第一話 幼なじみがプリキュアに!? キュアブレイブ誕生!
……アンタの将来の夢って、なに?
……その問いに、ぼくは答えることができなかった。そんなに先のことなんて、考えてみたこともなかったからだ。
……なんも思いつかないの? 例えば、俳優とか、医者とか、漫画家とかさ。あるじゃんそういうの。
……ぼくには、夢というものがなかった。なぜだか、それまでにそういうことをいちども想像した覚えがなかったのだ。
……はー、つまんな。中身のない人間なのね、アンタって。
……うるさいな、放っておいてよ。そういうキミの夢っていうのは、いったいなんなのさ。
……アタシさ、プリキュアになりたいんだよね。
……それは、いわゆる「プリキュア伝説」に登場する女戦士のことだろうか。ぼくもいちどだけ、読んだことがある。なんとも夢らしい夢だ。
……プリキュアになれれば、世界じゅうをまもることができる。アタシの大切なものも、みんなの大切なものもひっくるめて、ぜんぶ。
……でも、それっておとぎ話でしょ。努力やなにかでなれるようなものじゃないとおもうんだけど。
……いいじゃない、夢ぐらいどんなんだって。それに、アタシはその内容がつくり話じゃなくて、まぎれもない真実だって信じてるから。
……もしそうだとしても、プリキュアになるって相当、つらいことなんじゃないかな。だって、みんなをかばって、ひとりで傷を受けつづけなくちゃいけないんだよ。
……たしかにそうかもしれないわね。それでもアタシは、プリキュアとしてみんなを絶望からまもってあげたい。もうだれも、悲しい思いをしなくて済むように。約束するわ。アタシは必ず、プリキュアになってみせる。
……でも、キミは女の子じゃないか。わざわざ痛い思いをしてまで、戦う必要はないよ。
……そうね、アタシが戦わずに済めばそのほうがいいに決まってるけど、たぶんありえない。世界はいつだって、愛別離苦に苛まれている。それを救うことができるのは、プリキュアしかいない。もしその適合者がアタシしかいなかったなら、喜んでそれを引きうけるわ。
……じゃあ……る。
……ふふっ……そ……が、アンタ……?
……かも……れない……
……あっそ。ま、期待しないでおく。できればアンタが、アタシの代わりに世界まるごとまもってくれたら、苦労しなくてすむんだけど。
……う、ううーん。いちおう、努力はするよ。でも、プリキュアになるのは気がすすまないかも。
……バーカ、プリキュアになる資格があるのは、アタシみたいな超絶美少女だけだっての!
……そういえば、そうだったね。あはは。
……あら、もうこんな時間。アタシ、そろそろ帰らなくちゃ。
……そっか、ならぼくもそうしよう。じゃあ、バイバイ。また明日。
……じゃーね、バイバイ。
それは幼き日のおもいで。忘れかけていた記憶。ぼんやりと、ぼくのあたまにフラッシュバックする。いつだっただろうか、そんな約束を交わしたのは。
ぼくと話しているこの少女は、むろんねごろにおいて他はない。それは確実なんだけれど、ある内容が一部分だけ欠けていて、そこだけ思いだせない。そこがいちばん大切なところだったはずなのに。もっとも、こんな昔にした約束なんてあっちも忘れてるだろうし、そもそも忘れるってことは、さしてな重要な案件でもなかったということだ。まあ、むりに思いだそうとする必要はないだろう。それに、これはただの夢だ。脳が勝手にありもしない記憶をねつ造したってことも、十分ありうる。だから、気にしない。さっさと忘れてしまおう。それより、いまは……。
「……と……よ」
そう、さっきからずっとぼくのそばで叫びつづけている、だれかさんの声。こいつが、ぼくの明晰夢を妨害するんだ。やめてほしいな、せっかく夢心地なのに。
「お……たら、……え」
ああ、なんてうるさい声だろう。工事現場のドリルの音で目が覚めそうになる瞬間の気分だ。でも、ぼくは無視を決めこむ。あっちが迫ってくるのなら、こっちはより深く逃げるだけだ。忘我の境地へひた走る。
「この……」
深く……より深遠へと……潜ってもぐって……行きつく先は……遥か彼方……安息の地をめざして……いざ行かん……。
「おきろーーーっ!」
バコーーーン!
「いっ……たぁーーーっ!?」
夢想状態がその一撃にて、またたく間に霧散する。ぼくはあたまを抱えながら、イスから転げおちて床に倒れこんだ。
「よーやっと、おきたわね」
「う、ぅ……」
うめきながらダンゴムシのようにまるまっていると、ふと、ひたいにぬめぬめした感触があった。手を広げてみると赤黒い血がべったりとついている。
「ち、ちちち血ーーーっ! しぬ、死んじゃうぅ!」
「ウッサイ、さわぐな。ほら」
べちんっ!
顔面に、湿ったなにかがぶちあてられる。
「ああ、助かったありがとう……ってこれ、ぞうきんじゃん! こんなので傷口ぬぐったら、雑菌に侵されてよけい死ぬリスク高まるとおもうんだけど!」
「アタシは、それで血を拭けなんてひとこともいってないわよ。それはあれ、遺体の顔にかける白い布」
「殺す気かとおもったら、もう死んでる前提だったんだ……」
はあ……。せっかく気もちよく居眠りしてたのに。邪魔されるのは、いつものことだけどさ。
……彼女は、「恒月ねごろ」。ぼくとおなじ、中学三年生だ。世間的には、幼なじみって関係になるのかな。いつもしつこくちょっかいをだしてくる、なんとも悪趣味な人間だ。だが、それと同時に、ぼくの気の置けない唯一の友人でもある。
淡い金髪はふたつくくりにしてあり、いちいちおおげさなしぐさをするたびに、それがぷらんぷらんとゆれる。黒とピンクのマーブル模様がプリントされた、ゲームセンターなんかでとれるようなちょっと安っぽいシュシュでとめてある。べつに、他人のオシャレに口をだすつもりはないけど、もうすこしちゃんとした髪留めでも買えばいいのに、とおもう。あれはあれで、似合っているけど。
顔立ちはかなり整っているほうだろう。ブルーのひとみはクリクリとつぶらだし、鼻筋はくっきりと高いし、くちびるはふっくらとしている。そしてなによりも、びっくりするほど小顔だ。
……ただひとつの難点は、その性格。とにかくひと(というか、ほとんどぼく)をからかうのが好きで、興味のないことにはほとほと無気力で、そのうえだれに対しても尊大だ。どんな偉そうな人間にも媚びない、といえば聞こえはいいけど。おそらく、いやまちがいなく、ねごろは人生をその性向で半分以上は損している。黙ってさえいればそうとう美人だし、おおきな街へ繰りだせば、モデルやアイドルなんかに余裕でスカウトされそうなのに。
実際よからぬことを考えて、彼女にちかづいてくる男は大勢いる。それも、年齢問わずに。しかし、そういう人間は例外なく、ねごろの「毒」であっというまにやられてしまう。
あいさつすれば、わざとらしく舌打ち。趣味をたずねれば、死体の分解としか答えない。デートの約束を取りつけても、すっぽかす。相手が怒って詰めよると、相手の劣っている面をこれでもかと列挙して逆ねじを食わせ、しまいには自我の崩壊をおこさせるのだ。これまでに、いったいどれだけの男が廃人同然と化してきたか。ぼくはそんないくつもののやりとりを、いままでずっと無感情に白い目で見つづけてきた。まあ、自業自得だよね。
しかし、しだいにねごろに関する黒いうわさが立ちこめるにつれ、どうやらその影響は、いつもいっしょにいるぼくにも、すくなからず及びはじめていた。根も葉もないくだらない巷説が蔓延しているだけだけど、あまりにも突拍子もない内容のものもあるので、たまにおどろかされる。いまでは、ぼくひとりで道を歩いていても、みんなこそこそと路傍にひっこむありさまだ。すくなくとも不便はしてないし、べつにいいけど。
ちなみに……そんなぼくの名前は、「玄武晴信」という。地味で目だたない外見と性格に、そのいかつい響きはまったく釣りあっていない。その由来は、かの有名な戦国武将、武田信玄らしいけど、正直いって似合わない。軽くコンプレックスだったりするし。まあ、両親の想いがこめられたものだし、ないがしろにはできないけど……あまりうれしくはないかも。もっと平凡な名前がよかった。
「……ねえ、いまのアタシのはなし、きいてた?」
「え……」
はっと我にかえると、目の前にはぼくを白眼視する、ややお怒りぎみのねごろの顔があった。しまった、もの思いにふけっていたから、ぜんぜんきいてなかった。
「ごめん、ぼーっとしてた……」
「はー、やっぱうわのそらだったのね。放課後、明日から学校にくる転校生と、顔あわせするのに付きあってほしいっていったの」
「はあ、転校生ね。ねごろの知りあい?」
「ちがうちがう、アタシのママとあっちの親がそうみたい。なんか、あたらしい学校生活を不安がってるから、顔見知りに……できれば末永く友だちになってあげてって」
「ふうん。こんなひっそりとした町に引っこしてくるひとなんてそうそういないし、そんなに憂えなくても、おのずと人気者になれるだろうから大丈夫だとおもうけどね。転校生なんてぼくもはじめてみるよ」
「まー、アタシも同意見だけど、どんなヤツなのか先にみておきたい気もするし。やっぱ転校生ってのは、多かれ少なかれ、だれだって興味をもつものよ」
そういうと、ねごろは不意にかたっぽのくくりをもてあそびはじめ、毛先が痛んでないかを確認する。……こういうちょっとしたクセというか、動作は女の子らしいのに、なんだかな。
「それで、都合はどうなの」
「うん……今日は特に予定はないし、いいよ」
ぼくも内心、その転校生とやらがいたく気になっていた。なにせ、とりたてて話題になるようなことはいっさいおきない、緑ばかりがあふれるさびしい田舎町のことだ。きっと学校はおろか、町でもちょっとしたうわさになるにちがいない。
「ん、もうそろそろ昼休みもおわりか。んじゃ、また帰りにね」
そう言い残し、ねごろはさっさと自分の席へと戻っていった。ぼくは高まる期待をおさえて、けだるい午後の授業にのぞむのだった。
キーンコーン、カーンコーン……。
「んん~っはぁ。やっとおわった……」
六限終了の鐘の音は、学生にとっての一日の区切りを告げる福音だ。まさしく、苦悩から歓喜へ、だ。ドーパミンをからだいっぱいに感じながら、ぼくは思いきり伸びをした。
「よっし、そんじゃいくわよ」
ねごろの声がしたかとおもうと、いきなり首が締めつけられる。後ろから襟を引っぱられているようだ。
「ぐぇ!? い、いくってどこへ……」
「転校生とは昨日の夜に電話で、公園で会おうって約束してるの。ほら、さっさとしなさい」
「わ、わかったから、ひっぱらなぃっぼ!」
ぼくはねごろに引きずられながら、公園へとむかった。
「ついた、ついた。さて、件の人間は、どこへやら、と」
ねごろは手をひたいにかざして、遠くを眺めるそぶりをみせる。
「ゲホッ、ゲホッ」
いっぽうぼくはというと、激しくむせかえりながら、花壇のレンガ囲いに座りこんで呼吸を整えていた。なんでこう、いつもむりやり……。
「っはぁ、はぁ……ぼく、ちょっと水のんでくるよ」
「あっそ。んじゃ、ついでに例の子、さがしておいて。たしかママが、ピンクの髪でツーサイドアップのかわいい女の子よっていってたから」
「わかった。じゃあ、そういう見ための子がいたら、声をかけてみるよ」
ぼくはふらふらとおぼつかない足どりで、水のみ場へと歩きだした。
……この公園は、町どころか市のなかでも比較的ひろくて規模のおおきい、いわば運動公園のようなところだ。この町の唯一の娯楽施設といっても過言ではないかもしれない。敷地内には露店がまばらに設営していて、そこかしこに腰をおろして休憩できるスペースがある。多目的グラウンドや多種多用なアスレチック、市民プールまで兼ねそなえている、とにかく便利な場所だ。だいたいこどもが遊ぶとなったら、家かここかの二択になる。きょうも盛況だ。
「しかし、公園で待ちあわせるだけじゃ……。こんなに広いんだから、せめて入り口前とか、もっとこまかく場所を指定してくれればよかったのに」
まあ、ひとが多いとはいえ子どもばかりだし、ぼくと同じくらいの年頃なら、みつけるのは容易ではない、ということはないとおもうけど。それに、ピンクの髪にツーサイドアップって、そんな容姿のひとはあまりいないし。よく見まわしてしていれば、そのうち……。
「ん?」
ふと前方のミニグラウンドを見やると、ちいさな子どもたちに交じって、やや体格のおおきい女の子がいっしょにフットサルをしていた。だいたい、ぼくと変わらないほどの背格好だろうか。はしゃぎながら駆けまわっている様子だが、じっと眺めているとたびたびずっこけたりして、なんだかみているこっちがハラハラさせられる。あんな幼い子どもに後れをとるなんて、どれだけ運動オンチなんだろう。というか、よくみるとあの子、ピンクの……。
「あっぶなーい、よけてーっ!」
「……え」
ボコーーーン!
はっとした次の瞬間にはもう、ぼくの顔面に強烈なシュートが叩きこまれていた。悲鳴もなくドミノのようにあおむけに倒れる。
「だ、だいじょうぶ!?」
視界がチカチカと白み、あたまがぐわんぐわんと音をたてる。そして鼻腔が鉄くさい……。ああ、なんだってぼくは、いつもこんな目にあわなくちゃいけなんだろう……。もうなにもかもが、どうでもよくなってきた……。
「わー、わー、しっかりして!」
ぺちんぺちん!
「い、いだ、いだ……」
いきなり頬を往復ビンタされる。ちょっと、ケガ人の扱いがぞんざいすぎない……。うぅ、ダメだ、意識が……遠のいていく……。
「おーい、……ちゃダメだよ! ……って!」
ぼくはそのまま、ぽっくり逝くようにして気を失った……。
………………。
「……うーん、こんなにプロテインのめないよお……むにゃ……ええ、そんなにいうなら、じゃあもう一杯だけ……うん……はっ!?」
「あ、おきた」
……いったいぜんたい、ここはどこだ? ぼくはさっきまで、愛と筋肉のガチムチ王国にて、えらばれし戦士タンパクマンとして悪の組織タンスイカブツをほろぼして、祝賀パーティーであおるようにプロテインをのんでいたはずなのに……。
「よかった、やっと目がさめたんだね! 一安心だよ~」
「……んん……」
まだすこし、クラクラする感覚がのこっている。あまり気分はよくないけど、とりあえずからだをおこしてみよう。
「それにしても、たかが女の子が蹴ったボールごときで気絶するとはね……。いくらなんでも、貧弱すぎない」
「いやー、狙いすましたシュートのつもりだったんだけど、明後日の方向へ飛んでいっちゃって……。ほんっとーに、ごめんなさい!」
さっきの見しらぬ女の子が、ぼくにむかって申し訳なさそうに、拝むようにして両手をあわせ、ぺこりとあたまをさげた。
「い、いや、べつに大丈夫だよ。気にしないで」
「鼻血だらけのアンタがそれいっても、説得力ゼロ」
「え? ……って、わわ! 服が血まみれだ……」
ぼくの長袖Tシャツは、まるで刃傷沙汰に巻きこまれたかのように、上半分がべったりと赤くそまっていた。若干かわいて、ところどころカピカピになっている。
「あわてて鼻にティッシュをつめたんだけど、それでもしばらくはとまらなくて、通りがかったひとたちに救急車よびましょうか、なんて訊かれるほどだったよ」
「はあ……なんだかフラフラするのは、そのせいか」
「いつまでたっても戻ってこないから、わざわざ捜しに行ってみると、道中でアンタが血だらけで倒れてたから、てっきりこの子に刺されたのかと」
ねごろは腕組みをしながら、ピンクの髪の女の子をジト目でみる。いやらしい目つきだ。
「そ、そんなこと……! わたしだって、道ゆくひとがとおまきに奇異の視線をおくってくるの、つらかったんだから~!」
女の子は、すこし興奮した様子で、腕をぶんぶん上下にふりながら反論する。なんかかわいい。
「ところで……もしかして、キミが例の転校生?」
「あ、そうそう! そういえば、まだ自己紹介してなかったよね」
そういうと、手を後ろにまわしてピンと背すじをのばし、彼女は元気よくこうあいさつした。
「わたしの名前は、夢原のぞみ! 将来の夢は、学校の先生になることでーっす! ふたりとも、よろしくね!」
「よろしく。アタシは恒月ねごろ。こっちが……あれ、そういやアンタの名前って、なんだっけ」
ねごろはニヤリと悪い顔をして、あからさまな口調でぼくに対してそう問いかけた。……し、白々しいにもほどがあるぞ。
「げ、玄武晴信、です……よろしく……」
その場から逐電することもできず、ぼくはしぶしぶと名乗った。たしかに、これからずっと付きあっていく関係になるなら、いずれは彼女もぼくの名前を知ることになるのには違いないけどさ……いや、それ以前の段階でバレるけどさ……自分でこの名前をいうって、ひどくこっ恥ずかしいことなんだよ……。
「えー、なに? きこえないな~、朱雀くん? それとも、白虎くん?」
「わ、なんか珍しい名前だね。そっか、よろしくね、青龍くん!」
「玄武だから! 朱雀でも白虎でも青龍でもないから!」
「あ、ごめ~ん。ゲンブ、ね!」
……夢原さんって、単純にノリがいいのか、それとも素でこうなのか、どっちなんだろう。たぶん後者だとはおもうけど、悪意を感じてならない……。
「ま、まあ、こうしてそれぞれ自己紹介も済んだことだし、せっかく公園にきたんだから、なにかして遊ぼうよ、ね!」
強引に話題をかえていく。ただでさえ初対面のひとの前なんだから、これ以上ぼくの黒歴史を増やさないで。
「……まー、アタシはべつにいいけど。でも、この人数じゃできることも限られるわね」
「そうだね、さっきの子たちのところに交ぜてもらうのもいいけど、できれば三人水入らずで親睦を深めたいな!」
ねごろと夢原さんは、ふたりして思案顔だ。……ぼくは、こころのなかでほくそ笑んだ。
「……じゃあ、おにごっこでもしようか? それなら、きっと三人でも楽しめるんじゃないかな」
「あ、それいいね! そうしよう、けって~い!」
「ふーん、昔はよくふたりで追いかけっこなんてしてたけど、アンタの挙動がいちいちトロいわ鈍くさいわで、正直さほど楽しかった覚えはないわね……。ま、久しぶりに童心に帰るのも悪くないか。アタシも賛成だわ」
……彼女たちはなにも理解していない。おにごっこの真髄というものを。おにごっことは、ただ走りまわってさえいれば勝てるものではない。その本質とは、いかにうまくみつからないように身をひそめるか、というところにある。すなわち、この遊びはかくれんぼの延長でしかない。さして足も速くなく、体力も並程度のぼくが真っ向からオニに(というかねごろに)一騎打ちを挑んでも、すぐに捕まえられてしまうのがオチだ。それを未然にふせぐためには、まずそもそも、そのような状況を作りださないようにすることが肝要なのだ。おそらく、夢原さんは元気は有りあまっていても、運動はそれほど得意ではないはず。申し訳ないけど、彼女にはねごろの気を引きつけるデコイ役になってもらう。そうしてふたりで延々といたちごっこを演じているあいだに、ぼくはゆうゆうと姿をくらますのだ。我ながら、美しいシナリオだ。いままで、ぼくがただなにもせず、のんべんだらりと日々を過ごしていただけとおもわないことだ、ねごろ。ぼくはこの戦にて、キミを倒し……これまでの雪辱を果たしてみせる!
