朝早く、まだ太陽もその姿の全てを見せていない時間帯。
暁美ほむらは右手にバケツ、左手にモップを持っていた。
ギャラクトロンが起動し、光によるスキャニングを行い、ほむらを『理解』する。
ほむらの目的を理解したギャラクトロンは、そのままその場所で動かない。
その不動を、ほむらは"掃除することを受け入れた"のだと解釈した。
「……約束だったわね。
『この戦いが終わったら、その薄汚れた体を私が掃除してあげる』って」
この世界でない世界。この時間でない時間。ここでないどこか。
このギャラクトロンでないギャラクトロンとした約束を、ほむらは果たそうとする。
水掃除をする時、難点となることはなんだろうか?
そう、低い場所で汲んだ水バケツを高い場所に運ぶことである。
これが案外辛いのだ。
水は運ぶ途中で溢れるし、運ぶのが辛い割に運べる量は多くない。
だがほむらは、魔法で格納すれば重い物も軽々運んでいける。
そういう意味では、暁美ほむらは見滝原で最も掃除に向いた魔法少女であると言えた。
「私が洗うまでもなく、今のあなたは綺麗だったみたいだけど」
額に汗して、不慣れな手つきでせっせせっせと機体を洗う。
不器用で、上手いやり方を知らないが、約束を頼りに懸命に続ける。根気強く続ける。その掃除のやり方は、暁美ほむらの人生そのものだった。
「ギャラクトロン。
あなた、本当に厄介だけど……
まどかが生きている内は、本当に頼りになるのよね」
鹿目まどかが、生きている内は。
ギャラクトロンは人類を裁定するためにここに在る。
鹿目まどかが居るからこそ、ほむらにもよく分かっていない謎の理由で裁定が中断されているだけで、まどかが居なくなれば裁定は再開される。
死亡でも。
魔女化でもだ。
ほむらはその目でちゃんと見ている。
"まどかが居なくなった後"、地球の文明をリセットし始めたギャラクトロンの暴虐を、今でもはっきりと覚えている。
ただ、ほむらからすればどうでもいいのだ。
まどかが居なくなった後の地球がギャラクトロンに滅ぼされようが、どうでもいい。
ほむらは大前提として、まどかが失われた時点で時間を遡行するのだから。
ギャラクトロンは人類文明において最悪の来訪者である。
だが、ほむらからすれば絶対に敵には回らない、まどかの味方で在り続ける、最高の味方だ。
その行動原理上、ギャラクトロンはほむらの活動期間の間――まどかが健在の間――まどかだけの絶対的な味方として機能する。
ギャラクトロンは心をこじらせない。
ギャラクトロンはまどかを魔法少女に誘導しない。
ギャラクトロンはインキュベーターを敵視する。
ギャラクトロンは魔女にならない。
ギャラクトロンは負けない。
ギャラクトロンは、まどかを何がなんでも守ろうとする。
しからば、人類にとっては最悪で、ほむらにとっては最高であることはまず間違いない。
「ギャラクトロン。あなたの中のまどかの評価に差異は無いのかしら」
一通り洗い終わって、ほむらはギャラクトロンにワックスを塗り始めた。
ちょっと花の匂いがするやつである。
「まどかの心は
とことん丸く、ぶつかっても他人を傷付けない。
光り輝き、透き通っていて……叩かれれば、容易に砕ける。
何かを言いかけ、ほむらは人の気配を感じて言葉を止める。
「おはよう、暁美さん。意外な一面が見れたわね」
「おはよう、ほむらちゃん」
「……あんた何やってんの?」
朝、学校に行く前にギャラクトロンにワックスがけしているほむらを見て、マミとまどかとさやかは何を思ったのだろうか。
マミの言動からは、以前に感じられた言葉の棘が減っている。
まどかの声色はなんだか生暖かい。
さやかの発言には露骨にバカにした響きがあった。
「転校生、あんたこいつと仲良いみたいだけど……何隠してんのさ?
このロボットはなんでまどかの言うことだけ聞いてんの?
