ハリーは走った。僅かな音も立てないように、慎重に、しかし迅速に、そして杖を構えながら。
暗いパイプ菅を通り抜け、扉を潜り抜けた先、神殿のように造られたその場所に、スリザリンのローブを纏った、見たことのない青年がいた。
「インペリオ 服従せよーー! 」
「ーーは…?」
ドラコの声だ。姿は見えない。服従の呪いが、反対呪文など必要ないと展開された障壁を破りーー青年の右肩を捉えた。
青年は余裕を保った顔のまま、目の色だけを驚愕へと変えた。
だが、それも一瞬のことだった。
呪いに蝕まれた青年は、だらりと身体を緩和させる。小さな笑い声を漏らした後、目は焦点を失った。そして、幸せの最中にいるような、そんな表情を晒した。
服従の呪いは、見た目では呪いが成っているかの判断が難しい。
術者であるドラコは呪いに手応えを感じていたが、不安はぬぐい切れなかった。
呼吸を乱しているドラコの顎を伝って落ちる冷たい汗の玉が、透明マントに覆われた石床に染み込む。
静寂の中、連続して物と物がぶつかるような音と、先ほど耳にしたキーキー声がハリーの耳に届く。
「杖を捨てろ、リドル」
一拍。
リドルが持っていたジネブラ・ウィーズリーの杖は、その手を離れる。
「バジリスクを無力化させろ」
「ーーーーー」
震えた声で出すドラコの命令に、リドルは蛇語をもってそれに応えた。
バジリスクはとぐろを巻き、その中心に自らの顔を埋めた。そんなバジリスクの様子を、リドルが感情のこもらない声で淡々と説明する。
「オブスキュロ…」
ハリーは、陰からバジリスクを対象に目隠しの呪文を唱えた。ここに来るまでに考えていたことだ。敵がバジリスク、そしてロンの妹がいること、トムリドルが操っていること、元凶がドラコの父親であることを、ドビーの口から聞かずとも、知り得ることができた。
バジリスクに抵抗する様子はない。杖の先から吹き出た靄は宙を駆け、バジリスクの顔に吸い込まれていった。
黒い靄は、うぞうぞと蠢きながらバジリスクの両眼貼り付いて、視界を覆い隠す。
手応えを感じたハリーは念を押して、もう一度オブスキュロを唱える。ドラコに、こちらに気づいた様子はない。
「…」
バジリスクは身じろぎもしない。
しかし、それでもハリーは緊張を解くつもりはなかった。
沈黙が場を重く支配する。意識をすれば、互いの呼吸音がハッキリと聴き取れてしまうほどだ。
ドラコが、震える口元を片手で押さえながら、ゆっくりと口を開く。
「答えろ。お前は、どこから来た」
「日記から」
リドルの返答を受けたドラコは、それらしきものを探してみるも、見当たらない。
ドラコは視線を外し、再び口を開く。
「そこの、ウィーズリーはどうなるんだ」
「このまま死ぬ」
「っ…生き残る道はないのか」
「僕が消えれば、あるいは」
ごくり、とドラコの喉が鳴った。
「…お前は、どうすれば消えるんだ」
「分霊箱本体に…強力な呪い、もしくはそれに相当するモノをーー」
「は…?」
思わずといった様子で、ドラコは視線を辺りに巡らせた。
ハリーと目が合う。
ドラコは目を見開いたが、すぐにリドルへと視線を戻した。
「それは、何だ」
「分霊箱とはーー」
「違う。説明は聞いてない…あ、もしかして日記のことか…?…そうだ今日記は、どこにあるんだ」
「それは、ここにーー」
リドルの言葉が途中で途切れた。呪いが途切れた感覚はない。ドラコは、一気に警戒度を上げた。ハリーも、反射的にバジリスクに杖を向ける。
しかし、警戒すべきはリドルでもバジリスクでもーーそのどちらでもなかったのだ。
『クルーシオ』
この時までは全くと聞こえなかった、少女特有の甲高い声が二人の鼓膜を揺らした。
「えっあ、あっあ…ああああああああああああああああああああああ───!!!」
磔の呪いが、ドラコの身体を、心を蝕む。純粋な苦痛が無抵抗のドラコを襲う。
石の床に身を投げ出し、四肢をばたつかせる。纏っていた透明マントが剥がれ、ドラコの姿が暴かれた。
地面に横たわったまま、ドラコに杖を向けているジニーがいた。
「ドラコ!!」
ハリーは悲鳴を上げながら、杖を前につき出した。
