カヴァス?いやいや俺は   作:悪事

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シフもとい主人公は話では出てきません。
番外編というか現代編ですので本編とは無関係。
それなのに、無駄に長々とした話であることにはご容赦を。

読んでくださることを、書き手として願います。
それでは、皆さま良きバレンタイン(イベント)を。


番外編一話

 朝、目が覚めると何故か泣いていることが時々ある。涙するような悪夢を見ていたのか、泣きたくなるほど悲しい夢を見ていたのか、見ていたはずの夢はいつも思い出すことができない。それは奇妙な喪失感と空虚な悲しみを胸に去来させる。頰を(つた)って流れる涙と共に何かが消えてしまったという感覚が胸の奥へ残留(ざんりゅう)するのだ。消えてしまった何か、誰かとの約束、大事な思い出を探さなければ。“(せつ)”がそんな気持ちに取り憑かれ始めたのは、拙が自分を失い始めた頃からのこと。

 

 

 ーーー

 

 イヌ科の動物とは人類にとって何者なるや?

 

 

 (イヌ)という生き物は人類が紡いできた歴史において人類と非常に近しい間柄にある。それは家畜として食用か、狩猟の補佐や支援を行う狩猟犬か、あるいは牧羊犬として他の家畜の管理を任せるものか、ペットという愛玩としての役割か。飼い主である存在がイヌを友や兄弟、親と認識することも珍しくない。それでも、イヌという存在を明確に定義するならば、イヌとは人類の進歩の最初の痕跡なのだ。

 

 

 太古の時代、人は野に住まう生き物を狩る狩猟者として生活を行なっていた。生き物を狩る、すなわち殺し肉や皮、毛などを生活に運用することを意味する。遠く時代が流れた現代では己の力で生物を狩り生きるということは思案すらなかろう。現代では生命活動を継続させるための狩りという行動は必要が無くなった。食料はその生物の命が奪われる姿を目にすることなく入手が可能となり、衣服は完成された品々が店頭に購買意欲を湧かせる文言(もんごん)とともに置かれている。

 

 狩りを行う者たちも少なからず存在しているだろうが、それらの人々は退屈な日常の飢えを満たす娯楽のためか、それとも本当に狩りを行わねば生存できないためかの二極化される。

 

 古き時代は狩りこそ日常であり生活の一環、日々の糧。そうした中から人はより効率の良い食料の調達に気づく。より効率化された食料調達とは自らの手で糧を育み生み出すこと。それは、それまであくまで狩りの対象、獲物でしかなかった他の生命と人類の共生の実現を意味している。

 

 他の生命の生存の許容、すなわち人類が自己を“他の生命の生存を己の意思で制御(コントロール)可能となった存在“と位置付けた事実を指し示し、人類が霊長の存在へ踏み込んだ証明。そう、人類は遥かなる時代より生命を制御しようとする高次元的な存在を目指していたのだ。

 

 

 

 

 ーーーー

 

 

 

 近代化の進むロンドン、その街並みに時間の流れから乖離したかのように煉瓦や石によって積み上げられた建築物が(そび)え立つ。それは魔術を志す者たちの学び舎、魔術世界に名高き時計塔。12世紀という当時の建物が近代の街並みと重なり独特の風景を織り成す。時計塔は、四十は優に超える学生たちの住居、カレッジと呼ばれる学生寮と時計塔そのものとさえ言える十二の学部にそれと(つら)なる学術科、時計塔の学生や講師などを対象とした商業地によって成立している。

 

 時計塔での日々は御伽噺(おとぎばなし)の魔法使いの学校のようなファンタジー溢れるものでこそあれ、死と恐怖、危険と脅威に満ちた魔術世界の中枢。決してお気楽な気分で生活できるような場所ではない。

 

 ーーー

 

「教授!見てくださいよ、これ!この前の動物科との合同研究の時に貰ったアングラ系の競売の目録、なんでも新宿で合成されたペット用キメラなんてのが載ってるんですよ!これはエルメロイ教室のみんなでワイワイしながら、日本へ行って花見とか秋葉原とか観光しながら見物に行くしかないですって!!」

 

「フラット、早急に口を閉じることを勧めておく。でないとそこの窓からその目録とやらと一緒に放り出すぞ。ご丁寧に観光などとバカ正直に本音を隠さず口走って、(てい)良く観光資金を現代魔術科から捻出しようとするつもりか?その目録だけで許すから、今すぐに窓の外に廃棄しろ」

 

 

 金髪の少年が奇妙奇天烈な動物群が載った本を振り回しながら跳ね回り、頭痛を抑えながら長髪の男性が不愉快そうな面持ちで一刀両断する。そこは時計塔のロードの一角が管理するエルメロイ教室。もっとも、ロードと言っても本人は頑なにII世と言い張るのだが。

 

「……待て、動物科との合同研究だと?なんだそれは私は聞いてないのだがな。一体、どんな厄介ごとを招いた、今ならまだレポートと課題を三日三晩徹夜する事で処理し切れる量に増やす程度で抑えておこう。早く言え、お前の起こす騒動は時間が経つにつれ面倒が乗数的に増えるのだから」

 

 

 明るく笑う金髪の少年、エルメロイ教室が恥ず天才的な問題児フラット・エスカルドスを、額に青筋を立てイライラが伝わってくるほどの恐ろしい面相で叱る長髪の男性。身綺麗な服装に手入れされた長髪、不機嫌そうな表情のこの男性こそロードと称されるエルメロイII世であり、かつて聖杯戦争を生き残った魔術師の一人なのである。

