レポートが終わらない。
この一言に尽きる。
6、7限の選択必修は二週間で実験とデータ解析がセットの授業で、つまるところ二週間に一度レポート提出がある学生にとって地獄のような授業だ。選択とは言っても集合教室が異なるだけで授業名の最後がA~Dの差異しかない。要は学部全員がこの苦行を味わっているのだ。
俺の所属する学科は分野が専門でもない限り全国で割とそういう雰囲気があり、教授たちも毎年どうにか再履修させずに上に繰り上げたいため形式ばっているというかルーチンワークというか。配布される参考文献を元に仮定と推測を立て、実験で回収したデータを標準偏差値だのグラフだのなんだのして結果にあーだこーだ言うだけでいい。
いい、はずのだが。
レポートが終わらない。
それも高校の友人や授業で知り合った友人、サークルの人との飲みで夜が埋まったこの一週間が悪い。これでバイト先も同年代が多いところだったら危なかったと無計画さに溜息をつく。
無趣味だとなんだかんだ飲みばかりになってしまっていけない。沖田は健康に悪いですよ、などと不可解そうに言うので女の子はあまりそういうこともないのかもしれない。……沖田に健康に悪いって言われると骨身に染みるネ。
つまりまあレポートが終わらないとは、進捗というよか時間的問題だ。明日の13時までに学科の研究室に提出、さもなくば減点、1つのレポートが10点満点で一週間提出が遅れるごとにマイナス1点ずつだ。一応総合点で評価に足切りがある。加えて2限に授業を入れているので今日中に終わらせておきたいのだ。まあ既に今日は21時を回っちゃってるけど。
というわけで連日飲み会続きで冷蔵庫に何もないのでファミレスで腹ごなしをしつつ、そこでレポートをでかしてしまおうという魂胆である。家には布団という悪魔的誘惑があるから別名逃避行とも。30分だけのつもりの仮眠が日の出の到来にもなりかねん。
21時を半分ほど超えたところで近所のファミレスに寄ると、平日の夜も更けた頃だと言うのにそれなりに席が埋まっていた。近所の年配グループや親子連れが飯を食ったり、保険の契約の話で中年男性がコーヒーをしばいていたりする。
案内された席でざっくりメニューを見る。全国チェーンのファミレスなので子供のときからあるメニューを見つけたり、季節ものでもないのに全然知らないメニューがあったりとやや新鮮だ。
「すいません」
「はーい」
数十年前に流行ったようなマニアな制服とまではいかないが、それなりに男女ともに支持を集めそうな女性制服の店員を呼び止める。人によってはメイド喫茶手前とか、清純派制服とかなんとか。
「オムライスと食後にコーヒーを」
「かしこまりました」
ハンディがピコピコなり、打ち終わると礼をして去っていく。一人暮らしをしてから自分で作れるようなメニューはなんとなく原価を考えてしまい、結局決まらなくなり、難易度で選んでしまうことがしばしば。オムライスは作れないわけでもないのだが、ソース、卵、チキンライスでそれぞれきれいな鍋をひとつずつ使うので洗い物が狭いシンクに重なるのが難易度を上げている。であらば炒飯をちゃちゃっと作る方が性に合ってちる。
お冷をちびちびやりながら周りの客をなんとなしに眺める。ディナータイムの終わり時間だからかどの客も料理を殆ど片付けていて、新しい客が来なければじきに一人取り残されそうな雰囲気だ。保険の契約を考えている親父は話に一段落ついて、今度はWindows95前のコマンド云々と話したりスマホにそろそろ変えようと思っているが林檎と泥のどっちがいいかだの与太話が長そうでもあるな、とぼんやりスマホを眺めつつ聞き流す。
「おっ」
「あ?」
「よお、フルじゃねえか」
ふと名字由来のあだ名で声をかけられて、スマホから視線を上げる。見上げれば見知った美丈夫が立っていてへらりと笑う。
「よおクー。でけえ荷物だけどお前も課題?」
「おう。ったく、毎週毎週レポートでネタ切れだ」
どっかり向かいの席に座った男はクー・フーリンといい、同じ学科の輩だ。いつも軽装主義のこの男がデカい荷物を抱えているとなれば、今日この日に限ればまあ中身はパソコンだろう。
「あれ、家この近所だったっけ」
「まあ遠くはねえが」
グランドメニューと限定メニューを渡しつつ首を傾げる。男の言う通り遠くはないが21時を越えた時間にこのファミレスに寄る程近くもない位置に家があった筈だ。彼は苦虫を噛み潰したような渋い表情で顔を歪め、電子ベルを押して水を一口含んだ。
嚥下して、話す。
「演習室は授業の関係でいっぱいだし学校にパソコン持ち込んで進めてたんだけどよ、俺も夕方のバイト後は家に帰ってやろうと思ってたんだよ」
