ピピピッ、ピピピッ
「………うぅ?」
耳元から鳴り響くけたたましいアラーム音が、烏丸の鼓膜を激しく揺らす。
アラーム音に追い立てられ、死んだ魚の様な眼を開き、掛け布団から這い出る。
ハイライトを失った目でスマホを探し、アラームを切ってからベットに放り投げる。
「……ゔぁー」
人では理解出来ない言葉を吐き出しながら台所の冷蔵庫にへのそのそ向かう。その足取りからは知的生命体の「ち」の字すら感じ取れない
白物家電の冷蔵庫を開けると、そこにはこれでもかと言うほど「い◯はす」が詰め込まれており、最低限の食材以外は全てそれに埋め尽くされている
その中から一本を無造作に取り出し、緑色のキャップを捻る
開けた「いろは◯」を一息で全て飲み干す
音を立てながら凄まじい勢いで水を飲んだ烏丸は水を得た魚の様に生き返り、目に光が戻る
「ふぁー‼︎生き返ったーー‼︎」
彷徨う亡者から寝惚けた青年に蘇り、近所迷惑な声を上げる
「…そういや、八一の奴。今日清滝九段と対局か」
ペットボトルを潰してゴミ袋に投げ込むと、今日の予定を思い浮かべる
九頭龍は今日、『弟子』として『師匠』である清滝九段と対局する日となる
だが、その結果を烏丸はそうそうに決め付けていた
(昨日見た感じだと、八一の負けは無いな)
どうせガチガチに固めた穴熊使って勝つんだろうなと他人事の様に考えて、再び冷蔵庫を開け放ち「い○はす」を取り出す
「○ろはす」の封を開け、呷ろうとした瞬間、寝室のスマートフォンからの着信音が耳に届いた
「………誰だよ」
水を飲もうとした時に邪魔されたせいか、不機嫌になりながらもスマートフォンを取りに寝室に向かう
烏丸は寝室のベットに転がっているスマートフォンを手に取る。スマートフォンの液晶には「浪速の白雪姫」と映し出されている
「………うげぇ」
液晶に映し出された人物を見て思わずうめき声をあげる。烏丸にとって、この『白雪姫』とはそれほど苦手な相手なのだ
数秒間逡巡するが、もし無視したら将棋盤ちゃん(三〇〇万円也)を持って殴りかかって来ることが決まっている
まだローンが残っている将棋盤で殴られたくは無い烏丸は、大人しく通話ボタンを押し、スマートフォンを耳元に当てる
「…もしもし」
『遅い。何してたの?』
電話に出ると、硝子の様に透き通った声が耳に入ってくる。「美人は声まで美しい」とは、よく言った物だと思う
「…寝てた」
『ぶち殺すぞわれ』
睡眠を取ったら命が危ぶまれた。どうやら、この美しい妖精は死を呼ぶ妖精らしい
「ひでぇな…」
通話ボタンを押して耳元に当てると、烏丸の耳元に飛んで来たのは脅迫であった。
普通の一般人ならまだしも、彼女からの脅迫は冗談に聞こえないのが辛いところだ
脅迫に突っ込んでも『暖簾に腕押し』、『糠に釘打ち』状態になる事を烏丸は知っているので、さっさと要件を聞き出す事にした
「…で、要件は何だよ?」
『用が無いとかけちゃ駄目なの?』
「お前は俺の彼女かよ…」
『な、ぶ、ぶち殺すぞわれ‼︎』
突如響いて来た大声に思わずスマートフォンを耳から話してしまう。その後、『浪速の白雪姫』事『空 銀子』に抗議する
「急に大声だすなよ!耳に響くだろうが‼︎」
『うるさい‼︎お前が揶揄うのが悪い‼︎」
何を焦っているのか、銀子はまくしたてる様に烏丸を非難する。だが、その様子が益々烏丸を苛立ちを爆発させる
「あぁそうかい!要件無いんだよな、じゃあ切るぞ‼︎」
『ま、待って‼︎』
