから! 必ず、その、味方になる!
それだけのこと君はしてくれた、私が――」
「いいえ、それには及びません。僕は最初から、入った当初からこうするって決めてましたから」
確かに肉声なのに、何だかもっと異質なものに聞こえる。
百花が相対しているチューナーは偽者なのではないか。
そう疑ってしまう程に、今の彼からは何も感じられなかった。
機械音のように、ただプログラムされた言葉を話しているロボットのように。
「大丈夫ですよ。僕がいなくなった程度で器楽部は崩れない。むしろ、本来のあるべき姿に戻るんです。
僕を魅了したあの魔法の音を奏でる器楽部に、きっと」
何故、そんなにもいい笑顔を作れるのだろう。
この時、百花はチューナーが人間ではない何かに見えた。一つのシステムが人の形に集まっただけの存在みたいに。
その綺麗な笑顔は、ただ綺麗なだけで、他には何の意味も持っていなかった。
綺麗に、無機質に、何の感情もなく、微笑んだまま、チューナーは言う。
「どうしたんですか、百花先輩。これで、器楽部を取り巻く全ての障害がなくなるんです。
喜びを分かち合いましょうよ?」
こんなにも近くにいるのに、遠い。
百花は思う。何もわかっていなかった。
彼のことを、何一つ知らないまま“英雄”を任せた自分が悪いのか。
そもそもの話、終わっていなかったのではない。
彼との物語は、まだ始まってすらいなかったのだ。