楠芽吹は勇者である 外伝 -不枯の勁草-   作:まつゴロー

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2.覚悟

 人類の反攻の準備のための調査任務という役目を告げられた。そして、その役目を担う者を防人と呼ぶ。

 世界の真実を告げられた少女たちはその日からゴールドタワー内で生活を送りながら防人としての役目を果たすために戦闘訓練を受けることになった。

 ゴールドタワー内では最低限の生活や趣向品があるが、それでも防人たちは日々休むことなく訓練に励んでいる。

「しっかし、こうも毎日訓練ばっかだと気が滅入るよなぁ」

 とある朝、ゴールドタワー内にある食堂で、牟田蓮音はため息とともに不満を漏らしていた。頬杖をつく彼女の顔には退屈さを隠す気がないことが見て取れる。

「仕方ないわ。それだけ重要な御役目ということよ」

 蓮音の対面には北畠秋が涼しい顔で座っている。蓮音の話を聞きながらトレーに茶碗に目一杯に盛られたご飯に納豆をかけていた。

「うへぇ、朝から納豆かよ…ていうか滅茶苦茶食べるな?」

「朝の食事は一日で一番重要なのよ?貴女ももっと食べるべきだと思うのだけど」

 秋のトレーの上には山盛りご飯のほかに焼き鮭や豆腐にほうれん草のお浸しや梅干しなどのお新香、それだけでなくソーセージやマッシュポテトなど皿から溢れるぐらいに食べ物が積まれている。種類も統一されておらず、カオスなことになっていた。

 対する蓮音のトレーにはトーストとジャムにヨーグルトとコーヒーと質素なものだ。

「へへ、アタシはこんなんでいいんだよ。朝はあまり腹に入らないからね」

「あまりそういうのは良くないと思うのだけど……そうだ、私の一品でもいかが?」

「え?ほんと!?ありがとうキタバア!!」

「……その呼び方はやめなさい」

 蓮音は喜びながら秋の皿にあったトマトを摘まみとり、口に入れる。秋としては活動能力的に炭水化物かタンパク質系の食べ物を取ってもらいたかったが。

「でも確かに自由は少ないかもね」

 秋は普段から鍛錬に勤しむ生活をしていたから何ともないが、一般的な女子中学生は違う。学業に励んだり、部活に精を出したり、はたまた恋に恋することが彼女たちの生活なのだ。御役目の為に日々戦闘技術を鍛えるようなことはほとんどがしないであろう。

「そうだろ!アタシはもっと遊びたいっての!」

 秋の賛同を得たと感じた蓮音は諸手を思い切り上げて不満をぶつける。素直すぎる彼女は頭で考える前に行動に出てしまうのだ。

 その様子に小さく秋は微笑む。

「まあ貴女はたとえ御役目がなくても遊べる機会は少ないでしょう?」

 秋の発言に蓮音はぐぅっと言葉に詰まる。普段の学校生活から蓮音はボランティア活動に生徒会運営、更には彼女を個人的に頼る生徒の応答に仕舞いには、頭で考えずに行動したことによる不祥事のせいで学校へ提出するための反省文製作など自由時間がないような生活を送っているのだった。

「全く、キタバ……いや、秋は意地悪だな」

「そう?」

「ああ。さすが、鬼の生徒会長だな」

「不名誉なあだ名だわ。私はただ誠実な人の味方なだけよ」

「あはは。まあ、アタシみたいにズボラな方がいいんだよ」

 二人は他愛のない会話をしながら朝食を済ませていく。なんてことはない、ごく普通の会話だが秋はそれでも心に刻みつけていた。

 秋は感じていた。自分たちが為す御役目は決して簡単なものではない。下手をすれば、誰かが死んでもおかしくない。それは他の少女かも知れないし、万が一、それが自分自身であってもあり得なくはない。ましてや、今も秋の目の前で屈託ない笑顔を見せている彼女が失われる可能性も、十分にあるのだ。

(覚悟は、決めておかないといけない)

 蓮音の冗談に冷めた返事をかえす。無意識に微笑みを浮かべながら、茶碗を握る左手に力が入った。

 その様子を自身の冗談や秋の辛辣な返事に大笑いながら、ほんの一瞬だけ、だがしっかりと、蓮音は見ていた。

 