 

 ガチャリ、扉の開く音と共にフードを目深に被ったエルメロイII世の内弟子グレイが喧騒に満ちた部屋に入室する。部屋に入ったグレイはいつも通り不機嫌そうに怒っている師を見てからフラットに視線を流し、くるりと反転すると入ってきた扉から退室していった。

 

「あれ〜!?グレイちゃん?なんだか用事でもあったんじゃないの〜」

 

「待て、こいつの相手を私一人に押し付けるつもりか!?こいつの面倒を見ろとまでは言わんから、せめて戻って同席していてくれ!?」

 

 

 師匠の緊迫した声に足が引き止められそうになるが、ここで止まったならば間違いなく一日中フラットの相手をする羽目に。流石にそれは御免被りたいのだが……片手に持つ相棒を収納した檻が中から揺らされ始める。相方が何やら物申したがっているようだ。

 

「ヒッヒヒヒヒ!!なんだよグレイ、お前のモヤシセンセが泣きそうな声で呼んでるゼ?どうしたよ、今すぐに行って抱きしめてやれって!男ってのは傷ついてる時に優しくされたらイチコロなんだ。さっくり手軽に籠絡(ろうらく)できるぜぇ」

 

 

 相棒である檻の中の住人、アッドはこちらの精神の忍耐を振り切らせるようなセリフで煽りを入れてくる。若干、イラッときたグレイは黙ったまま檻を上下に振って相棒への折檻を行う。檻の住人は檻の格子に箱状の体をぶつけ豆鉄砲を食らった鳩のような絶叫を上げる。魔術世界の中枢たる魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)する時計塔の中でも異彩を放つ現代魔術科(ノーリッジ)は今日も平常運転を貫徹していた。

 

 

 

 

「近頃、噂されている現代に現れたジェヴォーダンの獣?」

 

「そうです、なんでもグラストンベリーの近辺で巨大な灰色の獣が現れたっていうらしいんですよ。何か新種の幻想種かって動物科が研究員を派遣したそうなんですけど、誰一人帰って来なかったって曰くのついた面白そうな話なんですよ〜。あまりにも多くの研究者やら魔術師が消えたんで今では高額な成功報酬が付いたらしいですし」

 

 フラットは心の底から楽しいと口ずさむように嬉々と口を綻ばせる。それと反対にエルメロイII世は怒りか、ストレスによるものなのかプルプルと拳を握り震えていた。それを遠巻きに眺めるグレイはアッドを収納した檻を床に置き、二人の口論を沈黙したまま見つめていた。

 

「はぁぁ、それで面白半分で首を突っ込んで動物科の連中を怒らせてきたと……んっ?まさかとは思うが、フラット。その獣の探索と諸々の隠匿、現代魔術科として受けたなんて言うまいな」

 

「ーーすっげぇ!なんで教授ってば、そんなにあっさりと真相を見破れるんですか!さっすが、時計塔の名講師、絶対領域マジシャン先生!」

 

「ファック!またぞろ厄介と面倒ごとを運んできたな!死んで来い、厄介と面倒と共に爆発四散しろ!私をストレスで忙殺でもするつもりなのかバカめ!」

 

 師であるエルメロイII世がブチ切れ、肩で息をする頃合いになった。グレイは紅茶を淹れ、部屋に置かれている茶菓子と一緒に二人に出し落ち着かせる。フラットは菓子を嬉しそうに食べ、師は背もたれに沈みカップの紅茶を嚥下する。

 

「師匠、ジェヴォーダンの獣とは?」

 

「……なんだ、ジェヴォーダンの獣について知らんのか?」

 

 グレイはコクリと首肯(しゅこう)し、師匠の対面のソファーに一度礼をしてから座る。その隣にフラットもワクワクとしながら、拝聴姿勢を取る。

 

「ジェヴォーダンの獣、いわゆる怪物幻想のお手本のような話だ。18世紀、フランスのジェヴォーダン地方に突如として人を襲う獣が現れた。その被害は100名にも及ぶほど、その時の獣害の恐怖が伝言ゲームみたく歪みに歪んで怪物の伝説になった……公式にはそうされている。が実際はなんて事のない半端ななりそこないの死徒くずれが狼を凶暴化させて人を襲わせ最終的に聖堂協会が始末したそうだ。ただ、その時は神秘の隠匿も杜撰な有様だったようで多少は世に情報が漏れた。最初は時計塔と聖堂協会で責任の所在を押し付け合うヒドい政治闘争があったらしいが、ジェヴォーダンの獣を題材とした小説や映画が出回ったおかげで真実は闇の中に消えジェヴォーダンの獣はフィクションという幻想に埋もれた訳だ」

 

 

「死徒がけしかけた狼……ですか。動物をそんな道具のように扱うなんて」

 

「ふむ……その発想は人間的だ。しかし魔術師の思考ではない。そもそもグレイ、狼や犬といったイヌ科の動物は人間にとってどんな存在か、分かるか?」

 

「?……ペットなどの家族にも等しい間柄だったり、警察犬や牧羊犬といった人と共生する存在だと思います。英国の(ことわざ)にもそんなものがあったような」

 

 

 どうにか回答したのはいいが、言葉の末尾で英国には犬に関連した諺があったことを思い出しながら口に出す。咄嗟だったためか内容は靄がかかったように思い浮かばないが口ごもるグレイを引き継ぐ形で師は弟子の言おうとしていた諺を語る。

