絶華   作:雨守学

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第18話

帰還して、早一週間。

まだ完全に馴染めた訳ではないが、ここの変化にある程度は対応できるようになっていた。

だが……。

 

「えーっと……P……U……R……I……NN……っと……」

 

「提督さん、本当にパソコンが苦手なんですね」

 

「今まで触る機会が無かったしな……」

 

どうもこの、事務・連絡用に支給されたパソコンだけは、未だにうまく扱えないでいる。

 

「響ちゃんに教わったらどうです?」

 

「響? あいつ、得意なのか?」

 

「えぇ、凄いですよ。響ちゃーん」

 

鹿島に呼ばれ、響はパソコンの前に座った。

何やら訳の分からんソフトを開くと、響はノールックで、ダカダカと、まるで機関銃の如く、キーボードを鳴らした。

 

「おぉ……! って、ん?!」

 

画面には、「djfkjうぇhふぉ」というような、滅茶苦茶な文字が表示されていた。

 

「テキトーじゃないか!」

 

「これが出来るの、響ちゃんだけなんですよ」

 

「そう言うことだ」

 

響は得意げに、ふふんと笑って見せた。

 

「むしろ他に出来ない奴があるのか……」

 

「ふふっ、なんて、冗談だよ。本当はちゃんとできるんだ。見てて」

 

今度はゆっくりではあるが、ノールックでキーボードを打った。

入力された文字も、ちゃんと意味を成している。

 

「ね」

 

「凄いな……。何かコツとかあるのか?」

 

「やっぱり慣れかな。ブラインドタッチに関しては、ほら、キーボードのFとJにぽっちがあるだろう? ここを基準にして――」

 

「ほう……。なるほどな……」

 

しかし……三年か……。

長いと言えば長いし、短いと言えば短い。

時代に大きな変化があると言えばあるし、無いと言えば無い。

ここも同じだ。

変わったところもあるし、変わらないところもある。

「ある程度」と銘打ったのには、その見極めがまだ甘いからということもある。

 

「いつの間に覚えたんだ? パソコンはここにしかないはずだが……」

 

「学校だよ。パソコンの授業があるんだ」

 

「ほう。進んでるな」

 

学校の授業内容も、いよいよもって、艦娘を外に出す準備に入ったという感じらしい。

本当、いろんな変化があるんだな。

 

 

 

響にパソコンの使い方を教わった後、暁と共に車で本部へと向かうことになった。

 

「悪いわね。送ってもらっちゃって」

 

「なに。ちょっとした気分転換も兼ねてるからさ。ずっと寮にいると、あいつらの相手ばかりさせられるからな」

 

「ふふ、そうかもね。でも司令官、良かったの? 送ったら送ったで、暁の相手をして貰う事になるわよ?」

 

「レディーとの時間ということであれば、大歓迎ですよ」

 

「あら、お上手ね」

 

「恐れ入ります」

 

そう言ってやると、暁は嬉しそうに笑って見せた。

 

「しかし、本当にお前、大人びたよな。初日はあんなに泣きじゃくっていたから、分からなかったけれど」

 

「あれは……しょうがないじゃない……。暁はレディーだけど……嬉しい時は笑うし、悲しい時は泣くし……。寂しい時は……素直に甘えようと思ってるわ……」

 

「返し方も大人だな」

 

「三年も経っているし、大人というものがどういう存在か、分かってきただけよ。司令官から言わせれば、まだ子供なのだろうけれど……」

 

「まあ、そうだな」

 

「そこは否定するところじゃないの?」

 

「フッ、ちょっと意地悪したくなってな。暁の癖に、生意気だぞ」

 

「……司令官って、昔っから子供よね」

 

「よく言われるよ」

 

その返しに、暁は口をとがらせて、不満を表した。

 

「そういやお前、最近霞とよく話しているのを見かけるが、いつの間に仲良くなったんだ?」

 

「霞? あー……話してるところ、見ていたの?」

 

「内容は分からなかったがな」

 