 

 秋の朝は瞑想から始まる。

 日が昇る前に自然と目覚め、そのままベッドの上で瞑想を始める。時間は決めていないが体調や精神状態で多少変わるが一定の時間は決まっていた。心を無にする。秋はこのことが得意であり、好きである。何も考えず無と同化することに安らぎを感じていた。

 その後はゴールドタワーの屋上に出て木刀を振るう。自身の剣術をより高めるためにひたすら振るう。その後はイメージトレーニングを交えながら木刀を振る。自身が想像する敵を百人斬るまでは決してやめない。ただ、自身の人生の短いながらそのほとんどをかけて憶えた刀捌きをもって敵を撫で切りにする。素早く、正確に、最小限の動きで、敵を殺す。ただ純粋に、自信を囲む無数の敵を殺す。それを約二時間しっかりかけて3セットを行う。

 それが終わり、自室のシャワーで冷水を浴びる。激しく動かした体をゆっくりと冷やして冷静な自分を心身共に作り上げてから、彼女の1日が始まるのだ。

 そんな彼女の朝にとある日課が加わった。

 朝、瞑想を行う前に外を確かめることである。外には日が昇る前なのにゴールドタワーを駆け出ていく少女の姿が毎日見られる。その少女はお下げ髪型をしている、秋が防人の少女の中で最も気になった少女であった。

(毎日こんなに朝早くから頑張るわね)

 秋がその様子を見つめるのは純粋な興味である。というのも、秋は剣術に関しては絶え間ない努力を幼い頃から重ねてきたが、自身の肉体を鍛えるという所謂、筋力トレーニングを行ったことがなかった。大概のことは何でもできた身体能力を持つ彼女には、技ではなく肉体自体を鍛えることに必要性を感じたことがない。ゆえに日々早朝からランニングを行う彼女が気になった。

「貴女は何の為にそこまで頑張るの?」

 己が発した言葉に気づかぬまま秋は少女の背中が見えなくなるまで眺め続けいた。

 

 

「部隊長を決めたいと思います」

 午後の授業が終わり、これから訓練が始まるであろうというとき、訓練場に先に待機していたのだろう、神官が少女たちが全員集合したことを確認した後にそう告げた。

 この頃になると防人たちの訓練課程は一通り終わり、それぞれの実力が分かってきた頃である。本人の資質や訓練への熱意など様々な要因はあれど、概ね少女たちは防人としての任務に就くまでの実力は習得したことになる。

 だが今回は部隊長の選定である。自らに自信のある者が32名の防人を率いる隊長となる。つまり、今回の人類反攻の大将となるのだ。それは秋にとって願ってもいない話である。

(この御役目の大将は私しかいない)

 高貴な家に生まれ、多くの物事を学んだ自分にこそ、自分が周りを率いる。

 彼女は自信に満ち溢れていた。

「立候補者は手を上げてください」

 神官の言葉に秋は素早く手を上げる。秋以外にも手を上げる子が数人いた。中には毎朝ランニングを行っているあの子もいた。だがそれ以外にも秋は見知った顔がいるのに気づいた。金髪のロングヘア―をした、気の強そうな顔立ち。

(あれは、確か……)

「では、実技で成績を決めましょう」

 秋の思考は神官の発言に遮られた。防人の実技とは今までの訓練の集大成である。訓練は道場の開場時間限界まで居残りしてしっかりと修練に励んだのだ。

 私が防人の部隊長になる。

 秋の思考はもう防人の運用方法を考えているほど、先のことを考えていた。

 

 

「北畠さん、お久しぶりですわね!」

 訓練道場から離れたところにある水道場で秋が顔を洗っていると話しかけてくる者がいた。その方向に振り返ると先程の部隊長選抜実技試験に参加していた少女が現れた。幸いにも秋はその少女を知っている。かれこれ彼女とは家の関係で接する機会が多いからだ。