あんたの言うことは聞かないけど、あんたはこのロボに好意的みたいだけど」
「あなたが知る必要のないことよ」
「……ちょっと!」
無愛想に何も応えず、その場を去ろうとするほむら。
その肩を強引に掴み止めるさやか。
ほむらが不快そうに顔を顰め、さやかは苛立ちを隠さず、二人の間に一触即発の空気が流れ―――二人の間に割って入ったマミが、微笑んだ。
「喧嘩はよくないわ。そうでしょう?」
「っ」
「……」
マミは私人としてのみ付き合っていると、いい人過ぎて信頼できて、いい人過ぎて騙されないか心配になってくるタイプ。
戦闘者としてのみ付き合っていると、最初は可愛らしさもある美人に見えるが、次第に女子中学生の皮を被った呂布に見えてくるタイプ。
呂布とは違って裏切らないし心優しいのが唯一の救いか。
ともかく、マミが間に入ればほむらも迂闊な行動には出られない。
呂布を与し易い相手と思う者などいない。
呂布は手を尽くしても勝てないから呂布なのだ。
マミに仲裁されれば、さやかもあまり大きくは出られない。
ほむらもまた、さやかとマミの両方に目で訴えられ、まどかに無言の"聞きたい"圧力をかけられては、黙りこくっているわけにもいかなかった。
「私が何でも知ってるだなんて思わないで頂戴。私が知っているのは……
ギャラクトロンが他の宇宙で、他の宇宙のまどかと何かの約束をしたということくらいよ」
「約束? ロボットが人と約束して、人を守ってるっていうの?」
「ギャラクトロンは交わした約束を忘れていないだけよ。
交わした約束を忘れず、たった一つの大切なことを胸に刻む。
人間でも、機械でも……
同じものを見て同じ想いを抱いたなら、その胸の内を理解できないことはないわ」
さやかはほむらが気に食わない。
冷めた目つきで、淡々とした口調で、執着のない諦めた声色で語る、本心を見せないほむらが気に食わない。
だが、今一瞬ほむらの言葉に熱が宿ったように思えた。
本心が垣間見えたように思えたのだ。
ほんの少しだけ、さやかのほむらを見る目が変わった。
相も変わらず、いけ好かないやつだと思われてはいたが。
「ギャラクトロン……さん? くん? も、おはよう」
まどかがギャラクトロンにも声をかけた。
誰よりも先んじて、柔らかく微笑んで朝の挨拶を告げる。
なんとまあ現金なことに、まどかが話しかけた途端、超高速でギャラクトロンは反応した。
"まどかの声かけに返答する"、ただそれだけのために、昼まで寝ようと思ってぐーすかしていた杏子をどこからか引っこ抜いてきて、会話用インターフェースとして利用する。
コードが杏子をぐるぐる巻きにして、コードの一本が耳から頭の中に入り、杏子の『声』をギャラクトロンが利用できる状態となった。
「な、なんだなんだなんだ!?」
『おはようございます、まどか様』
揺り起こされた杏子が、ボーカロイドの如くその声を利用される。
胸部に格納された杏子・杏子を格納したギャラクトロンが同じ声で喋るために、意識して聞き分けないと二人の声は聞き分けられない。
コードを鬱陶しげに振り解こうとする杏子と、ギャラクトロンの足元から見上げるマミの目が合った。
「……佐倉さん」
「んだよマミ、その目は」
マミの視線は悲しみ混じりの、申し訳無さそうな視線。
杏子の視線は後悔混じりの、拒絶感を滲ませた視線。
一歩踏み出し、歩み寄ろうとする意志を見せたマミに対し、杏子はマミから逃げるようにその顔を逸らした。
二人の間には、かつて共闘し最終的に喧嘩別れした者達特有の気不味さがある。
「馴れ合うつもりはねーぞ。あたしも強引に連れて来られて迷惑してんだ」
「……」
「あたしらはとっくに袂を分かってんだ。
また鬱陶しく近寄って来たらあたしも容赦しねえ。