「そう……。霞も「パートナー試験」を受けるみたいでね、その事で話すようになったの」

 

「そうだったのか。あいつも試験を……」

 

そんなこと、この一週間で聞くことなんてなかった。

というよりも、そもそも霞とは、まだちゃんと話せていない。

帰ったら、ちょっとでも時間をつくらないとな……。

そんな事を考えていると、突如、太ももに痛みが走った。

 

「痛っ!」

 

「ちょっと!」

 

どうやら暁が平手で叩いたらしい。

 

「な、なんだよ?」

 

「もう! 暁と一緒に居るんだから、他の子の事なんて、考えちゃダメ! レディーと居る時は、レディーに集中しなきゃダメなのよ? それくらい、常識なんだから!」

 

ああ……そういうこと……。

多分、ドラマかなんかの影響で、真似てんだろうな……。

 

「全く……司令官っていつもそうよ……。あの時だって――」

 

それから暁は、まるで用意していたかのように、俺に対する不満を並べた。

最初こそはそれを黙って聞いていたが、段々と面倒くさくなってきた。

 

「だからね?」

 

「…………」

 

なんだか長引きそうだし……あれ、やるか……。

 

「分かった? 司令官?」

 

「…………」

 

「ちょっと! 無視しないでよね!」

 

「…………」

 

「ちょ……司令官?」

 

「…………」

 

「し、司令官……? なに? 怒ってるの……? お、怒ってるのは暁の方なんだからね! ぷんすか!」

 

「…………」

 

「あ……あの……。ねぇ……司令官……。本当に怒ってるの……? 叩いたの……痛かったの……?」

 

「…………」

 

「ご……ごめんなさい……。私……テレビで……そう聞いて……叩いたのは……司令官……許してくれると思って……」

 

俺は車を停めた。

 

「降りろ」

 

「え……」

 

沈黙が続く。

 

「なーんて――」

 

俺がネタばらしをする前に、暁はビービーと泣き出してしまった。

 

「お、おいおい……。冗談だって。悪かったよ。ごめんな」

 

「うぅ~……怖かったぁ……。もう……! ばかばかばか……! 司令官のばか! 絶対……許さないんだからぁ……! うぅぅ……」

 

「ごめんって……。ほら、本部に着いたら、何か買ってやるから……」

 

「じゃあ……お菓子全種類ね……」

 

そう言うと、スッと泣き止んで見せた。

 

「分かった。……現金な奴だな」

 

「なにか言った!?」

 

「何でもございません。出発しますよ。お嬢様」

 

「ふんっ……」

 

ぷんすか状態の暁を乗せたまま、本部へと向かった。

 

 

 

「なるほど、それで暁ちゃん、怒っていたんですね」

 

「ちょっと意地悪し過ぎたな」

 

「先輩の悪い癖ですね。性癖と言った方が正しいですかね?」

 

飯田はニヤニヤしながら、缶コーヒーを口にした。

 

「それで? 先輩は何をしに? 暁ちゃんを送るだけじゃないですよね?」

 

「気分転換で来てみただけだ。寮にいると、あいつらの相手をさせられるばかりだしな」

 

「ふぅん。随分なご身分で。鹿島さんは三年間も頑張っていたのに……少しは休ませてあげたらいいのに……」

 

俺は何も言えなかった。

 

「なーんて、先輩も頑張っていましたから、大丈夫ですよ。でも、そうですね……。せっかくですから、先輩がここに来て良かった理由をあげちゃいましょうか」

 

「いくらだ?」

 

「先輩……どれだけ搾取されてきたんですか……。タダでいいですよ。タダで……」

 

「お前……いい奴だな……」

 

「……やっぱり」

「いや、悪かった。それで?」

 

飯田は大きなため息をついた後、話し始めた。

 

「「パートナー試験」と「適正パートナー試験」についてです。この前の資料、見てくれましたか?」

 

「あぁ。面接で聞かれることの例が載っていたよ。鹿島と練習したもんだ」

 