「……ええ、お久しぶりね、弥勒さん」

 その少女、弥勒夕海子は優しく秋に微笑むとその隣の蛇口の栓を開けた。

 北畠秋と弥勒夕海子は顔見知りである。それぞれの家同士の交流が深いため、自然と秋と夕海子は付き合う機会が多かった。最近では直接会うことが滅多になくなったが、それでも年賀状を出し合うぐらいには交流が続いている。当人の関係も仲の良い友達である。ゆえに防人として選ばれたことに驚いたが、お互い熱心に訓練に打ち込んでいたので話す機会がなかった。

 夕海子は蛇口から流れる水に手を浸しながら小さく呟いた。

「完敗、でしたね」

 蛇口を閉めようとした秋の右手が固まる。ほんの一瞬そうしていた後、蛇口から外した手をお椀上にして水を貯める。

「ええ、全くもってね」

 手に溜まった水に顔に浸す。その冷たさは秋の熱を冷ますにはほど足りなかった。

「あそこまで圧倒されると、わたくしとしても凹んでしまいますわ」

 秋の様子を目にしていた弥勒も水を掬い、同じように顔に押し当てていた。

 実技の試験は銃剣での模擬戦、狙撃能力の測定、基礎体力測定、そして部隊指揮能力の審査など、多岐にわたって行われた。

 秋はそれぞれの試験で大いに結果を残した。その成績は、普通の女子中学生の範囲どころか成人女性すら大いに乗り越え、他の防人に大いに差を着けた。

 ……ただ一人を除いて。

 その少女の名前は、楠芽吹。毎朝欠かさずランニングを行っていた子であり、ゴールドタワーに初めて来た時から気になっていた少女であった。

 まず彼女の実力を知ったのは銃剣の模擬戦だった。秋の本来の戦い方は刀による剣術であるが、防人が使用するのは銃剣であり、となると戦い方は射撃と槍術である。だが秋は幼い頃から様々な武道を学んできた身であり、槍術も主戦法ではないがしっかりと学んだ。ましてや防人の戦闘訓練で狙撃訓練を含め改めて習得したものだ。今更誰かに負けるはずないと高を括っていた。

 そして、負けた。

 勝負の先手は芽吹からであった。開始の合図とともに一足で距離を詰め、そのまま流れるように鳩尾を刺す鋭い下段からの突きを繰り出す。秋はその一連の動作を美しいと感じた。だが、体は普段の鍛錬からか、無意識にその突きを銃剣の切っ先で撫でるように左に払い、一歩踏み込んで肘をぶつけるように銃床で殴り掛かる。それを芽吹は半歩斜め後ろに避け、その勢いで下から銃剣を切り上げた。秋は銃芯で銃剣をを逸らしてから横に薙ぎ払う。

 しばらく秋と芽吹は一進一退の銃剣戦を進めていた。見学していた少女たちは息をのみ、どちらが勝つかわからずにいた。だが秋は、実際戦っていたからこそ理解してしまった。

(ああ、これは勝てないな)

 ぶつかり合う剣撃の中で、秋は静かに悟る。このままでは打ち負ける、と。

 今までのぶつかり合いの中、槍術の技量はなんと互角、リーチは体格差で自身が勝っている。そして、力で大きく劣っていることが分かった。現に、今までは相手の攻撃を逸らしてきたが、彼女の重い攻撃は秋の腕力を削っていき、今は逸らすのにも全力で対抗しなければならない。対する秋の攻撃は、流れるような素早く変幻自在な攻撃だが、芽吹の堅実な守りを打ち崩すほどの力がない。

 ここまでくれば、秋は自分の負けを認めるしかなかった。

 最後は芽吹の突きの受け流しに失敗し、銃剣を僅かながら、だが確実に体から逸らされてしまう。そしてその隙を逃さず、秋の鳩尾に銃剣が突き立てられていた。

 その突きは、開始同時と全く同じ、美しく鋭い下段からの突きであった。

 おおよそ10分間続いた模擬戦は秋の一瞬の隙を突いた芽吹の辛勝とされ、周囲の少女たちを賑わせた。だが、秋自身は強く認識した。これは完敗である。

 秋は視線を右手に持っている銃剣に向ける。芽吹の重い一撃を受け続けた銃剣は、模擬用の木製とはいえ、無数の小さな凹みが見て取れた。受け流しを主体にしていたのにそれでもここまで傷がつくなど、通常では考えられない。

