辿り来て… 作:香香
実家の縁側に腰をかけ、月を眺めながら老人は今までとこれからに思いを馳せる。
二十八の頃奨励会のA組(今の三段リーグ)を抜けた。当時の自分は自分の才能というものを過信し、自惚れていたものだからその齢になるまで四段になれなかったことはあくまでも趣味のクラシック鑑賞や登山にうつつを抜かしていたせいだと勝手に合点していたのだ。出遅れこそすれ、自分なら瞬く間に昇級し名人の座を争えると本気で信じ込んでいたのだ。
しかし現実はそんなに甘くはなかった。C2を抜けるのには五期かかり、C1こそ一期で抜けたもののB2でハ期足踏みをした。現役生活四十二年目B1で迎える事を誇らしく感じる気持ちとA級に足を踏み入れることなく、タイトルも取れずにB1で二十八期連続闘うことに口惜しさを感じる気持ちがせめぎ合っている。
周りの棋士達が自分のことを「B1の番人」と呼んでいたり、ファンの中には「永世B1」などという渾名をつけている人間もいると風の噂で聞くものだ。「好きで立ちどまっている訳じゃない!」「俺だってA級でやりたいんだ!」こう叫べたらどれほど楽だっただろうか。ベテランとしての体面やいい歳をした男の矜持がそれを許さない。
命をすり減らすように盤上に全てをぶち撒けてもなお夢の舞台には届いていない。しかし幸いなことに今は念願のタイトルへの可能性を大いに残している。
・竜王戦三組ランキング戦 決勝
・王位戦挑戦者決定リーグ 3勝1敗
・棋聖戦決勝トーナメント 決勝
現状を確認して「できすぎだな」と呟きながらも老いた枯れ木のように細くなった体に力が漲っているのを感じていた。台頭してきた若手がタイトルに手をかけていく中でこの老骨がタイトルを奪っていったらどれだけ痛快だろうか。そう思い口が緩むのを誤魔化すかのように大きく伸びをした。
明日も対局があるので早めに寝るに越したことはない。ただでさえ体力が若手とは違うのだから万全の状態で臨まなければならない。そう思い老人は寝室へ向かい眠りに落ちた。
翌日、タイトルへ望みをつなぐ竜王戦三組ランキング戦決勝の日がやってきた。対局相手は新進気鋭の若手である天野仁志五段である。
老人は和服に身を包み静かに着座した。
この話は、
生涯勝率0.648 1312勝612敗
棋戦優勝
NHK杯3回、早指し選手権1回、日本シリーズ1回、朝日杯将棋オープン1回、銀河戦2回
を記録した
「棋界の怪物」老棋士韮澤 喜市郎 九段の物語である。
次回からは長くなるといいな、あとタイトル数、棋戦優勝回数にこれから書く話の分は入ってません。