「……なにひとりでブツブツいってんの? キモいんだけど」
「はっ……」
しまった、またぼくの悪いクセが発動してしまった。いちど思案の旅に足を踏みだすと、なかなか帰ってこられなくなってしまうのだ。
「まあ、玄武くんも男の子だし、そういう妄想にふけっちゃうこともあるよね~」
「うわあ……」
ふたりからの視線が、生暖かさを帯びてじっとりとぼくにそそがれている。ふたりのことを考えていたんだ、なんていったら、明日からゴミをみるような目で避けられるにちがいない。よけいなことはいわずに黙っておこう。
「じゃあ、さっそくジャンケンしようか」
「よーし、いっくよー! さーいしょーはぐ、じゃーんけーん……」
「「「ポン!」」」
ぼくがパー。ねごろがチョキ。夢原さんがチョキ。
「あはは、白虎くんがオニにけって~い! それ、逃げろ~」
「まさか、女の子あいてにズルなんてしないわよね? しっかり十かぞえてから、来なさいよ。んじゃ」
「……」
……あれ? どういうこと? なんでふたりとも、ぼくを残して去っていくの? やだなもう、そうやっていつもぼくのことをからかうんだから。ふと、自分のおおきく開かれた右の手のひらが、視界にはいる。これはいったいなんだろう。そういえば、さっきみんなでジャンケンをした気がするけど、なんであんなことを? う、あたまが、あたまが痛いよ。ぼくの海馬が……脈うつ……。脳内で再生される、この映像に見覚えがある。そう、これはジャンケンだ。ジャンケンをして、オニをきめているんだ。あいこになることもない、たったいちどきりの勝負だった。……その結果は、ドウナッタンダッケ?
「おーい、とっくに十秒たったよー! はやく追いかけてきてよー!」
「ちょっと、言いだしっぺはアンタでしょ! 呆然としてないで、最低限、オニとしての務めは果たしなさいよ!」
……遠くからふたりの声がきこえる。夢原さんは腕をおおきく頭上にかかげて、こっちだよと合図している。ねごろは腰に手をあてて、あきれたように棒立ちしている。そうだ。ぼくはジャンケンに負けたのだ。そしていまから彼女たちを、追いかけなければならないのだ。やっと理解できた……このどうしようもない状況が。
「……ぶるぁぁああああああ!!!」
ぼくは半狂乱気味に、獲物にむかって走りだした。いや、まだだ。ぼくのなかに勝機は失われていない。ぼくはウサギで、ねごろがチーターだとするなら、さしずめ夢原さんはネズミといったところだ。勝ち目のない戦には手をださず、自分より格下の獲物のみを狙う。それが、弱肉強食の世で生きるということだ。
「まぁぁぁぁぁてぇぇぇぇぇ!」
「なっ、なんかこわいよーっ! やあぁぁあぁ!」
ぼくは夢原さん目がけて、猛然と襲いかかる。当たり前だ。ねごろなんかには、わき目もふらない。あれには、関わってはいけないのだ。どうせだれを標的にするかなんていうのは、オニであるぼくただひとりの一存なのだ。この権利だけは、絶対に、どんな人間にも侵すことはできない。いうまでもなく、それが鬼ごっこにおける基本的なルールだから。それゆえ、この戦におけるイニシアチブは、ぼくが独占しているも同然なのだ。どうだ、さっそく夢原さんのスピードも、おもむろに減速しはじめているじゃないか。所詮は女の子だ、いくらぼくがスポーツにおいて凡庸だとしても、運動オンチの彼女にすら後れをとるなんてことは、ゆめゆめあるはずがないのだ。さあ、その服ごしにもわかるうっすらと浮きでた肩甲骨に、呪われた称号、オニもといジョーカーを押しつけてやる!
「ぬおぉぉぉおぉ!」
あとすこし! あとすこし、ほんの二メートル弱の距離だ! もはや夢原さん……いや、夢原砦が陥落するのも時間の問題! 時流と権勢はわが手にあり! その先には、めくるめく栄光のロードが……!
「ぬおぉぉ……おっ!?」
足元になにかがつっかえた。バランスをくずし、からだが前のめりになる。な、なんで……障害はおろか、地面の起伏さえないようなまっ平らな場所を走っていたはずなのに……なんでぼくは、まるでいまにも転倒しそうになっているんだ……? いや、これはもう間違いなく……コケるっ!
ズデーーーン!
受け身をとることもできず、そのまま盛大にすっ転んだ。……とても痛い。
「てて……い、いったいなにが……」
よろめきながら後ろをふりかえると、そこには……ねごろがいた。腕を組んでぼくを見おろし、目を細めて憐憫の情をあらわにしている。
「ね、ねごろ……なにするのさ、せっかくあとすこしで夢原さんのことを捕まえられそうだったのに、邪魔しないでよ!」
「いやね、アンタの目つきが犯罪的だったから、ちょーっと天誅くだしてあげただけなんだけど」
「天誅て……いくらなんでも、オニの妨害だなんて無体すぎる……」
「あら、それなら心配ないわ。目の前にいるこのアタシを捕まえればいいだけの話でしょ?」
そういうと、ねごろはチョイチョイとかかってこいのポーズをして、不敵な笑みをうかべた。……これは完全になめられている。しかし、この挑発にのってはいけない。どうせぼくがしゃにむに彼女を追いかけまわしたところで、その風に流れるふたつのくくりに指を触れることすらかなわないだろう。武田信玄が上洛する際に、徳川家康は彼の挑発にまんまと誘いだされ、三方ヶ原で散々に打ち破られたことを他山の石としなければならない。ここは平常心をもって無視するが吉……。
「ほらほら、こっちこっち」
「……」
ねごろがおどけて前方に立ちふさがるが、気にしない。夢原さんは遠くでこちらの様子をうかがっている。ぼくの狙いは彼女であって、ねごろじゃないのだ。ぼくは目をあわせることもせず、ただ障害物を避けるかのごとく、自然にその場を立ち去ろうとした。
「……」
ねごろが固まったまま、ゼンマイのようにギリギリと首を動かして、しかし表情はそのままにこちらをガン見する。なんかいやに殺気を感じるけど、それも気にしない気にしな……。
「……無視してんじゃねぇーーーっ!」
スパーン!
「いったぁー!?」
お尻になんとも切れ味のいい蹴りをいれられる。……まあ、そうなるよね。どこからどうみても、かまってアピールだったもんね。
「スポーツが苦手な女の子をことさら執拗に追いかけまわすって、アンタには恥も外聞もないわけ?」
「ない! この場においてそれはない!」
「この厚顔無恥ヤロー、くたばれ!」
ドゴッ!
「ぶっ!」
こんどは腹に右ストレート。みんなから畏怖される存在であるはずのオニが、なんでその被食者にボコられているんだろう。もはや場外乱闘に等しい……。
「ただひとりのオニから逃げるアタシたちは、いわばチームであり仲間なの。なら、アタシがのぞみを助けるのは当然のことよ」
「そ、そんな鬼ごっこ、きいたことないよ……」
「いーから、次はアタシを狙いなさい、いいわね? べつにずっと追いかけつづけろ、なんていってるわけじゃないんだから。すくなくとも、アタシが退屈しないぐらいには配慮してよね」
「は、はい……すいませんでした……」
うう、ヒエラルキーがまるきり逆転している……。まあ、しょうがないか。無謀だとわかっていても、ときには戦わなければならないこともあるんだ。家康だって、なにも彼が愚昧であったがゆえに罠にかかったわけではない。それが信玄の策だとわかっていながらも、家臣団になめられることのないように、玉砕覚悟で当主としての気概をみせつけたんだ。
「んじゃ、さっさと追いかけてきてよね」
ねごろは軽快な足どりで、またたく間にぼくの前から去っていった。相変わらず、韋駄天だな……。
「はあ……鬼ごっこしよう、なんていわなければよかった……」
ぼくはブツブツと過ちを後悔しながら、遼遠なねごろの背中をめざしてひたすら走りつづけるのだった。
「ぜえ、ぜえ、ぜえっへ……」
ぼくは芝生に倒れこんだまま、起きあがることもままならなかった。あれからだいたい一時間たらず、死に物狂いであちこち駆けずりまわったが、結局いちども彼女たちを捕まえることはできなかった。実はねごろを追いかけているあいだに、いつの間にか夢原さんの姿がみえなくなっていたのだ。どこにいたのかと訊いてみると、まばらに建立しているアスレチックに、うまく溶けこんで隠れていたのだという。それって、ぼくがはじめに画策していた戦術とまったく同じじゃないか。まんまと利用された……いや、べつに教えてなんかいないけどさ。おかげでぼくは延々とねごろの快速に付きあうハメになり、いまこうして力つきている。準備運動もなくいきなりマラソンみたいなことをしたせいで、体じゅうの節々がズキズキと悲鳴をあげている。なんだかインフルエンザの症状に酷似しているような気がした。
「はー、歯ごたえないのね。よくそんなんで鬼ごっこなんて提案したわね」
「いやー、最初はどうなることかとおもったけど、いつ青龍くんにみつかるかドキドキしっぱなしで、わたしはすっごく楽しかったよ!」
「ぜえ……そ、それはどうも……」
面目ない、といいたいところだけど、ねごろが相手じゃとてもかなわない……。
運動神経においては、ぼくが知っているひとのなかでは群をぬいて優秀だからな。しかも、それでいて勉強もかなりできるほうなんだから、ほんとにすごい。きっと陰ではそうとう努力しているんだろうな。……実はひそかに尊敬しているけれど、それはないしょだ。彼女は他人から与えられる勲章や称賛といった名誉的なものには、ほとんど興味を示さないひとだ。そんなのいくら貰ったところで、結局はここぞという場面で成功できるかできないかでしょ、なんていうからな。案外そういうひとって芸術家なんかにむいてるような気もするけど、ねごろにそういった才能があるのかどうかは、まだぼくも知るにおよぶところではない。いちおう、美術の成績は平均よりは上だった覚えがあるけど。まあ、なんだっていいや……とにかく、ねごろが才色兼備だっていうのは歴然とした事実なんだから。
「……あら、もうこんな時間」
ねごろがそうつぶやくと共に、ちょうど夕方五時を告げる防災無線の音楽がながれた。「七つの子」だ。昔から放送される曲は変わっていないが、できればずっとこのままにしておいてほしい。このメロディを耳にすると、過去の思い出がふつふつと、夕焼けのオレンジをともなって色あざやかによみがえるのだ。いつも決まってこの音楽をねごろとの別れの合図にしていたから、あたまのなかを駆けめぐるのはそのときのもの悲しいイメージだけだけれど、ぼくはこの曲が気にいっている。なんとなく、郷愁めいたものも感じるからだろうか。おかしいな、ぼくは生まれも育ちもこの町なのに。
……でも、ぼくには小学生以前の記憶が、いっさいなかった。ねごろとはじめて知りあったのが、小学校だったのだ。じゃあ、それより前はどうしていたんだっけ? ふつうの子どもなら、幼稚園か保育園に通っていたはずだ。しかし、いくら記憶の壁を掘りおこしても、そのようなできごとは思いあたらなかった。まるでその部分だけ、ぽっかりと空洞になっているかのように。それがどうにも気になって親に訊いてみたりもしたけれど、いつもお茶をにごされるばかりで、まともに取りあってくれようとしなかった。ちいさいときのことは、だんだん忘れていっちゃうものなのよ、なんて。
べつにそんなことを知ったところで、なににもなるわけじゃない。ぼくはいま、こうしてねごろと……あと、夢原さんと過ごしている毎日が、とても楽しい。それに、今年はぼくたちは受験生なのだ。考えるべきは将来のことであって、過ぎ去った過去じゃない。それでも、ときたまこのメロディにいざなわれて、回想をめぐる旅へと引きこまれてしまうことがあった。そして、いまこの瞬間も、まさにそうして……。
「うわー、みてみて! 西の空がすっごくきれいだよ!」
夢原さんがだしぬけにそんなことをいったので、意識はそこで現実へと剥離された。ぼくはほっとするような、残念がるような情調を取っ払うようにごろんとあおむけになって、眼前に広がる大空を見わたした。
「……たしかに、とってもきれいだね。そういえば、こうして空をゆっくり見あげることなんて、もうずいぶんしていなかったような気がするよ」
雲ひとつない夕方の赤い空は、西へむかうほどにそのグラデーションを濃く、明るくしていく。眼前を太陽の暖かな色あいが覆いつくしているのに対して、運動後のほてった体には、初春のまだ寒々しい風が吹きつける。その対照的な感覚は、なんともふしぎなものだった。桜はとうに見ごろを過ぎ、若葉がちらちらと顔をのぞかせている。すでに、春たけなわというには少々おそすぎる時節にいたっていた。
今年もなにごともなく、平穏無事に過ごせますように。ぼくはそんなことをおもいながら、同じように空を無言でみつめるふたりの横顔を、ちらりと見やる。彼女たちにも人生の悩みや迷い、というものがきっとあるにちがいない。ねごろはともかく、いつか夢原さんとも、そういうことも相談しあえるような仲になりたいな。彼女は快活にふるまういっぽうで、ひどく不器用な一面があるようにおもう。もしかすると、ひとりでなんでも抱え込んでしまうようなタイプかもしれない。そんなときが来たら、ぼくは迷わず手を差しのべてあげよう。新天地での学校生活がこころさびしくならないように、ねごろといっしょに盛りあげてあげよう。なにしろ、ねごろが他人のことを親しみをこめて名前でよぶなんて、めったなことじゃないからね。たぶん、彼女は夢原さんのことを第一印象から気にいったのだろう。ねごろにとっていい友だちが増えたのは、ぼくとしても喜ばしいことだ。
さて、そろそろ体も落ちついてきたかな。ぼくはゆっくりと立ちあがり、胸いっぱいに息を吸いこんだ。はあ~、気もちいい……。
「……ん?」
なにとはなしに後ろを振りかえったとき、それが目にとまった。ここからだいぶ離れた公園の入り口……車どめが立てられているところに、ひとつの人影があった。ピンク色のストレートな長髪が、風にゆれている。黒っぽいドレスのような服を着て、ただそこに立っていた。それも、こちらをじっとみているような格好だ。なんだか髪色だけをみると、夢原さんみたいだな。彼女はなにをするでもなく、直立不動に棒立ちしている。べつに、ぼくたちのことををみているわけではないんだろうけど……なんとなく、その息差しがここまで伝わってくるようだ。
「……っ!?」
……いま、たしかに目があった。心臓が跳びはねる。息が詰まるような感じがして、覚えずすぐに視線をそらしてしまった。……なんだろう、あたかもずっと見はりつづけているような、強い意思を感じたのだ。すこし……ぞっとして怖いぐらいだった。
「どしたのアンタ」
「あ、いや、あそこに、夢原さんに似ている女の子がいるとおもって」
「え、どこどこ!?」
夢原さんは手を双眼鏡のように目にあてて、ぼくの指さした方向を眺めている。
「ほら、入り口のところ……って、あれ?」
