見上げてFD沙夜アフターラストでひかりがライスシャワーを投げつけられるようになるまで。沙夜ルートに於いて本編FD通してひかりが暁斗への心情吐露した場面なかったよなーと。

※本編設定資料集に舞台モデルが茨城県日立市とあるので周辺地名をそのまま使ってますが、実際には関係はございません

※三香月線は日立から内陸に延伸している盲腸線という設定です

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第一閉塞、停止

 一言に鉄道好き、と言っても、詳細に分類すれば様々な分野に分かれる。乗り鉄とか撮り鉄とか音鉄とか、その中から更に細分化されて。まぁ模型鉄は正直鉄道模型が好きなのであって、鉄道趣味にまとめるのもどうかと思うけど。

 あたしは、多分その分類のどれにも属さなくて、言ってしまえば父親の影響で『なんとなく』雰囲気を好きになって、そしてそのままそれを職にしたとか、その程度の話。

「――別にあたしに一切夢がなかったとか、あまりそういうつもりもなかったんだけどな」

 そう、思い返してみれば、かなり漫然としていたのだ。どうせなら、というぐらいで、別にそこに自己の意識が介入してなかったとか、そんなことはない。

 強いて言うなら、父親に憧れて――というよりそれしかないんじゃないか。ただまぁ、今でも家に帰れば普通にその手のことは話すし、その上で親の仕事になりそうなことは割とこちらから喋っている――から未だに実家暮らしから離れらんないんだっつーの、流石にどうなんだこの齢で、仕事もしていて。まぁ別に問題はないのだけど、暁斗みたいにずっと一人暮らしをしてきたようなのを見てると、いいのかな、とつい思ってしまう。

 そんなことを乗務中に考えられるようになるくらいには、今の仕事には慣れてきたんだろう。駅員業務を数ヶ月こなした上で、現在車掌業務中。運転手になるための試験や適性検査を受けるのは、まだもう少し先になりそうだと、先輩からは聞いた。なんでも女性の運転手はこの周辺にはいないため、余計に時間がかかるんじゃないか、とも言われた。付き添い乗務もクリアし少し前にやっと車掌として独り立ち出来るようになったというのに、未だにそこの考えのまとまりが付かない。

「――ふぅ。やっぱ運転席に陽射しが差し込むと遮るものが少なくて眩しいわよねー」

 運転士というのは、職業柄緊張していることが多い。乗務中は、前方の視界から目を逸らしてはいけないし、停車中も周辺の音や様子をつぶさに確認して、列車を動かすことに対して周囲の安全を確認してから発車を出来るものだ。だから、むやみやたらに眩しいと思わせるようなことをしてはいけないし、ましてやカメラで撮影する時に運転手に向かってカメラのフラッシュを焚くようなことは絶対にしてはいけない。

 そうそう、出発進行という掛け声は「出発信号機が青=進行表示を点灯させている」ことであるから、黄色信号なら「出発注意」になるし、赤信号なら勿論「出発停止」だ。駅に進入する時は「場内○○」っていうし、駅間に信号があるのはあれは閉塞区間って言う――いや流石にこれ以上はやめよう、流石にまだ難しすぎるだろう。ドン引きさせても仕方がない。

「――ということなんだ、わかったかい、少年?」

「うん、ありがとーお姉ちゃん!」

 いつも電車を動かす時に出発進行って言ってるのってなんでなんですか? と徐に尋ねてきた少年がお礼を言って去っていく。まだまだなけなしの運転に関する知識を掻い摘んで小さい子にわかりやすく説明するのは骨が折れる。

「あー、まぁ少年の夢を壊さないのは大事だし大切にしたいけど、休憩が正味短くなっちゃうのは辛いよねぇ……」

 それ故に、列車の折り返しなどで乗務していない時はかなり漫然としていることが多い。そうでもしないと緊張がほぐれずすぐに疲れてしまう。運転手になれば、殊更緊張具合も増すことになるというのに、これで大丈夫だろうか。

 プロジェクト・スターライトの直後に配られた進路調査票に、あたしは就職と書いた。それは沙夜や暁斗、それ以外にも周りみんなを驚かせるものだったけど、それこそ星空観察という趣味は、大学入るにしても就職するにしても、特段やれることは変わらないと思った。だったら、もう一つの『好き』を仕事にしてみよう――鉄道員という職業を選んだのはそんな理由。

 大きな失敗が即事故に繋がるこの業界は、常に緊張感を持ち続ける必要があるけど、だけどその分やりがいはある。辛いと思うこともあるけど、仕事が楽しいと思うこともあるし、まぁ社会人としてはそれなりにやってるつもりだ。

 だけど。進路選択の際に、なんの迷いもなく就職を選んだあの時の自分は、不信感こそ抱かずともなんだったのだろうという疑念は未だに晴れない。別に後悔も何もないし、好きを職業に出来たという点に於いて間違った選択でもなかったとは思ってはいるのだけど。沙夜や暁斗と同様に大学に行くという選択肢が頭の中に一切なかったこと、進路選択の文字面を見た時に感じたある種の焦燥感だけは、未だにどうしてなのか解けないのだ。

 

 

 その夜、あたしは久々に夢を見た。懐かしくて、もう夢の中でしか出会えない光景。

 それは、今でも三香月村がダムに沈むことがなくて、そして生まれ育った地元の線路を大人になったあたしが運転しているというもの。

 三香月線は電化されてなかったから、ちゃんと内燃車運転免許――電車以外を動かすための、いやこれも難しいか――を取得して、地元も走れるようになってて。そして美晴先生とか、沙夜とか、暁斗とか、ころなとか、みんなを乗せて山へと列車は分け入っていくの。