売り言葉に買い言葉で喧嘩腰になり、通話終了のボタンを押そうとすると、銀子から静止の声が掛かる
それを聴き、心底嫌そうな顔でスマートフォンを耳元に戻した
「…なんだよ、早く言え」
『今日、八一と師匠の対局』
改めて銀子から出てきた言葉は昨日八一から聞いた話題だった
「知ってる。昨日八一から聴いた。それで?」
『対局の意見が聴きたいから、一緒に来て』
成る程、どうやら『白雪姫』は将棋について話す相手が欲しいらしい
その場にいる人に頼めと言えばそれまでだが、彼女にそんな友人がいない事も烏丸はよく知っていた
電話をしつつ、視線をカレンダーに向ける
烏丸の順位戦は一昨日に終わったが、結構重要な対局が明後日に迫っているが、偶には休憩も良いだろうと早々に決め、誘いを承諾することにする
「時間は?」
『え?…今から』
烏丸の答えを予想していなかったのか、驚きの声を上げた後今すぐきて欲しいと銀子は告げる
「わかった。場所は将棋会館だろ?現地で待ち合わせで」
『あ、ちょ』
そのまま通話終了ボタンを押し、スマートフォンをベットに投げ捨て、寝室を後にする
リビングにあるクローゼットを開き、灰色のジャージから自前のワイシャツに赤のネクタイ、黒いスーツに着替える
対局では無いのだからスーツじゃなくても良いのだが、あの『空 銀子』と一緒に居るのにダサい私服では釣り合わない
着替えを済ませた後、洗面所で歯を磨いて顔を洗い、髭を剃って寝癖を直す
公衆エチケットを整えると、洗面所に置いてある赤の眼鏡入れから紅の眼鏡をかける
全ての工程を終えた後、黒革の肩掛け鞄にスマートフォンと財布、暇つぶし用の『将棋世界』を詰め込む
玄関で赤のスリッパから黒い革靴に履き替え、そのまま外に出る
玄関に鍵を閉め、鍵を懐に放り込む。そのまま関西の将棋会館に向おうとすると…
「あ、あの‼︎」
「ん?」
烏丸が玄関から出ると、後ろから幼い声が掛かる。こんな処で?と疑問に思いつつ後ろを振り返ると、ランドセルを背負った黒髪の可憐な美少女が立っていた
大きくて愛くるしい瞳は此方を捉えており、用があるのは自分だと判断する
「…どうしたの?」
「えっと、く、くじゅりゅ師匠のお部屋は何処ですか‼︎」
少女は何度か噛みながら、此方に驚愕の事を聴いてきた
「…え?」
烏丸は今一度、聴いた言葉を頭の中で反芻する。聞き間違えだろうか、『九頭龍師匠』と聞こえた気が…
「えっと、九頭龍師匠って言った?」
「はい、その通りです‼︎」
少女の元気な声での肯定を受け、烏丸は頭の中で何通りかの選択肢を出現させる
A、九頭龍に事情を聞く
B、九頭龍を問い詰める
C、九頭龍を通報する
「流石にCは無いな…」
「あ、あの…」
選択肢を選んでいると、少女は不安そうな顔で此方を見上げている
「あぁごめん。君、名前は?」
「はい!私の名前は『雛鶴 あい』って言います、よろしくお願いします!」
此方に対し、丁寧なお辞儀をした少女は『雛鶴 あい』と言うらしい
…何処かで聞いた名前だ
後藤は頭の中から『雛鶴 あい』という名前をサルベージする為、頭を回転させる
暫く沈黙するが、生憎答えが出てこない
必ず聞いた事があるはずなのに、靄がかかったかのように思い出せない
何故こんな所に、というかなんで九頭龍を師匠呼ばわりして居るのか、様々な疑問が湧いてくる
「あいちゃんは、なんで九頭龍の事を師匠って呼んでるのかな?」
「えっと、くずりゅう師匠と約束したからです‼︎」
九頭龍と約束?どう言う事だ?
