すまない……更新が遅い上に文字数が少なくてすまない……
忙しくてですね(言い訳)
というか、セイレム早すぎませんか??
忙しいのに追い打ちをかけてくる運営め!(セイレム楽しみだけども)
生まれて間も無い吉法師は、武家の慣わしに従って実母の土田御前ではなく、乳母が育てることになった。だが、吉法師は何が気に入らなかったのか乳母の乳首を噛み切ったのだ。すると勿論、乳母は別の人間になる。しかし、その次の乳母も乳首を噛み切られ、その次も、次の次の乳母も……というように何人もの乳母の乳首は吉法師に噛み切られてしまった。
それ故に、信秀も土田御前も困り果ててていると、ある男の正室が乳母に立候補し抜擢された。池田恒利の正室、養徳院である。信秀らが養徳院もどうせ無理だろうと諦めていると驚くべきことに、養徳院が乳母になり乳を与えると、吉法師は乳首を噛み切らなかったのだ。これには誰もが首を傾げたが理由はいくら考えても誰も分からず、一層不思議であった。
なお、その二年後の天文5年(1536年)、吉法師からある物を奪う弟の織田信勝(勘十郎)と、若い時から吉法師に付き従い支えとなる義兄弟の池田恒興が生まれることとなる。
「吉法師様」
「……なんじゃ、平手」
「寂しいのですな」
平手の言葉に吉法師は沈黙を保つ。が、吉法師はまだ齢10にも満たぬ幼子。ふとしたことで家族の事を想像した吉法師は、涙は我慢することができず静かに涙を流していた。それを見て平手政秀は吉法師を抱きかかえて、自分の膝の上に乗せ頭を撫でる。
「勉学は、暫し休みましょうか」
「平手、わしは、わしは。泣いてはおらぬ。織田の家の次の大将たる者わしが……そのようなことをするわけないではないか……」
「良いのです。人とは家族の温もりが恋しいもの。そういうものなのですぞ」
吉法師は、織田家の次期当主として育てられた。天文11年(1542年)には、信秀から那古野城は与えられ、平手政秀、林秀貞、青山与三右衛門、内藤勝介ら四人の重臣が教育係として吉法師に帝王学や剣術、学問などを教えたのだ。家を背負って立たなければならない嫡男は帝王学などを幼少期から教え込まれなければならないのだから。
しかし、吉法師が那古野城で重臣に預けられた理由は少しばかり違う意味もあった。織田信秀が"東海道一の弓取り"今川義元や"美濃の
このように織田信秀は周りの強敵との戦いで精一杯。それに加えて母親の土田御前は後から生まれた勘十郎が可愛くて仕方のないのか、吉法師に対し構うことは無くなった。
それ故に、幼い吉法師は孤独だった。
実の親からの愛情を知らなかったのだ。
養徳院(1515〜1608)
*信長の乳母にして、池田恒興の母。
*織田信長とは良好な関係を築いていたとか。
池田恒利(?〜1538)
*池田家が重用される元を作った。と言っても、養徳院が乳母になったおかげであるが。
池田恒興(1536〜1584)
*桶狭間の戦いの前から信長に付き従った重臣。
*信長の乳兄弟である。
*小牧・長久手の戦いで戦死。
織田信勝【織田信行、勘十郎、織田信成】(1536〜1557)
*織田信長の弟。
*織田信行と一般的には呼ばれる。
*信長の家老の林秀貞、信勝の家老の柴田勝家らに奉られ信長に反旗を翻すが稲生原の戦いで敗北し、許されるも秘密裏に再び謀反。柴田勝家の密告により謀反が発覚し、信長の仮病により見舞いに誘い出され暗殺された。
「東海道一の弓取り」今川義元(1519〜1560)
*軍事的才能、政治的才能に満ち溢れた戦国大名。
*一般的に無能な公家被れだと見なされているが、そのような事は一切なくとても優れた人物であった。ちなみに、歌の腕前も大したものでは無かったとか。
*駿河、遠江、三河、尾張と今川家の全盛期を作り上げるが桶狭間の戦いで討ち死した。
「美濃の蝮」斉藤道三(1494〜1556)
*戦国期の下剋上と言えば、北条早雲と並びこの男の名が上がる程有名。
*美濃の戦国大名で、土岐氏を追放し美濃を乗っ取った。その経緯故に家臣たちに嫌われており、子供の斎藤義龍と対立すると家臣たちはほぼ義龍に付き従い、道三に付き従う者は少数だった。それ故に信長の救援が間に合わず、敗死する。
史実解説でした。
今回の話は史実からの改変は特にありませんね。
乳母の話はあくまで伝説で事実かはわかりませんが。