 それで、見晴台の駅に着くと、列車を一時間くらい停めて、ずっと星空観察をする。あたしが、みんなのお手伝いもして、様々な星の解説をしていく。広がるは満天の星空。新月の日、鉄道会社がほぼ月一で運転する観望会のための臨時列車は今日も満員御礼だった。

 時間が来て、みんな撤収を始める。だけど残る人もいて、その人たちはそのままキャンプをする。あたしもその中にいたいのだけど、常務があるからそれは出来ない。名残惜しくとも、後ろ髪を引かれる思いで、そのままあたしは夜汽車の旅路へと動かし始め――。

 そんなタイミングで目が覚めたのだった。まぁ悪い夢では別になかったけど、あたし以外は全員昔の姿だったから、なんというか不思議な気分だった。もしかすると、あたしの方があの頃の美晴先生より年上だったかもわからない。

「せめて、免許的に水郡線ぐらい運転できるように……いやでもそうすると管区的にこっちが運転できないや」

 そうだ、あっちの詰所もとい管区は水戸じゃなくて大子だった。あたしは勝田所属だし。三香月までの線路を運転するというのなら、大子にいてはそれがやれない。

「しかもあっちはワンマンが基本だから、ただでさえ運転で手一杯なのに、そこに車掌的業務も追加されちゃぁねぇ……」

 あたしが一人で乗務する際の日課にしている全身運動をしながら独り言ちる。

 先程の夢の意味について考える。過去への憧憬――はそんなにないだろう。あったとしても、プロジェクト・スターライト前後の、みんなで色々やってた頃に戻りたいと思うし、それと別だとするならば、廃駅で暁斗と沙夜と、三人で星空を見上げていたあの時に戻りたいと思う。言ってしまってはなんだが、三香月村である必然性はないのだ。

 強いて言うなら、美晴先生が担任をやってくれていた頃の姿をもう一度拝みたい――いやこれは言ったら間違いなく締められる。

「鬱屈してるつもりはないんだけどねぇ……」

 暁斗と沙夜と、三人でいた頃は、星空に手を伸ばして銀河鉄道なんてやってたんだ。大人になり、地に足付けて、地元を知り尽くすのも、まぁ悪くない。悪くないはずなんだけど。それとは別に、欲求不満というか、あたしの中で満たされないというか、何かあってほしいものが欠けてしまっている、そう感じるのだ。

 

 

 あたしは、今何を望んでいるのだろう。あたしの夢ってなんだったっけ。

 そんな感じで起きてからもずっと考え込んでたから、初めに声を掛けられた時も、答えの中々出ない悩みに比べれば、そう大したことでもないだろうと思っていたんだ。

「ちょっとぉー、お願いがあるんですけどねぇ」

 なんだろ、この声。雰囲気的に地元の人ではなさそうだけど。

「はい、どうされましたか?」

 どの行程でも、一列車乗り終えた直後はやはり疲れが出るものだ。だから、場合によっては話半分、大事そうならしっかり聞く。正直、これはなんとなく前者な気がするのだけど。

「なくなった三香月線を先まで復活してほしいんですよぉー」

 ――あっはい。いやどうしろと。それをあたしに言ってどうするの。勿論口にしないし顔にも出さないけど、案の定の前者で却って笑いそうになる。

 首からコンパクトデジカメを下げた、よれよれのシャツの人。あまり見た目で判断しちゃいけないとは思うが、口調とも相まって、なんというか、あまりにもそれっぽい人だ。たまに現れるんだよな、こういうの。都会はこんなのが相対的に多いと向こうの人は言うけど、いつも相手にしてちゃたまったもんじゃないと思う。

「それで復活した路線は電化してー、そして新たに延伸工事もしてー、それで常陸大子につなげればいいと思うんですよー」

 あっ、このタイプ本気でめんどくさいのだ。さっさと話を終わらせるのが得策だろう。

 とりあえずこの人、やっぱり地元の人じゃない。ある程度遠方から、何か目当てか、それともあてもなしに来た外の人だ。別に外の人を差別するつもりはないけど、こういう面倒な人はこの辺りにいないし、いたら噂になるからまず間違いない。

「畏まりました。勉強になります。ただ、申し訳ございません、私めも次の乗務が――」

「ちょっとぉー、まだ話は終わってないですよぉー」

 何だか強引だな、この人。しかも妙に喋り口に威圧感がある。

「それでですね、やっぱりこの区間をですね、快速運転が欲しいんですよねぇー。まぁそれは常磐線もなんですけどぉー、停車駅は日立から見て三香月――」

 出来もしないことをぺらぺらと喋り始める。なんであたしはこんな出来もしない、少なくともあたしに言ってもどうしようもないことを聞かせてくるのだろうか。

 うん、やっぱり妙に語尾が伸びる口調なのがこっちのいらいらを増大させてる。単純にこの人の癖なのかもしれないけど、正直頭にくる。

「ちょっとぉー、聞いてるんですかぁー?」

 見れば、じっと瞳を覗き込まれていた。瞬間、背筋に悪寒が走る。駄目だ、今のは生理的に気持ち悪かった。

「電化したら、やっぱり水郡線も電化してほしいですねぇー。というより水郡線もテコ入れして色々走らせましょうよぉー。東京から水戸経由で郡山まで行く特急とかあったら楽しそうじゃないですかぁー」

 だから水郡線のことは大子に言えっての。ここでは無理だ。もしくは水戸支社に直接言ってくれ。それともあれか、もしかしてこの人、あたしが女だから、反抗しない、出来ないと思って言ってんのか。だとするとそれも込みで輪をかけて不愉快だ。