あんたもあたしも基本的にウマが合わねえんだ、そうだろ?」
杏子がぶっきらぼうに言って、マミが少し傷付いた顔を見せた。
二人の会話は、同じ過去を共有するこの二人以外の誰もが割って入ることを許されないもの。
人の心があれば、ここに割って入ろうとは思わないだろう。
『虚偽である』
「あ?」
『個体・佐倉杏子の本心と言動はかけ離れている。直結再生開始―――』
人の心が、あればだが。
『ウマが合わないとは言ったけど、嫌いじゃない。
気に入らないとは言ったけど、憎んでなんかない。
ああ、あたしはまた余計なこと言っちまった、くそっ』
「!? おいコラてめえ黙れ!」
『あたしの自業自得だってのは分かってる。
ああ、でも、あの頃のこと謝りたかったんだ。
謝りたかったのに、何喧嘩売ってんだ、あたしは……』
「黙れっつってんだろ!」
ギャラクトロンは杏子の声で、杏子の頭の中をストレートに垂れ流す。
やがて垂れ流すのをやめ、ギャラクトロンは自分の言葉を語りだした。
『人はすぐそうして争いの種を撒く。
真実を語らず嘘偽を語る。
和解の機会を遠ざけ、争いを望む。
この星の生態系は残虐であり、争いを生む虚言はそれ以上に醜悪で……』
「うるせええええええええええっ!!」
ギャラクトロンは許さない。
命と命の争いを、その残虐な行為を許さない。
無意味な争いを、心のすれ違いを原因とする争いを許さない。
食物連鎖という攻撃行為さえ許さないギャラクトロンが、精神的なものを理由とする敵対関係を許すだろうか? 許すわけがない。
争いを止めるのがギャラクトロンの存在意義であるからして、彼がこの状況で優先する行為はマミと杏子の抹殺だ。
それで二人の争いはなくなる。
だがそれはまどかに禁止されているために、杏子の嘘を暴いたというわけだ。
マミは照れたような、困ったような、それでいて少し嬉しそうな苦笑を浮かべ、頬を掻いて杏子に呼びかける。
「……少し、長くなるようなお話がしたいわ。佐倉さん、久しぶりにお茶会をしない?」
「うるせえ誰が行くか!」
『本当は行きたい―――』
「黙ってろてめえ! このっ、このっ、コード外れねっ……!」
杏子は全身、特に頭に絡みつくコードを外そうとするが外れない。
魔法少女に変身しても、頑丈なコードは切れる気配すら見せない。
強引に外しても大丈夫そうだというのは感覚で分かっているのだが、コードがとにかく頑丈で、絡みつくそれが取れないのだ。
けれども、外せなければ頭の中身が垂れ流される生き恥が続いてしまうわけで。
杏子が哀れでいてもたってもいられなくなったさやかが、コードを解くのに手を貸し始めた。
「ちょっとちょっと、暴れたら更に絡むでしょうが。
杏子って言ったっけ? ちょっと待って、あたしが解いてみるから」
「お、おう、サンキュー」
『いいやつだなこいつ』
「あたしの頭の中を勝手に喋んじゃねえぞこのクソロボ!」
そんなギャラクトロンと杏子とさやかを、まどかとほむらが見つめている。
まどかはギャラクトロンの行為をいいことと見ればいいのか、悪いことと見ればいいのか判断がつかず迷っていて、ほむらの視線には殺意すら宿っていた。
殺意がある。あるのだが……ほむらはギャラクトロンのその行為を間違っていると言うことはない。
ギャラクトロンのその行為が、結果オーライの和解を招くことを知っていたからだ。
「ほむらちゃん、ギャラクトロンさんって……」
「あいつはああいう奴よ。人の心が無いの」
ほむらの頭の中に、嫌な想い出がじんわり蘇る。
ギャラクトロンに暴露された記憶が、その後なんやかんやで仲間が出来た記憶が蘇る。
あのコードは『この時間ではないかつての昔』、ほむらの頭にも繋がっていて、ほむらの頭の中身を仲間に垂れ流したこともあったから。