 毎朝ランニングをしていた彼女の姿を思い出す。ただひたすら毎日朝早く外に出て、彼女は何をしていたんだろう。きっとランニング以外にも様々な鍛錬を積んでいたのだろう。そうでなければ幼い頃から武道を嗜んでいた自分と互角の技のぶつかり合いなどできなかった筈だ。きっと、誰も知らないぐらい多くの時間を鍛錬に費やしてきたのであろう。

(これが努力、か……)

 ふと、秋は視線を銃剣から芽吹に移す。彼女は既に模擬戦ステージから離れ、狙撃能力測定場に向かっていた。

 その間、芽吹は一切振り返らなかった。

 それからも芽吹は全部門で圧倒的な成績を残した。彼女が部隊長になることは確定であろうことは誰しもが実感し、納得していた。それは秋も同様である。あそこまで実力差を示されたら対抗意識も削がれてしまうだろう。

「ですがわたくしは部隊長になることを諦めていませんわ!」

 ただ一人、隣にいる弥勒夕海子を除けば。

「確かに今回の選抜試験では負けてしまいましたわ。でもそれはあくまで『試験』。実戦ではどうなるか分かりませんこと」

 弥勒は水場の蛇口を閉め、持っていたタオルで顔を拭き、そのまま秋に向き直る。その顔は自信に満ち溢れた、太陽のような笑顔だった。

「勿論、北畠さんもそうなのでしょう?負けませんわよ!」

 笑顔のまま行われる清々しいまでの宣戦布告。その可笑しさに思わず秋はため息を吐く。その表情に憂いはない。優雅に、優しい笑みが自然と浮かび上がる。

「そうね、確かに負けを認めるのはまだ早かったわ。当然、私も負けないわ」

「まあ、わたくしが部隊長になるのは確定事項ですけど」

「弥勒さん、貴女は自身の実力を自覚しているのかしら?」

「当然ですわ、わたくしこそ部隊長にふさわしいことも!」

「……まあ、前向きなのも将として必要ですものね」

「北畠さん、そう思うのであればきちんとわたくしの目を見て言ってくださらないかしら?」

「弥勒さん、本気で部隊長になりたいのであれば、他の技術もそうですが、もっと指揮能力を高めるべきですよ」

「ぐぅ……!そ、それを言うならば北畠さん、あなたこそ体力を上げるべきですわ!あの様子では御役目を果たすに事足りないのではなくて!?」

「……私は力で押しつぶすのではなく、技で素早く戦うスタイルなので別にいいですよ。それに貴女と楠さんが常識離れしているだけであって、体力は私も高い方です」

「なっ!?隊長になろうという者がそのような妥協をしてどうするのですか!!もっと高みを目指すべきですわ!!」

「私はいつでも目指していますよ?ただ、目的地が違うだけです」

「……そう言って本当は体力面でわたくしに負けて悔しがっているだけなのでは?」

「……違いますから」

「ふーん、本当かしらぁ?」

「弥勒さん、私今狙撃の訓練がしたいところなの。丁度、動き回る対象に正確に当てる射撃を練習したくてね、よろしければ付き合ってくださらないかしら?」

「い、いいえ結構、遠慮させていただきますわ」

 しばらくそうして話し合い、段々と会話が尽きてきた頃。秋と夕海子はどちらが言うまでもなく訓練に戻ることにした。秋は狙撃の訓練に、夕海子は銃剣の訓練へ、それぞれの場所に歩んでいく。

「ああそうだ、北畠さん」

 いざ別れようとしたときに、呼ばれた秋は振り返る。

「もしわたくしが部隊長になったのであれば、北畠さんには参謀をやっていただきたいですわ!」

 いきなりの宣言に秋は戸惑う。参謀?一体どういうことなのだろう。

「先程の部隊指揮の審査はお見事でした。あの出来ならばわたくしも安心してあなたに作戦を預けられますわ」

 部隊指揮の試験。それは最後に行われた試験であり、部隊長として最も重要と言われる試験である。その試験でも芽吹は一位であった。だが、それは唯一の圧勝ではなく、二位の秋とは僅差での一位であった。そのことを夕海子はしっかりと見ていたのだ。