そして、ジニーに向けて武装解除の呪文を口にするーーしかし、それはジニーに当たることなかった。線上に飛び込んできたバジリスクによって防がれてしまった。
バジリスクの鱗は強靭だ。並の魔法ではその防御は突破できない。
しかし、弱点はある。
幸いなことにオブスキュロも未だ健在だ。剥がそうとしてバジリスクが床に擦り付けているが、粘着質に蠢くそれは外れそうに見えない。
ハリーは、ドラコの現状に悲鳴を上げそうになりながらも、なんとか頭を切り替えて別の手段を取った。
「エイビス! サーペンソーティア!」
小鳥の群れ、加えて一体の蛇が出現した。これらは、ハリーが制御できる精一杯の数だ。
標的を意識する。
先ずは、目だ。目隠しだけでは駄目だ。こうなってしまったら、バジリスクを傷つけることに躊躇いはない。
バジリスクの顔を見ないようにして集中する。多少狙いがずれてもいい。数で勝負だ。
ドラコの悲鳴が頭に響く中、ハリーは歯を食いしばりながら、魔法の操作に意識を置いた。
「オパグノ 襲え!」
バジリスクに、鳥の群れと蛇が殺到する。
魔法の後押しを受けた蛇が、バジリスクの顔面へと飛びつく。
バジリスクは、目隠しをされているとはいえ、音で何かが向かってきているのに気づく。
口蓋を開けて、蛇をその毒牙で噛みちぎった。
しかし、それは囮だった。
直後に殺到する鳥の群れに、死を与える両眼を潰される。
バジリスクは声にならない悲鳴を上げ、その身を大きく仰け反らせ暴れ狂う。
バジリスクが退いたことで、その向こうの景色が、ハリーの目に映る。
リドルが、ドラコに杖を向けていた。持っているのはドラコの杖だ。
リドルの表情は、怒り一色に染まっていた。
「クルーシオ」
磔の呪いが重ねがけされる。ドラコの身体が弓なりになって、固く冷たい地面を跳ねた。
「やめろーー!エクスペリアームス!!!」
ハリーは、気が狂ったように武装解除の呪文を連射する。ハリーの杖から幾つもの光線が飛び出す。その全てが、リドルを呪わんと一直線に向かう。
しかし、それらはリドルの杖のひと振りで消し飛ばされた。
嘲るような笑い声が響く。
「こんなものが、この僕に通用するとでも?動揺しているのかな、ハリー・ポッター」
再度、リドルが磔の呪文を口にした。
ドラコが絶叫する。何度も何度も頭を地面に打ちつける音が、ハリーの心を締め上げた。
「やめろ、やめろーーエクスペリアームス!ステューピファイ!ディフィンド!」
「だから、そんなものじゃ無駄だって…それにしてもこの杖、最悪な使い心地だ」
またしても、ハリーの呪いは防がれる。
そして、リドルが磔の呪いを再度ドラコにかけた。
ドラコの絶叫が、ハリーの脳を揺らす。
沸き上がる怒りと相手に通じないという絶望感で、ハリーはおかしくなりそうだった。
「もう…君はバジリスクに相手してもらいなよ。僕は、こいつを折檻するのに忙しいんだ。あとにしろ」
もはや、リドルはハリーを見ていなかった。憎々しげに口角を吊り上げて、ドラコだけを見つめていた。
リドルが命令し、バジリスクがハリーに襲いかかる。目を潰されたのだ。バジリスクは怒りの咆哮を上げながら、ハリーに牙を向く。
ハリーは、動揺しながらも何とかバジリスクに意識を割く。まずこの蛇を何とかしなければ、ドラコを助けられない。
不意に、ハリーは不思議な感覚に包まれた。まるで、ずっと前からこの蛇を知っていたかのような、奇妙な感覚だ。
無意識のうちの行動だった。バジリスクの怒りの声に込められた感情を感じ取った瞬間、ハリーは1つの呪文を選択する。自分の使える魔法の中でも、しばらく避けていた今ですら、最も長けているといえる魔法。
額の傷から、痛みがパッと、初めから存在していなかったかのように消え去る。
人間、蛇。今のハリーに、境目は存在していない。
本来ならば、心を通わせるために使われるべき手段だった。しかし、それが、確かな悪意をもって、ハリーの口は動いていた。リドルの耳には届かないほどの小さな呟きが、蛇の王へ向かわんとする。
( レジリメンス 心を)
術者の力量によるが、相手の心をこじ開け、その感情、記憶までもを読み取り、暴く魔法だ。