少なくとも烏丸は九頭龍から「今日女子小学生が弟子に来る」なんて聞いていない。聞いていたら間違いなく九頭龍を通報しただろうし
雛鶴あいからの答えを聞いた烏丸の中で益々疑問が増えていく
雛鶴あいの言っている事は本当なのか?もし本当ならなんでこんな小学生の女の子を弟子にとったのか?
思考を働かせ、様々な憶測を建てていく
(警察に連絡した方が良いか?)
烏丸の頭の中にはこの場での『最善』が浮かんでくる。だが、それと同時にそれがこの子の『詰み』である事も直感的に理解する
この時期、この時間にランドセルを背負った少女が一人でいる、はっきり言って異常事態だ
多分彼女は家出をして来たのだと簡単に想像がつく
一人の社会人としては、ここは素直に親御さんか警察に連絡するのが筋だろう
…だが、烏丸はプロ棋士である。真っ当な社会人では無いし、正しい常識など持ち合わせていない
烏丸はしゃがみこみ、雛鶴あいに目線を合わせる。雛鶴は少し怯えた素振りを見せるが、それでも視線を烏丸から外さない
「ねぇ、あいちゃん。君、将棋は好きかい?」
「えっ?…はいっ、大好きです‼︎」
烏丸は雛鶴あいの答えを聴くと楽しそうに笑った。急に笑った後藤を雛は不思議そうに見ている
「あの…なにか、変な事を言いましたか?」
「いや、なんでも無い。少し待ってろ」
「はい?」
烏丸は立ち上がると今さっき閉めたばかりの自宅の扉を開け、再び家の中に入る
冷蔵庫とお菓子箱から『い◯はす』と大量の駄菓子を取り出してビニール袋に詰め、リビングのコルクボードに引っ掛けられた黄色の鍵を無造作に取る
棚に入っている『将棋世界』を何冊か持ち、玄関から再び出る
突然の出来事に頭に『?』を浮かべるあいを横目に九頭龍の家に向かい、黄色の鍵を差し込んで『開けた』
「ええっ⁉︎な、なんで鍵を持ってるんですか⁉︎」
「うん?あぁ。お互い何かあった時のために鍵を渡してあるんだ。ほらよ」
九頭龍の自宅の鍵を開けた事に驚くあいを無視し、大量の駄菓子と『いろ◯す』の詰まったビニール袋と何冊かの『将棋世界』を押し付ける
「あ、あの、これは…?」
「俺が面倒見れれば良いんだけど、生憎用事があってな。九頭龍に用があるならあいつの家の中で待っててくれ。あいちゃんの事は九頭龍に伝えておくから」
余りの出来事にあわあわしている雛鶴に、烏丸は早口で色々とまくし立てる。その様子からは小学生への配慮が一切感じられない
「い、頂けません!こんなの…」
「そんじゃ、俺は関西の将棋会館に行くから。水分ちゃんと取れよ‼︎」
「あ、ちょっと‼︎待って下さい!」
未だ遠慮しようとする雛鶴を置いて、烏丸は颯爽とその場から走り去って行った
結果、どのような結末になるとも知らずに…
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「行っちゃった…」
私に大量のお菓子とこの『将棋世界』なる雑誌を託した眼鏡のお兄さん…おじさん?は何処かに走って行った
九頭龍師匠の家を教えて貰い、あまつさえ家の鍵まで開けて貰ってしまった。…と言うか、私は家の中に入って良いのだろうか?