 

 

「“子供が生まれたら子犬を飼うといい。子犬は赤子の良き守り手となるだろう。幼少期には子供の良き遊び相手となり少年期を迎えると子供の良き理解者になるだろう。そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教える”。犬とは人間の歴史上、最古の家畜だ。古代、犬は生活から戦争と多岐にわたって人の側にいた。犬とは人間が狩猟民族から農耕、畜産などにシフトした要因とも言えるだろう。いわゆる人類の余裕の象徴なんだ。生物は自分や血族を生かすことで手一杯、他の異なる種の生き物を面倒見るなんて相当の余裕ある生活が求められる。その中でも犬は人にとって都合が良かった訳だ。優れた動体視力、嗅覚などの人の生活で有益なスキルを持っていたことなど、そして主人への絶対な忠誠心。初期のイヌ科の家畜は狼のようなものだったが、長い年月を重ねていくうちに現在の犬と呼ぶ種へと行き着いた。すなわち、人にとってより都合の良い形にな」

 

「師匠、それは……」

 

 師の穿ち過ぎた言葉に渋い顔をするグレイ、だがエルメロイII世は肘をついて話を続ける。

 

「勘違いしているようだが、これは互いにとっての最善な在り方なんだ。人は愛玩、警備、盲導、捜査などの専門性に優れた犬と共生ができ、犬は食住が満たされる。実際のところ、犬はその忠誠心から非常に多くの分野で活躍している。犬は他の動物と違い人とより近く様々な形の共存を実現しているだろう。牧羊犬という在り方がなければ、犬は人と争い絶滅の憂き目にあっていたかもしれない。人が世界最大数の動物となった以上、共生することが生存できる唯一の道だったのだ」

 

「それでは犬にとってもはや野生という生存圏は存在しないのでしょうか?」

 

 

「今のご時世で野生の獣が現れればそれだけで一大事だからな。かつては互いを相互に補完する間柄だった犬と人も今では変わり果てた。人は傲慢となり命への関わり方を見失った。犬を飼うというのは犬を飼育することであっても犬の上に立つことが全てではない。無論、ある程度の躾けは要するが飼育することで犬よりも偉いなんて感じるのは人の傲慢からくる錯覚に過ぎん。人は犬を飼うことで人では出来ない、見つけられない何かを得るため、犬は自身の食住を得て人に恩義を返すため。互いの必要とするものを補完することが正しい命との関わり方なのだ。人は外部から他の生命を観測することで自身の生命活動を確認する。犬とは最古の家畜であり視認可能な生命の雛形(モデル)と考えられるだろう」

 

 

 自論を展開して不機嫌そうに現代魔術科の若きロードは窓の外へ目線を送った。それは変わり果てた人と犬の関係性を憂いてのことか、それともフラットが発端となった“謎の獣”に関する面倒をどう始末しようと考えているのか。グレイはいつも通り不機嫌な師の対面のソファーで想いを馳せる。犬、昔は拙も飼っていたような覚えが。

 

 それは確か……灰色で……とても(おお)きくてーーーー犬についての思考が不意に切断される。まるでそれ以上はまだ早いというかのように。アッドは思考に空白が生まれたグレイを静かに確かめるように箱型の体から観察する。

 

 

 

「んっ?でも教授、犬とかって魔術や神話系だと悪者だったり不幸の前触れみたいな扱いされたりもしますけど?その辺は詳しく説明すると、どういうことなんですか」

 

 大人しく黙っていたフラットは珍しくまともな質問を行った。エルメロイII世、グレイは少し目を見張るが、グレイはこれが通常ならいいのにと息を吐き、エルメロイII世は嫌な予感を背筋に感じながら犬と関連する魔術の話を語り出す。

 

「不幸を呼ぶ動物、幸運を引き寄せる動物、多くの神話や魔術でも珍しくない内容だ。一部の地域では犬は幸運の象徴で猫は不吉の象徴ということがある。しかし、ほんの少し距離をおいた地域ではそれとは全く逆の状態である場合が存在する。中世ヨーロッパでは猫は魔女の使い魔として忌み嫌われ、犬は猫を追い払う獣として重用された。それと反対にイスラム圏内での犬は聖書に不浄の生き物と書かれているために邪悪な獣の烙印を押されている。分かるか?人間は都合の良い面や自分の見た面しか視界に入れない近視眼的な思考で生きている。あいつが見れば聖なる存在、こいつが見れば悪魔の手先、つまるところ、不運や幸運などの枕詞は犬という存在の一側面を切り取って過大に表現しただけに過ぎないんだよ。悪や善、中庸といった全ての本質をありのまま受け入れられる人間なんて、英雄か聖人くらいなものだ」

 

 

 師は犬に関する陳述の区切りのところで一息ついて、葉巻に手を伸ばそうとする。その動きは部屋のドアの開閉音によって中断された。グレイに次いで入室してきた少女、名義上ではエルメロイII世の義妹に当たるライネスが現れたのだ。

 

「ふむ、歓談の最中らしいが失礼するよ。事前に連絡も入れられず、すまないね。兄上」

 

 にっこりと普段の彼女からは考えられもしない気遣いの言葉と謝罪を聞き、エルメロイII世は顔に手を当て世の不条理と自分の不運を嘆く。この状況でエルメロイの姫君・ライネスが現れたのだ、ほぼ確実に過労死レベルの厄介ごとの処理に駆り出されることを確信する。