「「受験資格について」という欄もご覧になりましたか?」

 

「一応な。「パートナー試験」を合格していることと、受験者二名が合意していること、だったか」

 

「その他にもあったのですが、覚えていますか?」

 

「その他……」

 

主だった受験資格は、その二つだけだったような……。

 

「はぁ……。「本部からの受験許可があった者」ですよ。よく読んでください……」

 

「あぁ……それか……。当然だろ。言うまでもないし、書くまでもない」

 

俺がそう言うと、飯田は表情を曇らせた。

 

「そこが重要なんですけどね……」

 

「どういうことだ? まさか、意地悪でもして、受けさせないことが出来るとでも?」

 

「まあ……そう言う心配もありますが……。先輩と鹿島さんの関係に文句をつける人は、もうここにはいませんよ……」

 

「では……」

 

飯田は周りに誰もいない事を確認すると、静かに話し始めた。

 

「私は立場上、試験について詳しく話すことは許されていません。なので、オブラートに包みますから、察してください……」

 

なるほど……そういう感じか……。

 

「分かった……」

 

「では……。「適正パートナー試験」ですが、受験資格を判断するのに、今まで時間を要したことは少ないのです……。山岡さんが初めて試験を受けるとなった時、本部に申請して、一日で許可がおりたそうです……」

 

「それだけ、試験を受けることは難しくない……って訳ではなさそうだな……」

 

「時間を要したことは少ない……という事は、時間を要した組もいると言うことです……」

 

飯田の視線が、俺に向けられる。

その目は、いつも以上に真剣なものであった。

察しろというような、そんな目。

これから、重要な事が言われるのだと感じた。

 

「山岡さんと夕張さんの組は、試験前にも、本部で噂になっていましたし、本人たちも隠していませんでした。遅かった組は、本部どころか、寮の仲間たちですら知らなかったそうです」

 

「…………」

 

「噂になっていたから、知っていたから、すぐに受けさせた……。そんな話、普通はあり得ません。公正に判断するためにも、判断期間を平等に設けるべきです……」

 

それを聞いて、一つの説が俺の中に生まれた。

 

「それがなっていない……という訳でもないだろう……。まさか――」

 

飯田は人差し指を立てると、俺の口に当てた。

しゃべるな、と言う事らしい。

それで確信した。

 

「……理解したよ。判断期間は、ちゃんと設けられているようだな……」

 

「問題は……「誰がそれを見極めているか」です……。もっと言うならば……「誰が本部へ報告しているのか」……。試験を受けた本人たちは、判断されていることを知らなかったそうですよ……。つまり……分かりますね……?」

 

それを聞いた瞬間、背筋が凍る気持ちだった。

疑ってはいけない事を、疑ってしまった。

 

「あと……これは余談ですが……。あくまでも……余談ですよ……。受験資格を得た組の寮には、必ず「パートナー試験」の受験を控えた艦娘がいて――」

「――っ!」

 

俺は思わず立ち上がり、飯田の言葉を遮った。

 

「先輩……」

 

「……もういい。言いたいことは分かった……。だが……」

 

「信じられませんか……?」

 

俺が黙っていると、部屋の入口に人影があることに気が付いた。

振り向くと、そこには――

 

「司令官、戻ったわよ」

 

逆光の中で、暁は、不気味に笑って見せた。

 

 

 

「んふふ~」

 

帰りの車内。

暁は菓子に囲まれて、ご満悦のようであった。

 

「機嫌はなおったか?」

 

「うん。大満足」

 

「それで俺が意地悪な奴だってのはチャラにしてくれよ」

 

「分かっているわ。司令官はただのたらし。意地悪じゃない」

 

「たらしは残るのか……」

 

それにしても……。

 

「ん? なぁに? 司令官?」

 

「いや……なんでもない……」

 

「そぉ? あ、一個食べる? これ、美味しいわよ!」

 

「あ、あぁ……ありがとう」

 

