ははっ、すげぇ。
003
教室を飛び出した僕は、急ぎに急いで三年二組の教室に飛び込んだ。無駄に入り組んだこの校舎は、たった二組違いだという教室も、迷路を抜けなくては這入ることもできない。同じ学年だというのに階段を五回くらいは登り降りした気がする。増築に増築を重ねた結果がこれらしいが、今はあまり関係の無い話だろう。
閑話休題――三年二組の教室には、まだ授業中だというのに、たった一人しか居なかった。
「――こんにちは、教楽来ちゃん。待ってたよ」
と、声を掛けられる。しかし、正直なところ、とてもじゃないが今は反応できるような状況ではなかった。さっきまでの対馬小路さんを引き摺っての全力疾走で、息も絶え絶えだった。
反応が無いことを少し訝しみ、そして僕が声も挙げられない状況だということに気付くと、肩を激しく上下させている僕の方へ近づいて来る。
そして、僕の肩に触れた。
その瞬間――疲れはゼロになった。
ようやくまともに口が利けると、僕は口を開いた。
「……こんにちは――玖珠理子さん」
僕がSOSを出した相手――それが、この三年二組に君臨する
悪魔のような性格で、悪魔のような形態で、悪魔のような能力を持っている――最低最悪、だから、止まった悪魔。
自身のスキルの影響で、成長が止まっている――止まらざるを得なくなっている、だから、止まった悪魔。
「相変わらず……デタラメに凄いですね、あなたのスキル……」
「それはそこで伸びてる教楽来ちゃんとこのボスにも言えるでしょ」
「え?」
伸びてる? と、僕がここまで引き摺ってきた対馬小路さんの方向を見ると、対馬小路さんが目を回して倒れ伏していた。
……少しやりすぎちゃったかな。
「んま、あたしのスキルのが性能も使い勝手も勝ってるし優ってるけどね。その子よりも、あたしのが格上」
上を指差すジェスチャーで、格上だとアピールする玖珠さん。圧倒的なまでの自信が窺い知れる、そのちんちくりんな体格が妙に大きく見えた。
「で、あたしは何をすればいい? どうせ件の転校生の事だろう」
見透かした様に玖珠さんは言う。
「見透かしてんじゃなくて、見え透いてんだよ」
……どこかの専門家みたいな感じで釘を刺されてしまった。
閑話休題、実際そうだ。
僕はその〝転校生〟についてでここに来た。寧ろ〝転校生〟でも居なければ、自主的にこんな所にまで来やしない。釘を刺されるどころか、螺子を刺された。
「噂はかねがね──って感じかな。アイツ、ユーメーっちゃユーメーなんだよね」
と、玖珠さんは語り始めた。
「箱舟中学って、流石に知ってるよね。
「え? まあ、はい」僕は曖昧に頷いた。「知ってはいますが、正直なところあまり……」
「あら、勉強を熱心に励んでこの学校を入学したくらいだから、そこくらい知っていると思ったのだけれど。箱舟中学、簡単に言うとこの高校の大元ね」
「大元?」
「大元」
僕の問を玖珠さんは表情一つ変えずに復唱した。
「そう、箱舟中学の生徒はそのまま箱庭学園へと半エスカレーター式に上がって行く。しかし当然、その際のあぶれ者も少なからずいる訳だ──そんな奴らの掃き溜めがここさ。何を間違ったのか、遂には日本有数の進学校までに上り詰めているけれど、大本を辿ればただの分岐点。箱庭学園に成れなかった末席の末裔だよ」
割れたフラスコとか、よく言うよね──と、玖珠さんは付け加えて、そして自身の椅子へ座り込んだ。
……割れたフラスコ?
