現代将棋とは、研究が全てである。
相手の得意戦法を元に研究を積み重ね、相手の動きを封じる動きをする。ゲームで言う『メタる』と言う行為だ。
将棋ではこう言った対策の対策が必要不可欠であり、これをしなければ勝つことなど到底不可能。
これが、『普通』のプロ棋士の考えである。
だが、目の前の烏にそんな常道はない。好きなように羽ばたき、好きなように餌を喰らう。
それでいて、欲しいものは全て掻っ攫って行く。まさに、鴉そのもの。
そんな物の怪相手に、正攻法で勝とうとした俺が間違っていたのか。
打たれた一手に、思わず意識が飛びそうになる。今まで積み上げて来たナニカを手放すような感覚。
が、その衝動を根性を持って耐える。
倒れそうになる身体を袴で支え、睨みつけるように盤を見る。
そうだ。俺には、これしか無かった。
5歳で駒を握ってから19年間、ひたすら研究して、それを積み重ねることしか出来なかった。
利き手である右手を袴に押し付け、自身を強く鼓舞する。
だから、これくらいの事で投げ出すわけにはいかない!俺には、俺の常道があるのだから!
飛車を手に持ち、盤に叩きつけるように指す。すると、烏丸二冠は間を置いてから歩を動かす。
彼の本領である早打ちは使わない気らしい、舐められたものだ。
「負けられない…!」
思わず口から言葉が溢れ出す。その声が聞こえたのか、眼前の烏丸二冠も口を動かしたが、肝心の声は聞こえなかった。
口元に笑みを浮かべた烏が、嘲笑うように俺を見ていた。
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『戦局が一気に様変わりしましたね。これは分からなくなって来ました』
『中盤の烏丸二冠の飛車打ちから流れが変わりましたね。まさか、あそこで飛車を打つとは…』
解説者の口から遊びが消え、真剣に勝負を見定め始める。
戦局は一気に様変わりした。重厚なせめぎ合いから一転、飛車を軽快に動かす速攻の流れへと変わった。
その変わり様は、まさに『変貌』といって過言は無かった。現に流れているコメントは『やばいぞこれ‼︎』『烏丸二冠も凄いけど、凌ぐ福丸七段も凄いぞ』『凄まじい対局だな、録画必須』など、興奮が露わになっている。
今の俺に、こんな将棋が指せるだろうか?
竜王になってから全く勝ててない俺に、こんな将棋が指せるだろうか?
思わず歯をくいしばる。出来ない、俺には、こんな将棋は指せない。多くの人を魅了し、『これぞタイトルホルダー』と言わしめる将棋なんて…。
「…師匠?どうかしましたか?」
隣にいたあいの言葉で、暗くなっていた思考に火が灯る。こちらを見るあいの目には心配の感情がこもっており、俺を心配していることが手に取るようにわかった。
そうだ、俺が弱気になってどうする!
純粋に俺の事を最強だと思っているあいに、こんな姿を見せられる訳がない。
確かに今は無理だ。けど、いつかは必ず手が届く!