「あ。私、お兄さんの名前教えて貰ってない」
私にお菓子と本をくれたあの人は一体何者なんだろうか?九頭龍師匠とお知り合いみたいな感じだったけど…
「…あれ?」
偶々視線が貰った雑誌の表紙に行く。表紙にはさっきまで話していたデカデカとお兄さんが写っていた
「…えっ⁉︎」
『将棋世界』と名付けられた雑誌の見出しには「三度のタイトル防衛を果たした烏丸二冠に聞く、現代の将棋‼︎」と書かれている
慌てて本を捲ると、其処にはさっきの人がインタビューが掲載されていたのだ
「あの人、プロ棋士だったんだ…」
『二冠』がどういうものかわからないが、九頭龍師匠とお知り合いという事はきっと凄いに違いない!
「今度将棋を指して貰おう!」
私は烏丸さんがどんな将棋を指すのか、とても楽しみになっていた
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「…遅い」
「浪波の白雪姫」こと『空 銀子』は将棋会館の中で苛立っていた
苛立ちの原因は言わずもがなあいつ。九頭龍八一と師匠の清滝九段の対局なのに正午近くまで寝てた愚か者である『烏丸 博之』の事だ
対局が始まってもう直ぐ二時間。そろそろ優勢と劣勢が明確になって来る頃、それなのに一向に目当ての人物はやって来ない
余りの苛立ちに目がいつも以上に鋭くなってしまい、周りの人たちを威圧して居る
「…彼女、か」
銀子は先程の電話で烏丸が口走った虚言をふと思い出す。彼女、彼女、私が…
「ッ‼︎」
何を考えて居るのだろうか。相手はあの烏丸なのだ。現在将棋界を席巻する人物、とてもじゃないが私が釣り合う相手では無い
そもそも烏丸も八一に負けず劣らずの将棋バカなのだ。此方の感情など…
「(ブンブン)‼︎」
「な、なぁ。空さんは何をやってるんだ?」
「さ、さぁ?将棋の事について考えているんじゃ無いか?」
こんな風に勘違いされるのも全部遅れて来る烏丸が悪い。そう、全て烏丸が悪いのだ
「ぶち殺してやる…!」
取り敢えず、烏丸に当たる事は明白だった
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交差点などの信号に多く捕まったせいで、多少遅れて烏丸は会館の中に入った
会館の中には記者や関係者が多く見受けられ、今日が九頭龍の対局の日だと言うことがわかる
「おい、来たぞ…」
「白雪姫の待ち人か…?」
烏丸の姿を見た人達が、ヒソヒソと話し始める。その様子を怪訝に思ったが、先ずは目当ての人物である『白雪姫』を探す事にした
辺りを見回すと、その人物は直ぐに見つける事が出来た
光を反射する眩い銀色の髪。人形の如き精巧で気高い印象を見たものに植え付ける美貌
学校指定であるセーラー服を身に纏う白の妖精
蒼の鋭い視線が此方を射抜き、今にも殺しそうな…
(なんでキレてんだ?)
烏丸は此方を殺さんとばかりに睨みつける銀子に対し、タイトルの防衛戦以上の緊張感を持った
銀子は首をもたげ「上に来い」と伝えると、何も言わずに階段を上がって行った
余りの様子に呆然としていると、後ろにいた将棋会館の局員から声が掛かる
「烏丸二冠、お久しぶりです。白雪姫と何かあったんですが?」
「いえ、何も…」
「浮気ですか?銀子さんは夫が浮気したら背中を刺しますよ、間違いなく」
「浮気どころか付き合ってすら無いんですが…」
「ハハハ。ご冗談を、ではこれで」
局員は突如話を打ち切り、逃げる様にどこかへ行ってしまった。何故突然?と思ったのもつかの間、突如凄まじい殺気が烏丸の体を貫いた
恐る恐る階段を見ると、そこには絶対零度の視線を讃えた「難波の白雪姫」が此方を睨んでいた
「『早く来い』か…。俺、先輩なんだけどな…」
烏丸はため息を吐くと、トボトボと階段へと足を運んだ。何故怒っているのか、その理由を頭でひたすら考えながら