暁が俺たちの事を本部に報告しているとはな……。

……いや、そうと決まったわけではないし、仮にそうだったとしても、悪いことではないだろうが……。

 

「そう言えば司令官」

 

「なんだ?」

 

「さっき、飯田さんと何を話していたの?」

 

「え? あぁ……ちょっとした世間話だ」

 

「世間話? なんだか、深刻そうな感じだったけれど……」

 

太陽が雲に隠れ、車内は暗くなった。

ミラー越しに暁の目が、じっと、深い色を持って、俺を見ていた。

 

「司令官……?」

 

なんだろう、この感じ。

 

「飯田と……ちょっと……口論になっただけだ……」

 

「ふぅん……」

 

実態は無い。

事実も無い。

ただただ――

 

「司令官ってば、本当に女性を怒らせるのが得意よね」

 

「ハハハ……」

 

――不気味だ。

 

 

 

寮に戻り、鹿島に本部での事を話した。

俺と同じように動揺するかと思いきや、平生を保っていた。

 

「そうなんですね」

 

「冷静だな。もっと動揺するかと思ったが……」

 

「いえ。そうすることが自然だと思います。おそらくですけど、「適正パートナー試験」と同時に、「パートナー試験」も始まっているのだと思います。その一環が……」

 

「報告すること……か……」

 

「はい。ですから、心配することは無いですよ。提督さんは、暁ちゃんがスパイに見えてしまったのではないですか?」

 

「スパイ……」

 

「何も、本部も暁ちゃんも敵ではないですよ」

 

言われてみればそうだ。

俺はまだどこかで、本部の連中を敵として見ていたのかもしれない。

三年前とは違うのにも関わらず……。

だからこそ、暁に――。

 

「多分……提督さんは、三年前に向けられた目を忘れられないのだと思います……。でも、もう私たちの関係は悪いこととされてはいませんし、ちゃんと健全な関係ですから、安心してください」

 

そう言って、鹿島はそっと俺の手をとった。

 

「鹿島……。そうだな……。そうだったな……」

 

「まだ帰ってきて一週間程度ですから、徐々に慣れていきましょう。ね?」

 

「あぁ」

 

鹿島はニコッと笑って見せると、近づいて、俺に寄り添おうとした。

が、直前で止まった。

 

「鹿島?」

 

「試験……もう始まっているんですよね……」

 

「まあ、そうだな」

 

「なら……これも良くないですよね……」

 

そう言うと、鹿島はシュンとしてしまった。

そうか……。

俺の感じていた不安ってのは、むしろ「こっち」なのかもしれない。

いくら環境が整っているとはいえ、やはり俺たちはまだ――三年前と同じで――。

 

「……なに、俺たちもすぐに受かる。その時までさ。そうだろ?」

 

「提督さん……」

 

「鹿島、俺は――……」

 

俺はそっと、鹿島にしか聞こえない声で、そう言った。

 

「今は……これが精いっぱいだ……」

 

「……十分です。とても……嬉しいです……」

 

嬉しいというよりも、恥ずかしさの方が勝ったのか、鹿島は顔を真っ赤にさせ、しばらく俯いていた。

三年前の鹿島を思い出す。

 

「こういうのも……悪くないかも……なんて……。えへへ……」

 

が、やはり三年経っているのだと、俺は思わず笑ってしまった。

 

 

 

夕方過ぎ。

晩飯の時間まで、少しだけ暇が出来た。

 

「ふぅ……」

 

寮の外にあるベンチ。

三年前とは違い、ピンク色に塗りなおされている。

おそらく、卯月あたりの仕業だろう。

座り心地だけは変わっていないようで、少しだけ撓み、体の沈む感じが何とも懐かしい。

 

「…………」

 

一人だけの時間。

何も考えず、ただ遠くに沈みゆく夕日を眺める。

数か月前までは、寂しく見えたこの景色も、今ではもうすっかり印象が違っている。

帰る場所、迎えてくれる仲間たち。

ただそれが近くにあるというだけで、ここまで――。

 

「隣……いいかしら」

 