 乾いた笑い声が出てくる。圧倒的敗北から、自分ですら見ないようにしてしまったことを、彼女はしっかり見ていた。

「ええ、『もしも』そうなったらお願いしますね」

 呆れたような表情を浮かべながら手を振ると、夕海子は、必ずですわよ。と大きな返事をしながら銃剣格闘のパートナーを探し、早速訓練を始めた。その相手は、夕海子よりも強い相手である。

(全く、いつまでたっても油断ならないわね、貴女は)

 付き合いがそれなりに長いから分かる。秋は夕海子を陰ながら評価している。弥勒夕海子は、楠芽吹と同じように相当な努力家であり、北畠秋と同じように大きな誇りを抱いていて、そして彼女自身すら自覚していない、カリスマ性を持つ、とても魅力的な人間だ。

「貴女が部隊長というのも、それはそれで面白そうね」

 秋はふと狙撃訓練場に向かう足を止める。そして進行を変えて歩き出した。

 向かう先は、トレーニングルーム。バーベルなどの機材が置かれた、筋力を上げることを目的とした部屋だ。

「……まあ、たまには体を鍛えるのもいいかもしれないわね」

 

 

 部隊長選抜試験が終わり、楠芽吹が防人の隊長になってからも訓練の日々は変わらない。むしろ隊長という明確な司令塔ができたことにより防人たちの連携訓練は精度を一段と上げていった。その中でもやはり芽吹の指揮は素晴らしく、選抜試験を受けたものは改めて部隊長に芽吹が選ばれたことに納得した。

 だが例外として二人、弥勒夕海子と北畠秋は諦めてはいなかった。夕海子はことあることに芽吹に話しかけに行き、部隊長は自分であると宣言していた。そして秋は趣味の将棋に加え、チェスや囲碁などの遊戯や、旧世紀に存在していたと呼ばれる有名な兵法書などを読み、戦術戦略の知識や部隊の運用法などの知識を高めていた。部隊長になることは諦めていないが、それでも自分なりの防人の御役目の為になる技術を生かそうと考えての行動である。

 各々が御役目に向かい邁進する嵐の前のような静穏な日常が続く。一日、また一日と過ぎていく。

 過ぎ去る日々を思い出しながら、秋は屋上で月を見上げる。白く輝く月はどこまでも美しく、夜とは思えないぐらいに街を静かに照らしていた。

「やっほー」

 後ろから声をかけられ秋は振り返る。そこには古くからの幼馴染の新田佳夏がいた。寝間着なのか薄い長そでの古びたTシャツにくたびれたジャージの長ズボン姿である。彼女は屋上の入り口からゆっくりと秋の隣まで歩み寄る。

「佳夏、どうしたのこんな時間にこんな場所に来て?」

 時刻は既に23時を越え、大概の少女は床に入っている時間だ。ましてや秋たちがいる場所は屋上で、本来は立ち入り禁止の区域である。

 秋の質問に対し、佳夏は朗らかに微笑みながら答える。

「なんとなく夜空が見たくなったからかな」

「それだったら展望台から見れば良いじゃない。ここはそんな恰好で来るには些か寒いと思うのだけれど」

「ええ?秋ねえがそれをいう?」

 佳夏の不満そうな声に、秋は自分の格好を確認する。寝間着として利用している浴衣に長めの羽織を肩に羽織った状態である。

「私は問題ないわ、慣れてるから」

「ならウチも問題ないよ」

「まあ貴女が大丈夫というならいいわ」

 小さくため息を吐き、再び月を見上げる。秋の夜の闇ですら劣る漆黒のきめ細やかな長い黒髪が月に照らされ、季節の夜風と共に静か、そして優しく靡く。何物も引き付けて飲み込んでしまうような黒い瞳は闇の世界を照らす青白い月に向けられている。そこに何を感じているかは読み取れない。夜空に対して見惚れているようにも見えるし、憂を感じているようでもある。一つだけ言えるのは、彼女からは言いようのない神秘さが溢れていた。