そこには、だれもいなかった。まるでさっきの姿が幻であったかのように、こつぜんとあの女の子の影は消えていたのだ。
「うーん? どこにもいないよ、わたしっぽいひと」
「どーせ幻覚でもみたんでしょ。あるいは、ドッペルゲンガーとか」
「まさか、そんなこと。でもおかしいな、さっきまでたしかにいたのに」
ぼくはなんども首をかしげながら、入り口の先にのびる道へと目をこらしてみた。だが、そこにいたとして、ひとが豆粒ほどにしか確認できないこの距離では、判別できるわけもない。さながら、キツネにつままれたようだ。
「も、もしほんとにドッペルゲンガーだったら、ど、ど、どうしよう……」
なにやら、夢原さんが青い顔をして、ブルブル震えている。自分でみたわけでもないのに、おおげさだな……。
「アンタ、ありもしない虚構話で女の子を怖がらせるのが趣味なわけ? サイテー」
「いや、嘘じゃ……」
といいかけて、ぐっと言葉をの飲みこんだ。ここでぼくが主張を貫いても、それを証明する手だてがないうえ、余計に夢原さんを恐れさせてしまうだけだ。かわいそうだから、ここは折れてあげたほうがいいかな。
「うーん、そうだね。そういう性癖かどうかはともかく、やっぱりぼくの見まちがいかも。ほら、斜陽がまぶしいからさ、みんな夢原さんの髪色みたくみえちゃって」
「そ、そうなの……? 明日の朝おきたら、そのそっくりさんがホンモノのわたしといつのまにか入れかわってるんじゃないか、っていう妄想してた……」
「それ、あれよね。『世にも奇怪な物語』に出てきそうなエピソード」
「あはは、たしかに」
……まあ、ぼくの気のせいってことにしておこう。あの感覚も、単純に冷たい風に吹かれてブルっとしただけかもしれないし。
「じゃ、そろそろ解散しましょ。アタシとこいつは帰り道がいっしょだけど……のぞみの家ってどこ?」
「えっと、わたしはここからだと、西のほうかな」
「じゃあ、ぼくたちとは反対方向か。ひとりで大丈夫? 送っていこうか?」
それを聞いたねごろが、露骨に不満げな顔をする。
「へー、それじゃアンタは、アタシがどうなっても関係ないんだ。よーくわかったわ」
「いや、ねごろもいっしょに来ればいいじゃん」
「送っていこうか? なんて、ただのいちどもいわれたことないし」
「そりゃ、どうせ同じ道を帰ることになるんだから、わざわざそんなこといわないでしょ」
「ひとりで大丈夫かなんて、心配されたこともない」
「……正直、腕っぷしならぼくよりねごろのほうが上だとおもうよ」
「つくづく、思慮の浅いクソヤローね!」
「ぶっ!?」
ビシィ、と人差し指でみぞおちを突かれる。……このぶんならやっぱり、心配いらなさそう。
「……ふふ、あはははは!」
その寸劇をみていた夢原さんが、いきなり噴きだした。なにか、おかしかったかな。
「ど、どうかした、夢原さん?」
「はー……いや、玄武くんと恒月さんって、すっごく仲がいいんだなとおもったの」
「はっ、アタシがこんな甲斐性なし軟弱ヤローと? 冗談じゃないわよ」
ねごろが鼻を鳴らし、憎まれ口をたたく。軟弱なのは否定しないけど、そうあからさまにいわれるとすこしヘコむ……。
「……ぼくとねごろは、幼なじみなんだ。小さいときからずっといっしょに遊んでたから、人並み以上には仲はいい自信あるよ。というか、ぼくもねごろも、基本的にそれ以外のひととはほとんど付きあわないんだけどね。だから、みんなが見たこともないようなねごろのかわいい一面も、ぼくは知ってる」
「あ、アンタ、な、な、なにいって……」
しまった、また気にさわるようなことをいってしまっただろうか。こわごわとねごろの様子をうかがうが、特になにかしてくるようなそぶりはない。というか、そっぽをむかれてしまった。これは、本気で怒らせてしまったかも……。
「……わたしもね、自分にとってかけがえのない、とっても大切なひとがいるの。いや、正確には、ひとじゃないんだけど……」
ひとじゃない……? その口ごもった補足に違和感をおぼえるが、まあ気にしないでおこう。
「そのひとは、いまどこに……?」
「ここから遠く離れた場所にいるよ。もちろん、大切なのは彼だけじゃない。ほかのみんなも……友だちも、おなじくらい大事」
よくわからないけど、たぶん、ここに引っこしてくる前の友人のことをいっているのだろう。夢原さんはひとを引きつけるようないいキャラしてるし、きっとたくさん友だちがいたんだろうな。ぼくたちとは、大違いだ。
「わたし、いろんな事情でここに引っこしてきたけど、みんなのことは一生の友だちだっておもってる。それぞれ自分のやりたいことがいっぱいあるから、なかなか揃って集まるのは難しいかもしれないけど……でも、どれだけ会えなくてもこころはいつも繋がってる、そう信じてるんだ」
「そっか。夢原さんは、そのひとたちのことをとても信頼しているんだね」
「うん。だから玄武くんたちのやりとりを眺めてたら、ふとそんなことを考えちゃて。わたしの気もちに負けないぐらい、ふたりもおたがいに信じあってるようにみえたから」
夢原さんにそんなことをいわれるなんて、思いもかけなかった。ぼくはしばし考えこんだ。ぼくたちは、周りからそんなふうにみえていたのだろうか。もちろん、ぼくはねごろのことを心の底から信頼している。だが、ねごろはぼくのことをどうおもっているのだろう。いまだそっぽをむいたままで、訊こうにもきけない様子だけど……そんなこと、いままで考えたこともなかった。
「でも、わたし、過去の関係に縛られるつもりもないの。だって、せっかく心機一転して見知らぬひとたちと接する機会が生まれたんだし、ここでもいっぱい友だち作りたいよ!」
そういうと、夢原さんはニコッと、今日いちばんの笑顔をみせた。この屈託のない表情に、たくさんのひとが魅了されるのだろう。その喜色には、にごりやよどみが一切なかった。
「ということは、ぼくたちがその友だち第一号ってことになるのかな?」
「そういうこと! 一気にふたりも友だちができて、嬉しさの極み~って感じ!」
「よーし。じゃあ、これからもっと仲よくなっていこうね、夢原さん」
ぼくがそういって手を差しだすと、なぜだか急にむすっと頬をふくらまされた。もしかして、夢原さんもお怒らせちゃった? ぼく、自分でも気づかないうちに、とんでもない失言をしてしまっているんじゃ……。
「ひとと仲よくしようっていうのに、さん付けはないんじゃないの~?」
ついには彼女にさえ、つーんとそっぽをむかれてしまった。初対面の女の子を名前でよぶのってなんだか気はずかしいし、なれなれしく思われないか心配だったから、あえて敬称を使っていたのに、どうやらそれが裏目にでてしまったようだ……。
「ご、ごめん。これからは、ちゃんとファーストネームでよぶよ。のぞみ、って」
「ふふーん、よろしい。けっこうけっこう」
夢原さん……いや、のぞみは、ぼくのその答えに対して、満足げな笑みをつくった。まだ知りあったばかりだけど、今後も彼女によけいな気遣いはいらなさそうだ。
「それじゃ、わたしもいまから、玄武くんじゃなくてハルノブ、ってよぶね!」
「う……は、ハルノブ、ねぇ……まあ、いいけど」
うーん、その名前でよばれることになるのか。まあ、姓のほうでもむずがゆいのは同じことなんだけどさ。だいたいみんな、ハルとかハルくんとか、玄武の武をとってタケ、なんてよんだりするものだから、いまいちその呼称に慣れない。ちなみにねごろは、ぼくのことはほとんどアンタとしかいわない。
「もしかしてなんだけど、ハルノブ……っていう名前、あんまり好きじゃない? なんか顔がひきつってるよ」
「はっ……い、いや、べつにいいよ、好きなようによんでくれて」
「そーお? ……わたしはその名前、すっごくかっこいいとおもうけどな。名字だって、ぜんぜん変だとおもわないよ」
のぞみは特段からかう調子でもなく、いたって摯実な目顔で、そういった。
、「そ、そ、そ、そう、かな……? ははは……それはうう、うれしい……」
な、なんか面とむかってこんなことをいわれると、めちゃくちゃ恥ずかしい! 一気に顔全体が熱くなってくるけど、さいわい西日のおかげで、その紅潮を悟られることはないのが救いだ。
「で、でも、それをいうなら、のぞみっていう名前だって、字面がそのままストレートに希望そのものを表していて、なんだかキミの名をよぶたびにどんどん幸せになっていっちゃうみたいだよ!」
照れかくしで、我知らずそんなことを口走ってしまった。後半がまったく意味不明すぎて、もはやなにがいいたいのかわからない。
「ほんとに? 名前についてそんなこといわれたの、はじめてかも。のぞみって、けっこうありふれた名前かもしれないけど、わたしはけっこう気にいってるんだ。ありがとう……これからじゃんじゃん、わたしのことよんでくれていいからね!」
「う、うん」
はあ~、なにをいっているんだぼくは……。なんか好意的に解釈してくれたようだから、よかったけど……。
「……あれ、そういえば、ねごろはどこに……?」
ふと隣をみると、さっきまでそこでふてくされていたはずの彼女が、いつのまにかいなくなっていた。
「あ、あそこだ。まっすぐ出口にむかってる」
「わわ、なにもいわずに先に帰っちゃうなんて。ごめんのぞみ、ぼくはもう行くよ。今日は楽しかった、ありがとう! また明日!」
「うん、気をつけてね。バイバイ!」
もう、なんだっていつも自分勝手なんだろう。のぞみにあいさつもしないで……。そんなんじゃ、せっかくできた新しい友だちも、ねごろのことを見限っちゃうよ。ぼくは急いで、彼女の後を追った。
わたしはひとりそこに残されたまま、しばらく彼の背中をじっとみていた。
ハルノブって、なんかココやナッツとは違うタイプの男の子だな。優しくてお人好し、それでいてうだつがあがらないって感じ。特別イケメンってわけでもないし、運動神経は普通にしても、ちょっとマヌケというか、天然なところがあるような。正直、胸はぜんぜんときめかなかい。ただ、なんていえばいいのかよくわからないけど、すごく……あったかかった。はじめて会ったばかりなのに、まるで昔からの親友みたいに、いっしょにいて心地よかったんだ。なんでかな。ひとめぼれ……ってわけではないはず。顔はまあ、平均よりは上だとおもうけど、虜にされちゃうほどではないし。……それに、彼にはねごろがいる。あのふたりの関係は、ぽっと出のわたしなんかが割ってはいれるようなものではないはず。幼なじみって、強いなぁ……。いずれにせよ、横恋慕なんてしたってしょうがないし、わたしはただみていることしかできないんだ。わざわざ彼らの世界を壊すようなマネ、できるはずがない……。
「……そうだ、ちょっと後をつけてみようかな。ハルノブがねごろにどんな顔して謝るのか、みてみたいし。ぷくく」
軽い所感だけれど、ねごろは、普段から怒りっぽいということはないはず。初対面のわたしにも親切にしてくれたし、鬼ごっこのときも助けてもらったし、きっと根はすごく優しいんだろう。でもその裏側に、嫉妬ぶかくてプライドが高い、っていう面を隠しもっている。ハルノブが、自分たちはおたがいにほかに友だちらしい友だちがいないっていってたから、それがなおさら彼女の黒さを増長しているにちがいない。そうおもうと、わたしってつくづく異分子なんだな。わたしがねごろと仲よくするぶんには問題ないけど、ハルノブとは絆を深めればふかめるほど、彼らの仲にヒビが入る。
……えっ。ひょっとして、わたし、とんでもなく恐ろしいことを考えてしまったかもしれない。いや、いくらなんでもそんなこと……しないよ。しない。だって、それじゃねごろと気まずくなっちゃうもん。わたし、ねごろのことも好きだから。そんなこと絶対、しない……。
「……」
わたしはほんのすこし、立ちくらみを覚えた。……はやくしないと、ハルノブの姿がみえなくなってしまう。わたしはかぶりを振って、彼らを追って駆けだした。
「おーい、ねごろ! 勝手においてかないでよ!」
ぼくはねごろの背中にむけて、そう叫んだ。早歩きとはいえ、そのスピードは相当なもので、もはや競歩といっても過言ではない。かなり全力で走っているんだけど、遊び疲れたぼくのからだはもうクタクタで、思うようにその差は縮まらなかった。
「ちょっと、ねごろってば、待ってって!」
やっと手をのばして届くぐらいに追いついたぼくは、すかさず彼女の肩をつかんだ。すると虫を払いでもするかのように、手をひっぱたかれた。その歩調は緩まる先ぶれをみせず、それどころか振りかえりもしない。これほどまでに不機嫌なねごろは久しぶりだったので、すこし驚いた。しかし、だからといっていつまでもそんな調子でいられては、こっちもいい気はしない。ぼくはついムキになってさっきよりも力強く、それこそ後ろへ引きたおすぐらいの勢いで、彼女へとつかみかかった。
「ねえ、ねご……」
ドンッ!
いきなりからだを反転させたかとおもえば、今度は思いきり突きとばされた。ぼくは勢いよく尻もちをついたが、呆然として立ちあがることができなかった。
「いったい、どうしたのさ……」
のどのおくから必死に声を絞りだし、ようやくそれだけ問いかけると、ねごろはようやく口を開いた。
「アンタ、のぞみのことを送っていくんじゃなかったの?」
その口調は恐ろしく淡々としていて、冷たかった。でも、その冷淡さの中に、ほんのわずかにうわずったような、震えのようなものも感じた。
「……ねごろが先に行っちゃうから、急いで追いかけてきたんだよ。ほら、いつまでも拗ねてないで、いっしょに帰ろう」
そう優しく諭した……つもりだった。だが、ぼくの予想とは裏腹に、ねごろは暗澹たるひとみをこちらへ差しむけ、だしぬけに怒声を放った。
「なにがいっしょに、よ! アンタはのぞみといればいいじゃない! あの子のほうがか弱くて女の子らしいし、アタシなんかよりずっとかわいいでしょ!」
そのヒステリックな怒号は、辺りをつんざくようにして、こだました。こずえにとまっていたカラスやムクドリが、一斉にザワザワと騒がしく飛びたつ。ぼくはその、これまでにない気迫に気圧されて、なにも言いかえすことができなかった。
「あ……」
一瞬、ねごろが悲しそう顔をして、うつむく。しかしすぐに居直り、背をむけてその場から立ち去ろうとする。
「ね、ねごろ……」
と、ぼくが慌てて彼女を引きとめようとした、そのとき。
「人間の痴話喧嘩というのは、どれをとっても十人十色だな。非常に興味ぶかい」
突然どこからともなく、そんな声がきこえてきた。ぼくもねごろも、驚いて周囲を見まわす。しかし、その主はどこにも見あたらない。声は上からしてきたはずだ。……上、だって? おそるおそる顔を上げると、なんと電柱のてっぺんに、黒衣をまとった女性が上品そうに佇んでいた。いったいどうやって、あんなところに……!?