ハリーの、最も得意と言える手段“だった”それに今、明確な意思が加わった。さらに、蛇の言語にてその魔法は形となった。
現実の時間にして一瞬。
しかしハリーとバジリスクに絆が繋がれた。
ハリーは視た。長い間眠りにつき、磨耗されていく自我。孤独すら忘れ、ただ継承者を待つだけの生。
時を逆行する。
穴だらけの記憶を、ハリーは視た。
人がいた。
自分と目を合わせても、何ともない主人。生まれたその日から、祝福をくれた、ただ1人の、自分の主だーーなぜ、忘れていたのだろうかーーーー
そんなもの、どうでもいい。
邪魔をするな。
ハリーは、意識を急速に浮上させた。視界が冷たい景色を取り戻す。
影を感じて見上げれば、バジリスクが直ぐ近くで悠然と佇んでいた。
ハリーは、言い様のない何とも奇妙な感覚を覚えた。記憶を見たせいだろうか。意思に関わらず、心を侵した存在に親近感を感じてしまう。
バジリスクの姿を一瞥して、ハリーはリドルへと武装解除の呪いを飛ばす。
しかし、それはまたしても防がれた。
リドルはドラコに苦痛を与えながらも、ハリーへの警戒を怠っていなかった。
視線は外そうとも、リドルには、もはや始めのような油断は存在しない。
ハリーが放つ呪いの弾幕に、リドルは溜め息を吐いて、最硬の守りを展開した。
「“バジリスク、ハリーを殺せ”……?なぜ反応がない…偉大なるスリザリンの怪物よ!その程度か!!……チッ、インペリオ!!」
彫像のように固まって動かなくなっていたバジリスクが、ピクリと動いて反応を見せた。
そして、自我を失い操られたバジリスクは、リドルの命令に従いハリーに襲いかかる。
「“ディフィン…」
そこで、呪文は途切れる。
ハリーは、バジリスクを掌握したと思い込んでいた。バジリスクに襲われる可能性を頭から排除してしまっていたのだ。
これが本来の力なのだろうーー服従の呪いで操られたバジリスクは、これまでの倍近く素早かった。
ハリーの身体は、バジリスクの体当たりを受け、ボールのように地面を何度も弾んで転がった。
「あれ、どうしたんだいハリー。もう戦わないのかな?」
滅びを前にしても、理性を持って戦え。
ハリーの脳裏でムーディの言葉が繰り返される。しかし、その言葉を与えた当の本人は、まさか今のハリーとドラコの状況を予期していたわけではない。
彼らの教官であるムーディは、学生ーーそれもまだ低学年である彼らに、当然まだ実戦を経験させていない。
故に、彼らは知らなかった。闇と戦うことがどういうことなのかを。無論、彼らなりの心持ちで臨んではいたが、初陣の相手としてはあまりにも無謀だった。
ハリーの身体は、反射的に受け身を取っていた。日頃の訓練の賜物だろう。あまりの衝撃で、四肢への衝撃は防げなかったが、頭への衝撃は何とか流していた。
口の中に広がる鉄の味。力の入らない腕。
ハリーは、痛みに呻きながら瞼を上げる。
目の先に、ドラコの姿があった。
ドラコは、悲鳴を上げることを止めていた。
生気を感じられない顔、糸が切れたように動かない姿は、まるでーー
「まあ、いいや。どうやって未来の僕を、とか色々聞きたかったけど…ここで死ぬんだし。じゃ、さよならだハリー」
バジリスクが、こちらを向いていた。
今度は、大きく口を開けている。
何本もの牙が糸を引きながら、ハリーを狙っていた。
ハリーは、立ち上がった。
ポケットに手を入れてーーハリーは、ただのひと振りの果物ナイフを掴んだ。しかし、腕は上がらなかった。
スルリとと、ハリーの皮膚を裂きながらナイフが手から滑り落ちる。
毒牙はもう、すぐ目の前に迫っている。
「ハリー」
どん、とハリーは押された。煽られた身体は、力に逆らうことなく尻餅をつく。その衝撃でもたらされた激痛がハリーを襲う。
しかし、そんなものはどうでもよかった。
すぐ目の前に、ドラコがいたのだ。
うつ伏せに倒れたドラコは、こちらに向かって両手を伸ばしている。ハリーはその手を掴もうとした。
「ハリー…」
朦朧とした意識の中、ハリーが感じたのは安堵の感情だった。
よかった。無事だったんだ。なのに、ドラコはなんでそんな顔をしているんだろう?