声の方を向くと、霞が立っていた。

手には、二本の缶コーヒーが握られている。

 

「ここ、私のお気に入りの場所なのよ」

 

「そうだったのか。邪魔したか?」

 

「ううん。むしろ、居て欲しいわ」

 

そう言うと、霞は微笑んで見せ、隣に座った。

 

「貴方、これ好きでしょ」

 

「貰っていいのか?」

 

「うん。何本もストックしてあるから……。一人じゃ飲みきれなくて……」

 

「お前も好きだったのか」

 

「そうなる予定」

 

「なんだそりゃ」

 

タブの弾ける音が二つ。

霞は一口含むと、文字通り苦い顔を見せた。

 

「無理するなよ」

 

「別に……平気よ……」

 

「そうか?」

 

蜩の鳴き声だけが、辺りに響いていた。

 

「お前、「パートナー試験」を受けるんだって? 暁から聞いたよ」

 

「えぇ……」

 

「今日聞くまで、知らなかったよ。お前も人が悪いよな。教えてくれても良かったのに」

 

「管理人の癖に、知らなかった貴方もどうかと思うけど……」

 

「まあ……そうだが……」

 

「でも……そうね……。別に隠してるつもりは無かったのだけれど……何だか言い出せなくて……。言うまでもないと思ったし……」

 

「俺はちょっとショックだったけどな。かれこれ一週間も経つのに、そんな重要な事、話してくれなかったんだってさ」

 

そう言ってやると、霞は俯き、手に持った缶コーヒーをぎゅっと握りしめた。

 

「お前、先生にでもなりたいのか?」

 

「別に……。なんでそう思ったのよ?」

 

「暁がそうだったからな。それに、お前が試験を受ける理由なんてのは、それくらいのもんだろ?」

 

「……本当にそう思う?」

 

「え? あぁ……まあ……。「適正パートナー試験」を受けるつもりって訳でもないだろうしな」

 

「ないだろう……か……」

 

霞はコーヒーを一気に飲み干すと、そのままそっと、俺に寄り添った。

 

「霞?」

 

「貴方にとっての私って……そういう感じなのね……」

 

「そう言う感じとは?」

 

「だから……恋だとか……そういうのには無縁な存在ってこと……」

 

「あぁ……。でも、実際にはそうだろ? 基本人見知りだし、異性……いや、異性じゃなかったとしても、誰かに心を開くなんてのは、滅多にないだろうし」

 

「でも、あると言えばあるわ……。そうでしょ……?」

 

そう言うと、霞は俺の顔をじっと見つめた。

 

「私だって……恋くらい……」

 

その瞳は、どこか悲しげで――少なくとも、子供がするようなものではなかった。

 

「……ここまで言っても分からない?」

 

「え?」

 

「……本当、鈍感なんだから」

 

霞がそう言った時、俺はふと、遠くの飛行機雲に目を奪われた。

綺麗な直線を描く光景に、感心していた。

だから――。

 

「――……」

 

抵抗もなく、それを受け入れてしまった。

 

「あ、提督さん! 探しましたよ。そろそろ夕食の準備が出来――」

 

鹿島が言葉を失っている間も、霞はそれを止めることはしなかった。

遠くにあった飛行機雲は、もうとっくに雲を切り捨て、どこかへ行ってしまっていた。

 

「……っ」

 

唇を放すと、霞はほうっと息を漏らした。

ほのかに漂う、コーヒーの香り。

 

「……私は……貴方の事が……」

 

霞は立ち上がると、呆然とする俺たちをよそに、寮へと走り去っていった。

耳を突く蜩の鳴き声。

陽は山間に沈み、遠く伸ばしたその影が、俺たちを包み込んでゆく。

 

「…………」

 

鹿島の方を向く。

だが、顔を見ることは出来なかった。

手は胸のあたりで握られており、小さく震えていた。

 

「鹿島……」

 

一瞬の間。

鹿島の震えが止まり、まるで力を失ったかのようにして、その手は降ろされていった。

 