 その神秘さに佳夏はジッと彼女を見つめる。正確には目が離せないであるが、それでも彼女に魅了されたかのように無言で秋を見ていた。

「綺麗……」

 不意に、ポツリと言葉が出てきた。佳夏は自分がなぜそんなことを言ったのか分からないし、何より自分が言葉を発したことにすら気づいていない。それぐらい無意識の一言だった。

 秋はゆっくりと佳夏に向き直る。月をも吸い込むかと思われた深い黒の瞳が佳夏の注がれる。だが、先ほどの神秘的な雰囲気はほぼ感じなくなっていた。それでも少女一人を飲み込むのはたやすく……

「どうしたの」

 そして秋の声で佳夏は意識を取り戻す。先程まで自分が何を言っていたかも忘れ、ただ照れくささを誤魔化すように笑った。

「いやぁ、本当は秋ねえに会いに来たんだ」

「私に?でもそれならどうして屋上に?ここにいる私が言うのもなんなのだけれど、本来は立ち入り禁止区域よ」

「んん、なんでだろう?でも秋ねえならここにいる気がしたんだよね。直感てやつかな」

「なにそれ」

 口元に手を当て小さく微笑む秋に佳夏はいても経っても居られず夜空を見上げる。そこには美しく輝く月と、空一面に万遍なく輝く無数の小さな星々が煌めいていた。

「わぁ……綺麗!!」

 月を眺めていた秋に魅入られていた時とは違う、何かに心を突き動かされたような声が出る。こんなに夜空に感動したのはいつ以来だろう。そんな他愛のないことが頭に浮かんだ。

 そんな純粋な反応をした佳夏に小さく微笑みながら、秋は呟く。

「綺麗でしょう。けれどね、それが私たちが戦う相手なの」

 ハッと佳夏が息をのむ。その様子に、無粋だったわね、と小さく謝罪する。母から美しさの何たるかを学んだ自分らしくない一言である。純然な美に棘を刺す。今の自分がそこまで平静でいられていないことを示しているようで悔しかった。

「いよいよ明日なんだね」

 改めて二人揃って月を眺める。常世の闇から人々を優しく照らす月と小さいながら眩い光を灯す無数の星々。この美しい天の景色が地平線に沈んだ頃に、人類の天の神々に対する反攻が始まるのだ。

「お互い指揮官として頑張りましょう」

「あはは、ウチは全然自信ないんだけどなぁ」

 北畠秋の防人番号は『2』。全防人の中で二番目の実力を持つことを意味する番号であり、防人の副隊長でもある。副隊長の役目が実戦でどこまで意味があるかは分からないが、それでも部隊長たる『1』の楠芽吹と同じように防人の命を預かる者である。

 対する新田佳夏の防人番号は『6』。秋と同じように指揮官型防人として防人に指示をする立場である。指揮官番号を授かるほどに実力は高く、秋も訓練時に佳夏の実力を見てその力を信頼に値すると確信していた。ただ、彼女は自身が指揮官に選ばれたとき神官に辞退を申し出たと噂に聞いたことがあった。結局は神官と佳夏の担当する指揮下の防人の二重説得により受け入れたと聞いたが。

 いずれにせよ、二人を含めた32名の防人たちが明日には御役目を果たすことになる。

 人類の反攻という、これからの局面を変えるための、大事な大事な御役目を。

 そう考えたとき、秋は自然と言葉が出てきた。

「私ね、今回の御役目で、自分の為すべきことを見つけたの」

 きわめて小さく、自分に言い聞かせるように呟く。佳夏は何も言わない。ただ、次の言葉を待っている。

「佳夏、貴女に出会って以来ずっと私は自分の為すべきことを考えていたわ。そしてようやく分かったの」

 胸に手を当てる。どくん、どくん、と鼓動を感じる。この鼓動は生の象徴。そして、自身の中に存在する抑えきれない躍動の証。

「私は、人類を救済するわ」

 決して大きな声ではない。だが、はっきりと声に出した。自身の気持ちを、自分の覚悟を、はっきりと。

「人類の、救済……?」

 佳夏の懐疑な声が屋上に響く。その顔には秋の真意をくみ取れない困惑の表情が色濃く残っている。

 秋はその様子に苦笑いをしながら、優しく諭すように語りかける。

「あの映像、佳夏も見たわよね。幼い子たちが傷つきながら天の遣いから世界を守る姿を」

 その言葉に佳夏は小さく頷く。そのことを確認してからまたゆっくりと語りだす。

「あの子たちが必死になって守ろうとした世界も、神樹様の力の枯渇により、いずれ外の炎に飲み込まれることになる。この300年、ずっと守ってきたものも、これから続く明るい未来も、何もかもも」