「おまえたちから闇のエナジーを感じるぞ。疑心、嫉妬、憎悪……フフ、醜いな。わたしがもっと増幅させてやろう」
その女性はニヤリと含み笑いをすると、あっというまにそこから飛びおり、ぼくたちのあいだに割ってはいった。まさか、あの高さから地面に落下するなんて。しかもその表情は、余裕そのもの。まるでなにごともなかったかのようだ。
「アンタ、いったいなんなのよ! なんかおかしな状況だけど、この際そんなのはどうでもいい。いまアタシは最高にイラついてるの! ケガしたくなければ、さっさとどっかに消えなさい!」
「ほう、それはまた大層な。ならばこのわたしに、傷ひとつでもつけてみるがいい。小娘」
「なん……ですって……」
ねごろが顔を引きつらせながら、歯をむきだしにして感情をあらわにする。待って、といさめようとしたときにはもう、ねごろはまっしぐらにあの女性にむかって飛びかかっていくところだった。
「余裕ぶっこいてんじゃないわよ!」
こぶしを握って大きくフルスイングする。だが、それはカスりもせずにからぶった。……いや、正確には、黒衣の女性がそこから消えたのだ。
「ちっ、どこに……」
「ねごろ、上っ!」
ねごろはぼくの指示にすぐさま反応し、でんぐりがえってその場から退避する。間もなく、その上空から突風をまとい、槍のように女性が地面へと突きささった。大地は地鳴りをあげ、アスファルトにはおおきな亀裂があらわれる。……ぼくは、夢でもみているのだろうか。こんなの、まともな人間にできることじゃない。だれがどうみても、あれはバケモノだ。関わってはいけないなにかなんだ。それに……もし、あんなのが人体に直撃すれば、それこそ文字どおり、ミンチになってしまうだろう。これは異常事態だ。すぐにねごろを連れて、あいつから逃げないと……!
「うらああぁあぁあ!」
しかし、そんなことは気にもとめない様子で、ねごろはふたたび身を乗りだすようにようにして、果敢に敵へと突っこんでいく。その面持ちに冷静さはみじんも認められない。完全に我を失って怒りくるっている……。なにやってるんだよ。普通に考えて、あんなの倒せるわけないじゃないか!どうしちゃったんだよ、ほんとうに……。はやく、はやくねごろを止めないと、このままじゃ命さえ落としかねない!
「ねごろ、落ちついて! そんなの相手にしたって、かなうわけがない! 無謀すぎる!」
そう大声で呼びかけるが、耳を貸す気配はない。彼女はそのまま女性のふところに、姿勢を低くして潜りこんでいった。
「だあああぁあぁっ!」
「やめろーーーっ!」
ぼくはたまらず、目を固くつむる。
ドスンッ!
……土嚢を落としたような、にぶい音がした。ゆっくりと目を開くと、ねごろのこぶしが女性の腹にしっかり入っている。まさか……!
「はっ、どうよ、ゲロでも吐いちゃう!?」
一瞬だけ、もしかすると、なんておもってしまった。しかし、なにか様子がおかしい。手ごたえを感じたのか、ねごろは啖呵をきって威勢がいいが、女性のほうはというと身じろぎはおろか眉ひとつ動かさず、冷たいまなざしでねごろをみていた。なんだ、これじゃまるで……。
「……おまえの本気とやらがどんなものかとおもい、試しにくらってみたのだが……拍子ぬけだな。蚊がとまったようだ」
「なんですって……?」
ねごろは信じられないといった顔をする。だが、それで闘志が燃えつきるわけでもなく、むしろ逆上するようにしてさらなる気炎をあげている。
「じゃあ、これならどう……よっ!」
相手にむけて動きをためたかとみれば、直後しなやかに体をひるがえし、女性の顔面に足を投げつけるようにして打ちこんだ。あれは……浴びせ蹴りだ。ねごろは格闘技の心得もあったのか。相手がそのへんのチンピラ程度だったら、ヒーローショーのようにあっというまに片づけてしまうにちがいない。だが、いま対峙しているのは、そんなのとは比にならない異形の者だ。これが映画の撮影で、主演のアクション俳優がねごろで、あの女性にはワイヤーかなんかがくっついてて、道路の裂け目がCGであったなら、どんなによかったことだろう。もしそうだったとしたら、ねごろもその身体の柔軟さを、遺憾なく発揮できていたにちがいない。
「女の顔を叩き潰そうとするとは、しつけのなっていない小娘だな。自分の顔がそうなれば、それがどれだけ蛮行であるかが理解できるか?」
「……な、なんで、怯みさえもしないのよ……!?」
ねごろにとって普通ならありえない事象が、そこにはあった。現実をまざまざと実感させられて、ようやく、すこしずつではあるが冷静さを取りもどしてきたようだ。だが、理性的になるということは、すなわち激情という名の外殻に包みこまれていた恐怖が、その黒々しい皮質をあらわにするということだ。いわんや、むしろ危険な状態にシフトしつつある……。
「どうした? 遠慮せず、間断なく思いのままに打ちこんでくるがいい。それとも怖気づいたか」
「っ……だああぁああぁあ!」
あの黒い女は……ねごろのことをもてあそんでいるのか。自分にむかって必死に殴りかかる彼女を嘲り笑いながら、スパーリングを楽しんでいる。そしてそれをもっと愉快なものにするべく、わざとその気を逆なでしようとして、煽るような言葉を投げかけているんだ。いつものねごろなら、あんな安い挑発になることなんてないのに。悔しいのはわかるけど、それで死んじゃったら元も子もないじゃないか。
「もういい加減わかったでしょ、ねごろ! そいつはバケモノなんだ、いくら倒そうとしても絶対ムリなんだよ! いっしょに逃げて警察へ行こう! キミが戦う必要なんてない!」
一所懸命にそう叫ぶも、その訴願は彼女の耳には入らない。……いや、一瞬だけこちらをみた。ほんとうは、聞こえているんだ。ぼくがこうして呼びかけている、その声が。わざと無視しているのか、それともあれはたまたまだったのか。どちらにしても、ぼくのことに気をむける余裕はあるってことだ。それならなぜ、ねごろはああも意地を張りつづけるんだろうか。ぼくがそんなに憎たらしいのか? 怒らせてしまったのはこちらだとはいえ、ほんの些細なことじゃないか。なにもそんな強情にならなくたって、ぼくが一言ごめんと謝れば、それであっさり解決することなのに。ねごろにとってなにが大切なことなのか、ぜんぜんわからないよ……。
「はっ! はっ! はっ! てやぁ!」
ねごろは手あたりしだいに、どこを狙うでもなくひたすら女性のからだを乱打していた。それは格闘というよりはもはや、わけもわからずやたらめったらにサンドバッグをタコ殴りにしているといった様相だ。そのうち彼女の呼吸が乱れ、荒く息を吐くのがきこえてきた。そしてついには、敵の目の前でひざに手をつき、うなだれてしまった。いっぽう女性はというと、あんなに殴打されたのにもかかわらず、いまもって変わらず涼しい顔をして、憐れむような眼でねごろをじっと見下している。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
ねごろは肩で息をしながら、恨めしそうに女性を睨みつける。さしもの彼女も、そろそろ体力の限界だ。あんなんじゃ、まともに走って逃げることさえままならないだろう。こうなったら、ぼくが彼女をおぶって逃げるしかない。うかうかしているのも、もう限界だ。
「もう終わりか、情けないな。だが、これでわかっただろう……おまえは所詮、口だけの小娘だということだ」
「はぁ……っく……くそおぉおおぉおお!」
ねごろは残った気力を振りしぼり、ダメ押しの一撃を加えようとする。どこからどうみても、破れかぶれになっていた。
「ねごろ、もういいから! 待ってて、いま行……」
ドスッ!
「……ぅ、ぁ……」
ふたたび、にぶい音が鳴りひびいた。しかし今度は、ねごろのかすかな悲鳴がそこに入り混じっている。それだけで、恐れていたことが現実になってしまったのを、ぼくにわからせるには十分だった。
ねごろは腕を振りかぶったそのままの姿勢で、目をおおきく見開き、口元を苦痛にゆがませ、そしてそこから血を吐きだした。
「ねごろーーーーーっ!」
ぼくは全身の毛が逆立つのを感じ、素っ頓狂に叫んで一目散に彼女のもとへと駆けだす。
「人間とは、ほんとうに面白い生き物だ。高度な知性を有しているにもかかわらず、ほんのすこし口撃を与えるだけで、さながら獣のように変容する。安逸な文明を築くための寄る辺となる言の葉で、あろうことか魔物にさえ変身できるのだ。なんと面妖なことか」
女性はそんなわけのわからないことを言い放つと、道ばたの空き缶でも蹴りとばすかのように、その足でねごろを空中へと舞いあげた。
「っ!」
すかさずそれを受けとめる。反動で勢いよく尻もちをつくが、なんとか彼女がそのまま地面に打ちつけられるのは避けられた。ぼくは容態を確認すべく、ねごろの顔を覗きこむ。その面は、血と涙でぐしゃぐしゃに汚れていた。なんて……なんて、ひどい顔だ。こんなになるまで戦っていた彼女にも、こんなふうにしたあの女にも、それを止められなかったぼく自身にも、そのすべてに対して憤りを覚えた。
「ねごろ、しっかりして、ねごろ!」
懸命に呼びかけるも、まぶたがピクピクとけいれんするだけで、身動きひとつしない。ぼくは嫌な汗が吹きだすと共に、血の気が引いていくのがわかった。とにもかくにも、急いで病院へ連れていかないと……!
「どこへ行こうというんだ? 小僧」
走りだそうとしたその行く手に、黒衣をはためかせてたちふさがる悪魔。こいつからなんとしても逃げおおせなければ……ぼくもねごろも、命はない。
「どけよ! おまえなんかに構っているヒマはないんだ!」
「ほう、ふしぎなことをいう。まさかわたしが、本気で道を譲ってくれるとでもおもっているのか? 人間は無意味なことを口にしたがるな」
「なんなんだよ! おまえはいったい、何者なんだ! なんでこんなことをするんだよ!」
「それについても、おまえが知ったところで意味などない。そうだな、わたしはおまえよりも、その小娘に興味がある。そいつを置いていけば、小僧は見逃してやってもいいが……」
「そんなの……お断りだっ!」
たしかに、この女とこれ以上話していてもなんの意味もなさそうだ。ぼくはじりじりとあとずさりながらタイミングを見はからい、きびすを返して反対方向へと走りだした。だが、それをあざ笑うかのように、女性はロケットのように横ばいになって低空飛行をしながら、ぼくに並走して話しつづける。
「どうしてそんなことをする。自分の命が惜しくはないのか? どうせ逃げきれないこともわかっているだろう。実に簡単な話だ……その大事そうに抱えている小娘を、うっかり手がすべって落としてしまったかのように装い、そっと放りすてればいい。たったそれだけで、おまえの存命は保証される。わたしはこうみえても、たとえ紳士協定であろうがぬかりなく約定の履行は果たすぞ。その点に関しては、信用してくれて構わない。さあ、決心を……」
「うるさい、うるさい、うるさい、だまれーーーーーっ!」
いくら全力で走っても、女はコバンザメのようにぴったりとぼくの横につけたままニヤニヤと薄気味悪く笑っていて、その間隔はまったくもって広がる気配をみせない。これでどうやって逃げきれっていうんだ。ぼくはいつのまにか泣いていた。このどうしようもない状況を、突如あらわれた厄災を、己の無力さを、呪わずにはいられなかった。それでも、ただ走るしかない。走ることしかできない。もしかすると、万が一にもなにかしらの奇跡がおこり、それによって救われるかもしれないのだ。ぼくはそんな妄想にすがることでしか、自分のこころを維持させることができなかった。
「……小僧よ、安分守己という言葉を知っているか? できもしないとわかりきっていることににわざわざ挑むとは、いったいどのような了見をしている」
「っ……」
プレッシャーでグラグラするあたまをむりやりフル回転させ、必死に打開策を考える。いまの自分にできること、なんでもいい。一パーセントでも可能性があれば、なんでもいいんだ。なにかないのか? 常人から逃れるだけなら、そこらの住宅にでも飛びこめばいい。しかし、こんなやつがひっついていたら……軍隊の基地へ行ったってどうにもならない気がする。もはや警察に助けを求めるなんていうのがどれだけ意味のないことかも、十分に理解できていた。じゃあ、ぼくたちはいったいどうなるんだ? それはとっくに明白だ。……どうしたって、ふたりとも殺されるじゃないか。
「ふむ、わたしの話に付きあう気も失せたか。せっかく命乞いの機会を与えてやったというのに、みすみすそれを放棄するとはな。それでは、力づくで奪わせてもらうとしよう。小僧よ、これでもなお引き下がらないというのなら、鬼籍に入ることになるぞ」
その最後の警告を耳にした瞬間、ぼくのからだは震えあがった。こわい。死ぬのがこわい。命が惜しい。痛いのは嫌だ。ねごろは血を吐いただけだけれど、ぼくはそれじゃ済まないだろう。口どころか、体じゅうの穴というあなから血が噴きだすにちがいない。そして悶絶しながら、絶命する間際まで苦しみつづけるんだ。そんな変死体をみた親や学校のみんな、夢原さんはなにをおもうのだろう。悲しむか、あるいはほくそ笑むかな。きっと葬式には、ねごろと親戚以外はだれもきてくれないんだろうな。……ねごろが葬式にくるだって? なんでねごろだけ生きているんだ。ぼくだけ死ぬなんて不公平じゃないか。ぼくにだって、これからまだやりたいことがいっぱいあるんだ。まだ死ねない……死ぬわけにはいかないんだ。ぼくは生きたい。なら、どうすればいい? ぼくが死なない、ぼくが生きのびられる、ぼくが助かる方法……。そうだ、この腕に抱えているモノが、まさにそれが具現化したものだったんだ……。
「……ば、ばかやろーーーーーっ!」
理性を取りもどすべく、声帯がちぎれるほどバカみたいに叫んだ。悪魔のささやきにそそのかされそうになった自分を、さも叱咤激励するかのように。なにを考えているんだ、ぼくは。仮にねごろをあいつに差しだして助かったとして、その後はいったいどうする!? ぼくは彼女を見殺しにしたという罪を、一生背負って生きつづけなければないけないんだぞ! そんなんでまともな人生を送れるはずがない! それになによりも、ぼくにはねごろが必要なんだ。いつも斜に構えてて、素直じゃなくて、自己中な気難し屋だけど……そんな彼女が……ぼくにとっては、なによりも大切なひとなんだ!
「……あっ……!?」
ハッと我にかえると、ぼくの身体はいつのまにかバランスを崩して前のめりになり、両足が地面から離れて浮きあがっていた。緊張と重圧で、足がもつれてしまったのだ。……こんなところで、コケるなんて!
「ぐぁっ!」
ねごろをこれ以上傷つけまいと、無我夢中で自分のからだを下にして庇うようにする。そして、ざらついた瀝青に勢いよく叩きつけられた。腕に無数の擦り傷が刻まれ、皮が剥げて血がにじむ。骨にもにぶい痛みが突きぬける。だが、ねごろはしっかりぼくの腕の中に収まっていて、無事なようだった。
「無様、という他ないか」
女性はそうつぶやき、よどんだ哀情をぼくたちへと差しむける。
「うっ……ぅ……」
ぼくはもう、起きあがる気勢さえ削がれていた。腕のケガはたいしたものじゃない。でも……また逃げだそうとしても、今度こそこいつは、ぼくを躊躇なく殺すだろう。ねごろだって、思う存分オモチャにされた後に始末されてしまうにちがいない。ぼくはただ、目の前に佇む圧倒的な存在にひれ伏すしかなかった。いまは涙を流すことしかできない。
「ん……アン、タ……」
「……ね、ねごろ!」
そのかすかな呼び声に気づいたぼくは、彼女の無事を確かめるべく、大声で返事をした。苦しそうにしかめっ面をしているが、なんとか意識は戻ったようだ。
「な、に、してん、の……アタシなん、か……おい、て……」
ねごろもまた涙をこぼしながら、息も絶えだえにそういった。らしくない。こんなねごろ、らしくない。こんなの……。
「バカいうなよ、キミだけ置いていけるわけない! ふたりで……ふたりで逃げて生き延びなくちゃ、意味がないんだ!」
「もう、やくそく、なんか、どう、でもいい、から……にげ、て……」
……約束、だって? その単語に、いいようのないノスタルジーを覚える。約束って……なんだ?
「約束……」
そうつぶやいた瞬間、突如としてフラッシュバックがぼくを襲った。
……じゃあ、仮にそうせざるを得ない状況に追いこまれたときには、ぼくがキミのことをまもってみせるよ。ぼくは、キミが苦しむところはみたくないから。キミの抱えた悲しみを打ちくだけるような、そういう強い男になる。
……ふふっ、アタシをまもる、ね。それが、アンタの夢?