「ここまで貴重なご意見、ありがとうございます。ただ、私も次の列車への乗務が迫っておりますので」

「なんだよ逃げるなよぉ! ちゃんと話聞けよぉ!」

 うっわなんだこいつ。ここまで面倒なのは初めてだ。

 目の前の人の話が一切頭に入ってこない。いや入れる必要もなくて、事務的にこなすしかないのだけど、それを許さぬ空気の中にあたしは飲み込まれている。それに気付いていても、そこから逃れる術を、あたしは持ち合わせていない。

 気付けば肩に手を置かれ、物理的に逃げられないようにさせられていた。――うわこいつ、爪切ってねぇ。しかもあたしを押し留めようとしてるせいかどうか知らないけど、そのお陰でその爪が皮膚に食い込んでくる。

「いった……」

 野郎、爪立てやがって。食い込んでるんだよ、ふざけんな。なんて億尾にも出そうものなら、余計どうなるかわかったもんではない。

 外面には出さないようにしているけど、正直、怖い。これが個人的なことだったら幾らでも逃げようがあるけど、如何せん業務中だから下手は打てなくて、故に得体のしれない相手が怖い。

「ちょっとぉー、人の話はちゃんと聞いてくださいよー。それにこの辺りのためにもなるでしょう? でしたら、この話をちゃんとしっかり相談して決めて頂きたいものですねぇー」

 どうしてこんなに上から目線になれるのだろう、だとか、何が悲しくてこういう物言いしか出来ないのだろう、だとか、色々なことが頭に浮かんでは消えるけど、共通するのは目の前の人に対する疑問点だった。

 どうしてあたしがこんなのに。何かあたしが変なことをしたわけでもないのに、なんで意味もなく痛めつけられてるの。どうして出来もしないことをこの人は理解しようともしてくれないの。

 誰か助けてよ――暁斗。

「よーぉ、お前久しぶりだなぁ!」

 念じれば叶う――とは限らない。でもどうしてかこの今だけは、そんな安易な奇跡を信じた自分がいる。

「暁、斗……?」

 だけどあたしはそれ以上に困惑していた。どうして暁斗がここにいるの? この人は暁斗の知り合いなの? ――どうしてさっきあたしは暁斗に助けを心の中で呼んだの?

「ところでさ、何やらさっきからお前に対してちょっと呼んでる人がいるようなんだけどさ、俺じゃわからねーから、ちょっと対応してきてくんない?」

 暁斗が手を不意に伸ばす。その先に、あたしが見知った人たち――同僚の運転手や交代要員で待機していた車掌、それに三香月の駅員が勢揃いしていた。

「ふーむ、この人?」

「ですね、この人です」

 顔見知りがいるだけで、こんなに心強くなれるものなのか。既にだいぶ心理的にも落ち着いて、漸くながら相手の様子を直視できるようになった。

「はいはーい、あとは駅務室でお話聞くからねー、ちょっと来てねー」

「ちょっとぉ! 邪魔しないでよぉ! 大切な提案を聞いてもらってるんだよぉ!」

 大切な提案って。言っちゃなんだがそんなのは株主総会でやってくれ。あたしには無縁の場所だけど。

「でしたら私どもが伺いますよ。それなら宜しいでしょう?」

 あぁ、こうしてみると、この人、あまり言いたくはないのだけど、おつむが弱いというか、ちょっと周りが見えてない人だ。こんな人にあたしは絡まれてたのか。

「じゃぁ、ちょっとあんたたちに色々話させてもらうわぁ。この女ちゃんと話聞いてくれないんですよぉ。あんたたちは勿論聞いてくれますよねぇ?」

 あの様子だと、恐らくあの人は駅務室でも舌戦をかまそうと意気揚々に見える。だけど、面倒なことになる前に、あたしの肩の爪の食い込み方を見てもらえば、恐らくしょっぴかれるだろう。

 それにしても、助けてってなった時に、どうして暁斗が出てきたのだろう。そして本当に暁斗が現れて、あたしはエスパー――なわけはなくて、単純にたまたまなだけだけど。それより、そんな特定の誰かに縋りたいと思うことが、本当に久々だった。

 とと、いけない。次の乗務がほんとに目の前に迫っている。それさえ終われば今日は終了、且つ明後日の夜までお休みだ。だけど、まずは爪の食い込み具合を見てもらわないことには。あぁ、何を先にすべきか考えがまとまらない。

 ふっと顔を上げると、つかつかと暁斗がこちらに歩いてくる。というかまだいたのか、いやそういう言い方するのもなんなんだけど。

「――次の乗務も、頑張れよ」

 その言葉は、瞬間的にだけど、あたしの行動を一時的に全て止めるには十分すぎた。え、もしかしてその一言を言うだけにずっと待っていてくれたわけ?

 お礼、そうせめてお礼だ。だけどそれを言おうにも、既に暁斗は改札を出ていなくなっていた。

 ――どうしよう。やっぱり暁斗は、あたしが一度は好きになった男の子だってことを思い出してしまった。だからさっきは暁人が浮かんだのか――本当に『だから』なの?