 

 

「それで、君が来たからには何の揉め事に私は駆り出される?他の学科との交渉か、また問題児を押し付けられるのか。何でもいいが早くしてくれ、フラットの持ち込んだ厄介ごととどっちが面倒かを判断した後、より困難な方に片をつける」

 

「おや、そこは楽な方からではないのかな。兄上」

 

「先に面倒な案件を始末して楽な案件に手を回す方が幾分か気が楽になるのでね」

 

 ライネスに遅れて彼女の魔術礼装であるトリムマウも部屋に入ってくる。エルメロイII世は頭に鈍痛を感じ始めた。絶対に過労死一歩手前になる案件だと検討を付けて、彼は葉巻を手に取った。

 

 

「なに、そう警戒するもんじゃあない。これは単なるフィールドワークだよ。まぁ、まさかフラットが私に先んじて情報をキャッチしていたのは驚いたが……」

 

「先んじて……ということは先ほど出た現代のジェオヴォーダンの獣に関する調査か?」

 

「そうだ、この案件で動物科の名の知れた当主たちがグラストンベリーで消息を絶った。その当主、もしくは魔術刻印の回収と獣の正体について調査依頼を請け負った。我が兄よ、この案件はいくつかの動物科の家々に恩を売れるだけではなくエルメロイの膨大な借金のおよそ三割弱を返済できる膨大な報酬付きの依頼だ。勝ち取るのに苦労したのだが、義妹の心遣いを受け取ってもらえるかな?」

 

「クッソ、選択肢があるように見えて一択しかない強制ルートじゃないか!“YES”か、“はい”しかない選択肢とか選ばせる気ゼロだな!?」

 

 長髪を混乱気味にかき回し、青年は手にとっていた吸ってもいない葉巻をゴミ箱の底に叩きつける。そこで床に捨てたり窓から放り出したりしない辺り、妙な育ちの良さというか良識があると褒めるのが妥当なのか。エルメロイII世を預かる身としては、いきなりエルメロイの莫大な借金を三割減らせる手段がある以上、この調査に関わるほかあるまい。フラットは同行したいと手を挙げていたがエルメロイII世は鈍器として扱えば確実に二、三人は息の根を止められる分厚さの課題を出して追い払う。

 

 

 エルメロイII世は調査に必要なものを頭の中でリストアップし、ライネスは動物科の依頼を出した講師連中と交渉し報酬を少しでも上げるための策謀を巡らす。部屋で手持ち無沙汰になったグレイ、彼女は今回の調査に赴く先がグラストンベリーと聞いて、一歩腰が引けていた。グラストンベリーには“あの王”の墓がある。自分という霊媒的に感応性の高い存在がそこに行くことは危険だ。

 

 

 ……けれど、拙は師匠を守りたい。ーーーーーそれになぜだろう、果たさなければいけない約束があるという思いが頭から離れない。そんな難しく思考するグレイに対し、静かに立っていたトリムマウは肩を叩いて呼びかける。トリムマウが自発的に行動したことにエルメロイII性とライネスも釣られてグレイとトリムマウの方を見てしまった。そんな自分の主人とその兄に注目されていることを気にせず、トリムマウはグレイを励まそうと自己の記憶領域にある言語を音声として発した。

 

Don't Think. Feel(考えるな 感じろ)

 

 親指を立て心なしかドヤ顔をしている自分の魔術礼装を見て、ライネスは頭を抱える。また、どこかの問題児がトリムマウに妙な映画でも見せたのかと予想し、苦笑いをしながら義兄にグラストンベリーでの調査結果を待つと言い残し部屋を出ていく。

 

 

 ライネスの退室を見てから、エルメロイII世は自分の教室の誰かに調査の同行を頼もうかと考え出す。普段の非常時に連れ出しているグレイも今回の調査先であるグラストンベリーへの同行は断るだろう。仕方がないが、フラットやスヴィンにでも……

 

「師匠、少し良いですか?」

 

「なんだ、これから慌ただしいことになるから簡潔に頼む」

 

 

 グレイが改まって自分に何かをいうとは珍しいことがあった。そう、思いつつ内弟子の言うこと、多少の便宜は図ろうと彼はグレイに話の内容を聞こうとする。グレイの言ったことはこれまでの彼女では考えられない、少々想定していたよりも意外なことだった。

 

 グレイの珍しいお願い……それは。

 

 

 

「……はい、それではどうか拙を今回の調査に同行させてはいただけませんか?」

 

 

 

 

 

 

 グラストンベリー、近郊の一角。動物科の計らいで乗ってきた車を降りて二人がグラストンベリーの地に立つ。グラストンベリー、そこはアリマタヤのヨセフ、聖杯やアーサー王伝説などの多くの伝承を残している。しかし、それらの信憑性には疑いの余地があるというのが通説だ。実際、先の第四次聖杯戦争においてアーサー王の召喚触媒はコーンウォールで発掘されたという。グラストンベリーにアーサー王伝説が残されているのは事実だが、そこまで過敏にならなくとも良いのではと少女は前を向く。

 

「グレイ、一応先に口にしておくが……体、精神、なんらかの不調があればすぐに伝えるようにしろ。此処がどのような影響を君に与えるのか、まだ未知数だからな」

 

「分かりました。でも、そこまで拙を心配していただかなくとも」

 