「お、おう」
やけにげんなりした表情で語る姿は、言いたくないけど聞いてほしそうで、実に曖昧で呆れた様を体現している。
「バイト後に厄介な女に出会っちまって、撒いてたらこの時間だ。ったく、縁がこじれてんなこりゃ」
「ああ、メイヴちゃん――いや、モリーアンちゃんだっけ?」
「後者だよ。そういやお前メシ頼んだのか?」
「うん? ああ。オムライスとコーヒーを」
「昼時の女子供みてえなメニューだな……っと、ねえちゃん。カットステーキの大盛りにんにく醤油でライスつけてくれ」
女子供だの、こういう価値観や物言いが噂の女子と不和を招いたんだろうと呆れつつ、丁度来たウェイトレスに注文する粗野を良しとする男を眺める。本人の物言いでは、出会うと付き纏われるらしい名前を上げた二人の他に、まだ二人因縁浅からぬ仲の女性が居るらしい。
プレイボーイっつうより甲斐性無しとか女性の扱いが粗雑とかって意見が、同じ学科やサークルの人間の意見だ。
「カラス女はまだ危ねえが、メイヴの方はフルが引き取ってくれよ」
「いや、俺がメイヴちゃんのお眼鏡に叶うとは思えんけど」
「うんにゃ、アイツは意外と頭が花畑だからな」
彼はテーブルに肘をついて訳知り顔で笑う。意味が分からず肩を竦める。
一度クーと一緒に居るところに遭遇したことがあるが、なんだその、メンヘラタイプではなく女王様タイプのビッチだった。男を選ぶと公言するタイプ。目の前の男のように豪放磊落な性格のマッチョが好きらしいので、俺みたいな斜に構えかけた平凡君はぜーんぜん好みじゃないだろう。
「つうかお前の方はどうなんだよ」
「女?」
「女」
聞かれて、顔見知りの女性を思い浮かべる。キレイな子や可愛い子、性格のいい子は次々と思い浮かぶが――
「ないなあ」
「おいおい、しけてんな」
「なんかなあ。ふわふわしてると言うか、俺が付き合いたいって頑張っちゃっていいの? っていうか」
そう言うと、男は顎を上げ呆れた顔で俺を見下ろしてきた。はぁーあ、という長い溜息も一緒に。
「あんだよ」
「なんでもねえよ。ま、なら今は女も勉強も適当にやすみゃいい。そういう時期なんだろうさ」
モラトリウム人間を揶揄することもなく、ただ決定的に自分とは違う生き物だとでも言いたげにクー・フーリンはそう諭した。俺は曖昧に視線を逸らして唇を歪める。
「生きてる内はあちこち走り回ってる俺みたいな奴でも、寝てる時くらいは走んねえもんだ。休息は誰しも必要ってこった。メシ食ってりゃ生きてくことは出来るしな」
「……オメー哲学科だったか?」
これは、慰めようとしてくれているんだろうかと内心首を捻りつつ、ピジョンブラッドのように赤いだけで意思を写さない瞳に落ち着かず首の裏を掻く。時々覗く聡明と言うよりかは老成した表情は、背中がむず痒くて接し辛いことこの上ない。やめてほしいねほんと。
「お、メシ来たぜ」
「おー」
「お待たせいたしました」
両手いっぱいに運ばれて来たオムライスとステーキとライスに椅子におろした腰をじりじり直す。ステーキが鉄板の上でバチバチ音をたて、店員が短く伝える商品に対する諸注意が遠く聞こえる。
ことんと俺の前に置かれたオムライスはデミグラスソースの匂いがふわりと立ち、食欲を増幅させる。
「まあ休めと言ってもやらなきゃならんもんはある。レポート前の腹ごしらえといくか」
「へーへー。いただきまーす」
スプーンでオムライスを掬うと、チーズがとろりと伸び、中の米まで辿りつかず皿に大きく広がった卵生地だけがこんもり乗る。口に含むと半熟のスクランブルエッグが柔らかながらしっかりと厚みがあり、たっぷりかけられたデミグラスソースのコクが口中に広がった。
もう一口とスプーンを潜り込ませ、今度は卵と米を半分ずつの割合で口に運ぶ。最初に舌にデミグラスソースの味が伝わり、柔らかい卵の重みが食感に嬉しい。ケチャップライスは妙に主張する具がなく、べたつかない米と、時々奥歯が噛むチキンが食欲を満たし満足感を味わわせてくれる。
家庭の味という程の身近さも、レストランというほどの高級感もないが、どこかチープで贅沢感がある。それと、こういうチェーン店の料理は一皿だと足りない程ではないが足り得る程の量もないので、苦しなったり眠くなったりしないのがいい。
デミグラスソースを卵ですくって最後の一口を食べ終わると、向かいに座る男はオムライスの2倍弱の量はあるステーキとライスを食べ終わり水を飲んでいるところだった。
「さて、やっちまうか」
「そーね」