 今は考えても仕方ない。明日暁斗を呼び寄せて二人きりで話をしよう。誰もいない、どうせなら共通の思い出が眠る場所で。

 

 

『何も人質には取ってないがダム湖に20時頃来たまえ、直接対話の席に着こうではないか』

「――なんていうメッセだったわけだが、あれは一体なんだったんだ?」

「うーん、適当というか、ノリ?」

 疑問形の返答は、暁斗の呆れた顔だった。呼び寄せたかったのは間違いじゃなかったけど、呼び出し文そのものに別に深い意図はなかったのも本当だからこそ、そういうしかなかったわけではあるが。

「沙夜はなんて言ってた?」

「『これが他の女の子、特に天文関係の人じゃなかったら駄目って言うけど、ひかりだからまぁ仕方ないかな』だとさ。けどまぁ、出かける時まで割とジト目で見られてた」

「あちゃぁー、やってしまいましたなぁ」

「いや誰のせいだよ」

「まぁ、沙夜の性格から言って、恐らく今ぐらいは自己嫌悪に陥ってる頃じゃない?」

「それで済むならいいけどな……」

「まぁどうせ暁斗いない間はあたしと沙夜は可能な限り会いまくってるしー」

「具体的には何してんだ?」

「そりゃー暁斗には聞かせらんないような女子会トークですよー」

「ふーん。まぁお前らなら二人だけの時間も大切だろうしな、俺でもわからんこともあるだろ」

「いーだろいーだろー」

「まぁ俺はたまに沙夜に会う時はその代わりと言っちゃなんだがその分身体を隅々まで見てるし」

「うーん、流石に暁斗も――ってぶっ!?」

 ちょっと待て、こいつってこんな下ネタいうような男だったか。流石に不意打ちすぎてかなりテンパった。

「うん、あいつの身体はほんと綺麗だよ。いや他の女性知らなくて――いやお前の裸は温泉で見たことあるか。けどまぁ、うん、なんだ、俺も何言ってんだ」

 赤くなった暁斗が頬をぽりぽりと掻く。ちゃんと男の子――いやもう子でもなんでもなく『男性』か。ともあれ、しっかり成長してるんだな。外面もだけど、中身も。

「いやー、暁斗もそんなこと言うんだねぇ。あたしゃびっくりしちゃったよ」

「俺だって男というか、お前にとって俺ってなんなんだよ……」

 あたしが一時好きだった男の子だよ文句あっか。昨日のアレで気付いちゃったよ、やっぱり一回は好きになった男の子だって。

「けどまぁ、俺ももうそろそろ大学卒業だしなぁ。こっちに戻ってくることにはなってるから、また普通に宜しく頼むことになると思う」

「部屋はどうするの? また一人暮らし?」

「沙夜には言ったし、まぁお前にも言っとかないとフェアじゃないと思うから言うけど、家賃一万でいいからってことで『さをとめ』の二階にまた居候させてもらえることになった。条件は週一で人数分の料理を作る事、だとさ。ちらっと聞こえた話だと、なんか俺を花嫁修業ならぬ花婿修行させたいとかなんとか、まぁそういうことらしい。けど、なんか沙夜も同居させたいとかいう話を小耳にも挟んでて、だいぶお世話になってるとはいえ、店長の考えてることってどこか読めないところがあるよ、ほんと」

 暁斗そのものを割と久々に見るお陰で、将来設計をしているという図が、失礼だけどだいぶ新鮮だった。出会った頃は、将来設計をするような余裕なんて暁斗にはあるわけもなくて、だからこそこうも成長して、というのは店長でなくともあたしだって感じるところだ。

「まぁ、けどそんな条件でというのもやっぱり悪いし、その内沙夜と二人で暮らす前提の家を早い内に借りるさ。だからさをとめにいるのは長くても一年くらいになるんじゃないか、恐らくは」

 あ、これは沙夜には秘密な、と暁斗が付け加える。それくらいのことは確かに暁斗もサプライズにしたいだろうし、確かにそれをあたしからいうのも野暮だ。

 それにしても、素直に幸せそうだな、と思った。出会ったのは既に十年以上が経過しているわけだけど、二人が付き合い始めてからも六年とかそれくらい経過していて、その間あたしはずっと独り身を守っている。いい相手が、と思いはするのだけど、それ以上に暁斗以上にいい相手と思えるのがどう頑張ったって見つからない。

「――そっか、もうそれだけの年月が経っちゃってるんだね」

 欄干に両腕を置いて、その上で顎を乗っけるようにして軽い中腰の姿勢になる。暁斗は逆に欄干にもたれかかるようにしてあたしと反対の方向を向いている。まるでそれこそあたし達の関係性のようだし、今も、これからもこのような感じなのだろう。真に向かい合うことは恐らくなくて、背中同士を合わせることも恐らくない。

「――ほんとさ、ありがとね。昨日のこと」

 溜息をつきながら、徐に口にする。

「結局、『また』暁斗に助けてもらっちゃった」

「まぁどうもというか、正直疲れたわ……お前、いつもあんなの相手にしてるのか?」

「あそこまで面倒なのはあたしだって初めてだったわよ。あんなのこの辺りにいたら絶対同僚同士で噂になるから、どっか遠方から来た人じゃないの、きっと」

「やっぱひかりでも慣れないような相手だったか。で、またって何がだ?」

「うーんと、――ううん、こっちの話。あんたは気にしなくていいや」

「えー」

 まぁ、実際そこまで深い意味はないのは本音だ。けど、みかづき天文クラブを再結成する際は、暁斗の働きがなければ成り立たなかったし、プロジェクト・スターライトだって暁斗の働きは必要不可欠だったし、それ以外でもなんだかんだ暁斗にはいつも助けて貰ってたから、そう間違いではない。

「話を戻して、真に面倒なのは警察呼んじゃうに限ると思うが……俺何か間違ったか?」

「ううん、全然間違ってない。実際肩に食い込んだ爪が痛かったし、後から聞いたけど、場合によっては傷害罪で立件できるかも、だってさ。あたしとしては別にそこまで面倒な話にするつもりも一切ないんだけどさ、後発事例あった時のために今の内にある程度の事例を作っておきたいんだって」