「フン、単に荷物を持つ人手がいなくなるのが困るだけだ。自慢じゃないが、私の腕で荷物を持って移動するとなれば調査どころではないからな」

 

「……以前にも聞きましたが、本当に自慢ではないですね」

 

 

 気心の知れた間柄らしく雑談をしながら、途中で疲れてしばしば休みを入れた師と共にグレイは最初の目的地である動物科の調査員たちの消えた調査拠点に着いた。

 

「そういえば、師匠たちの話を聞いて疑問に思ったのですが、なぜ一地方の調査のためにわざわざ、動物科の家の当主たちが来たのですか?代理人にでも任せて置けばよかったのでは?」

 

 グレイのもっともな質問を、周囲に散乱した調査機材であるライトやフラスコ、魔術礼装をどかして座る場所を確保した師は葉巻を取り出しながら説明を行う。

 

「確かにその考えは当然のものだ。普通の一般的なインドア系の魔術師ならな。しかし、動物科の魔術師はフィールドワークを研究の一環に加えている。そもそも動物科の魔術師は、動物という自分以外の命を外部から観測し、そこから根源へと到達することを目指している。強力な命という媒体を通すことで根源という超次元的な存在を観測しようというのが動物科の根源へのアプローチ方法なんだ。当然、通常の獣などでは、そういった根源への到達実験には適さない。となると、根源を認識できるほどの尋常ではない人ならざる生命力を持つ存在、例えば千年クラスの神秘を内包した幻想種なんて動物科からすれば命を差し出しても惜しくない存在のはずだ。そうした幻想種の発見に血道を挙げている動物科は、信憑性の高い幻想種発見の情報の一つにバカみたいな大金を注ぎ込む。今回、いくつかの家の当主たちが現地入りしたというのも、よほど確かな根拠のある情報だったからなのか。それとも当主同士で競争相手を始末して……このザマになったのか」

 

 

 魔術師の業の深さ、不条理さ、無意味さ、そして極め付けの愚かさを熟知しているエルメロイII世は、この事件の真実が下らない仲違いによるものでないことを切に祈る。何故ならば、その場合に動物科の家から報酬が捻出されるかが確実ではなくなるためと、そんな馬鹿げた騒動に駆り出される自分の滑稽さを感じたくないがために。

 

 

 ウォォォォン、遙かな彼方より風鳴りのような咆哮のような音が流れてくるのをグレイは聞き取る。それは隣にいた師匠とて同じ、確実に人ならざる存在が発した咆哮を聞いた二人はその音のした方角に何があるのかを知っていた。グラストンベリーに存在する最大の観光名所、英国における最古の宗教的建造物。

 

 

「グレイ、この先に何があるのか分かっているか?」

 

 

「はい、師匠。先の咆哮のした方角は……英国で最も深い歴史を持つ宗教遺跡、そしてある王の墓所でもある場所。この先にあるのは………………グラストンベリー修道院」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「でなんだよ、結局は調査やらは明日に持ち越しってわけか?ビビってるねぇぇどぅぇぇ!!」

 

 

 夜中、無事だった動物科の拠点に放置されていたテントや野外用のテーブルなどで一晩を過ごし、空けてから修道院へ赴くことにしたエルメロイII世、グレイ、あとアッド。アッドは調査が慎重過ぎないかと揶揄うわけだが、それを不機嫌MAXな顔でエルメロイII世が檻をブン回してアッドを強制的に黙らせた。実際、日が暮れてそんな状況で危険地帯にホイホイ足を踏みしめるわけにもいくまい。現代に現れたジェヴォーダンの獣、その正体について彼は今、この瞬間も思索を続ける。

 

 

 自分がもっと調査や探索などの魔術に長けていたなら、此処からグラストンベリー修道院を調査できたものを。使い魔を送り込んで修道院を見た結果、どうやら修道院近辺の異界化が進行しているらしい。そのせいで使い魔は不意に自壊してしまい帰還せずときた。

 

 

「師匠、そろそろ明日に備えて就寝しましょう。現状、此処でやるべきことはないわけですし、明日に改めて修道院へ調査に行くべきでは」

 

 

 グレイの言い分はもっともであり、エルメロイII世は元は動物科関係者の仮眠用と思われるテントに入ろうとする。そして、グレイはもう一つのテントから出て、焚き火の始末をしようとバケツを掴んだ。バケツの水で火を消そうと動こうとすると、焚き火の前に誰かがいた。

 

 

 真っ白なローブを纏っており顔はフードで見えないのだが、なんというか後ろ姿だけだが非常に雰囲気が軽薄な気がしてならない。自分はこの男性と“会ったこと”すらないのに、何故にこんな感慨を持ってしまうのか?いや、それどころではない。此処は師匠の人払いの結界が貼られている。それを抜けてくる以上、ただの一般人と考えるのは難しいだろう。とにかく、拙は師匠の側へ。

 

 

 グレイ、エルメロイII世は白いローブの男性の僅かな動きも見逃さないように警戒する。

 

「グレイ、こんな夜中にすまんが荒事になった時は頼んだ」

 

「はい、師匠は拙が守ります」

 

 

 白いローブの男がゆっくりと立ち上がる。それに合わせて、男の足元に花が咲き始めた。これは何らかの魔術かと二つは口元を抑えて距離を取ろうとする、のだが。

 

 

「あぁ、いやいや、そこまで警戒しなくても良くないかい?私はちっとも怪しくないし、いたって平和的かつ温厚な優しいお兄さんだよ?」

 

 

 その説明は無理がある気がする。この状況で自分は無害などと言える精神の図太さは凄いが、そんな言葉を信用できないのが魔術師の世界。とにかく、捕獲だけでもしようとグレイが踏み出すと。男は一瞬で自分の目の前に出現していた。瞬間移動、いや自分の直感ではこれは幻術の類い……

 

 

 まったく、相変わらずいたずらが好きな老人だ。昔から少しも変わっていないことにグレイは頭を痛め……思考にノイズが入る。今の思考はなんだ。拙はこの男性を知らない、会ったこともない。突如として生じた記憶の齟齬が脳内を激しく混乱させる。

 

 なのに何故にこのような感想を?それにこんな若い青年の姿なのに、老人と呼んだのは一体?