いいや、そうだ。
ドラコがいるんだ。ドラコがいれば…僕達二人ならば、何にだって負けない。だから…
ーーあと少しでドラコの手に触れるか否か、ハリー眼前からドラコの姿が消えた。
「…?」
ハリーは目を丸くさせて、きょろきょろとドラコの姿を探した。
ドラコは?
リドルと、倒れたジニーとバジリスクの後ろ姿。いくら見渡そうとも、それだけ。
「この僕が欺かれていたとは。認めよう、ドラコ…似ているな、マルフォイ家の者か?紛れもなく優秀な魔法族だ。失うのが惜しい」
リドルの声が遠くに聞こえた。
ーー背を向けたままのバジリスクが、口があるだろう位置から何かを落とした。棚から物を落としてしまった、そんな音。
灰色の世界で、目映いプラチナブロンドが輝いた。
「ドラコーーーー!!!」
ハリーは駆け出した。
ハリーの声にバジリスクが反応を見せる。
「“退けえ!!消えろーー!”」
「な、ーー」
ハリーの発した“蛇語”は、意思と魔法力をもって、バジリスクに掛けられている服従の呪いを上書きした。
無理に身体を動かす力が無くなった途端、バジリスクは力尽きるように、ゆっくりと地面に倒れ伏した。
「ドラコ…ドラコ」
涙と洟を流し、足を絡れさせながらドラコに駆け寄るハリー。
ついには転げ額を強く打つ。眼鏡のつるが折れて皮膚を浅く切るが、ハリーは構わず顔を上げた。
ヒッと息を飲む。
杖を取りだそうとするが、手は空を切るばかりだ。
「ポケッ…ト」
恐怖に顔を歪ませ、小さくしゃくりを上げるドラコが震えた声で呟いた。
ハリーはハッとなって、ドラコのローブのポケットから小物入れを探し当て、中から1つの瓶と石を取り出した。
血に染まった服を捲る。
幾つもの穴が空いて、血がどくどくと流れていた。胴体を庇った両手は更に酷く、大きく肉が削がれている。
ハリーは、瓶を満たしている液体を躊躇うことなく振りかけた。
「…なんで!!」
「そんなものが…バジリスクの呪いの毒に効くわけがないじゃないか」
傷は塞がらない。
ハリーは半ばパニックになりながら、1つの石をドラコに飲み込ませる。バジリスクの毒に対して解毒効果があるのかは分からない。しかし、無いよりはきっとましだ。
ゴボリと、ドラコが血の塊を吐き出した。ハリーは、体内に溜まった血を吐き出させようと介護するが、ドラコは苦しげに呻くだけだった。
「ハリー…父上のことは…」
言わないで。
血と涙が混ざりあったドラコの唇が、小さく震える。
ハリーには何の反応も、頷くことすらもできなかった。ただ、半人前以下の治癒呪文をかけ続けるしかない。
謝罪も、励ましの言葉も、何一つ頭に浮かばなかった。
治れ、治れ、治れ。
追い詰められた少年の精神は、極限に達しようとしていた。
「可哀想に、ドラコは楽に死ねないよ」
リドルが楽しげな調子で言う。
「バジリスクの毒は、そんなものでは中和できない。しかし、多少は作用するだろう。ああ、そのまま失血死でもさせてあげたら楽に逝けただろうに。ハリー、君は残酷だ」
リドルがくすくすと笑う。
ハリーは、その声を何とか無視しようとした。
しかし、できない。
リドルの声は、弱ったハリーの心の中にずぶずぶと沈み込んでいく。
「僕が死を与えてあげようにも、この杖じゃ多分無理だろう。余程、その死にかけに忠誠心を捧げているらしい。ご立派なことだ。どうやら、磔の呪いも効きが悪かったようだし」
リドルは、倒れているジニーの側から杖を拾った。
そして、もう用はないとばかりに、ドラコの杖をゆっくりと力を込めてへし折り、投げ捨てた。
「さあ、ハリー…ここにいるのは、もう僕と君だけだ…そうだな、せっかくだ。
ーー決闘だ。杖を持て、ハリー。幕引きには適当だろう。決闘の仕方は知っているか?」
このまま杖を一振りして、殺してしまってもよかった。
しかし、リドルのプライドがそれを許さなかった。たかが2年生にここまでされたことが、屈辱だったのだ。
「ーー」
ハリーは、微動だにしなかった。ただ、ドラコの手を強く握り締めている。
「チッ」
リドルが舌打ちをして、杖をひと振りする。
ハリーは強制的に身体を動かされ、落ちている杖を拾い、リドルの正面に立たされた。
ハリーの目には、もはやリドルの姿は映っていない。色を失い、全てが灰色に変容した景色がそこにあった。
「ハリー、正しい決闘の仕方を教えてやろう。まずは、お辞儀をーーいや、その前に自己紹介もまだだったか」
ハリーの前に、文字が浮かび上がった。
TOM MARVOLO RIDDLE
ぼんやりと光るそれが、ゆっくりと動く。リドルが杖を一振りすれば、それらの文字の並びが変わっていく。
I AM LORD VOLDEMORT
ハリーの目が、ゆっくりと見開いていく。
信じられないものを見るかのように、ゆっくりと驚愕に染まっていく。
そしてーー
「紹介が遅れたね。知っているだろう?僕がーーヴォルデモート卿だ」
ハリーの視界が、闇に塗り潰されていく。
「ヴォルデ…モート…?」
「そうさ。僕はーー」
肯定。
あとに続く言葉はどうでもよかった。
目の前にいるのが、ヴォルデモート。その事実だけで十分だった。
こいつが。こいつが?