 結局、最終的にどうなったかという話は、具体的なことはあたしでも聞いてない。だけど、最終的に警察が絡むことになるのは、現時点でほぼ確定でいいようだ。

「あたしが言いに行かずとも、同性の同僚が肩の様子見てくれたよ。あの子がいたのはたまたまだったけど、ともあれ、その人に報告してくれたのも暁斗なんでしょ?」

 駅務室に強引に連れ込まれ、肩の様子見てもらって、大事を取って直後の列車の乗務を外され、その次の列車の運転に回されて。あの後、自分から何かをせずとも勝手に物事は動いてった。

「別に、現場にいた奴がして当然のことをしただけだろ」

「してくれないのも多いのよー正直。だからさ、ありがとね、うん」

 感謝だけは述べておかないと、いつ言えるかわからない。だから、ひとまずこれだけは言いたかった。うん、暁斗を呼んだ理由ひとまず完遂。

 だけど、これで終わりなのはあまりにも無粋だし、久々に暁斗と二人きりなら積もる話もある。でも切り口が見つからない。えーとえーと、あ、そういえば。

「そういやさ、暁斗がこっちに帰ってきてること、あたしは知らなかったんだけど、いつ来たの」

 上京しているはずの暁斗がどうして帰郷しているのか。勿論帰ってきてることがおかしいわけではないのだけど、いつも宿だとかなんだとかで大概来るということを知ってたから、だからこそどうしてここにいるのか、と困惑したのだ。

「ほんと昨日のあのタイミングだよ。てか、ひかりが乗務する列車の乗客だった」

「あぁ、そうなんだ――って、ええっ!?」

 ちょっと待って。下手にお偉いさん乗せて乗務するより怖い。皇室の方等を乗せるお召し列車は入念に準備した上で運転するから心づもりとかも出来るとはいうけど、まだまだ若造の、その上で抜き打ちで親友乗せることの方があたしにとってはよっぽど怖い。これが運転してるんだとしたら尚更だ。車掌やってただけでこれなのに。

「えっ何々、まさかあたしが乗務する列車を狙ってやったとか、そんなわけはないよね?」

「いやたまたまだったから。そういやひかりは乗務この辺りしてるんだよなーと思って何の気なしに運転席の方見てみたらひかりがいるからびっくりしたわ」

「ひぇー、あるんだねそんなことーって違うこれあたしのこと」

 いけない、あまりにもあたしの中で衝撃的過ぎて誰か他人のことのように思えていた。

「――えっとさ、ぶっちゃけ、どうだった? そんなにうまくはなかったと思うけど……」

「いや、俺だって車掌の放送や動きを見るプロとかそんなことは一切ないから正直そんなわからねーよ」

 まぁそりゃそうだろう。暁斗がそっちに目覚めたとか急に言わない限りはそんなことはまずないし、そうだとしても余程車内放送で暴言がとか、全然放送をしてくれないとか、そういうことをしなければ、特段この人のは、とは言われないはずだ。

「けどまぁ、楽しませてもらったよ。乗務、そんなに悪くなかったと思う」

 それが暁斗の偽らざる本心であることは、間違いがないのだろう。多分それは、暁斗なりの精一杯の照れ隠しで、そして多分口で話す以上に思ってくれたんだと、幼馴染の勘としてわかる。

「で、帰郷して沙夜に会いに来たと」

「まぁそうだな。本当の所、就職先の会社での懇親会的なことがあるっていうのに呼ばれて、それのついでにたまにはほしのなか市でデートしようって話になってさ。もうそろそろいつでもこっちでデートなんて出来るようになって、都心とかの方の機会がどんどん減るっていうのにな」

「ついでがあるんだからいいじゃん」

「まぁそうなんだけどな」

 うん、この空気感、いつものだ。最近暁斗と二人では会ってなかったお陰で、すごく懐かしく感じる。

「悪いな、帰郷するってこと、ひかりには声かけてもよかったんだが、決まったのがギリギリだったのと、連絡直前ならもう会える人へのサプライズでいいかと思って、もう沙夜以外の誰にも連絡しなかったからさ。ひかりにはどこかで、とどうせ思ってはいたんだが、まさか初っ端から会うどころか乗務する列車に乗るとは思わなかった。就活でこっちに来てる時にもひかりの車掌見習いとかにかちあう事なかったのにな」

「確かに会う事なかったよねー。車掌やってるとはちゃんと伝えたのにさー」

 目立ちたいというわけではなかったとは思うんだけど、車掌の任に着いた時は真っ先に沙夜と暁斗に伝えた。二人は大学に行って、あたしは天ノ中卒業後そのまま就職して。二人より先に社会人になったぞーということを示したいだけだったのかもわからないけど、あの頃はそういう意味で謎の自己顕示欲に溢れていた。未だにどうしてかはわからない。何かに逃げてただけだったのかもしれないし、深い意味もなかったのかもしれない。

「でまぁ、少し声かけようと思ったら別の人に声かけられてて、終わったらにしようとお手洗いがてら待ってたけど、そしたら絡まれ始めたから、という流れ。まぁ偶然といえば偶然なだけなんだけどさ」

 まぁ当たり前だ。寧ろ絡まれることまで織り込み済みでだとするならば人が悪すぎる。勿論暁斗にそんな器用なことができるようには思えないし、その場合あんなのとなんで知り合いなんだということで交友関係を色々疑いに掛からざるを得なくなるけど。