皿をテーブルの端に寄せて俺はコーヒーを気長に待つことにして、ナプキンを数枚とって水滴なんかを拭いてからお互いパソコンを立ち上げた。Excelの中に保存したデータを繁々観察して考察を練るも、毎度のことながら座学と異なり教授とTAの二人だけで学生を纏めて実験が円滑に進められる人数とあって被験者が少ないため、有意差が出た出ないも個人差の範疇に留まるかなと鼻白む。
まあ取り敢えず目的と方法を書いちまうか、と授業初期の頃に用意したひな形を引っ張り出して今回のケースに当て嵌めようとしたところで、ふと頭上に影が落ちた。
食器を片付けに来た店員だろうか、と顔を上げると――
「クーちゃん!」
「ゲッ……今日は厄日か」
あれれ、なんでさっき噂したピンク色でふわふわしたその実全然ふわふわしてない女の子がクー・フーリンの横に立ってるんだろうね。
ちゃっかりクーの隣に座ったが、あの、後ろで貴方のツレらしい男性が困惑してるんですけどいいんですか。
「つうかクーちゃんって呼ぶんじゃねえ」
「クーちゃんはクーちゃんよ。ここにクー・フーリンは一人しか居ないんだから」
ね、とにっこり笑った彼女にクーは先程してみせたような苦虫を噛み潰した顔をして、視線を俺に泳がせてげんなりと目元に皺をよせ歪めた。
向かいに座っているのに知らぬ顔で関わらぬと出来るだけタイピング音が鳴らないようにレポートを進めるフリをしていると、彼女は食器を下げに来た店員を呼び止め注文をした。
「オムライスとピンクレモネードをちょうだい」
「か、かしこまりました」
未だ背後に立つ彼女のツレの男にぎょっとしながら、店員は俺の前にコーヒーを置いて足早に去って行った。
「私ね、ときどき無性にここのオムライスが食べたくなるのよね」
片付けられた皿を確認したのか、彼女は明らかに俺を見てそう言った。クーの知り合いだし彼が俺にオムライスを女子供の選択と言ったように、彼の価値観を把握して俺の注文だと見当付けたのだろう。
「お揃いね」
「そ、そうだね」
にっこり、と笑う姿は完璧に自分がかわいいことを分かっている。確かにめちゃくちゃかわいい。めちゃくちゃかわいいのだが……
「あ、アナタもう帰っていいわよ」
背後に居たツレに淡白に告げる姿は冷たさすら覚える。クーは面倒くさそうに耳に小指を突っ込んでいるが、普通に考えて怖いからね今のやり取り。男の方も素直に帰ったし。なに日常に性的嗜好を当然のように溶け込ませて当然のように受け流してんですかネ!?
「課題あるし俺は送ってかねーぞ」
「んもうっ。じゃあ、」
視線が、4つの瞳が此方を見る。ふええん帰りたいよぅおうちで課題やればよかった沖田助けて。まあ健康第一の生活をしてるあの娘は先日のようなことが無ければ多分もう寝ているだろう。基本就寝22時、起床6時とか今どき小学生でも珍しいぞ。
「タクマだったわよね。ごはん食べたらアナタに家まで送ってもらうわ」
「……いや俺にも課題が」
「おう送ってもらえ。俺は課題が出来たら明日学校に行くまでそこら辺の店ハシゴするしな」
おい待てコラ、一回会ったことあるとは言えほぼ初対面の女の子人に任せんな、と恨みがましい視線を男に送れば、男は飄々とした態度でタイピングを始める。
「あ、でもそれも楽しそう。タクマも一緒に朝までハシゴもいいわね」
「だから纏わりついてくんじゃねえ。……ハア、止める権利も別に俺には無いがな」
「決まりね。私はゆっくりオムライスを食べてるから、二人はさっさと課題でかしちゃってね」
「へいへい」
「んー、この辺りだといいとこだとショットバーとかビリヤードがあったかしら。そこそこだったらカラオケ、ダーツ、立ち飲みがあるし……もうちょっと行けば知り合いがやってるガールズバーとかスナックもあるわね」
「あ、あの、お二人さん?」
「なんだよ」
「なあに?」
当事者をほっといて着々と進む話題についていけず声をかけると、平然と返事がなされた。ボク家近いし明日2限だから二人で行けばイイトオモウヨとは言えない雰囲気である。まあ別にいいかと思う自分も居る。どうして今日ファミレスでレポートやってるのか、友人たちと頻繁に飲みに行ったせいではないのか、学習しねえな自分。大学生かよ。大学生だったわ。
「……いんや。仲いいね二人とも」
「うふふ、アナタはいい子ね。かわいいかわいい」
「アリガト……」
「やれやれ」
テーブル越しに頭を撫でられて、俺は少し遠い目をした。逆向かいの男がしょうがなさそうに呟いた後、平然とパソコンを弄っているのを見ると、無性に腹が立つと同時に俺もしょうがないか、と肩を落とした。昔からそうであった気がするように、なんだかメイヴちゃんにはそういう魔力めいたものを感じてしまうのだった。