……そう、かもしれない。ぼくも約束するよ。キミを傷つけるモノが現れたら、ぼくが必ずまもってみせるって。
ああ、そうだ。たしかそんなことを、ねごろにいったっけな。すっかり忘れていた。いつものようにねごろと遊んでいて、将来の夢について話したときのことだ。
ぼくの夢は、強い男になることだ。
本人に直接そんなことを宣言してしまった手前、後にはひけなくて、その日からジョギングや筋肉トレーニングなんかを始めたりしたんだ。だが長続きしなかった。それはぼくが飽きっぽいとか、忍耐力がないとかじゃなくて、そもそも自分がそういった肉体改造なんてするのには、根本的にむいてないとわかってしまったからだ。それでも、なんとかすこしでもたくましい人間になろうと、日ごろからできるだけたくさん食べるように心がけ、気がむけば無理のない程度に腹筋やスクワットなんかを行っていた。
しかしあるとき、ねごろが不良らしき男に絡まれたことがあった。当然ながらそのときもぼくはいっしょにいて、これも当然ながらぼくは彼女をまもろうと、敢然とそいつに立ちむかったのだ。だが、軽く首根っこをつかまれ、ものの一発で撃沈してしまった。我ながら、不甲斐なさすぎて涙した。悪漢はじりじりとねごろに詰めより、万事休すかとおもった。しかしねごろはそれに臆することなく、相手が油断したところで強烈な金的蹴りを食らわせたのだ。そして男が内股になって悶絶するところで、えいやっと背負い投げをかまし、ぐうの音もいわさずコテンパンに叩きのめしてしまった。
それをみたぼくの心境は……もちろん、すごいというのも多分にあったけれど……それよりもむしろ、こんなにねごろ本人が強いのなら、なにもぼくがわざわざ強くなろうとしなくてもいいのではないか? という疑問に包まれたのだ。ぼくがお節介を焼かなくても、彼女はひとりで自衛ができてしまう。それだけならいいが、逆にぼくが彼女にまもられることになっては、いったいなんのための体づくりなのか。まったくもって意味がないということはないのかもしれないけど、ぼくは自分のためにあんなことをしているんじゃない。ねごろのために、頑張っていたのに……それがほとんど達成不能に近いなんて。ぼくはすくなからずショックを受けたけど、それとは裏腹に、ようやく重い肩の荷が降りたという安息感も覚えていた。
いつしかぼくは、もうこんな実にもならないことはやめてしまおうとおもうようになっていた。それに伴って、自身の果たしたかった目的も忘れてしまったのだ。そう、あの日交わした、ねごろとの大事な約束さえも……。
「……ねごろ。その言葉ではっきり思いだしたよ、キミとの約束を」
「は……いままで、わす、れてた、わけ? サイッテー……」
「ごめん、ぼんやりとしか覚えてなかった。ねごろ、大丈夫だよ。もう大丈夫。いま、その約束を果たすから」
「な、なに、するつも、り……」
ぼくは彼女のあたまをポンポンとなで、上着を脱いで後頭部にあてがい、ゆっくりと地面に横たえてやった。ねごろ、そこで見ていてくれ。あのとき……いや、これまでの不甲斐なさを、ここですべて帳消しにしてみせる。ぼくはもう、弱い自分を卒業するんだ!
「ほう……先ほどまでとは面構えがちがうな、小僧よ。勝てぬとわかっていながらなお、わたしに抗うか」
女性はアゴに手をあて、珍しい生き物を観察するかのように目を大小させている。
「ぼくはもう逃げない、迷わない。お前を倒して、ねごろをまもるんだ!」
「フフ……やってみろ。自分の力の及ばなさに絶望し、地獄までその後悔をたずさえてゆくがいい」
悪魔の衣装が不気味にひるがえった。その佇まいは軽やかで、いい意味で脱力しているのがわかる。……悔しいけど、こいつはほんとうに強いんだな。それは認めざるを得ない。しかし、ふしぎと恐怖は感じなかった。それはきっと、自分のやるべきことがはっきりしたからだ。そうだ、ぼくはなによりも、ねごろに生きていてほしい。自分が死ぬとか、そんなのは関係ないんだ。ぼくにとって最も大切なものは、ぼく自身の手でまもりたい……ただそれだけなんだ!
「……だ、め……たたか、ちゃ、だめ……」
ねごろが涙ながらに、ぼくに行かないでと懇願している。……ごめん、それはできない。だって、このままなにもしないでふたりとも死んでしまったら、そんなのやりきれないよ。できることをすべてやって、どこを探しても希望が存在しないと克明になったときなら、その死は甘んじて受けいれられるだろう。未練ばかりは残るかもしれないけど、精一杯いきるために尽力した結果なら、そういう運命だったと納得できるはずだ。なにもそんなに悲観することじゃない。だってぼくは、死に急ごうとしているのではなく、未来を勝ちとるために戦おうとしているんだから!
ぼくは呼吸を整えて、相対する敵の双眸を見すえた。汗ばむこぶしを固く握りしめ、足をいちど踏みならす。そして……意を決して、女性のもとへと駆けだした。
「うおおぉおぉおおっ!」
「だめ……おねがい……!」
後方で、哀願の叫びがこだましたような気がした。
アタシは幼稚園を卒業する前に、パパを亡くした。消防士だったパパはその日、燃えさかる家屋に突入して、なかで救助を待っていたひとを助けた。そのかわりに、パパはひどいヤケドを負って、病院の集中治療室なんてところに担ぎこまれた。でも結局、パパはそのまま帰らぬひととなってしまった。
パパはいつも、オレは命を救うすばらしい仕事をしているんだぞって、まだ命がどういうものかもわからないアタシに鼻高々に語っていた。パパはいつも、自分の大切なひとをまもることが、人生でいちばん嬉しいことなんだぞって、まだ人生がどういうものかもわからないアタシにとうとうと語っていた。オレは世界をまもり、世界を救うヒーローなんだって、そんなこともいっていた。アタシはそんなパパが大好きだった。
お葬式にはたくさんのひとがきてくれたけど、ほとんどみたこともないひとばかりだった。アタシがまごまごしていると、ひとりの女のひとが話しかけてきた。
「わたしはあなたのお父さんに、命を助けられたのよ。困ったことがあればなんでも相談しなさい。わたしは弁護士だから、いつかきっとなにかの役にたてるわ」
そういってあたまをなでていると、またべつのひとが声をかけてきた。
「ほんとうに惜しいひとをなくした。まだ恩返しなんてこれっぽっちもできちゃいなかったのに、せめて娘さんになにかしてやらにゃあ。そうだな、もしお嬢ちゃんがケガしたり病気になったりしたら、俺のところへ来な。いつでもタダで直してやるぜ。オッサン、こうみえても医者なのよ」
おじさんの浅黒いごわごわした手が、アタシの背中をポンポンとたたく。隣ではママが、恰幅のいいモジャモジャとヒゲをはやした男のひとと喋っている。
「いやはや、ご愁傷さまです。ええ、奥さん、これから女手ひとつでお子さんを養育していくのは、ちと大変でしょう。葬儀の諸経費はすべてワシが負担しますから、心配なさるな。それに毎月、生活費や学費の支援をさせていただきますぞ。なあに、わしはこれでも名の通った投資家ですからな、そこらの一般人よりはよほど金満ですわい。余った金を必要なひとに分配しているにすぎませんから、遠慮めされるな」
ほかにも数えきれないほどの人びとが、なにかしらアタシとママを助けてくれるようなことを、かわるがわるいいにきた。なんでこんなにも大勢のひとがこんなことを約束してくれるのか、そのときは理解できなかった。でも、それからしばらくして気づいた。パパはみんなをまもることで、間接的にアタシたちをまもっていたということに。パパが仕事を通じてかき集めた「ひと」たちが、いつのまにかアタシとママをまもる「城」になっていたのだ。そのとき、アタシはパパがいっていた言葉の意味をやっと理解できた。世界をまもり、世界を救うヒーロー……それは、文字通りに地球のすべてを指しているわけではない。その世界とは、まぎれもなくアタシたちのことだった。現にアタシは、パパが死んでも「城」によってまもられ、救われている。パパは自分で語ったことを、完璧に実現させていた。
だからアタシは、パパみたいになりたいとおもった。まだ自分がほんとうにまもりたいものなんてわからなかったけれど、いつかアタシにとって大切な世界ができて、そこに「城」を築くことができたなら、とりもなおさず半永久的な幸福の維持が約束される。それは目にみえない幸せというモノのあり方の理想的なかたちにちがいなかった。
でも、アタシが成長するにつれ、その思いは徐々に揺らいでくる。たしかにパパの遺した「城」は、堅牢でずっとこのまま安全なようにおもえる。しかし、城の外へ足を踏みだせば、そこにはどうしようもない人間がゴロゴロいる。そいつらはアタシに悪意をもって接してくるから、そのたびに完膚なきまでに叩きのめしてやった。そうすると、今度は話に尾ひれがついてウワサが広がっていく。その目で事実を確認したわけでもないのに、あることないこと吹聴しまくる。なんてくだらない、なんてバカバカしい、そんなふうにしかおもえなかった。アタシはこんな連中に「城」になってもらうなんて、絶対に嫌だとおもった。なら、いったいどうすれば自分の世界をまもれるのか。その答えはいたって明快だった。アタシがもっと強くなって、自分で世界をまもればいい。なにも他人にまもってもらう必要なんかない。いや、むしろひとは信用できないのだ。だからアタシは、自分自身が「城」になるための方法を考えるようになった。
そんな折だった。たまたま図書館で「プリキュア伝説」の本を読んだのは。それは堅苦しい伝記とかではなくて、幼児むけに平易に編纂されたもの、つまり絵本だった。
むかしむかし、この世界を闇がおおいつくしたとき、ふたりのプリキュアが光の力で闇をしりぞけた。しかし、その闇とはひとのこころに巣食うみにくい感情のことだった。だから、しばらくは平和な世界がつづいても、いずれまたそれは復活してしまう。そのたびに、こころに光をもった少女がプリキュアとしてえらばれ、闇とたたかう使命をあたえられるのだ。いまも、ひとしれずプリキュアたちの戦いはつづけられている。
こんなお話だ。現在進行形のおとぎ話なんて、なんだかヘンな感じがする。でも、アタシはこれを読んでふとおもった。このプリキュアというのが、そういう根本的に悪いやつらをやっつけるものなら、もしかするとアタシが嫌っているあの連中も、善良な人間に生まれかわるのではないだろうか。あるいはそうならなかったとしても、プリキュアならアタシの世界に害なす、それも生身じゃ対抗できないような強大な悪に対して立ちむかうことができる。どちらにせよ、アタシにとってこのプリキュアという能力はこれ以上ない最高の代物だった。しかしそうはいっても所詮おとぎ話のことで、それを本気で追いもとめるというのはバカげている。でも、アタシには妙な確信があった。それこそ、宇宙からの謎の電波で思考が操作されているかのように。このプリキュア伝説は、まぎれもなく真実だ。心身の鍛錬を怠らず、つねに強い意志を持ちつづけていれば、必ずアタシがプリキュアとして選ばれるにちがいない。そう考えればかんがえるほど、そうとしかおもえなくなっていく。そして、アタシの夢は「プリキュアになること」となった。
それから間もなくして、アイツとあの約束を交わすこととなる。アイツとは小学一年生のころからつるんでいたけれど、それは居場所をつくるためにそうしているだけであって、それ以上なかよくなろうなんて気はなかった。ただとりとめのないどうでもいい話を、日がな一日しているだけだった。いまおもうと、その時点でものすごく仲がよかったのだ。でもそのせいで、アイツもクラスで孤立していた。だからある日、それが気の毒になって、こんなことをいってみた。アタシと一緒にいてもなんにもいいことないぞ、と。そしたらアイツは笑いながら、たくさんの友だちがいるより、なんでも話せる親友がひとりいるほうが嬉しいって、答えた。いままでぜんぜん意識したことなかったけど、アタシってそういうふうにおもわれてたんだ。そこで、アタシはひとつの確信を得た。アタシがまもるべき世界は、すぐそばにあった。アタシにとって大切なのは、アイツがいる世界なのだ。やっとみつけた、まもりたいもの。だったらなおさら、なんとしてもプリキュアにならなければならない。だからアタシはそれを肝に銘じるために、アイツの前でどうどうと自分の夢を語って、誓いを立てたのだ。自分の決心を揺るぎないものとして、後押しするために……。
すべての事象がコンマ一秒くぎりに、極めてゆっくりと知覚できた。アタシの鼓動も、アイツの足を踏みだす動作も、クソ女の薄気味悪い笑みも、なにもかも。アタシはいったい、どうしてしまったのだろう。これっていわゆる、絶命する前の特殊な感覚ってやつなのかしら。そこからいくと、さっきのは走馬燈なのかも。あるいは、アタシはもうすでに死んでいて、いまここに立っているのは幽体になった自分だったとしたら。
バカバカしい。アタシはまだ、なにもまもれちゃいない。アタシのいちばんまもりたかったもの、それがいま自ら死ににいこうとしているのに、指をくわえたまま死ねるわけないじゃない。よしんば死んでたとしても、こうして精神が存在しているのにはきっとなにか意味がある。いいわよ、天国の神様だろうが地獄のエンマさまだろうが、生きかえらせろって直談判してやる。うんといわないならぶん殴ってやるんだから。
あー、こうしてアイツらの顔みてるとムカムカしてくる。アタシに腹パンして血なんか吐かせたあのクソ女にも、モヤシのくせに後先かんがえずに戦おうとするアイツにも。アタシが全力で挑んでも歯がたたなかったのに、アイツなんかが素手でなにができるっていうの。ほんと、ほんっとバッカみたい。なによ、のぞみにちょっとかわいこぶられたぐらいで、鼻の下のばしちゃって。あのときのアイツの顔といったらもう、言葉にならないぐらいキモかったし、とにかく不愉快でみていられなかった。わめき散らしていますぐ会話を中断させたい衝動に駆られたけど、のぞみの前でそんなことできないし、無言で立ち去るので精一杯だった。それに、なんでかわからないけど胸のあたりがすごくかゆくて、虫に食われているみたいでどうしようもなかったからっていうのもある。それはいままで体験したことのない感覚だった。どうしてこんな気もちになるんだろう。わけわかんない。
……いや、それはウソ。ほんとはぜんぶわかってる。自分でじぶんに瞞着するのは、それを認めたくないからだ。でもいくらごまかそうがその事実がなくなることはないし、かえって惨めになるだけだ。せめてこんな場所でぐらい、いいかげん素直になるべきなのかもしれない。
アタシはのぞみが妬ましかったんだ。そうなんだ。これはどうしようもなく、自分自身の正直な感情。危害をくわえてくる人間ならいざしらず、アタシが自発的にそういう醜い気もちを、なにもしていない第三者に対して抱いたのははじめてだ。いや、正確にはなにもしていなかったわけじゃない。彼女はアタシからすると、男に対して媚びる姿勢をとっていたようにおもう。それは言動や雰囲気、ちょっとしたしぐさから容易に読みとれる。でもそんな経験が一切ない無知で鈍感なアイツは、それに気をよくしてヘラヘラと骨抜きにされていた。まー、だいたいどんな男でもああなるのかもしれないけど、アタシはそれが許せなかった。たとえのぞみのその行為が、意図しなかったものだとしても。いや、彼女にはほんとうに悪意はなかったんだろう。はたからみればなんて些細でくだらない理由だとおもうかもしれない。実際アタシだってそうおもう。そう、実のところアタシもアイツと同じように、無知で鈍感なのだ。アタシは好きなんて感情がいまだによくわからないし、アイツの気もちを鑑みたこともないし、そんなふたりの世界を侵されたこともなかった。だから他の女の侵略行為に、耐性も抵抗力もないんだ。本人に他意なんてなかったにしても、アタシが勝手にそれを毒や爪牙として認識してしまう。ほんとはこんなの、笑いとばしてさっさと水に流すべきなんだ。いやそれ以前に、そんなふうに気にかけるほどのものでもないのかもしれない。どんな女が現れてどれだけアイツと仲よくなったとしても、いつでも動じず悠然とかまえていることができたら、どんなにこころが楽だっただろう。それができないのは、ひとえにアタシのこころが弱いからにほかならない。アタシは迫ってくる外敵を攻撃して破壊することはできても、それを防御してはね返す柔軟さ、しなやかさをもっていない。だからいちどヒビが入ると、途端に脆くなる。