「……お夕食、そろそろですよ」

 

やっとの事で見た鹿島の表情は、いつものように笑顔であった。

 

「……ああ。すぐ行くよ……。これ、飲んでからでいいか……?」

 

鹿島は頷くと、何も言わず、寮の方へと戻っていった。

しばらくすると、カレーの香りが辺りに漂い始めた。

が、俺の鼻孔の奥底には、あのコーヒーの香りが唇の感触と共に残っていて、神経はそればかりに支配されていた。

腹の虫が鳴く。

冷たい風が、体を叩く。

だが、その香りが消え去るまで、俺はその場を動くことは出来なかった。

 

 

 

夕食の後、深刻そうな顔をした鹿島に呼ばれ、屋上へと向かった。

屋上のドアは三年前と違い、容易に出られないよう、内側も外側も、鍵を差し込まなければならないタイプへと変わっていた。

 

「皆さん……出てしまうことが多くて……」

 

「禁止されているのは知っているはずだが」

 

「提督さんが……たまに誰かを連れて来ていたのは知っているんですよ……。だから皆……」

 

「……すまん」

 

鹿島は怒ることも悲しむこともせず、ただ不安そうな表情を見せていた。

 

「……霞ちゃんの件ですが、提督さんは……どこまで聞きましたか……?」

 

「どこまで……とは……?」

 

「霞ちゃんの気持ち……理解したのですよね……? だったら……暁ちゃんではなく……霞ちゃんが本部に私たちの事を報告していることも……聞きましたか……?」

 

「え……」

 

冷たい風が、俺たちの体を強くたたいた。

鹿島は髪が乱れていることを気にすら留めず、ただ俺を見つめていた。

 

「どういう……ことだ……?」

 

「何も……聞かされていないんですか……?」

 

「あ、あぁ……。俺たちはただ……試験の話をしていて……そしたらあいつが急に……」

 

何処にもないはずなのに、またあのコーヒーの香りが――確かに感じられた。

 

「……あいつとの間に……何があった……」

 

鹿島は深く目を瞑ると、辛そうな表情を見せた。

思い出したくない。

そんな表情。

 

「……夕食前。提督さんが……管理人室を離れた後の事です……」

 

……

………

…………

 

最後の仕事を片付けて、私も管理人室を出ようとしたとき、霞ちゃんが入ってきました。

 

「霞ちゃん。どうしたの? 提督さんにご用事? だったら、今さっきここを出て……」

 

「知ってる……。あの人が部屋から出て行くの……見ていたから……」

 

そう言うと、霞ちゃんは私の目をじっと見つめました。

どうやら、私に用事があったようです。

それも、提督さんがいては、都合が悪いというような……そんな用事……。

 

「さっき……用事があってこの部屋に入ったのだけれど……聞いてしまったの……。暁が……本部に二人の関係を報告しているかもって話……」

 

迂闊でした……。

確かにあの時、管理人室のカギはかけていませんでしたから……。

 

「あ……あのね……? それは――」

「――違うわ……」

 

「え……?」

 

「暁が報告しているんじゃない……。あの子は……何も知らないわ……」

 

霞ちゃんが何を言わんとしているのか、さっぱりでした。

唐突な話でもありましたし……。

けど、次の一言で、その真意が分かりました。

 

「……私も、「パートナー試験」を受けるの。どういう意味か……分かるでしょ……?」

 

ゾッとしました……。

――いえ、試験を受けることを知らなかったからだとか、報告しているのが霞ちゃんの方だったからだとか、そういう事ではないんです。

霞ちゃんの目です……。

あの目は……今までに見たことが無いくらい……深いものでした……。

私をじっと見つめて――敵意のようなものすら感じました……。

そして、その不気味さが、実感を持って襲ってきたのが、次の言葉です……。

 

「私は……あの人が好き……。それがどういう意味かも……分かるでしょ……?」

 

…………

………

……

 

「それから……霞ちゃんは何も言わず……部屋を出て行きました……。そして……」

 