 二人しかいない屋上の雰囲気が沈みつつある。だが、それでも佳夏はしっかり秋の話を聞き届けている。秋の話から、厳しい現実から、目を逸らさずに静かに聞いている。

 だから秋は努めて明るい声を出す。

「けれどそんなの、嫌じゃない」

 この言葉は紛れもない本心。これまで守られてきたものを諦めてしまうなんて、北畠秋にはできない。神世紀元年から今に至る300年間栄光を守り続けた『北畠』の人間として。何より、幼い子たちが命と誇りを賭し、犠牲になってまで守ってきた、彼女たちの愛する全てのものに対し、『秋』という一人の人間の、敬意と報いとして。

「『守る』はもう終わったのよ。今度からは『救う』のよ」

「それって、どういうこと?」

「人類は今まで奪われるばかりだった。領土、生命、尊厳、ありとあらゆるものが奪われてきた。だから守るしかなかった。奪われないように、傷つき、斃れながら、ただただ愚直に守ってきた。だけどね、もうそんな時代は終わらせなきゃダメなの」

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。空の星々を包み込むように手を広げながら、高らかに宣言する。視線は既に天へ。今もなお煌々と輝く星々を強く睨み付けながら、大いなる宣戦布告を。

「これからは取り返すの!人類が奪われた領土を、人としての尊厳を、あの子たちや名の知らない子たちが守ってきたものも、ありとあらゆるものを! 全て……全て、全て!全て!! その全てを!!取り返す!!」

 夜空に秋の声が響き渡る。優しい独白はいつしか猛々しい咆哮となり、夜空を支配する。それは秋の心の奥底に眠る何かであり、人類の心に潜む反抗心を表しているかの如く、激しく。

「奪われてきたものを取り戻す。それが『救い』。それが私の目標よ」

 そして、小さく優しく、秋の独白は終わる。辺りにはまた平穏な夜空へと戻った。

 佳夏は何も言えない。ただ、秋の迫真の何かに圧倒され何もできずにいた。ふと自分が汗をかいているのに気づく。この肌寒い秋の夜空で、異質な汗が額と背を流れ落ちる。

 口に溜まっていた生唾を飲んで、口を開ける。だが、言葉が出ない。何か言いたいことがあるのに、それなのに、体が動かない。

 どうして……こんなに伝えたいことがあるのに……

 秋は佳夏を優しく見つめる。その眼には、何かを訴えかけているように感じた。やがて秋は月を眺めた。その顔は先程と同じように、言葉もをも忘れるぐらい神秘的で、美しかった。

「ごめんなさい。こんなこと聞かせて」

 気づけば秋は既に佳夏に向き直っていた。その表情には先程の激情や神秘さはない。いつもの北畠秋だ。

「そろそろ寝ないと明日に響くわ。部屋に戻りましょう。ほら、鍵閉めるからいきましょう」

 そういいながら秋は入り口に向かって歩き出す。歩き方はいつものように静かに優雅。何の変りもない。やはり先程の秋は幻なのかと思えるぐらい。

 佳夏は改めて夜空を見上げる。その美しさにただただ魅了され、それがまた、在りし日の彼女の姿を思い起こさせる。

「秋ねえの為すべきこと」

 それは幼き日の思い出。佳夏と秋の出会いから、共に遊び、笑いあった日々。

 その時の彼女は---

「秋ねえのやりたいことって、本当にそうなのかな……」

 佳夏の呟きは一陣の風に掻き消される。今までにない、花を散らすようなぐらい強く、刺すように冷たい風だった。

 

 

 残暑が既に過ぎ去り、冷たい風が穂を撫でる季節、豊穣の秋。

 いよいよ防人の初任務が始まった。

 

 

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