 

「失礼だが、貴方は何者なのかね?こんな状況で意味ありげに出てきたんだ。正直、今回の調査やら報告やらで私の胃は限界なので、言いたいことがあるなら早急に済ませてくれ。特に何もせず、謎だけを残していくというのなら、黙ってお引き取り願おう」

 

「ウハハッハハハハ!おい、やるじゃねーの先生よぉ。そうだ、そうとも、こんなクソ詐欺師の与太話なんざさっさと放って寝ちまうのがいいのさ。まぁ、夢にまで出て執念深くダラダラ長話を聞く羽目になるだろうが、夢なだけマシってもんだ。なんせ、起きちまえば忘れる泡沫だからな!」

 

 

「……む〜、おかしいな。ここまで警戒されて冷たくされるとは。いや、擬似人格とはいえハッチャケ過ぎじゃないか?私の前でそんなハイテンションだった彼の記憶は無いんだが」

 

 白のフードを被ったローブの男性は首を捻って、仕方なさそうにグレイの方に体を向ける。

 

「遥かな時を越えて生まれた王の影法師よ。君には色々と謝罪しなくてはね。いや、まぁ私だけでなくご先祖とも言える隻腕の騎士も君という存在を待ち望んでいたわけだが」

 

 

「ハッ!よく言いやがるな、クソ野郎。純粋無垢なあいつをテメェの話術で騙くらかしたんだろうが。このクソ詐欺師め、なんで此処にいやがるんだ。世界の終わりまで塔に引きこもってるんじゃなかったのかよ」

 

 アッドが箱状の体を揺らし、鋭く白いローブの男性に追求を行う。そして、グレイとエルメロイII世はこの会話から、白いローブの男性の正体を理解する。塔に引きこもる、いや閉じ込められたという伝承だろうが、そのような逸話の持ち主はアーサー王伝説の伝承の中で一人だけが該当する。曰く、キングメーカーと称される騎士王に仕えた宮廷魔術師。

 

 

 その魔術師の名は、マーリン。人と幻想種の間に生まれた半人半魔の花の魔術師。遥かな過去からの訪問者に、グレイたちは戸惑いを隠せない。

 

 

「無論、体は塔の中にいるままだ。これは単なる幻術を此処に映しているだけさ。ああ、話がズレてしまったな。では、気を取り直して。……グレイ、君がかつてのブリテンに存在した騎士の王、彼女に似ているのは世界の楔たる聖なる槍の担い手となるを期待してーーーーーーではない」

 

 

 ーーーー?彼は何を言っているのだろう。その言葉が真実であるなら、何故に拙は騎士王の生き写しとなったのか?聖槍を扱う存在へと昇華することが、かつての拙の親類や血族たちの悲願だったのでは無いのか?それが違うのならば、拙はどうして白、黒のはっきりした存在ではなく白でも黒でもないグレイ(どっちつかず)になったのだろう。

 

 

「白でも黒でもない(グレイ)だからこそできることもある。君に求めるのは、ただ一つ。かつての約束を果たして欲しいからだ。()にも(英霊)にも成りきることなく、(アッシュ)としてこの世界に彼は留まり続けている。既に去った主人を待ち続け、燃えぬ薪として世界の片隅にいる彼と彼女の約束を完了させてくれ。それが私と騎士(ベディヴィエール)の願い、この願いは断ってくれても構わない。これは君個人は何の関係もないことだろう、でも頼んだよ。おっと、そろそろ時間かな?それじゃあ、私はこの辺りで舞台から降りるとしよう。……”ボク“は信じているよ、君たちが織りなす結末が幸福と喜びに満ちていることをーーーー」

 

 

 マーリンはそれだけを言い残すと、まるで砂漠の蜃気楼のように影も形もなく消えていく。残されたのは、拙と師匠の二人だけ。まるで白昼夢を見ていたような混乱した気分になる。

 

 

 修道院……思わず、その方角を見てしまう拙に師匠は苦い顔をして葉巻を吸う。

 

 

「し、師匠。拙は、拙は……」

 

「……正直なところ、あんな不審人物の話術に嵌められて思い通りに動くのは危険極まりない。もし、修道院にまで行って、そこに待つのが特大の厄ネタだったら目も当てられない。しかも、これは騎士王がらみの話である以上、君が君という存在を無くす可能性もあるだろう。……それでも決めるのは君だ。君だけだ」

 

 決めるのは拙?…………騎士王に関連する事柄に関わるということ、それが自己の消失を招く恐れを抱かせる。しかし、決断を行うのなら……

 

「拙は……行ってきます。行かなくてはならないと、自分自身で覚悟を決めました」

 