鹿島は俯き、それ以上言うことは無かった。

 

「霞が……そんなことを……」

 

「霞ちゃんはこう言いたいんだと思います……。報告しているのが自分である以上……都合のいいように操作できると……」

 

「……馬鹿な。あいつに限ってそんなことは……」

 

「私だってそう思いたいです……。けど……あの言葉は……あの目は……そうは言っていませんでした……」

 

鹿島は限界だったのか、とうとう泣き出してしまった。

 

「鹿島……」

 

「ごめんなさい……。私……怖くて……」

 

「何も怖がることは無い……。例え霞がそうしたとしても、俺たちが健全な関係を維持している事は事実なんだ。大丈夫。何があっても、俺はお前の傍にいる」

 

「提督さん……」

 

「あいつが報告し、操作していると決めつけるのはまだ早いしな。お前だってさっき、暁に疑いがあると知った時、そう言っていただろう」

 

「そうですけど……。でも……霞ちゃんが提督さんを好きなのは事実です……。暁ちゃんの時とは……」

 

鹿島の不安は分かる。

だが、俺にはどうも、霞がそんなことをするとは思えなかった。

鹿島を疑っているわけではない。

ただ、何か理由があるはずだと思った。

あいつを誰よりも理解している、俺だからこそ――。

 

 

 

何とか鹿島を宥め、俺たちは屋上を後にした。

 

「今日は部屋で休め。色々考えて、疲れただろう」

 

「はい……。すみません……」

 

「謝ることは無い」

 

そうは言っても、鹿島は不安な表情を隠せずにいた。

 

「鹿島……」

 

「…………」

 

「……明日、「街」に出ないか?」

 

「え……?」

 

「思えば、お前と二人っきりで「街」に出た事、無かったよな。デートしようとした矢先に、釘を打たれたこともあったし……」

 

鹿島は思い出したのか、小さく笑って見せた。

 

「そうでしたね……」

 

「デート……ってのは大げさかもしれないし、手を繋いだり、そう言うことは出来ないけれど……。二人っきりで歩くことができるくらいには、環境は変わっているんだろう?」

 

「えぇ……。でも……いいんですか……? こんなことがあったばかりなのに……」

 

「こんな時だからこそ、だ。どうやら、今の俺は、お前に信用されていないようであるし」

 

「え?」

 

「例え悪く報告されていたとしても……この関係が認められなかったとしても、俺はお前を諦めない。一生かかろうと、お前を好きでい続ける自信がある。お前がおばあちゃんになろうとも、それは変わらん」

 

「提督さん……」

 

「ま、その頃には、お前の気持ちも変わってしまっているかも知れないが……」

 

「そ、そんなことは……!」

 

「あぁ、分かってる。だから……俺の気持ちも……分かって欲しいんだ……」

 

鹿島の不安は、そこにあるのだろう。

それを拭えないということは――そう言うことなのだろう……。

 

「……分かりました。いえ……本当は分かっていたんです……。それでも……貴方の口から聞きたくて……。確かなものにしたくて……。私は……提督さんを信用していなかったわけじゃありません……。私自身を……信用していなかったんです……」

 

「鹿島……」

 

「だから……私が私を信用できるように……提督さんにも……手伝ってほしいです……」

 

そう言うと、鹿島は顔を真っ赤にさせて、目を泳がせた。

それがどういう意味なのか、俺には分かっていた。

 

「もちろんだ。手始めに、明日の「お出かけ」は、お前にとって一生の思い出になるくらいのものにしてやる」

 

「提督さん……。いいんですか? そんなにハードル上げて。期待……しちゃいますよ?」

 

「お前こそ、衝撃に備えておけよ」

 

そう言ってやると、鹿島は表情を緩め、いつものように嬉しそうに笑って見せた。

 

「……もう不安はないか?」

 

「あ……はい。すみません……。気を遣ってくれたんですね……」

 