 そして、なんで列車から降りてきたように見えなかったかの疑問が氷解した。成程お手洗いか。

「というかさ、昨日からずっと思ってたんだけど、――ひかり、お前、何か悩んでないか?」

「――ふぇぇ!? 何言いだすかと思えば、いきなり何!?」

 ちょっと待って。え、何、暁斗ってこんなに勘鋭かったっけ? いやまだ何のことかに関して言われてないからわからない。うん、落ち着け、あたし。

「いやさ、昨日お前が絡まれてる時にちょっと思ったんだけど、いつものお前にしては弱気というか、正直俺の知ってるひかりはあれくらいは普通に弾き返しちゃうからさ。いやまぁ働く中で色々制約あるかもわからないけど」

 こうも喋る暁斗は、淡々と喋っていても、だけど久々に会ったブランクを感じさせない位にはあたしのことを観察していた。けど、それでも暁斗はだいぶ鈍感なはずで――。

「なんだろうな、強いて言うなら何かに縋りたいように見えるというか? 覇気を感じないというと言いすぎだけど――うーん、うまく言葉に出来ない」

 うん、前言撤回、やっぱりどうしてか勘が鋭くなってる。あたしとしては特別何かが変わっただとかそういうつもりはないのに、突然暁斗に何か深淵を覗かれているようで居心地が悪い。

 それとも、久々だからこそ却って何か変わってたら色々と目立つのか。それこそ今の暁斗だって、あの時よりあと少しだけ身長が高くなってて、顔はきゅっと締まり、声が更に一段低くなってて――成程そういうことか。

「それでさ。やっぱり俺はお前の幼馴染だしさ。何か悩みがあるなら相談には乗りたいと、そう思うわけだ。みんなそうだけど、特にひかりは、なんというか、うじうじしてるのは絶対性に合わないだろうに、今のお前はそんな雰囲気を感じるからさ」

 相談。久しく聞いてなかった単語のように思う。いや勿論職場に於ける『報連相』にまつわることはあるにしても、あたし個人の話としては長らくしてこなかったことだ。沙夜にすら出来なかったことをするには、今しかないのかもしれない。

「――専門用語が飛び出して突然悪いんだけどさ、閉塞区間って知ってる?」

 うん、あたし自身の今の心情を何とか説明するにはこれしかない。とはいえ、徐に切り出すには、些か小難しかったか。

「塞ぎ込むこと……って訳でもなさそうだな、うん、わからん」

 まぁそうだよね。やっぱり先日あの少年に説明かまさなくてよかった。

「鉄道の信号ってさ、設置されている地点と地点の間のことを閉塞区間と言って、第一、第二とある一つの閉塞区間に一本の列車しか入れちゃいけないのよ。ある程度先の閉塞区間まで空いているようだったら進行表示を出して普通に進めるわけ。『第二閉塞、進行』とでもね。勿論、前に列車が詰まってたら動けない訳で、前の列車との接近具合に従って注意信号だとか停止信号だとか、そういうのが出る訳」

 話してて思った。あたし、人に説明できるほどあたし自身が理解してない。理解してないこともだけど、それを常人が把握できるよう説明出来てなくて内心頭を抱える。専門職なのに流石にこれはまずい。

「なんというのかな、今のあたしは、前に列車が詰まってるせいで、駅間で立ち往生してるような、そんな感じなんだよねぇ。後ろ、もとい過去には進めるわけないし、だけど前も漫然と何かが詰まってる心地を覚えて、あたしはどこか立ち止まっている」

「ひかりの今の心情は『第一閉塞、停止』とでもいうのか?」

「うーん……まぁそんな感じ、かもしれない」

「お前にしては珍しく歯切れ悪いな」

「自覚はある」

 これでもお手洗いのような下品な話題にもせず、どうにか説明出来た方だとは思うのだ。

「つまり、そのお前の言う詰まりの原因を取り除くことが出来るなら、快適に列車を動かせるわけだろ?」

「原因ねぇ……」

 それがわかれば苦労しない。いや真に難しいのは、分かった上でどう対処するかだ。

 まぁ、もしかしたら――いやもしかしなくても原因が思い当たるわけで。しかも当事者が今は目の前にいる。ここからどう話を転がすかが難しい。

 だけど、このことを暁斗に言うの? 言えば話は早い、だけどそれは一つの関係性の変化、ともすれば終焉を意味する。あたしはそもそもそうなることを望んでいるのかもしれない。

 もういいや、言っちゃえ。長年あたしが隠していたこと。

「――あたしさ、以前宙見暁斗っていう男の子が好きだったんだよね」

「ああ、そう――は?」

 今度は暁斗が驚く番だった。――やっぱり気付いてなかったか、この鈍感男め。まぁ吉岡さん自身も無自覚な恋心にも気付いてなかったし、ころなのあのアピールにも動じなかったから、鈍感なのか沙夜に一途なのか。いや前者だろうな。

「まぁそんなあたしのすぐ隣にはさ、それよりずっと前から片想いしてた女の子がいて、それに暁斗も気付いてからは、あれよあれよという間に二人はくっついてさ。二人共ちゃんと相互に好き合ってる。女の子の方が家出騒動を起こしたこともあったけど、それも含めてまぁ波を乗り越えた。そんな感じだったし、そこに他人の私情を入れられても絶対邪魔じゃん? 二人にも迷惑がかかるし下手するとこれまでの関係すら壊しかねないじゃん? したら、そのまましまっておくしかないよね」