父さんを、母さんを。
ドラコまでも。
僕から、奪うのか。
止めどなく溢れる感情が行き場を失い、ハリーを決壊させる。
ハリーの瞳から、濁った涙が溢れ出す。
「クルーシオーー苦しめ!!!」
闇雲に連射するハリーの呪いは、リドルを護る盾を突き抜けた。得意気に口を開いていたはずのリドルが、今度は絶叫を上げる。
リドルの身体は宙に浮かび上がり、磔にされるかのように、空中で十字に固定された。
ドロドロとした感情が、ハリーの額から広がり、身体中から流れていく。視界を暗く落としたそれに、ハリーは何も感じなかった。
ハリーは、溢れ出す感情に身を任せていた。
感情の奔流に呑まれていく中、ふと、既視感を覚えた。
いつだっただろうか。前も、こんな気持ちになったことがある。
ーーそうだ。夏休みだった。
閉じ込められて、暗闇で、寂しくて、何でこんなことになったのかって考えて。
全て、こいつのせいだった。
ヴォルデモートさえいなければと、そう思ったんだ。
だから、もし生きていたとしたら。
「ゆるさない…」
そう、
どれほどの時間が過ぎただろうか。リドルの煩わしい囀りが止み、その身が半透明になったころ、ハリーは磔の呪いを終わらせた。
リドルは、べちゃりと地面に落ちて潰れた蛙のような声を上げた。
ハリーは、引き寄せの魔法で、リドルの側に落ちている杖を奪う。くるくると回りながらやってくるそれを、ハリー難なく掴み取った。
余裕のあったリドルの顔は、ぐちゃぐちゃだ。
ざまあみろ。
もう一度苦しめてやろうか。そうだ、何度でも、何度でも、何度でも。ドラコが受けた苦痛はこんなものではない。
でも、とハリーは杖を上げたところで思い返した。
心が痛むわけではなかった。
もう1秒足りとも、こいつの、ヴォルデモートの声をこれ以上聞きたくなかったのだ。
ハリーは、涙に濡れて滲んだ視界を袖口で拭うーー眼鏡が無いことに気づいた。
何で見えるんだろう。
割れた眼鏡を拾って、少し考えて、今はどうでもいいことだとその疑問を切り捨てる。
ハリーは、未だに屈辱に濡れるリドルに杖を向けた。その眼光だけで呪いの1つでもかけられそうだが、ハリーは気にも止めない。
呪いは決まっていた。
使ったことはない、知っているだけの呪文。
必要とされるのは、瞬間的な魔力の強さと量。そして、それらをコントロールするための、精密な魔力操作。全てが規格外のものだ。
どれも、自分にはないものだ。
しかし、ハリーには確信があった。記憶の海の底、最も古い記憶にあるよく分からない緑色の閃光がハリーに自信を与えていた。
それが何であるのか、今ならば理解できる。
これこそが、今必要なイメージである、と。
「
その呪詛が、整然たる殺意を必要とすることを、ハリーは知らない。
「待て」
呪いの言葉は、続かなかった。
突然吹いた風、後ろから伸びてきた大きな手に、掴まれたからだ。すぐにその声が、その手が誰のものか分かった。
しかし、今となってはどうでもよかった。
ハリーの瞳には、顔を固く強ばらせたスネイプは映っていない。
掴まれた腕を払おうとしてーー
「…?」
ハリーは気づいたーー驚愕した。
暗闇の中にあった視界に色が生まれる。突然訪れた興奮で、心臓が破裂しそうだ。
信じられない。本当にそうなのか?似ているだけじゃないのか?目の前の出来事は本当に、本当なのか。違う、本当に存在していたのだ!
