「あーららーぎせーんぱーい」
ハイヒールの分厚く硬質な靴底が激しく地面に叩きつけられ廊下に響く軽快な音と共に彼女の女性特有の甲高い声が耳に入ったかと思えば、既に僕の右頬には彼女のライダーキックが見事なまでに決まっていた。
ピンヒールなので、かなり痛い。
「ぐえっ」
カエルの鳴き声のような呻き声を不格好ながらにも口から漏らし、その後僕は頭に引っ張られるようにして後方へと吹っ飛び、やがて地面に落下し(衝撃だけでみたら、墜落と言ってもいいと思う)地面を引きずり身を削りながら滑るようにスピードを落としながらも転がってゆき、やがて廊下の突き当たりにぶつかる前に完全停止する。廊下に誰もいないことが不幸中の幸いではあったが、僕の体はもろにキックを食らった上に何の抵抗もなく転げてしまっていたのでかなりの重傷、ボロボロな状態にある。制服もかなり汚れてしまい、ところどころ糸がほつれたり切れてたり、ひょっとすればボタンも外れているかもしれなかった。
先ほど僕がいた座標からはこれまた甲高い笑い声が聞こえてくるのであった。
「ぷ、うぷぷぷぷ。キャハハハッ!」
「かはっ……江ノ島、なんだ? いくら温厚で知られている僕でも、流石にこれは許せる行為じゃないぜ?」
「あー……心が狭っ」
「よくアニメで出てくる隣の家の優しいおじいちゃんでも助走つけてフルスイングで殴った後に怒鳴り散らしてくるレベルだっ! これは」
「浮遊感与えちゃったかな」
流石にピンヒールのハイヒールでライダーキックはないだろう……。口の中には鉄の味が広がっており、その苦さと全身の中で群を抜いて激しい痛みから鑑みるに頰に穴が空いているかもしれないと危惧して頰に手を当てる……穴は空いていないが、薄皮がめくれて血が出ていた。この様子じゃきっと、口の中も酷い有様だろう。同じクラスで超高校級の保健委員である罪木に見つかれば大変なことになるだろうし、下手すれば骨が折れているかもしれないので今すぐにでもこの場から逃げるという意味も含めて保健室に行きたいのだけれども、それよりも優先すべきは江ノ島との話だ。
「まーまー、そんな怖い顔しないでくださいよ。阿良々木センパイ」
「僕は人の顔面に出会い頭どころか出会ってすらいない完全なる不意打ちを決め込み、あろうことかピンヒールのハイヒールを装着したままかなり本気でライダーキックをしてくる後輩なんざ持った覚えはないな」
「やけに具体的……誰それ? 私様じゃないことだけは確かだけど……うむむ、迷宮入りか?」
「名探偵である僕が答えを教えてやろう。それはお前だ、江ノ島」
「それは違いますよ、阿良々木先輩。眼鏡クイッ」
「は? 違うことはないし、それに眼鏡をクイっと上げる効果音を自分で言うな」
江ノ島は僕の体、主に頰のことと自分がしたことには御構い無しに軽口を叩く。この後輩は一体何を考え、どういう神経をしているのやら……親の顔が見て見たいものだ。親の顔を見たところで、この後輩の態度が変わるかといえばそうじゃないんだけれども……直接的にも間接的にも解決に繋がらないな。
痛む体を動かす。ギシギシと軋む音が聞こえてきそうだった。蹴られ転がったことが一因であることは確かであったが、しかし日頃の不規則な生活も関わってはいるのだろう。
「……あれま、結構本気で蹴っちゃったかな……」
「自覚してるじゃねえかよ……」
「あっ……ごめんごめん。こんなつもりはなかったっていうかー。ま、保健室まで肩貸すよ」
流石にたった一人で一階にある保健室に行こうとすると、階段あたりでバナナも無いのに盛大にコケてしまいそうだったので、お言葉に甘えることにした。甘えるっつーか、当然の権利っていうか。しかし、自分の頰に蹴りをぶち込んだ相手にこうして力を貸してもらうというのはあまりいい気がしなかったけれども、ここでさらに意地を張って痛手を負うのはあまり良く思えない。
意地を張って……。
そういえば、七海に日向とかいうやつを紹介してもらった時も、変に意地を張ったんだっけか。今まで友達を作ろうとしなかったんだから、今回も作らない。人間強度を保持していく──意地なんて張るものじゃないな……後悔しかない。後悔しかないけれども、それでも謝ろうとは思えなかった。……こんなふうに悩んでいるってことは、人間強度が下がってしまっているからだろうか。
なんというか、これはもう意地とかじゃなくって──ただ単に、もう手遅れだと感じた。そもそも僕と彼女の関係だなんて二日話した程度……いや、正確にはその内の一日はたいした話もせず僕は喫茶店を出たわけだからほんの一日なわけだし、もはやそのような短期間だと関係というジャンルにすら含まれないだろう。きっと七海も「失敗しちゃったな」くらいにしか思ってないだろう。それくらいしか心にダメージを負ってない……いや、むしろ一切ダメージを負って欲しくないし、所詮その程度ならば今から謝ったとしても相手にされないだろうと思う。相手にされたところで変なやつだと思われるのが関の山だろう。