ああ、なんだかこう考えると、アタシにはプリキュアになる資格なんてこれっぽっちもないようにおもえてきた。いままでアタシは敵をひたすら撃退することで問題を解決してきたけど、そんなにべもない態度をせずに、言葉を交わしてこころのやりとりしていれば、もしかしたら相手も傷つかずに済んでまた違った結末もあったのかもしれない。ましてや、はやく親しくなろうと努めていただけののぞみに嫉妬し、なんの罪もないアイツにやつあたりするなんて。そしてその結果、アタシはアイツの言うことに耳を貸さずにクソ女のケンカを買って自滅して、アイツはアタシをまもるために勝ち目のない戦いに駆りだされるハメになった。アタシは結局、自分の世界をまもるという口実をもとに、ただ利己的に振るまっていただけだったんだ。そんなエゴイズムに蝕まれたアタシが、どうしてプリキュアなんかになれるというのか。まもりたいとおもっていたものを、ほかでもない自らの過失で命の危機にさらすなんて。いちばんバカなのは……アタシだったんだ。
「ねごろ、どうしたんだ、そんな顔をして」
「はっ……パ、パパっ!? どうして……」
「そんなことはどうだっていいんだ。ここでなにがおきても、ふしぎがることはない。それよりも……」
「……うん、わかってるよ。パパはアタシにお説教しにきたんでしょ」
「そんなんじゃない。どういう信条をもって、どんな人生をおくるかはおまえの自由だ。自分が正しいとおもったことをすればいい」
「でも……そのせいでアタシ、大事なものをなくしかけてる。なにもかも八方ふさがりで、もうどうしたらいいのかわかんないよ」
「そうか。だが、たとえおまえが道に迷い腐心に苛まれていたとしても、助けてやることはできない。おのれの問題を解決できるのは自分自身しかいないんだから」
「……じゃあどうしてこんなときに出てきたのよ。まさかとはおもうけど、アタシが悩んでいるのをこれみよがしに笑いにきたわけ?」
「どうやら、俺が死んでからいろいろあったみたいだな。周りのひとたちがさまざまな援助をしてくれたにせよ、つらい思いをさせて済まなかった」
「そんなふうにおもったことなんかいちどもないし、いまさら謝られても困るんだけど。ってか、いまはそんなどうでもいい話をしている場合じゃないの、わからない!?」
「ああ、たしかにどうでもいいことだな。でもそれを聞きながす余裕もない今のおまえに、俺がなにか助言をしたところで役だてられるとは到底おもえない。すこし落ちついたらどうだ。せっかくのチャンスを無駄にして、このまま彼が殺されるのを座視しているつもりか?」
「っ……。そんなの、絶対やだよ。……ごめんなさい、パパ」
「問題を解決するというのは、至極簡単なことなんだ。その原因を分析して取りのぞけばいい。ねごろ、おまえがなぜこんな状況に陥ってしまったかわかるか」
「そりゃもちろん、あのクソ女が襲ってきたから……」
「それもそうだが、もっと根本的なものだ。もうわかっているんだろう?」
「……うん。アタシのこの、こころの弱さのせい」
「そうだ。おまえがあの女にかまわずに逃げていれば、こんなことにはならずに済んだかもしれなかった。まずそれをしっかり自覚しろ」
「そっか。アタシがもっと冷静でいればよかったんだ。そうすれば、アタシもアイツも無事だった……」
「ただ、すべての責任がおまえにある、ともいいきれない。あの女ははじめから、おまえたちふたりを襲撃するつもりだったんだ。とどのつまり、おまえの心理状態がどんなのもであったにせよ、早晩こうなることに変わりはなかっただろう」
「じ、じゃあなんでそんなこと……!」
「ねごろ、よく聞け。おまえはいま、人生におけるひとつの岐路に立っている。片方はつらく苦しく、戦いの連続のなかで生きる道。もう片方はすべての悲しみから解放され、永遠の安らぎが得られる死の道。さて、どちらを選ぶ?」
「は……そんなの、生きる道に決まってるじゃない! だいたい死ねば救われるとか、また生まれ変われるとか、そんなのは負け犬の遠吠えにすぎないのよ! 自分の人生はいちどきりだし死んだらそれで終わり、あとにはなにも残らない! だからアタシは貪欲に生きたいと願うし、どんなに追いつめられたとしても、そこで死ぬなんてことが選択肢に入るなんてありえない! アタシはいついかなるときでも生きるために、生きることしか考えないわ!」
「なるほど、それがおまえの信念か。なら、生きてどうする? ただわけもなく生きている人間なんてこの世には存在しない。おまえは生きることにどんな意味を求める?」
「アタシは……アタシの大切な世界をまもりたい。絶対に失いたくない、どうしても壊されたくない、そんな世界があるの。それを維持することがアタシにとっての幸せで、アタシにとっての生きる意味……」
「そうか。でもそれは前途多難な道のりだ。ときには自分が傷つき、ときにはなにかを手放さなければならないこともあるだろう。あるいは、そのまもるべき世界をまもりきれず、生きる意味を失って絶望するかもしれない。そんなときはどうする?」
「どうするって、そうならないようにするために生きるんでしょ。それに自分が痛いとか苦しいとか、そんなのはとっくに織りこみ済みなのよ。犠牲なくしてなにかをまもるなんてこと、ありえない。だからアタシ自身がその犠牲を受けとめる『城』になろうっていうの。もしその世界がなくなったら……なんてのはまるで生産性のないくだらない話。そんなのはそうなってから考えればいいのであって、そもそもそれについてあれこれ憂慮すること自体が、その世界をなくしてしまう原因に繋がるんじゃないかしら。予測を立てて対策を講じるのと、どうなるかもわからないことにただ苦悩するのとでは、ぜんぜん違うことよ」
「……なんだ、なにもかも理解しているんじゃないか。それならなぜ、『プリキュアになる資格がない』などとおもうんだ?」
「な、なんでそれを……!?」
「なにがおきても……といったはずだぞ」
「……だって、アタシはひとを攻撃することしか手段を知らないし、そのせいで大事なものも傷つけちゃうし……」
「それでもいいじゃないか」
「……え?」
「いいか、ねごろ。たとえ聖人であろうが殺人鬼であろうが、ひとがひとである限り、だれのこころにでも必ず弱く、醜い部分がある。親しい友人が死ねば涙するし、災いを呼びよせるものを憎らしくもおもう。そういう感情は決して恥ずべきものではないし、むしろ新たなる活力の源となる。それはプリキュアだとしても同じことだ。彼女たちは完全無欠な絶対的ヒーローではない。もとをただせばみな人間なんだ」
「で、でも……それはアイツを傷つけることの言い訳にはならないよ。ただでさえアタシってひどく不器用だし、ひねくれてるし、これからもっともっと危険な目に遭わせちゃうかも……」
「傷つけてしまったら謝ればいい。危険にさらしてしまったら助ければいい。たったそれだけのことだろう。どうなるかもわからないことにただ苦悩するのが詮ないことだとわかっていながら、なぜそこでつまづく」
「……」
「もしそれに自分で納得がいかないなら、これからすこしずつ変わっていけばいい。好きという感情も、妬ましい気もちも、経験してみなければわからないことだ。それをいちど覚えたら、次からどうすればいいか対策を立てることができるだろう。ひとは自身の弱点を理解し、そこを補うように努力して成長することができる。いまのおまえが愚か者だとしても、今日より明日、明日より明後日には、より賢い人間へと変わっているはずだ。そうだろう?」
「……そうだね、パパの言うとおりだ。なんかアタシ、自分を見失ってたかも」
「おまえは自分のことを精神的に自立した大人だと自負しているんだろうが、世間的にみればクチバシの黄色いヒナも同然。もちろん、肉親の俺からしてもそれは同じことだ。だが、こどもであるということはとりもなおさず、のびしろがあるということを示している。これからおまえがどんな人間になっていくかは、おまえ次第だな」
「うん。自分自身のことはなんでもわかったつもりになってたけど、まだぜんぜんだったってこと、パパにいわれなくちゃたぶん気づけなかった。そうだよ、アタシとアイツの絆は、ちょっとやそっとじゃ砕けないどころか、傷一つさえつかないんだ。アタシは……もう逃げない、迷わない。なにがなんでもあのクソ女をぶっ倒して、アタシの大切な世界をまもってみせる!」
「……いい心意気だ。それでいい、ねごろ」
「ところで結局、ここはどこなの? パパはなにか知ってるんでしょ、プリキュアのことも」
「ここはおまえの精神世界。現実と乖離した、もうひとつのおまえの寄る辺だ。そして俺はおまえが自ら作りだした幻影。俺はおまえそのものなんだ」
「な……ここにいるパパがアタシ自身!? でもその割にはアタシのわからないこと、いっぱい教えてくれたよね?」
「おまえは、ほんとうはなにもかも理解していたんだ。自分にとってなにが大切で、どうすればそれをまもりぬくことができるのか。だが、いままでこころに宿る頑迷によって、知らずしらず現実から目を背け、己を否定し続けていた。しかし、いまのおまえはついさっきまでのおまえとは一線を画する。大事なものをまもりたい……その思いがどれだけひとを強くするか、自分自身で確かめてみろ」
「ふふっ、そんなのいわれるまでもないわよ! でもパパが……いや、アンタがまさかもうひとりのアタシだったなんて、想像だにしなかったわ。ずっと心配かけてたみたいで、悪かったわね。でもアンタのアドバイスのおかげで頭がすっきりしたからもう大丈夫。ほんと、ありがとね」
「……もはや俺の老婆心も不要なようだな。それなら、おまえがここにいる意味もないに等しい。さあ、もう行け。そしてやるべきことをきっちり済ませてこい。……プリキュアとして!」
「ええ!」
「うらあああぁああぁあぁーーーーーーーっっっ!!!」
ぼくが数歩ふみだしたところだった。ねごろがいきなり素っ頓狂な叫び声をあげたのは。
「な……ね、ねごろ……?」
「……!?」
ぼくも女も、不意打ちをくらったように目をまるくして、ねごろに釘づけになった。いったいどこからこんな大声を張りあげているんだろう……さっきまで息も絶えだえだったというのに。そんな戸惑いをよそに、すぐに彼女はすっくと立ちあがってみせた。険しいながらもどこか晴れやかな顔つきで、まっすぐにぼくへ視線をのばす。……一瞬だけ、ねごろの頭がヘンになってしまったんじゃないかとおもった。
「っはー、まったく……なーにが約束を果たす、よ。そんなできもしないことに体当たり挑戦して、あとは野となれ山となれって? あるいは女の子をまもって勇敢に敵に立ちむかうぼくかっこいい、とか? アンタがなに考えてるんだかそんなのアタシには知る由もないし想像する余地もないけど……勝手に死なれるのだけはゴメンよ!」
……いや、そこにいたのは、紛れもなく正常ないつものねごろだった。こんな状況だというのに、ましてやあんな大ケガをしていたのに、普段と変わらない調子で毒を吐く。ぼくは呆然として、まさしく開いた口が塞がらなかった。
「アンタ、すこしは自分のことバカだって自覚をもちなさい。でないといつまたこんなことをしでかすか、わかったものじゃない。ほんっとに危なっかしくてしょうがないわ、そういうのを独善っていうの。アンタはひとりで達成感に包まれて満足なんでしょうけど、残されたほうはたまったものじゃない。結局、それは博愛とか思いやりなんかじゃなく、むしろ利己的なエゴに等しいのよ」
「……ねごろの、約束」
彼女がした約束……そうだ、それはプリキュアになるという、きわめて現実性のうすいものだ。ぼくはなんだかんだ、いまのいままでいちども本気にしたことがない。だってそんなの、なれるわけがない。しょせんおとぎ話の世界にしかない、空想だ。プリキュアなんてありもしない夢物語で、絵空事で、まるきりつくり話なんだ。いいかげん、それをわかろうよ。なんでいま、そんなことを……。
「アタシのまもりたいもの、アタシがまもりたい世界……。アタシはそのために、戦う! もうだれも、悲しませたくないからっ!」
そう言い放つと同時に、にわかにねごろの体が、やわらかくも力強い光につつまれた。ぼくはなにがなんだかわからず、ただそれを、固唾をのんでみていることしかできなかった。
「うあぁぁあぁぁああぁあ!」
「……なんだ、この充溢する生命力は? こんなにも強い気ははじめてだ」
女性はなにか危険を察知したのか、すこし身構える体勢をとる。しかし、その瞳は好奇にみちていた。
「っ!?」
おだやかにたたえていた光が、不意につきさすほどまばゆいかがやきをはなち、ぼくはたまらずに顔をそむける。……そのあいだ、不思議な感覚をあじわっていた。まるで時間がとまったかのように、周囲の物音ひとつしない。いったいねごろは、どうなってしまうというのだろう。それともやっぱり、あの女性の襲撃からいまにいたるまで、すべてがぼくの夢だったのだろうか。そうであったなら、どんなに幸いなことか。……だが、現実は無情にもぼくを正気にひきもどす。それはすなわち、絶望であるかのようにおもえた。しかし……。
「……」
ぼくをかばうようにして、目の前にひとりの女の子がたっていた。濃い金髪で、そよかぜにさらさらとゆれるその長髪は、いっさいまとめることなくあそばせているのに、規則ただしく一様にながれている。ヒラヒラのついたスポブラ風な上半身とミニスカで着衣はまとまっているが、普段着のようなビジュアルではなく、気取らない上品さと神々しさを覚える。その後ろ姿は細身ながら、底知れない母性のような温かみを感じた。
……彼女はいったい、だれだ? そうぼくが思うよりはやく、それはあきらかになった。
「……はーっ、よもやアタシがほんとうにマンガみたいに変身しちゃうなんてね。けど、ようやく……夢がかなったわ」
……ねごろだった。彼女はキョロキョロと自分のからだをあちこちをみまわし、この衣装かわいいわね、なんて冷静に感想を述べている。かわいいかどうかはともかく、それよりもぼくはさっきまでと着衣が全身まるまる入れ替わっているのが不思議でならなかった。なにかのかくし芸……なわけはないか。
「ねごろ、なの……?」
口をついてでたのは、そんな自明の問いかけだった。
「ん。まー、アタシも自分自身にそう訊きたいけどね。いまのアタシはいったいだれ? って。でも、まぎれもなくアタシはアタシだよ。ほかのだれでもない」
ねごろは落ち着きはらってそう答えると、口角をあげてぼくを一瞥した。そのまなざしにはそれまでの怒りの色はいっさいなく、ただただ慈愛にみちていた。
「伝説の戦士……プリキュア、だと?」
女性は口元をゆがめ、その未知なる存在に対して笑みをともなった敵愾心をあらわにする。その表情は、底なしにおぞましい。
伝説の戦士、プリキュア。まさか、ほんとうにねごろがそうだっていうのか? もともとそういう素質や天命をその身に宿していたのだろうか。あるいは、なにかの出来事に起因してそうなったのか。たぶん、そのどちらも真実からはそうとおくないのだろう。なんにせよ、いま、ぼくの眼前に背をむけて厳然と直立している超人的な女の子がねごろだというのは、まごうことなく空蝉だ。
「……アタシの名前は、キュアブレイブ。アンタみたいなひとの幸せをこわすクソヤローを、アタシは絶対にゆるさない!」
ねごろはあらん限りの覇気をこめてそうさけんだ。……いや、キュアブレイブ。それが、彼女の名前なのか。なら、いまはねごろではなくブレイブとよぼう。
「ふ、ふふふ、ふふふふ。キュアブレイブ……それが貴様の名か。ならばこちらも、名乗りをあげるとしよう。わたしの名は、ニュクス。『根源たる闇』の本願にお応えし、この世界を闇につつむ者」
そのセリフに、ピクリとブレイブが反応する。……ニュクス、か。「根源たる闇」って、なんなんだろう。いやな響きのする言葉だ。それに、世界を闇につつむとは……。
「ごていねいにどうも。でも、いまはそんな肩書きとか目的なんて、どうだっていい。アンタをぶったおして、さっさとどっかに消えてもえらう。それだけよ!」
「勇ましいな、小娘。だが、消えるのはおまえのほうだ!」
おたがいに相手の行動観察を終え、ついに本格的な戦闘がはじまった。先手をうったのはブレイブだ。刹那にその姿態を残像にかえ、ニュクスの背後にまわりこむ。なんてスピードだ。これがプリキュアの力……伝説というだけあって、人間ばなれしている。
「そぉ……らっ!」
すかさず右手をふりあげ、相手の後頭部に向かってなぐりかかる。しかしおどろくことに、それよりもはやく敵はふりむき、即座にそのこぶしを左の手のひらでうけとめた。
「おそい」
「っ!」
そのままブレイブは、フリスビーのように横一直線になげとばされ、付近のコンクリート塀にたたきつけられた。破壊音とともにそれはガレキとなってくずれさり、ブレイブのすがたは埋もれてみえなくなる。おもわず、ブレイブ、と名前をさけんでしまう。あの衝撃、生身の人間なら即死しているだろう……。
だが、それは杞憂だった。彼女はよろめきながらも、すぐにその土ぼこりのなかに立ち姿をあらわしたのだ。
「けほ、けほっ。なんて馬鹿力よ、とんでもない女……。でも、これでへっちゃらなアタシもアタシね。まるで、骨が鉄になって、痛覚がマヒしてるみたい……」
ブレイブはぶつくさとからだの煤をはらい、するどい眼光をニュクスにむけてはなつ。