「……そうか、なら少し待て。修道院に行くならば周到な準備が必要だ」

 

 師匠の気持ちは嬉しい、けれど……

 

「いえ、師匠。グラストンベリー修道院には一人で行ってきます。直感ですが、きっと修道院には恐ろしいものが待ち構えているでしょう。きっと、拙だけでは師匠を守りきれない。だから、お願いします。必ず帰りますから、此処で……待っていてください」

 

 そう、待っている。約束して約束を交わした相手と出会いを待つことを続けるのが、どれほど難しいのか。待つためには約束を信じること、そして約束の成就を望み待つことが求められる。待ち続けるために相手を信じるか、いやもしかしたら、修道院に待つ何者かは信じてもいないのかもしれない。信じているから待つのではなく、ただ待つことが信じることの証となることを決めたのだ。

 

 

「……そうか、ならば早く帰ってこい。遅くなるようなら置いて行く。だから、必ず帰って来い」

 

「はい……では師匠、行ってきます。」

 

 

 拙は師匠のテントを後にする。修道院に向け、足を懸命に動かす。走れ、走れ、一歩でも早く更に向こうへ。向こうの先に、アッドの入った檻を小脇に抱えて修道院に向かっていく。

 

 

 修道院の手前にまで到着をしようと言うところ、拙は急停止のためにブレーキをかける。この急制動によって、靴底が磨り減る。拙の停止した先、そこには尖った形状をした兜と外套を纏う亡霊のような姿の騎士たちが並び立っていた。直剣と短剣を持ち、直剣を前方に構え短剣を肩に置くように姿勢を取った。あれは、マズい。今の拙ではあの騎士たちには敵わない。

 

 

 聖槍の発動をするには時間が足りない。

 

 ならば、どうするのかと思わずアッドに視線が向いてしまう。

 

 

「……へっ、心配はいらねぇよ。あいつらは監視者だ、この先にいるヤツに着いて回るだけの幽鬼どもだ。それにグレイ、お前なら心配は必要ねぇから早く行け」

 

 

 アッドの声を知ってか、知らずか、亡霊の騎士たちは隊列を分け道を作った。

 

 まるで割れた海を渡る預言者の伝説のごとく、騎士たちは隊列を分け修道院までの道となる。グレイは数秒、迷いそして修道院に向かって駆けて行く。

 

 走る最中、拙はアッドの口数が少なくなっていることに気づく。まるで、この先に待つ相手を知っているかのような沈黙。拙はアッドに沈黙の理由、そしてこの先に待つ相手のことを聞こうとして、拙の視界が一転する。そこには夜中の修道院までの道のりではなく見渡す限りの草原。

 

 

 辺りを見回すと、近くに金髪の少女が立っている。拙が彼女に向かって手を伸ばそうとすると、少女はこちらに振り向いた。金髪の少女は、驚くべきことに拙と顔が全くの同一、いや拙が酷似し同一なのか?

 

 

 彼女は笑っていた。優しそうに穏やかに微笑む姿を、綺麗なものだと感じる。

 

 

「ーーーー頼みます。私の友を、友と交わした約束を。その全てを頼みます」

 

 

 彼女の独白の後、気がつくと拙はグラストンベリー修道院に到着していた。騎士王の墓所は目と鼻の先。そこに向かっていこうとすると、墓所の隣には巨大な大剣が鎮座している。その剣を見て思考が燃え上がった。灰色のーー、王に仕える忠実なーーーー、騎士王の支えとなったーー、大事なことが思い出せない。記憶が所々、剥離して失われているという実感に恐れが起きる。

 

 

「誰だ……大事な存在、忘れたくない存在、忘れてはいけない存在、思い出さなくてはいけない存在、拙は何で……思い出さなきゃいけないのに……誰なんですか、名前は!」

 

 

 グレイの悲しみを込めた涙の哀哭に呼応するように、修道院内に遠吠えが響く。大気が焼け焦がれ、火の粉がまるで雪のように降り始めた。

 

 

「アッド!」

 

 

 箱型の魔術礼装が担い手の意思に応じて形状をキューブから死神の鎌(グリム・リーパー)へと変形する。鎌を構えて周辺警戒に神経を注いだグレイは、数秒の索敵によって騎士王の墓の後方に尋常ならざる怪物の気配を感じ取る。あれは死者すら殺戮するだろう、あれは生者を灰燼に帰すだろう。あれこそはブリテンにかつて存在した極大の幻想。至上にして究極の一。

 

 

 いわゆる異星よりの来訪者、他の天体から降り立った恐るべき捕食者(プレデター)。神秘も幻想も、あれの前では紙風船ほどの強度も保てまい。あの灰色の怪物(アッシュ)からすれば全ては容易に空想と妄想に朽ち果て、世界から完全に絶滅するだろう。それは死という絶対的な終わりよりも恐ろしい終焉に違いない。

 

 

 (アッシュ)、煌々と燃える火でなければ、火を燃え続けさせる薪でもない。あれは正しく(アッシュ)である、燃え尽き崩れて風に流され散っていく灰。ブリテンの繁栄と衰退を見つめ、多くの騎士や主人さえも喪った中で永劫に訪れることのない待ち人を待ち続ける殉教者。

 

 

 騎士王の墓の後ろから緩慢な動きで、灰色の怪物がその全貌を見せる。それは狼だった。人間と比べるよりは重機や建築と比べる方がわかりやすいくらいの巨躯。灰色の毛並みに透き通るような純粋な眼光。しかし、あの巨狼の周囲には火の粉が舞い、篝火のような明るさを放っている。