それが載っている魔法生物の本の、ページ数まで頭に浮かぶ。
スネイプの背後の、少し上。
そこに、不死鳥が舞うように翔んでいたのだ。
「ぁ、うあああーー!ドラコ、ドラコに!!不死鳥の涙をーー!!」
「ッ!あ、ああ。…我輩が言う必要はないようだ」
不死鳥が、ドラコへと一直線に翔んでいった。
ハリーは、必死な表情でそれを追った。力が抜けた四肢を地面つけ、這いつくばりながら追った。
まだ、まだ…ドラコは生きているはずだ。だから、まだ間に合うとハリーは心から祈った。
拭ったばかりの目から涙が溢れても、気にもしなかった。
そして、ドラコに何滴もの雫が落とされた。
「先生…ドラコは、ドラコは…」
ハリーは、すがる思いでスネイプを見つめた。
一瞬、びくりと身体を揺らしたスネイプだったが、杖をリドルへと向けたまま、ゆっくりとドラコへ近づいて状態を確認する。岩のように難しい表情で、スネイプが口を開いた。
「マルフォイは、磔の呪いを受けたな…不死鳥の涙の効力を十全に受けきれず、毒が完全には消えていない。…これだけでは足りえない」
「先生!!ドラコをーー」
「落ち着け、我輩が用意しよう。必要なものは、そこにあるのだ」
スネイプは、力なく地面に倒れているバジリスクを指した。
ハリーはそれを確認して、スネイプがうなづくのを見て、全身の力を抜いた。地面に衝突するような勢いで、パタリと倒れ込んだ。
涙が、止まらなかった。
目尻から伝った涙が、冷え切った地面を温かく濡らす。
それは先程とは違う、キラキラと澄んだ涙だった。
「ポッター…そこの男は誰だ。ホグワーツにあのような生徒はいない」
ハリーは、リドルの存在をすっかり忘れてしまっていた。
ハッとなって目だけを向けると、立ち上がったリドルが憎々しげにこちらを睨み付けていた。
「あなたは…スネイプ教授ですね?」
「さよう」
スネイプの軽快な肯定に、リドルの口元が醜く歪む。
「ーーよかった。僕は…ヴォルデモート。正確にはヴォルデモート卿の過去の記憶だ。さあ同士よ。あなたのことは、ジニーを使って調べさせてもらったよ」
「……」
「事実、あなたからには正しき者の気配がある。あの老いぼれとは違ってだーー悦べ。ヴォルデモート卿はここに復活するのだ」
リドルは、高らかに宣言した。
スネイプが、ハリーに前に背を向けて立ち塞がった。
ハリーからは、スネイプがどんな顔をしているか見えなかった。
「…闇の帝王は、未だその命を完全には失ってはいない。…お前は、何なのだ」
「僕は記憶だ。本体のことは今はわからない。…でも、そうだな、此れから本体を探して合流してもいいな。ーーそして晴れて、ヴォルデモート卿の完全復活だ」
不穏な会話だと思う。しかしハリーには、こんな会話を聞いても、スネイプを疑う気持ちは少しも起きなかった。
確固たる理由などない。スネイプの真っ黒な背中を見て、そう思ったのだ。
「…では、闇の帝王と繋がりがないと?」
「繋がりはあるよ。ただ、本体は弱体化している上に、ここは遠すぎる。ある程度近づけば分かる」
「…そうか」
「そうだ。だから、まずそのガキをーー」
「
その一つの呪いで、リドルは沈黙した。血が噴水のように辺りに飛び散った。
「ガキを、何と?聞こえませんな」
スネイプは、ねっとりと口元を歪ませながら言った。
ハリーは、スネイプの大きな背中から怒りと憎しみを感じ取った。
ただの憎しみではない。
これは、そう、自分と同じだ。
その時、ぱさりと何かがスネイプの前に落ちてきた。
ハリーが上を見上げると、不死鳥がくるくると回っていた。
「ああ、なるほど。これが貴様の依り代か。なんと脆弱か…これならば」
地を這い蹲るリドルが、血相を変えて喚いた。
スネイプは、それを一瞥して杖を眼下へと向ける。
炎が吹き出した。
唸り声を上げるように、ごうごうと地の底から響くような音を立てながら広がったそれは、瞬く間に収束する。
そして、一つの動物のかたちーー雌鹿の形をとったのだ。
「ーーー、」
スネイプが何かを呟いたが、ハリーの耳には届かなかった。