「ほう、まるで平気な様子だな。ならば、もうすこし痛くしてやってもいいか」
「あんまりなめてると……そっちが痛い目みるわよ、クソ女!」
そう呼号すると、空を蹴って一瞬にして加速し、ふたたび敵のふところにもぐりこもうとする。だが、ニュクスはそれを虫でもはらうかのように、右手で顔面をつかんで、地面におもいきりふりおとした。ブレイブがすいこまれるようにして道路にめりこみ、クレーターのようにおおきな穴があき、はげしい地鳴りが周囲をおそった。
……これじゃダメだ。ぼくはそう直感した。みるかぎりでは、ブレイブはニュクスに対して、戦闘力でそれほど水をあけられているようにはおもえない。しかし、ニュクスはつねに冷静沈着なのにくらべて、ブレイブはたぎる闘志を制御できずに、ただしゃかりきになっているだけのようにみえる。こんな尋常でない戦いをするのははじめてだから勝手がわからないのはしかたないにせよ、いまのままだと攻撃のスキがおおきすぎて、容易に見切られて反撃されるばかりだ。
「ブレイブ、すこしおちついて! 攻撃するタイミングを見はからうんだ!」
「くぅ……タイミング、ねぇ……」
ブレイブはヨロヨロとたちあがりながら、ぼくの助言を反芻しているようだ。いくら頑強とはいえ、あんな衝突をなんどもくりかえせば、そのうちやられてしまうだろう。まだ十分に余力がのこっているうちにケリをつけないと。
「その小僧のいうことはもっともだ。お前はなにひとつとして、戦いかたがなっていない。そんな大振りの殴打など目をとじてでもかわせるぞ」
「ちっ……じゃあ、これならどうよ!?」
なにをおもったか、ブレイブは足元に散乱している岩石をひろいあげ、つぎつぎに相手にむけてな投げはじめた。
「おらっ!おらっ!」
まっすぐに対象をとらえ、矢のようにとんでいく岩は、遠目からみてもかなりの速度で風をきっている。だが、それを意にも介さず、ニュクスはそのすべてを軽々とよけきってしまった。
「それは牽制のつもりか? こんな石ころでわたしをたおせるとおもっているのなら、とてもおめでたいやつだ」
ブレイブはその嘲笑に応えることなく、間髪をいれず一気に間合いをつめる。そして、勢いよくこぶしをふりあげ……手にもっていた石をにぎりつぶし、その破片を周囲にまき散らした。
「なっ……!?」
ニュクスはブレイブが腕を振り切るまえに彼女のすぐ真横に回避していたが、それが仇となってモロにその砂粒をくらったようだ。うめき声をあげ、顔をそむけながら目をおさえてふらつく。その寸分に生じたスキを見逃さず、ブレイブはからだの勢いを殺さずに強烈なまわし蹴りを、相手の横腹にたたきこんだ。
「うらあああぁっ!」
「が、はっ……!」
敵のからだは、しなるようにして蹴られた側に折れこみ、受け身をとることもままならないまま電柱へと激突した。くずれた柱が電線をひきこんでちぎり、その断面からバチバチと放電する。
「はっ、どーよ! ざまあないわね!」
ブレイブは得意満面になって、嫌味をとばす。……なるほど、はじめに岩をなげつけたのは、その場で手ごろなおおきさの石をひろうことをあやしませないための、カムフラージュだったというわけか。目つぶしなんて単純なこどもだましだけど、うまく成功してよかった。
「姑息な手を……さきほどの痛み、しかとおぼえたぞ」
ニュクスは特段よろめくこともなくたちあがって、こちらを切り裂くように睨視する。その眼からはさっきまでの余裕は消え失せ、かわりに燃えるような憎しみが息づいていた。
「なーに、そんなに痛かった? あらあら、さっきはあんなに余裕ぶっこいてたのに、やけに鬼気迫る表情してるじゃない」
「ほざけ……小娘が、死ねっ!」
ニュクスがこちらにむけて突進するやいなや、ブレイブもすぐさま駆けだす。こんどはおたがいに小細工なしの、正面きっての激突だ。
「うぉぉぉおおおぉっ!」
「うらあああぁあぁあぁ!」
そして、ふたりのこぶしが衝突する。同時にすさまじい衝撃波が放たれ、立っていられないほどの暴風が一帯をおそう。
「わわわっ!」
ぼくはあわてて近くの大木にしがみつく。ビリビリとした空気のふるえは、この堅牢な樹木すら根元から振動させていた。もはやその規模は、一種の小爆発に等しいとおもわれる。たったいちど殴りあっただけなのに、すさまじいエネルギーだ。
「はっ! はっ! はっ!」
ブレイブはその衝突にひるむことなく、連続で打撃をくりだす。左、右、左……と、さながらボクシングのラッシュのようだ。敵はそれをかわし、ときには受けとめ、反撃の機会をうかがっているようにみえる。
「これで……どうだっ!」
一瞬だけそのパンチングの動きが止まったかとおもうと、しなるようにからだを反らして足をため、痛烈な蹴りをはなつ。
「ぐぅっ!」
相手はそれを防ぎはしたが威力はさほど減退せず、地面をけずりながら後方へとおしやられる。
「プリキュア……その力、どうやら本物のようだ。ならば、わたしもすこしは本気をださせてもらおうか……!」
そういうと、ニュクスは腕を頭上高くかかげた。すると、その手のひらに黒い影のようなものが、球状になって集まりはじめた。どんどん濃度が増すにつれ、周囲にも瘴気が立ちこめはじめる。
「げっ、なんかやばそう……アンタ、そんなとこでみてないで、もっとはなれなさい! まきこまれるわよ!」
「う、うん!」
そう促されたぼくは、あわててその場からにげようとした。だが、数歩も踏みださないうちに、背後からブォォォン……と、大気を震わす低音が迫ってくるのをかんじた。
「あぶない、よけて!」
「っ……!」
その悲痛な警告もむなしく、ぼくはまともにそれを食らい、数メートルほど吹きとばされて、そのまま勢いよく地面を転がる。ねごろをかかえて逃げるときに打った部位と同じところを、またもや激しく打ちつけてしまい、いままで体験したことのない壮絶な痛みが、ぼくの患部をおそう。
「うあぁぁぁああぁぁっ!」
反射的に腕をおさえようとするが、すこし触れるだけでも激痛がはしった。動かそうとしてみるも、まったく力がはいらない。痛みだけは鋭敏に感じるのに、その他の感覚がほとんどない。思うに、もう完全に骨がくだけている……。
「まってて、いま助けにいくから!」
「ふふふ……そうはさせんぞ」
ニュクスは顔をゆがませ、立てつづけに黒い衝撃波をみだれうちする。いくつかが、ぼくのすぐ近くを通りすぎていくのがわかった。またあれをくらったら、どうなってしまうんだろう。首や脊椎をやってしまったら、つぎはほんとうに死んでしまうかもしれない……。でも、これではっきりと感じた。ぼくがいると、ブレイブの戦闘の邪魔になってしまう。そもそもちょっと離れたところから戦闘を眺めることだって、本来は危険極まりなかったんだ。戦いはブレイブに任せてさっさと逃げればよかったのに、いつまでもグズグズしてあんな場所にとどまっていたから……なんて馬鹿なんだ、ぼくは。せっかくブレイブがプリキュアになって、あの絶望的な状況に一縷の希望をもたらしてくれたというのに、せっかくのチャンスをフイにしてしまうかもしれない。そんなの……冗談じゃない。せめて、ブレイブだけでも助かってほしい。ぼくさえいなければ、この勝負も勝てるはずなんだ……。
「ブレイブ、ぼくはいいから……ぼくのことなんか放っておいて、いまは戦いに集中するんだ! でないと、キミまで……」
「うるさーーーーーいっ!」
ブレイブはそう叫ぶと、まっしぐらにぼくのところへむかって走りだした。衝撃波がなんども彼女にぶつかり、そのたびに転んだりよろめいたりするが、それを意に介する様子もなく、その視線はただぼくだけを見すえている。
「愛の力は偉大なり、か。ならば、こうしてやる……」
「っ!」
ニュクスの黒球がひときわ禍々しさを増したかとおもうと、そのつぎの瞬間、数えきれないほどの衝撃波が、一斉にぼくをめがけて放射された。そこではじめてぼくは、自分の死を直感した。ああ、これでおわる。ねごろをまもる、なんて言っておきながら、まるで逆の立場になってしまい、しかも彼女の足かせにさえなってしまうなんて。我ながらとんだ怪気炎だった。でも、そのおかげで敵は無防備になり、ブレイブにとっていまは絶好の反撃機会だ。どうか、無事にこの戦いに凱歌をあげてほしい。ぼくの犠牲で彼女が助かるのなら、喜んでこの身をささげよう。ぼくはそっと、目をとじた。
「らああぁぁぁぁっ!」
ブレイブの雄たけびがきこえる。きっとニュクスのやつ、面食らってなにもできずにそのまま殴りとばされるんだろうな。いい気味だ。闇の使者だかなんだかしらないけど、あんなの一思いにやっつけちゃってくれ。ぼくなんかより、彼女はずっと勇ましくて強い……。
ドゴオオォォン!
耳をつんざくような、すさまじい爆発音がした。しかし、ぼくは無事だ。なにごとかとまぶたを開くと、ぼくの前に立ちはだかるようにして、ブレイブが黒煙につつまれていた。その表情は、いかにも苦痛に満ちている。
「うっ……ぐっ……!」
「な、なんで……」
……いまのを全部、ブレイブが受けとめたっていうのか? なんて無茶なことを……ほらみろ、そのせいで全身ボロボロだ。ふたりとも満身創痍じゃ、共倒れじゃないか。ぼくはほんのすこしだけ、助けてもらったことに、腹だたしさをおぼえた。
「ブレイブ、なにしてるんだよ! キミまでそんなに傷ついてしまったら、勝てる戦いも勝てないよ! まずはあいつをたおして……」
バチンッ!
「つっ……!?」
言いおわらないうちに、おもいきり頬を平手打ちされた。刺すような痛みの後に、焼けるようなジンジンとした痛みがひろがる。なぜこんなことをされるのか、理解できなかった。
「……もうあんなこと、二度といわないで」
「は、はあ……?」
「自分が犠牲になってもいいなんて、金輪際、口にしないでって言ってんのっ! アンタ、はじめにアタシがいったこと、ぜんっぜんきいてなかったでしょ! そういう自分勝手で独りよがりな考えかたで、だれかが救われるとおもったら大間違い!アタシは、自分が助かるために戦ってるんじゃないっ!」
ブレイブはぼくを見おろして鬼の形相で、そう言い放った。その瞳にはすこしだけ、なみだがたまっていた。
「……ごめん」
ぼくは、そう答えることしかできなかった。彼女はたしかに泣いている。悲しい気持ちに浸っている。……いつの間にかぼくは、なにげない一言で彼女を傷つけてしまっていたのか。
「悲恋の幕間劇はおわったか?」
その横やりに、ぼくたちはふたりして、ニヤニヤとしながらこちらをながめるニュクスを見やる。その手にはいまだ、黒い球が瘴気を帯びつつ、不気味に浮かんでいた。
「くっ……」
ブレイブは体が痛むのか、見るからにつらそうにしている。無理もない、あれだけの攻撃を丸腰でくらったんだ……。これも、ぼくの不甲斐なさが招いたひとつの結果か。身にしみてそれを痛感させられる。
「わが身を盾にし味方をまもる、か。人間だけがもつ、博愛の精神というやつだな? おもしろい心理現象だ……いいものを見せてもらったことに感謝の意を表し、好きな死にかたを決めさせてやろう。さあ、なんなりと申すがいい」
ニュクスはぼくたちをもてあそぶように、醜い笑みとともにそんな質問をなげかける。……くそ、これじゃあいつの思いのままじゃないか。侮られたまま一方的にやられるなんて、そんな……。
「……ね」
「なんだ? 先ほどの大声でのどが枯れるのもわかるが、もうすこし……」
「アンタが死ねっ! このクソバカとんちきトーヘンボク!」
ブレイブは、そんな罵声を力いっぱい、気勢をこめて吐きすてた。……彼女はまだ、あきらめていないのか。いや、それどころか、こころにヒビがはいった様子もない。ブレイブの顔つきは毅然としていて、むしろ自分たちのほうが優勢であるかのような錯覚さえおこさせる。
「ほう、なるほど。その程度の雑言では怒りなど湧かないが、それはつまり、わたしの自由な殺しかたでよい、ということだな?」
ニュクスはいっさい表情をかえることなく、じりじりとぼくたちに歩みよってくる。この状況は、たったひとことで説明できる。……絶体絶命だ。
「ブ、ブレイブ、このままじゃ……」
ぼくが弱々しくそう言うと、ブレイブはなぜかほほえみながら、そっと自分の胸に手をあてた。
「アタシ、わかったの。だれかをまもるために必要なのは、絶対的な力じゃない。いついかなるときでも明鏡止水なこころであること。それが、恐怖におびえる相手の気もちを落ちつかせ、自分自身の精神のたかぶりをも鎮めてくれる。そうすれば、きっと突破口も見つかるにちがいない」
「で、でも、いまはそんな悠長なこといってる場合じゃないよ」
すると、ブレイブはひざまずき、ぼくのケガをしていないほうの手をにぎってくれた。おたがいに体じゅう砂ぼこりでよごれてはいたが、そのあたたかさ、やわらかさ、そしてわずかに伝わる鼓動が、たしかにいま生きているということを、言葉にするよりはるかにわかりすく、実感させてくれた。
「どう、落ちついた?」
ブレイブはこんな状況だというのに、すこしも動揺や焦りの色をみせず、こころからの笑顔をぼくにさしむけた。……ああ、やっぱり彼女には、かなわないや。
「……うん。ありがとう」
そう告げると、ぼくもまた口角を上げ、ブレイブへと笑みを返した。不思議とその表情をつくるのに、違和感やぎこちなさはなかった。自然とそういう顔をすることができたのだ。これが、彼女の言う「ひとをまもること」なのか。
ふと気づけば、ニュクスはぼくたちのやりとりを依然としてなめまわすように凝視しながら、ゆっくりとだが確実に接近していた。もうこの距離ならいつ攻撃をしかけられてもおかしくない。
「……アタシは、どんなときでも絶対にあきらめない。なぜならアタシは、世界をまもる夢をもち、世界をまもる力をもつから。それが、プリキュアっていう存在だって、アタシは信じてるっ!」
そう彼女が疾呼すると、にわかにぼくの体が淡くかがやき、熱を帯びはじめる。みると、ブレイブも同じように、その現象を宿していた。いったい、これはなんなんだろう……? からだの奥で、ちいさな炎が灯っているようだ。でも、それはいやな熱気じゃない。まるで命のみなもとに触れるような、自分自身の生きる力が、発露しているように感じる。
「なに、これ……パワーがどんどんあふれてくる……!」
「……なんだと、どこからこんなエネルギーが!?」
ぼくは、いつのまにか自分の腕の痛みがすっかりなくなっていることに気づいた。いや、それだけじゃない。体じゅうの傷が癒えている。気分もすこぶるいい。
「ブレイブ、これなら……!」
「ええ、いまならなんだってできそう!」
ブレイブは息をおおきく吸いこみ、勢いよくはるか上空に跳んだ。そして目印を示すかのように腕をふりかぶるようにして伸ばすと、彼女を中心にして徐々に西洋風の剣が何十にも、歯車のように回転しながら形成されていく。それは行儀よく円形にきっちりとならび、しかしその刃の銀色は、モノを傷つけるには十分な光沢と鋭さをみせていた。そしてそのすべてが、忌まわしき災厄の張本人、ニュクスに切っ先をむけている。
「くっ、この征服的なまでの波動はなんだ……!? う、動けんっ……!」
ニュクスは必死になってもがこうとするが、指一本うごかすことすらかなわない。それほどまでに、ブレイブの気は強かった。でも、ぼくにはそれはとても優しさに満ちた、こころ安らぐものに感じる。きっとこの力は、無意味にひとを傷つけるものじゃない。世界に悲しみをもたらす、災いをほろぼすためのものなんだ。それがわからないのは、ニュクス、キミが邪悪なこころしかもっていないからだ。ぼくははじめて、あわれみという感情をおぼえるのを自覚した。
「いっ……けぇーーーーーーーーーーっ! プリキュア・エクスペンダブル・ソード!!!」
ブレイブが腕を振り下ろし号令をかけると同時に、剣の霖雨が降りそそぐ。無数の刀身に斜陽が反射し、目も開けていられないほどのまばゆい発光をみせる。
「ぅ、うおおおぉーーーーーーーーーーーっ!」
ニュクスの断末魔がこだまする。その絶叫をかきけすように、剣は無慈悲にその足場一帯に、剣山のように突きささる。ドスドスと、腹の底にひびくにぶい音が、十秒以上はつづいた。その大地のゆれは、破壊的な恐ろしさと同時に安堵と心地よさをもたらした。
そして、すべての剣が天空から地上へと乱雑に居場所をかえ、馬の大群が走りさったあとのようなしじまが訪れる。思わずその場にぺたんとお尻をつけた。
「やった、のか……」
ブレイブが、風の昇降機に乗るようにして、ゆっくりと降りてきた。その顔には、すこし疲労の色がみてとれた。やはりあれだけの力をつかえば、いくら気がみなぎっていても体力は消耗するのか。ぼくはすかさず、ねぎらいの言葉をかける。
「お疲れさま。やったね」
「ええ、そうね。これでようやく……」
だが、安穏を喜ぶのもつかの間。なんと、地面にはえた剣の山から、のっそりとニュクスが立ちあがったのだ。あれをくらってもなお、生きているなんて……!