「――えっとさ、俺がとやかく言える立場じゃないとは思うんだけどさ、それに対してひかりは後悔してないんだよな?」

「後悔はしてないよ。してる訳ないじゃん。してたら、さっきも言った通り、沙夜とくっつけたことが全て無駄になるどころか、全てを壊しかねない」

 うん。関係が壊れることの方が怖いのは間違いない。星空観察ノートが引き裂かれるような事態はあの時だけで十分だ。

「まぁそんなこんなで、箒星ひかりは宙見暁斗のことが好きだったんだよなーって、ふと思い出しただけ」

 ――うん、ここまで嘘は言ってない。というより、よくもここまですらすらと言葉が出てきたものだと思う。

「まぁね、別に今からでも暁斗が沙夜から乗り換えるとか言うなら、あたしとしては考えないこともないけどー」

 ――あれ、あたし何言ってんだ。なんでこんな言葉が口からこぼれたんだ。それこそ関係を壊すようなもんじゃないか。

「――えっと」

「いやそこは流してよ。明らかにその手のネタである冗談だってわかるのに、一人芝居してるようであたしが馬鹿みたいじゃん」

 何とか取り繕いながらも、内心どきどきしていた。ああ思って、なのにすぐに矛盾するようなことを言って、なんなんだ、あたしの本心はどこにあるんだ。

 ふと横を見れば、欄干にもたれかかっていた暁斗がすっくと立って、あたしのことを見ていた。

「――えっとさ。多分それ告白なのかもしれなかったから、俺としては答えなくちゃいけないと思うんだけどさ」

 つられて、あたしも改まって暁斗へと向き合うような姿勢になる。少し前より、凛々しさが増した暁斗の顔は、しかし冗談を許す気配は毛頭なかった。

「俺は天ノ川沙夜という彼女がいて、そして彼女のことを愛しています。だから、ごめんなさい、ひかりの気持ちには応えられません」

 ――やっぱ真面目だわ、この男。冗談めかしてあたしが言ったことも、本気で答えてる。だけどそれでいい、あたしもそれを望んで――いたんだ、そうだったんだ。

「うん、宜しい。そこでやっぱりとか言い始めたらほんとにぶん殴ってた」

「だろうな。お前ならそうするだろ」

 うん、それは嘘じゃない。流石に今から乗り換えとか言ったら沙夜の目の前で殴る。殴って――したらあたしはどうしたの?

 思考が堂々巡りに入ろうとしている。だけど、暁斗の一言で、それも強制遮断された。

「――っと、悪い、そろそろ約束があるんだ、お暇させてもらっていいか」

「りょーかい。ちなみにその約束って?」

「タケちゃんと深夜まで飲み会。午前たまたま会ったら無理やり予定を入れられた」

「おー、タケの酒癖は悪いぞぉ、気を付けろよぉー」

「居酒屋だから外だけど潰される前に潰すか、けど二人だから押し付けも出来ないしなぁ。いざとなったらころなちゃん呼ぶか」

「いやーころなもあれで忙しいからわからんよぉ。そもそも兄貴の介抱にあいつが来てくれるかねぇ」

「一理あるな……まぁ沙夜とお母さんに迷惑がかかるからとは予め伝えておくか。邪魔するなら陣野さんとの時にやり返すとでも付け加えて」

「あ、今回は沙夜の家に泊まるんだ」

「さをとめでもよかったんだけど、なんかお母さんが一回は俺と食事したいらしくてさ。もう一回ぐらいはちゃんと泊まっていきなさいよ、ということでそうなった」

「まぁ女家族だから男性不信が少しあるのは仕方ないけど、あの人も暁斗だけは認めてくれてるからねぇ、並々ならぬものがあるんでしょうなぁ」

 ここまで喋ったところで、瞬間的に沈黙が走った。別に気まずいわけじゃないんだけど、それでも何か暁斗を引き留めたいと少しだけ思ってしまった自分がいた。勿論タケとの約束があるのもわかるから、しないし出来ないのだけど。

「――悪いな、詰まりの原因、特定出来なかったな」

「いやこれでもだいぶ助かったよ、ありがと」

 これは嘘になっちゃうのかな。いや原因は多分目の前の暁斗。解決の糸口が少し難しかっただけで。

「さてと、今日はここいらで。またなー」

「沙夜と幸せになるんだぞー」

「お前に言われるまでもねー!」

 最後の暁斗が叫んだ言葉がこだまし、やがて溶け行った。

 再びダム湖に静寂が訪れる。人里離れた人工物からは発する光もなくて、ただただ上弦の月が水面に映し出され、新月の星々よりかは高い照度で周りを明るくしていた。

 このダム湖も、無風の新月の夜に来れば、それなりに星が水鏡で見えることに気付いたのは最近だ。だけど、今日は上弦の月だから、よくて二等星までしか星が見えない。水面にまで映し出されるのは、それより更に減る。だから、上弦の月から離れれば離れる程、水面は自然な青から黒にかけての階調を描き出す。

 その水鏡の上限の月の中心より下、湖面に水紋が出来る。一つ、二つと形作られて、ぶつかった波紋が、さらに水面を掻き立て、小さなさざ波を作った。

「――あれ?」

 おかしい。雲はないのに、ダム湖の水面は静かなのに、そして無風だからさざ波立つこともないのに、なんで水紋なんて出来るんだろう。

 ――ああ、そっか。そういうことだったんだ。それで全て説明がつく、あたしが詰まっていたと思っていたものも、今この目元が途轍もなく熱いのも。

 ねぇ、暁斗。やっぱりあたしは大きい嘘を付いてたよ。というより、それが嘘だったってことに、今更自分でも気付いた。

 うん、後悔。後悔しかしてない。これまでの人生、別に大きく何かを間違えたことはないと思ってて、このことだって間違えたとは思わない。だけど、あたしは間違えなかったからこそ、今になってすごく後悔している。就職を選んだことだって、沙夜と暁斗から逃げたかったんだって、今だからわかる。

 沙夜と暁斗が付き合い始めた時も。沙夜が家出騒動起こした時も。冗談で『好きです』とバレンタインのチョコに書いて暁斗に渡した時も。あたしの助力を得て暁斗が沙夜をお姫様にしてあげた時も。どこかあたしとは関係ない誰かのことなんだろうって勝手に思ってて。本当は、あたし自身がその中心にいたというのに。