「そんな事だから、ここに来る様な学生は事前知識として箱舟・箱庭についてはフツー識っているはずなんだけれど──あはは、いやはや驚いたね。天然記念物だよ、やっぱり君は素晴らしい」
「ははは……はぁ」
乾いた笑いを薄く返しても、玖珠さんは飄々とした態度を崩さない。ふらふらと長いツインテイルを揺らすだけで、何を考えているかまったく分からない。
「で、だ。だからこそこれも識っていて当然だと思うのだけれど──って言うか、そもそも学生なら一度は耳にした事があっても良いと思うのだけれど──」と、大層な前振りを付けて、仰々しく玖珠さんは口を開いた。「箱舟中学の元生徒会──それの話を」
004
贄波生煮は沸切らない娘である。
何をするにも中途半端だと言うのに、やり切る事はなんとなしにやり切って、それでかつ半端な形に落とし込む。本当に沸切らない娘である。
何に頑張るでもなく、何に熱心になるでもなく、なんの気なしに飄々と生きていたら、遂には高校生になってしまっていたくらいで、その間のストーリーは、それこそ映画の二・三本シリーズとして続けられるほどの壮大な物ではあったのだけれども、沸切らない娘生贄は、それら一切を沸切らないように覚えてはいない。飄々と、全然と、何やら全てと一緒に綯交ぜにしている。
そんな、混沌にも成れない混沌が、世界を救う一端を沸切らない形で背負う事になるのは、自明の理だったのかも知れないが、それはまた別の話である。
そんな生煮は今、授業のある平日──しかも月曜日だというのに、暇だからと舌に刻まれた漢字を人差し指でぽりぽりと掻きながら、だらだらと練り歩いていた。
当然の如く目標なんて物はない、と言うかそもそも授業があるので暇ではない。眼前をひらひらと飛ぶ蝶をたたっ斬る作業を繰り返していたらこんな所まで来てしまった、と言うのが一番正しいだろう。間違いがあるとすれば、生贄は蝶だと思っているけれど、実際のところそれは大きな蛾であったという事だけである。
すると、そんなちゃらんぽらんな生煮に声を掛ける者が一人あった。
「ねえ、あんた。こんな時間に何やってんの?」
「剣振り回してちょうちょを切り刻もうと思って」
「こんな時間じゃなくても何やってんの」
ファーストコンタクトは最悪だった。その責任の大半は生贄に有るのだが、しかしそれは今は関係のない話である。
特筆すべきは、話し掛けた人――鳥籠学園の制服に身を包んだ少女。その娘、名を
要は、血である。
さすがは贄波生贄、それを一瞬の内に察知し臨戦態勢へと移行した――それは一目だけでは解らない。戦争の専門家であろうと、生贄と数多の死合を重ねなければ、それを察知する事は至難の技であろう。それほどまでに洗練された〝臨戦態勢〟――を察する事ができなかったのだろうか、幸子はなんともなしに話を続けた。
「授業は? ボロボロだけど制服着てるし、学生――って言うか、高校生でしょ?」
「今日のこの時間は確か算数だったかな」
「算数の授業がある高校ってどこだよ」
生贄の的外れな返答に幸子は呆れた様子だった。その呆れた幸子をものともせず、生贄は口を開く。
「んでんで、しつもーん」
「……なにかな、ん?」
「ここどこ?」
「……」
もはや呆れを通り越して失望の域だった。というか、殴ろうとすらした。
既のところでなんとか抑えたものの、生贄の、絶妙に人を苛つかせる態度と共に襲い掛かるふざけた言動は留まることはない。
「っつーか、なにその血。血でしょ? なに、犯罪? ポリスメン呼ぶ? んんん?」
くるくると回ったり、手を奇妙な軌道で動かしたり、とにかく人を苛つかせるためだけに生きているのかという風な態度を続ける。
幸子は何も言わない。口をへの字に締める。
なにも、いわない。
「へへへ、ふふふ、ほほほ。なーるほど、まるっときりっと分かっちゃったぜ。二十五パーセントくらい」
そして、生贄は得物を拾う――ただ、そこいらに落ちているような、木の棒を拾う。
いや――しかし、その棒は鋭い。生贄に持たれた瞬間に、それは光すら切り裂く唯一無二の〝刀〟と化す。
何も斬れない棒――だからこそ、何でも斬れる刀と成る。
だからこそ、沸切らない少女は――
「たぶんおまえ、今回のスピンオフのラスボスだろ。悪を成敗して、さっさと最終話にしよう」
沸切らない理由で、悪を断つ――
「――『
「ふぎゃっ」
事はできずに、今回も煮え切らずに、何もできなかった。
幸子幸子のスキルに、捻じ伏せられた。徹底的に、何が起こるか理解する間も無く、その意識は刈り取られた――後方からいきなり飛んできた野球ボールが、偶然生贄の死角を通り、奇跡的に知覚されない形で、見事に生贄の後頭部にクリーンヒットし、その意識を刈り取った。
「運が良いと、人生つまらないものだよね――って、聞こえてないか」
今回、またもや沸切らない形でこのように踏み台としてそうそう退場してしまった生贄だけれど、一つ言える事があるとしたら――まあ、〝だからこそ〟である。