ただ、聞こえなくとも、ハリーの胸は締めつけられるように痛くなった。
雌鹿は、主の言葉に頷くかように首をひと振りして、日記帳へとその脚を静かに下ろした。
『リリー…私は……僕は…』
リドルの消滅を見届けた後、ハリーの頭に割れるような痛みが襲いかかる。
気を失う寸前。くぐもったその言葉が今度ははっきりと、きこえた。
雄鶏が鳴いた。
就寝時間を除いて、定期的にーードラコによってーー鳴るその音は、今では生活サイクルの一つになっている。実際に、時間の区切りとして重宝していた生徒もいたようだった。
今は、朝ではない。
日の光がレースのカーテンを通って室内をミカン色に染め上げている。窓ガラスの枠の影と、その中にある自分の影。ハリーは、ベッドの上で上半身を起こしながら、ぼやけた視界でそれを見つめていた。
「めがね、めがね…」
「…ハリー、起きたのか」
「…ドラコ?」
「うん」
酷い脱力感のせいで、ハッキリしていなかったハリーの意識は、急激に覚醒した。
「ドラコ…無事、どこにいるの」
「落ちつけ、隣だよ。無事さ」
「……はぁ…よかっ…」
身体から一気に力が抜けていく。ハリーは、ドラコの声の調子でわかった。
声は、かすれて小さかったが、ドラコは無事だ。決して元気とは言えなさそうだが、仕切りのカーテンの向こう側に、確かにそこにいる。
「ハリー、ごめん」
「…なんで。なんでドラコが…だって、僕のせいでドラコは…」
上手く話せない。
あの時の光景を思い出した。
蛇に貪られ、血だらけになった、ドラコの姿。
全て自分の責任だ。
「最初は僕だ…僕が油断したからだ。本当に君が無事でよかった…それに、あの時ああしたから、君を守れたんだ。だから僕は、何も間違っていない。絶対だ。もちろん、君もだ。ハリー、僕と一緒にいてくれて、生きてくれて……ありがとう」
ドラコの優しい声に、ハリーは泣きそうになる。
「……僕も、君が生きててよかった…こうして話せてよかった…。うぅ…」
胸が痛い。苦しい。
ハリーは、涙を震えをこらえきれなかった。言いたいことはあるのに、言葉にできない。
本当に怖かった。
ドラコが死んでしまう。もう会えない可能性もあったのだ。
怖い。今でも、怖い。
もう、あんなーーこんな思いは2度とごめんだ。
「…ハリー、ごめん少し寝るよ」
今まで寝ていなかったのだろう、ドラコの声は掠れていた。
「…うん、おやすみドラコ」
「うん…」
カチコチと、時計が進む音が大きく聞こえる。先ほどマダム・ポンフリーにも診てもらって、薬も飲んでいる。
しかし、やけに目が冴えていた。ベッドの上で、じっとしているしかないのだが。
でも決して、退屈ではなかった。隣から聞こえてくる規則正しい寝息が、心の内を満たしてくれた。
ついに日は完全に沈んだ頃、扉の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
大扉がゆっくりと開いて、男がひとり入ってきた。
カーテンの隙間からその人物の顔が見えた。見たことのない男だ。でも、ハリーにはそれが誰であるのかわかった。
見慣れた面影がそこにあったからだ。
サッと、隣のカーテンが開かれる。足音が止み、医務室を静寂が満たす。
ベッドサイドへと降りたハリーが、隣のカーテンを覗こうとしたところで、静寂が破られた。
「愚かな…」
ハリーは手を引っ込めた。急な動作をしたせいで、まず腕が痛み、思い出したように全身へと広がった。ハリーはその場でうずくまった。
「私の言うことを聞いていればよかったものを。ハッフルパフなどに選ばれ、ダームストラング行きも断り、この後に及んでは…」
冷血な、突き放すような声だった。こんな冷たい声を、人が、あまつさえ実の父が出せるものなのだろうか。
その冷たさを飲み込まんが如く、ハリーの熱は滾った。
「ふざけるな」
上手く動かない体を持ち上げながら、ハリーは声を上げた。しかし、今のハリーの状態ではまともに立ち上がることさえできない。
数拍おいて、カーテンが開かれた。
「おや、無事かな。手を貸してやろう」