「いや、何でもない。それより、対局に集中しよう。こんな対局、滅多に見られないぞ」
「はい師匠!頑張ってお勉強します!」
自信げに返事をするあいに、つい俺の口元も綻ぶ。弟子も、案外悪いもんじゃないかもしれない。
(…明日の対局、絶対に勝つ)
心意気を新たに、再び画面に集中した。
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『…負けました』
たった5文字の言葉で、5時間に及ぶ激戦が幕を閉じた。
125手目、福丸七段。投了。
『盤王戦』挑戦者決定戦一番目は、僅差で俺に軍配が上がった。
激戦という言葉以外に言葉が見つからない、そう思えるような一局だった。
…と、普通の人なら考えるだろう。
実際のところ、序盤の方でこちらの対策をしている事は、こちらの攻めを的確に潰してきた事から読むことが出来た。
持久戦に持ち込んでこちらを圧死させようとした事も、手に取るようにわかった。
だから、敢えてそれに乗っかったのだ。
もし生半可で、底の浅い研究なら上から潰せば良いい。
だが、もし完璧な研究をしてきたのであれば…。
それを打ち破ってこそ、本当の意味で強者になれる。俺の目標は、『盤王』をとって三冠になる程度の低い目標ではない。
なにせ俺は、将来全ての棋士を敵に回すことになるのだ。ひとりの研究くらい正面から打ち倒さなければ、目標を達成することなど到底不可能だ。
無言の感想戦を終え、1人夜の街を歩く。冷たい夜風が頰を撫で、高揚していた気分が収まっていく。
…阿呆らしい。なに強気になったんだ。
先程までの自分の考えを振り返り、思わず死にそうになる。
もしあそこの飛車打ちを潰されていたら、対局の結果は変わっていただろう。所詮俺は、相手の意表を突いただけに過ぎない。
他にも序盤の攻め方、中盤の展開、終盤の詰め。思い返せば思い返すほど自身の悪いところが頭に浮かんで来る。
あんな体たらくで全棋士の頂点立つなど、お笑い種になる事間違いなしだ。
「…理想からは遠いなぁ」
俺の目指す、『最強の将棋』を指す為に、俺は一体どれくらい時間をかければ良いのだろうか?
そもそも、『最強の将棋』なんて存在するのだろうか?
「そんなの、なって見なきゃわからないよな」
近場の自販機からいろ◯すを購入し、木製のベンチに腰掛ける。キャップを開けて一口煽ると、冷たい水が喉を通る。
「…うん?」
そういえば、自分が水しか飲まなくなったのはいつからだろうか。
もちろん、他のものが飲まなくなった訳ではない。タイトル戦の前夜祭では多種多様な飲み物が並び、それを飲まなければならない時もあるからだ。
たが、私生活ではもう水しか飲まない。他のものが喉を通らないのだ。
…まぁ、そんなことはどうだっていい。別に水しか飲まないのがなんだって言うんだ。
俺は棋士。ようは、対局に勝てば良いのだ。
過程はどうでも良い。全ては結果に依存するのだから。
「…次の対局も勝つ」
一つ一つ前へ、それが将棋の唯一の『王道』なのだから。
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あと一歩、届かなかった。
そう、言い訳をする他ない対局だった。
無言の感想戦を終え、タクシーで駅へと向かう中。流れていくネオンの輝きを見て、そう思っていた。
散々研究した、それでいて負けた。
中盤からの速攻。あれは、いままでどの対局でも見せていない形だった。
あの化け物は、一体幾つの引き出しを持っていると言うのだろうか。
「…あれで18歳か」
才能、という簡単な一言では終わらないナニカを、彼は持っている。
だが、若い才能の塊は彼だけではない。
『関東の白棋士』との異名を持つ「」や、最年少『竜王』を獲得した「九頭竜 八一」。今の若い世代は、きっと将来の将棋界を背負っていくに違いない。
「もっとも、先を譲る気は無いがね」
意図せず、口元が獰猛に笑う。
彼らが『才能』を持って襲い来るのであれば、俺はそれを『経験』を持って吹き飛ばそう。
彼らが『意外性』を持って襲い来るのであれば、俺はそれを『常道』をもって撥ね返そう。
今回は負けてしまったが、俺にはまだ次がある。
しっかりと研究を積み重ね、経験を積み上げていく。
それが、俺の将棋なのだから。
そこで一旦思考を止め、ただ流れる景色を眺める。ぼんやりと輝く街並みは、どこか温かみを感じる光を放っている。
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『もしもし、烏丸先輩?』
『対局、見ました。凄いとしか言えないほどでした』
『俺には、まだあんな将棋は指せません』
『けど、今日の対局、絶対に勝ちます』
『俺は、『竜王』だから』
『録音を、停止します』
電子音が止まり、耳元から携帯電話を離す。録音の内容は、ひとりの棋士の覚悟だった。
とうとう、『竜王』が目を覚ましたのだ。
「…これは、おちおちしてられないな」
口では不安を出しているが、暗いせいで表情を見ることは出来ない。
「今日は研究漬けだ。夜食買って来るか」
暗かった部屋の鍵を開けて、外に出る。
そこには、嬉しそうに笑う烏が立っていた。