「ぐっ、はぁ、はぁ……」
「なによ、まだやる気!?」
ブレイブはすぐさま敵に向きなおり、威嚇する。さすがにもうこちらが不利、ということはないだろうけど、油断はできない。獣は手負いがもっともおそろしい、と言うし、なにをしてくるかわかったものじゃない。
「……ふふ、今回はやめておこう。さすがにいまのは……少々効いたぞ。伝説の戦士、プリキュア……キュアブレイブ……。その名、おぼえておこう……」
そう言い残し、ニュクスは後方へおおきく跳躍すると、漆黒のマントに身をつつみ、その姿はマジックのように消えてなくなった。
「き、消えた……?」
「はー、取り逃がしちゃったわね。ま、戦いの目的はアイツをたおすことじゃないし、べつにいいけど」
いつのまにかブレイブの変身は解け、ねごろの格好にもどっていた。ぼくがそれを指摘すると、ねごろは自分のからだや髪をさわって、気がつかなかった、と驚いていた。
ニュクスが去っていった方向をなんとなく見ていて、ふと空のことに気がむいた。……まだ、夕方だったのか。なんだか、ずいぶん長いあいだ戦っていたような気がする。よくみると、あんなに無残に荒れ放題になっていた道路や塀も、すっかり元通りになっている。……不思議と、それを疑問におもう気もちは湧いてこない。まあ、万事解決したってことで、よしとしておこう。
「……アイツ、また来るのかな」
ねごろがそんなことを、ポツリとつぶやいた。……たしかに、あいつに深手を負わせたとはいえ、みすみすと逃がしてしまったのは事実だ。その傷を癒したあとにまたぼくたちの前にあらわれても、なんの不思議もない。いや、けだしそうなると考えたほうがいいだろう。ニュクスと名のるその女が、はっきりと「おぼえておく」といったのだ。早晩、またあの悪夢がぼくたちに襲いかかるのは、杞憂でもなんでもない、ほぼ確実におとずれる未来なのだ。ぼくは身ぶるいした。今回は撃退できたけど、つぎもこううまくいくとはかぎらない。これから毎日ずっと、こんな恐怖におびえながら生活していかなくちゃならないのだろうか……?
「なーに、暗い顔してんのよ!」
ねごろに思いきり、背中をひっぱたかれる。でも、それはいつもより力が加減してあった。からだだけでなくこころもゆさぶられて、奮い立つような心気になる。
「……いまので、気合い入ったよ」
そう言ってねごろにほほえみかけると、彼女もまた相好をくずした。
「アンタが考えてることは、アタシも同じ。でも、そんな先のことを不安におもってたって、どうしようもないじゃん。それに、こっちだってなにも対抗手段がないわけじゃない。アタシを……プリキュアという伝家の宝刀をもっている。だいじょうぶ、アンタのことはなにがあっても、アタシがまもってみせるから」
そう言ってまっすぐにぼくをみつめるねごろのまなざしには、迷いや曇りが一点もない。彼女は、覚悟をきめたのだ。この先、もしかするとずっと、プリキュアとして生きていくことを。……念願の夢がかなったのだから、もっと喜んであげてもいいはずなのに、あまりそういう気にはなれない。当然だ……あんな現実をみせつけられてしまっては。世界をまもるとは耳に心地のいいフレーズで、その実態は、つねに自分の命を盾にして戦わなければならないという残酷なものだ。そんな重荷を、彼女はたったひとりで背負おうとしている。なら、ぼくにできることは、いったいなにがある?
ぼくは思わず、ねごろの手をにぎっていた。その感触は、あのときよりもずっとすべすべしていて、気もちよかった。
「な、アンタ、なにして……」
「こうすると落ちつけるって教えてくれたのは、ねごろだよ」
「……まー、そうだけど、べつに元から落ちついてるしっ」
ねごろはそう口を尖らせるが、面持ちはまんざらでもなさそうだ。さっきまでとは大違いだ。
「ねごろが瀕死の状態から復活したとき、ぼくにいったよね。『アタシの約束のこと忘れてる』って。いまのキミも、ぼくの約束、忘れてるんじゃないかな?」
「そ、そんなことないわよ。アタシのことは、プリキュアじゃないときにまもってくれればいいわ。それでじゅうぶん」
「そうじゃない。キミは、プリキュアとして戦う運命を、ひとりで背負いこもうとしてる。たしかにぼくが、あんなすさまじい戦闘で助けになってあげられることなんてなにもないかもしれない。でも、忘れないでほしいんだ。キミのそばにはいつも必ずぼくがいて、こころがくじけそうになったときには、いつでも支えてあげられるってことを」
「……」
ねごろは口をポカーンとあけて、なんだか拍子ぬけしたようになっていた。もしかして、ぼくがこんな差し出がましいことを言ったのが、気にくわなかったりしたのだろうか。
「あの、ねごろ……」
「……ぷっ」
なぜか、噴き出された。ぼくはいたってマジメそのものだったのに、どこに笑える要素があったのだろう。
「ぷふ、あはははは! 『ぼくのことは放っておいて~』なんていって、しかも結局アタシに励まされてたひとが、そんなこと言う!? 冗談よしてよ、ふふ、あははは……」
……痛いところを突かれてしまった。恥ずかしいやら情けないやらで、顔が紅潮する。
「ねごろ、ぼくは本気でっ……!」
「わかってるよ。……アリガト」
人差し指でくちびるを封じられる。それに加えて上目づかいに柔和な笑みをおくられると、なんだか抵抗する気もおきなかった。こんなことをされたの、はじめてだ。今日はいままでぼくの知らなかった、ねごろのさまざまな一面を垣間みることができた。そして、その絆の存在をあらためて認識し、より強固なものにすることができたようにおもう。それを考えると、あのときの苦痛も存外ムダではなかったな、とさえ感じてしまう。そうだ、これでいい。結果的にふたりとも助かったんだから。後顧の憂いは新たに首をもたげはじめているけれど、ぼくとねごろが力をあわせれば、どんな艱難辛苦だってはねかえせるにちがいない。ぼくはそう、信じたい。
「……もう、帰ろうか」
「ええ、そうしましょ」
ぼくとねごろは顔を見あわせ、たがいに相手への信頼の念を目で伝えあった。それだけでじゅうぶんだった。いまのぼくたちに、それ以上の言葉は不要だ。
……人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵、という金言がある。これは甲斐の戦国大名、武田信玄がいったことだ。ひとは城にも石垣にも堀にもなる。だから、ひとに優しくしたり助けたりすると、それは回りまわって、自分自身をまもることにつながるのだ、という教えだ。あるいは、ひとがいなければなにもできない、ということにもなる。ねごろがぼくに語った「世界をまもる」とは、まさしくこのことをいっているのだろう。力で屈服させるのではなく、こころで手を差しのべることによって、ひとははじめて救われるのだ。普段の彼女はひどくつっけんどんな態度をとるが、その裏にはだれにも見ぬくことのできない真意がある。それは今回の一件で、少なくともぼくの目には明らかになった。
とすると、この文言にしたがって解釈するなら、いずれはあのニュクスとかいう女も、ねごろによって救済される日が来るのだろうか。しかしいまはまだ、ねごろの優しさというのは利己的な意味をはらんでいるようにおもえてならない。なぜなら、これまでの彼女の発言の端々に、世界という単語の狭義的なニュアンスがみてとれたからだ。そう、ぼくはずっと勘違いしていたのかもしれない。彼女が心の底からまもりたいと願ってやまなかったのは、この世界そのものではなくて、もっと身近な日常だったのだ。それはすなわち、ぼく、という存在なのだろう。……いまはまだそれでもいいのかもしれない。でも、もし次にぼく以外の人間に危機が迫ったとき、彼女がそれを無視するようであれば……それは本物の優しさではないとおもう。プリキュアは、自分の気に入っているひとだけをまもるために存在するのではない。それをそのうち教え諭してあげないと。……って、ぼくはなんでこんなことを考えているのだろう。プリキュアのことなんてぜんぜん知らないのに……。
いずれにせよ、ニュクスが言っていた「闇の使者」という……あの口ぶりから察するに、なんらかの目的をもった組織なのだろう。相手が集団である以上、もしかすると総力をあげてこちらを潰しにかかってくるかもしれない。あるいはこちらから敵の本拠に出向き、諸悪の根源を絶つ必要に迫られることもありうる。もし、そう遠くない未来にそんな日がおとずれるとしたら、はたしてねごろひとりで太刀打ちできるのだろうか。……もっと、仲間がいれば。ぼくでは不可能な、戦闘の役目を担えるほかの人物……プリキュアが、ねごろ以外にも存在するということがあれば。きっと心強い味方になってくれるにちがいない。それに味方と連携して戦ったほうがはるかに有利に、かつ安全にことを運ぶことができる。どうかプリキュアという、ヒロイックで残酷な運命をあたえられた人間が、ねごろだけではありませんように。ぼくは、そう願ってやまなかった。
「……」
わたしは、みてしまった。その一部始終を。彼のことが心配になってあとを追いかけてきたら、まさかあんなことがおきていたなんて。
「プリ、キュア……」
あれはどこからどう見ても、ねごろだった。風貌こそ違えど、声や喋りかたは本人そのもの。でも、問題はそこじゃない。
「なんで、ねごろが……? いや、それよりも……」
胸のおくが息苦しく、ムカムカと不快なこそばゆさが、心臓を食いやぶるようだ。心ともなく、胸骨のあたりをグシグシとかきむしる。しかしそれはいっこうに治まる気ぶりをみせない。
「フゥッ、フゥッ、フゥッ……」
たまらず、その場にへたりこむ。どうやら、不整脈のような症状がでている。冷や汗があごからしたたり落ちる。とりあえず、ここでしばらくじっとしていよう。すこしすれば、よくなるはず……。
「もし、そこの娘っこ」
ふいに、声をかけられた。もしかして、道ばたでうずくまるわたしをみて、おばあさんが心配してくれたのかな。でも、それにしてはいやに声質が幼いような……。
「ふぅ、だ、大丈夫ですよ、ご心配なく……」
そこにいたのは、ちんまい女の子だった。グレーの髪で、口におおきな布のマスクをあてがっている。そして、なぜか孫の手をもっている。……かわいい。
「ふむ、それならいいのじゃ。なにやら苦しそうにしておったのでな、気になって。……ところで、ひとつ尋ねたいのじゃが」
「……な、なーに?」
「『つぼみ園』という施設を、ご存じないかの。そこが拙者の家なのじゃが、道に迷ってしもうた」
「え、えー……じつはわたし、ここに引っこしてきたばかりで、まだこのあたりの地理には詳しくないんだ。ごめん……」
そう答えると、女の子は露骨に落胆するそぶりをみせた。……っていうかこの子、もしかして……迷子?
「そ、そうであったか……うーむ、拙者はいつになったら帰れるのかのう……」
しょんぼりした顔でそうつぶやくと、ググ~という歯切れの悪い音が鳴った。
「おなか、すいてるの?」
「はっ……そ、そんなわけなかろう! こころばせは無用じゃ!」
しかし、そう言いきった直後にまた、似たような音が鳴りひびく。女の子が慌ててわたわたしている様子がなんだかとてもおかしくて、わたしは思わず噴出してしまった。
「ぷっ……ふふふふ」
「な、なんじゃ、なにがおかしい! 急ぎ帰宅せねばならぬゆえ、拙者はもうゆくぞ、さらばじゃ!」
「あ、まって、まって!」
「まだなにか用かえ!」
女の子はムスッとした面持ちで、ジロリとわたしをにらみつける。でも、その顔つきはまったくこわくなく、むしろ愛くるしささえ感じてしまう。
「あの、よければ、うちに来ない? まだほとんど知りあいもいないし、はやいうちにすこしでも友だちを増やしたいな~っておもって。その施設へはちゃんと連絡しておくから、帰りの心配はいらないよ。ね、どう?」
「む、むむ……」
なにやらうつむきながら、モジモジしている。これは好感触、かも……。
「……のかえ?」
「え?」
女の子が、モソモソと口ごもる。
「……め、飯は……で、出るのかえ?」
それを聞いたわたしは、ニマ~とおさえきれない笑みを隠そうともしないで、元気よく答えた。
「もっちろん! お母さんに頼んで、いっぱいお料理作ってもらうよ!」
「ほおおお……それはそれは……」
女の子は一転して目をかがやかせ、ヨダレをちょっぴりたらしてポワ~ンと夢心地だ。
「うんうん、異論なさそうだね。それじゃ、いざわたしの家へ! けって~い!」
「あぅ、ちょっとまつのじゃ」
「ん、なーに?」
「まだ、名乗っておらんかった。失礼したな。……拙者は、『大谷みつぐ』と申す。今宵は世話になるでな、よろしゅう!」
……みつぐちゃん、かー。この子、すこしだけ格好や喋りかたがヘン……いや、変わってるけど、なんだかいい友だちになれそう。
「わたしは、夢原のぞみ。気軽にのぞみ、ってよんでね!」
「承知したのじゃ、のぞみ。……のぞみ、か。のぞみ、のぞみ……」
「え、なにか言った?」
「わわ、なんでもないのじゃ!」
わたしとみつぐちゃんは、ふたり仲よく、他愛もないおしゃべりをしながら歩きだした。
……幸運な新しい出会いにも後押しされて、それで気がまぎれるかとおもったけど、やっぱりダメだった。どうしても、ひとつの事実があたまから離れない。それは、この地にもなんらかの魔の手が迫っていて……そしてそれに対抗すべく、プリキュアとしての宿命が根ざしている、ということだ。もし、わたしがまたプリキュアとして選ばれてしまったら。もし、また戦わなければならなくなってしまったら。そのとき、わたしはいったいどうすればいいんだろう……。
「……のぞみ、のぞみ、聞いておるのか?」
「はっ……ご、ごめん」
「なにやら深刻そうな顔をしておるな。よい、だれにでも悩みというものはある。むろん、拙者にもある」
「そ、そっか、そうだよね。つらいのは、わたしひとりだけじゃないんだよね」
わたしはそう返しはしたものの、気はそぞろだった。いつ、この憂いが現実になるかとおもうと、いてもたってもいられない。
「……のぞみ、どうやらおぬしはとてもいい人間のようじゃ。すこし話しただけで、それがありありと伝わってくる。いまはまだ決心がつかぬが、いつか……拙者が抱えている悩みを、おぬしに打ちあけられるようになる日が来るやもしれぬ。そのとき、のぞみはちゃんとその話を聴いてくれるかえ? だれにも……いや、ほとんど話したことのない、この秘密を……」
その声は、いくらか震えているように聞こえた。……いや、震えているのは、わたしのほうだった。意識して止めようとしても、どうにもならない。と、みつぐちゃんが手をぎゅっと握りしめてきた。わたしよりもいくぶん小ぶりで可愛らしいそれは、手ではなくおててと称するのが似合う。すべすべというよりかは、むにむにしてひんやりしていて気持ちがいい。
「……ありがとう」
「いや、拙者もこんなことしかできんでな……」
みつぐちゃんはちょっと気恥ずかしそうに、うつむき加減でしゃべっている。
「うん、もうだいじょうぶ。……お礼じゃないけどみつぐちゃんの悩みも、いつか力になってあげるからね。待ってる」
わたしは彼女のおててをぎゅっと握りかえした。そうだ、いつまでも自分のことでウジウジしていてもしょうがない。どうせ、これはだれにも相談できないことだ。当事者であるねごろなら、話はマジメに聴いてくれるかもしれないけど、でも、それでどうにかなるわけじゃない。……ひたすら、悪夢が顕現してしまわないことを祈るしかないんだ。
一歩、またいっぽと踏みだすたびに、影法師がごくわずかな速度で、じわじわと濃くなっていくのがわかる。それは、意識の檻に封じこめていたあの面影を、うっすらとわたしの脳裏によみがえらせていくのだった。
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