 なんで、さっき別れ際にあたしはああ言ったのだろう。そう、あの言葉を本心から言えたのは、実は初めてだったんだ。それにすら今まで気付けなかったんだ、あたしは。

 ――あぁ。あたしは今初めてやっと暁斗から振られたんだ。それに気付いた途端に、無痛の心の傷口が今になって疼き始めた。

「うっ、くっ……」

 どこかで求めていた未来とは違う場所に今あたしはいて。それは間違いじゃなかったって信じたいけど。その代償は、あたしにとってはあまりにも大きいもので。

 あたしも、暁斗にとっての唯一無二の誰かでありたかった。あたしも、暁斗に愛してると言われたかった。あたしが、今沙夜がいる場所にいたかった。

「――うわあああああああああああ!」

 あたしの中に詰まっていたと思い込んでいたわかだまりが抜けていく。詰まっていたのは他でもなかった。あたしにとっての、本気になれた初めての恋だったんだ。

「あああああああああああああああ!」

 湖面に声が跳ねて、そして水紋を作らず拡散して、地に水面に溶けていって。岩清水が、あたしから放たれた感情を受け止めて、そして消え行っていく。

 あぁ、ようやくあたしのこの感情に「初恋」という名前が付けられて、そしてそれが終わったんだ。

 ごめんね、あたしの初恋。あたしから見えない所へと押し込めて、そしてその内に見失ってしまって。

 でももう大丈夫だよ。この感情を受け入れるから。嫌味とか妬みとか、そういうのも一切なく、二人を応援してあげられる。

 だからさ、どうせ二人はその内式でもあげるんだろうからさ、その時は全力でライスシャワーを投げつけてあげるわよ。嫉妬も受け入れた感情も、全て米粒に乗せて。

 幸運は祈るけど、節分の豆まきのように、あたしの中の感情をその時に全て捨てるから。だから、その捨てた感情を、受け取ってよね、ちゃんと。数年後に、二人が最高に輝く場所で。

 

 太陽が昇り、照らされた海は太陽より眩しい。そんな海側から一歩山へと入れば、木陰が涼しく、時に肌寒いくらいになる。

 山の中腹にある三香月は、山の中腹にある割には、それなりに開けた土地だ。だから、一応この町はそれなりに人がいる。だけど、流石に午前もある程度回って昼近くなった列車に、乗客はほぼいない。

 だから、車内を移動して上り列車の運転席に向かうと、乗客がどのようにしているかというのも丸わかりなのだ。

「――ぁ」

 そして、他に誰もいない中、車内に暁斗を見つけた。

「よっ」

「うおっ、びっくりした」

「今車内あんたしかいないからすごい目立つ」

「今は疲れてないのか?」

「いやー、寧ろ今日の九時から夜九時までの番だから、寧ろ乗務し始めの方なのよねー。これで疲れてるなんて言ったら他の人に怒られちゃうかな」

 鉄道員という職業柄、疲れなんて見せられないけど、他に乗客がおらず、且つ相手が暁斗だから話せること。うん、やっぱりあたしにとって絶対的に信頼の置ける大切な仲間だ。

「詰まりの原因、取り除けたよ」

「お、あれでどうにか出来たか。流石ひかりだな、自立心というか、そういうのを自分でどうにか出来るのはひかりの強みだよ。俺には無理だ」

 ううん、暁斗が考えてるほどあたしはそんなに強くないよ。暁斗と沙夜が、ああやっていつも傍にいてくれるってわかってるからこそ、あたし一人でも歩き出せるんだ。

「もう行っちゃうんだね」

「いや三日程度だけどさ、これでも長くいたんだぜ。今日の夜から教授が卒論とか就活の中間報告しろっていうんだけど、それがなければあと数日はこっちにいたさ」

「で、可能な限りこっちにいて、その分沙夜としっぽりムフフとしてたと」

「――否定はしない」

 まぁそうだよね。けど、その方が安心できる。ちゃんと沙夜は幸せにしてもらってるし、暁斗も幸せなんだ。

「そうそう、唐突に思い出したんだけどさ、俺と沙夜が卒業する前に、今度野辺山でも行こうぜ。なんでも、そこを走る小海線って路線に星空を楽しむための観光列車『HIGH RAIL 1375』なるのがあるようだし、それで行けば楽しそうだぞ」

「あーあれね。別の支社だけどここにもパンフにも置いてあるから知ってる。でも確かにそれいいね。んじゃぁあたしと暁斗と沙夜の三人か、又は誘える人で行ってみようか。ひとまず沙夜にはあたしから話を通しとく」

 それで一旦会話が途切れた。空調を付ける時期でもないから、静寂があたしと暁斗を包み込んで、いつしかの思い出の廃列車の中のように世界から二人を隔離する。

 けどそれ以上何か世間話を、とは露程も思わなかった。もう自分に正直に、と思えば、沈黙も怖くないし、それに暁斗はもうすぐこの町に帰ってくるはずだ。だったら、腰据えてあたしは待つだけだ。暁斗にとって真に待っててほしい人は、あたしであるべきではないのだけど。

 だから、余計な言葉も、もういらないよね。気付けば、なんだかんだ発車時刻も迫ってるし。

「それじゃ、宜しく頼むぜ」

「おーけぇー、あたしの大船に任せなよー」

 うん、行っておいで。そしてまた帰っておいで。そりゃ沙夜には優先度合は負けるけど、あたしもその後ろで待ってるから。

 ――ホーム、レピーター点灯確認、戸閉灯よし、出発進行。



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