「そんな大層なもんじゃない。ただ、明日もそんな顔されてちゃ、楽しめないと思っただけだ」

 

「同じことですよ。ありがとうございます」

 

鹿島は本当に安心したのか、欠伸を一つした。

 

「ほら、今日はもう休め」

 

「そうですね……。そうさせてもらいます」

 

「じゃあ、ここで……。また明日」

 

「はい。また明日」

 

鹿島は小走りで階段をかけ降りて行くと、途中で振り向き、手を振った。

そうして見送った後すぐに、寮は消灯時間を迎えた。

 

 

 

緑色の誘導灯の光を頼りに、階段を降りて行く。

今日だけで色々な事が判明し、俺の脳はショート寸前であった。

 

「今日は早く寝るか……。明日もあるしな……」

 

二階に差し掛かった時、廊下がぼんやりと明るくなっていることに気が付いた。。

 

「なんだ?」

 

覗いてみると、ある一室から、光が漏れているようであった。

消灯時間になったら、部屋の明かりも落とす様に言ってるのだがな……。

 

「えーっと?」

 

廊下に貼られている部屋割りを見た。

あの部屋は……。

 

「霞か……」

 

静かに部屋へと近づく。

すると、何か話している声が聞こえた。

誰かと話しているようではあるが、霞の声しか聞こえない。

電話があるわけでも無いし……独り言か……?

 

「…………」

 

部屋の扉をノックしようとした時――俺は、それをはっきりと聞いてしまった。

 

「はい……。鹿島さんもあの人も、特に問題は……。はい……はい……。いえ……あの二人に限って……そんな事……。はい……大丈夫です……。では……また……」

 

霞がそう言い終わると、会話はやんだ。

 

「…………」

 

霞は、本当に俺たちの事を本部に報告している。

おそらく、携帯電話か何かを支給されていて……それで……。

ということは……鹿島に言ったという、あの言葉も――。

その時、突如として、部屋の扉が開いた。

 

「誰か居……あ……」

 

「あ……」

 

霞と目が合う。

一瞬の間。

俺が口を開く前に、霞は俺の胸倉を掴み、そして――。

それが済むと、胸倉を掴んだまま、顔を近づけたまま、俺にしか聞こえない声で言った。

 

「口止め料……。まあ……もう知っているとは思うけれど……」

 

「お前……」

 

霞は手を放すと、俯き、震える声で言った。

 

「消灯時間でしょ……。帰って……」

 

「霞……」

 

「おやすみなさい……」

 

扉が閉まると、すぐにカギも閉められた。

部屋の明かりが消え、廊下は緑色に染まった。

俺はしばらくそこを動けず、蛍光ランプの弱った誘導灯の淡い光を、ただじっと見つめることしかできなかった。

 

 

 

結局、霞が本部へと報告していることは事実だと分かった。

鹿島の言っていたことは、本当であったわけだ。

だが――。

 

『鹿島さんもあの人も、特に問題は……』

 

『いえ……あの二人に限って……そんな事……』

 

会話の内容は分からないが、俺たちの事を庇っているように聞こえた。

だとするならば、霞が鹿島に言ったことは矛盾している。

――いや、或いはそういう意味で鹿島に言ったわけじゃないのかもしれないし、何か別の意味があるのか――。

 

「はぁ……駄目だ……。頭が変になりそうだ……」

 

考えれば考えるほど、訳が分からなくなる。

 

「…………」

 

霞……。

何故お前は、鹿島にあんなこと言ったんだ……?

そして、何故言ったことと矛盾する行動をしている……?

何故、俺に――。

月明りが机を照らし、その上に置いてある空の缶コーヒーを光らせた。

あの香りが、頭から離れない。

もっと言うならば、あいつの顔が――とても近い、あいつの顔が、ずっと――唇の感触と共に――。

 

「霞……」

 

それは、やっとの事で着くことの出来た眠りの中でも、夢として思い起こされた。

覚めたのは翌朝で、寝坊をした俺を激高する鹿島の声と共に、消えていった。

 

――続く

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