眼前に差し出された手を、ハリーは弱々しく払いのけた。
「なんで、ドラコにそんなことを…」
父親なのに。
男は、ハリーの理想の父親像からかけ離れていた。
「君には、関係ないなーー」
「ドラコは僕の友達だ!なんであなたは、そんな風に言えるんだ。ドラコは…」
ハリーは力を振り絞って、男の胸ぐらを両手で掴んだ。
ハリーはそこで、男と目を合わせた。カーテンから漏れた陽の光に照らされた男は、感情の抜け落ちた、人形のような顔をしていた。
その異質な光景に、ハリーの熱は冷めていく。それでも、1度吐いた感情は止められない。
「死んで…っ…死んでしまいそうな時に、何て言ったと思う…ッあなたには、分からないだろう…ドラコは、ドラコは、あなたのことを言ったんだ。お前がしたことを誰にも言わないでって…秘密にしてくれって…!」
ハリーの心に反芻されるのは、ドラコの倒れ伏した姿だ。
ドラコがあんなことになってしまったのは、自分のせいだ。ドラコの心を覗こうとしなければ、もっと鍛錬していれば、もっと勉強していれば、ずっとドラコと一緒にいたらーー
「……誰のせいで、こうなったんだ。ふざっ…ふざけるな…なのに、なのに…こんなーー」
行き場無くして暴れ狂う感情は、そこで止まった。
胸ぐらを掴んだ両手に、何かが触れた感触があった。
ハリーはゆっくりと顔を上げて、男の顔を見上げた。男は、人形のような表情のまま、涙を流していた。
「こん…な…」
ハリーは、力を失ったように、襟からだらりと手を離した。
「嘘だ…」
男はハリーの手が離れると、ハリーの横を通ってドラコへと近づいた。
「………このような…なぜだ……なぜ、こんなことに…ドラコ…ぁ…ぁぁ…死ぬな!……死ぬな…やめ…ろ、いやだ…やめて、くれ…」
ばさりと布が落ちる音がする。男は膝を床に落とした。そして、頭を床に付けてうずくまった。
もうこれ以上、息子の顔を見ることができなかったのだ。
「おまえさえ…おまえと、ナルシッサさえ…いてくれたら…それだけで…そうだ、それしかなかったのだ…、私はそれだけでよかったのだ…」
男は、焦点の合わない瞳をベッドの上へと向けた。
「あああ、私はなんてことを……ドラコ、ドラコ、ドラコ…やめてくれ…いなくならないでくれ…し、死なないでくれぇぇ……やめろ…やめろ…やめろ、やめ…ああぁぁ…!」
男は、息子の手を自らの両の手で握り、胸に掻き抱いた。
「誰でも!誰でもいい!ドラコを!…息子を、お救いください……私は、何もいらない…全ていらない!だから、ドラコを、ドラコをーー!!」
男は慟哭した。
何も憚るものはなく、幼子のように泣き叫ぶ。
気圧されたハリーは、身を強張らせている。
「ぁぁぁ……」
男の声が枯れ始めたころ、新たに、ハッキリとした声が医務室に響いた。
「ドラコは、死んでおらんよ。ルシウス。眠っているだけじゃ。話は最後まで聞いてくれると助かるのじゃが。愛する息子のことじゃ、気持ちはわかるがの」
扉の前に、ダンブルドアが息を切らした様子でーー微笑みながら立っていた。
「……ぁ…?…ぁ?……え、じゃあ、ド…ドラコは…」
ルシウスは、もう1度ドラコの手に触れたーー夢ではない、確かな温度があった。とても、死にゆくような人の体温とは思えなかった。
「ーーぁぁ…」
ルシウスの嗚咽は、しばらく止まなかった。
ルシウスとダンブルドアが医務室出ていった後、ハリーはフラフラとベッドへと戻った。
酷く疲れた気分だ。それと、少しだけスッキリした気分。しかし、ダンブルドアはいつ来ていたのだろうか。
ハリーは、もう一度寝ようと静かに目を閉じた。
隣のベッドの啜り泣きは、聞こえなかったことにして。
補足します
ハリーの死の呪文は、どちらにせよ成功しません。分霊箱だからとかではなく、前提として、心からの殺意までは持ち合わせていませんので。
ドビーは結局、自らの意思でドラコの呪文のサポートして、自分でお仕置きして気絶。起きて一人で帰りました。
最後もう一話で二巻をまとめます。
ネタから始まった本作ですが、三巻も…。
誤字報告、コメント感想ありがとうございます。