だから、悪いことをしたとは思うが謝ろうとは思えない……やっぱりただの言い訳なわけだし、醜い言い草には違いがないのだけれども、それでも僕は謝ろうとは思えなかった。もしかしたら意地を張っているのかもしれないが、それなら今すぐにでもやめておきたい。
しかし言い訳をさせてもらえるのなら、前述の通り七海はなにも思っていないかもしれないという希望的観測が僕の心の中には小さいながらも確実に存在していた。
保健室に着くと、案の定先生がいなかったので、
「困ったな……」
と呟くと、
「私様が応急処置をしてさしあげよう、特別に。消毒とか、包帯巻いたりするのはお手の物よっ」
と、言うより早いか消毒液が入った茶色いビンや包帯、綿などを戸棚から取り出し、僕の体を検分していく。口の中から、足のつま先まで、隅から隅までだ。あまりにも慣れた手つきで眼を見張るものがあったので、
「江ノ島、お前ってこんなことも出来るんだな」
と言うと、
「まあねえ。伊達にギャルやってないよ」
と意味のわからない返答を返してきた。ひょっとして今時のギャルは女子力が半端じゃないほどに高いのだろうかと思ったが、流石にそれはないだろう。きっと、江ノ島は江ノ島なりの過去がある……もしくは、ただ単に本当に最近のギャル業界はこう言うこともできないと生きていけないのかもしれない。いずれにしてもシビアな世界を江ノ島は生きているらしい。
消毒液の匂いがするギャル。……想像できないな。
「よし、こんな感じかしら」
「……」
鼻に絆創膏を貼られるのはまだしも、顔全体を包帯で巻かれた時はかなり焦ったが、なんやかんやふざけつつも江ノ島はしっかりと僕の体に然るべき対処をしてくれたようだ。おちゃらけてはいるものの彼女は彼女なりに責任は感じ、それなりの対処はしようとしてくれているようだった。口の中はどうしようもないが、口腔内は治りは早いと聞くので特に気にすることもないだろう。ご飯を食べるときに染みるくらいだ。
全身を地面に打ち付け引きずったので、それなりに擦り傷もあったのだけれども、それでも精々顔と手くらいで、体は制服を着ていたことが幸いしてたいした傷はなかった……頰には多大なるダメージが入ったわけだが──なんせ流血だ、流血。テレビ放送ができない。
江ノ島の蛮行を誰かが見ていて、咎めて欲しかったのだけれども反省はしているようだし厳重注意という形を取らざるを得なかった。次やったら先生に報告しよう。もしくはそれなりに然るべき罰を。そういえば江ノ島には姉がいるだとかなんとか、初対面の時に言ってたな……残念なお姉ちゃんだとか。姉妹がいるなら報告してやろうかと思ったが残念なお姉ちゃんなら当てにならなさそうだと考え、結局僕はこのことを誰にも言うことはないのだった。
この怪我がなんだと聞かれたら、階段からコケただとか猫にひっかかれたとでも答えよう。
「……なあ、江ノ島」
「ん? なになに? 阿良々木センパイ。もしくは私が尊敬し敬っている阿良々木崇拝」
「露骨にご機嫌を取ろうとするな。僕は尊敬し敬われ崇拝されたとしても決して許さないぜ。根に持つタイプなんだ」
「うっわあー。陰湿ぅ」
「むしろあんなことをしてそう簡単に許してもらえると思っている精神を疑いたいな」
「へっ……で、なに? 阿良々木センパイ」
白く清潔そうなシーツがかけられているベッドに大きな態度で座っている僕の後ろに、さらに江ノ島が座っている。もしくは立っているかも知らないし寝そべっていると言うのもあり得るけれども、ともかく位置関係は僕が前、江ノ島が後ろだ。
「いや、ほら。この前さ、お前に姉がいるって言ってたじゃん。どんな人なのかなってさ」
「あー……お姉ちゃんのことね。残念なお姉ちゃんだよ。略して残姉」
ため息交じりの声で江ノ島は言う。
「なにか期待してるなら、そんなの取り払ったほうがいいよ。年上のおねーさんだとか……私と双子の姉だから、年齢で言えば阿良々木センパイの年下だし」
「ふうん……」
「いやまあ身長から察するにひょっとすると阿良々木センパイが年下の可能性もなくは無いんだけどね」
「うるさい」
双子、ね。
僕にも妹はいるが、もしあの妹が双子ならどんな姉──もしくは妹が誕生していたのだろうか。少し興味が湧かないでもなかったが、江ノ島という存在がいる以上ポジティブな期待は出来そうになかった。にしても双子か……江ノ島のやつに似てるなら、さぞかしトンデモナイ姉なんだろうな。
「ま、あんな地味で女の子らしからぬ姉はいらないね、いる?」
「いいのか?」
「うっわ、真に受けるとか」
「お前が言ったんだろ」
江ノ島はそう言い捨てた後、「よっと」といいベッドから飛び降りる。どうやら立っていたらしい。それもハイヒールを履いたまま。
「それじゃ、お身体を大切にー」
お前が原因だろと言ってやりたかったが、その言葉を伝える前に江ノ島は保健室の扉を閉め、廊下へと消えていく。
ハイヒールが鳴らす甲高い靴音は聞こえてこなかった。