 

 

 拙が鎌を持つ手の力を抜いて近くへ迫ろうと試みる。灰色の巨狼は静謐に佇んだまま、拙を見つめている。その瞳からは野を駆ける動物の警戒心は見受けられない。かといって、外敵に対して無防備ということでもない。(アッシュ)とグレイが接触する。グレイは巨狼の首筋を恐る恐る割れ物にでも触れるかのように軽く触る。

 

 

 火の粉を発する巨狼に触れるが火傷をするような温度はなく、暖かな篝火のように感じる。触れた瞬間、この灰の中に込められた情報が拙の魂へ流入する。それは拙が騎士王に近すぎるが故に起きたことか、はたまた狼型の異界に触れたことで拙の担う聖槍が想起されたのか。

 

 朧げな断片であれ、情報は獲得された。

 

 

 この灰色の巨狼は、信じられないことに生命でありながら独立した一個の世界として確立されている。しかも、その世界は既存の世界や異星といった世界ではなく、これまでに類を見ない異界。いや、この異界は果ての果て、人の世界の規範たる人理が焼却、破却された時に人の世に生きとし生きる者を全て焚べる、暗黒の火の時代を呼び起こす。

 

 

 狼という形に惑わされたが、これは化け物という(くく)りですら、認識が甘い。幻想種?吸血鬼?英霊?獣?どれも危険でこそあれ、この巨狼はその意思一つで人理を滅ぼしうる。

 

 

 神、悪魔、災害よりも、この“ーーーー”は恐ろしい。

 

 

 拙は背中を向け、臆面なく逃げようと覚悟を決める。これは拙、一人の手に余る。例え、なんと言われてもこれほど異質な存在と対峙し続けては心が精神が摩滅しかねない。

 

 

 冷や汗が止まらず、背筋が凍りついたような時、狼は優しい瞳で拙を見据えていた。それは懐かしむように、慈しむように、癒すように。拙は足の力が抜け膝をつく。

 

 

 涙が止まらない、何故!?拙はこの狼を知らない、知っていてもそれは騎士王という別の誰かの思い出でしかない。此処で一思いに後ろを向いて去れば、この物語は約束は終わる。もう二度と拙の前に立ちふさがることはないだろう。

 

 なのに、何故動かない!?

 

 

 ある場面が見えた。

 

 灰色の巨躯の狼が咆哮を轟かせている。その透き通った双眸からは大粒の涙を流して……そうか、これが騎士王の約束とただ一つの心残り。

 

 

 王は選定の剣を抜いた時、“笑っている誰かがいた”だから間違いではないと言葉にしていた。でも、それだけではなかったんだ。涙する誰か(巨狼)もいた。それが唯一、王の犯した間違いであり誓いだったのだ。約束する、友よ。待っていてください、いつか騎士王の系譜が貴方に追いつく。

 

 

 その時、貴方の名を呼びましょう。

 

 私が貴方に初めて出会い、そして呼ぶことになった約束の名を。

 

 

 金髪の少女は、拙の後ろに立ち困ったように微笑んでいた。私事に此処まで巻き込んでしまい申し訳ない、というように。騎士王、いや既に王としての責務を果たした少女は拙に告げる。

 

「……無理に付き合う必要はないのです。此処で立ち去る権利も貴女は持っている。しかし、願わくば、彼の名を呼び、彼を救ってください。それがアーサー(騎士の王)ではなくアルトリア(ただの少女)となった私の願う真実……」

 

 

 

 

 

 ………………………………

 

 拙を育てた親類は聖槍と騎士王の再来を待ち焦がれていた。全ては王と交わした誓いのために。拙の血族たちはいつだって、誓いを果たすというたった一つの道を進んできた。いつだろうと真っ直ぐに愚直なまで最短の道を突き進んできた。けれど、いつのまにか誓いを交わした意味とそこに込められた尊い思いは失われ、最短の道は最大の遠回りとなり、願いの成就はもはや不可能に近いものとなっていた。けれど、拙という一人が、誓いの場所に相手の元に辿り着いた。

 

 

 無限とも愚かとも思えるような遠回りを重ね、拙は此処に至った。

 

「……此処まで遠回りをしてきた。けれど、遠回りこそが拙たちの最短の道だった。遠回りこそが王と彼の約束へ至るための近道だった!」

 

 

 

 

 

 

 グレイと呼ばれた少女は狼の首元に手を当て、慈愛の笑みをもって巨狼を抱きとめる。後ろにいたアルトリアという少女はもう影も形もない。けど、彼女の思いとその願いはグレイの胸を焦がしていた。この出会いこそ、王とその王の最期を看取った騎士の願いの果て。

 

 

 拙と同じ色をした髪の女性とも見紛うほどの造形美をした騎士の姿が見えた。彼もまた、罪悪感を浮かべた笑みをこぼし、それでもなお、誓いの成就を願っていた。

 

 

 そう、物語のエンドマークは此処でつけなくてはならない。

 

 でも、これが終わりではないのだ。“アルトリア”と“ーーーー”の物語は遥かなる理想郷の再会に。

 

 

 それでは、名を告げよう。果たされなかった誓いを果たし、彼を主人の元へ導くために。

 

 

 

 

「……貴方の名前は」

 

 

 




タイトル回収コーナー


「…………いや、だから俺の名前はシフね」




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