阿良々木暦は望まない   作:鹿手袋こはぜ

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 その日はただ、携帯電話のメールアドレス、電話帳を眺めて過ごしたような気がする。その他のことをあまり覚えていないのは、部屋に寝転びながら閲覧をしていたため、途中で眠くなってしまいそのまま寝てしまったからだろう。雑魚寝もいいところだが、その結果僕は遅刻寸前ギリギリというタイムで門をくぐり抜けることになり、挙げ句の果てには、結果的に、教室には間に合わず先生のゲンコツを一発食らった後、廊下で立たされる運びとなった。昔風に両手に水の入った鉄製のバケツを持って……だ。あの先生、今時の若者みたいな格好をして──いや、二十代半ばなわけだしまだまだ現役の若者なんだろうけれども、だとしてもやっていることがスポ根みたいだ……。そのうち、体育の筋トレに車のタイヤを引くだのウサギ跳びだの体にスプリングを巻くだのが追加されそうだと僕は密かに予想しているが、流石にそれはないか……。体罰もいいところだし、世に報じられてしまえばかなりの問題になるだろうからな。

 希望ヶ峰学園という大きな学校での事件なら、こぞってマスコミは取り上げることだろう。……まあ、そんなことにならないようにあらこれするのがあの先生ではあるが。

 

 かくして、この二年間、両手の指では足りないほどの回数げんこつを食らってきたこの頭をさする暇もなく、僕は両手で水入りバケツを持たされていたのだった。

 

 正直に言ってキツイ。

 

 たまに僕と一緒にバケツを持たされて廊下で並んで立つ奴がいるのだけれども、この廊下の静まり具合から察するに、いや察せずとも、どうやら今日は僕だけらしい。そもそも立たされる日が被ること自体珍しいわけであって、実際同じようにして立たされた事はこの二年間、片手の指で足りるほどしかない。

 

 そんなこんなで僕は廊下に立っているのだけれども、これは一時限目が終わるまで……つまり、ホームルーム途中に来た僕はまるまる一時間立ち続けなければいけないのだ。これからあと一時間。そのことを考えると、とても辛いものがあった。

 

 この廊下を通る人物といえばせいぜい先生か清掃の人くらいなので生徒に見られることはないし……見られたところでなんだが、こうも幾度となく立たされていると顔を覚えられてしまいそうなものである。廊下に立たされて顔を覚えられるって一体……。なんとも嫌な覚えられ方だ。

 まあ今日は誰も廊下を通る事はなく。この一時間をバケツを下すことなく耐え切り、僕はようやく教室に入ることが出来た。学生鞄も忘れずに、だ。うっかりミスして廊下に置き忘れると、また面倒なことになってしまうからな。もう思い出したくもない思い出だ。

 

 次は二時限目、確か──数学だったっけか。数学も八九寺先生が教鞭をとるので(というか、基本的にこのクラスの授業はあの人がチョークをとる。あの人はどこまで教師に徹すれば気がすむんだ……?)この教室なわけだから、およそ十分の休み時間、および次の授業に向けての準備期間丸々は多少なりともゆっくりと出来る。

 手が痺れてしまっていたので、このひと時の休息は不幸中の幸いだろうか? 不幸が招いた幸いは喜んでいいものか分からないけど。

 

 そんな、いつもの日常風景であったし、この情景が変わることなんてないはずだ。

 

 変わるとしたら、せいぜい卒業という大きな節目に向けて──そしてその後の未来について、考え始めなくっちゃあいけなくなってきたということくらいだろうか。

 

 はて、僕は大学に行くのだろうか……いや、そもそも卒業すら危ぶまれている身なわけだし、運良く卒業出来たとしても大学は無理だろう。それに、卒業したとしても就職できるかどうかも怪しいところだ。自分がどんな職についているのかだなんて生まれてこのかた考えたことがなかったために、自分がなにかしらの職について、その職場で働くというイメージはそうパッとは思い浮かんでこなかった。この一日中考えてみたけれども、そのイメージというものが思い浮かんでくる事は決してない。

 

 未来のことは誰にもわからない──だけれども、未来のことを考えないのは愚か者のすることだ。見えない先を見据え、何があるかわからない、得体の知れない未来というものに対策を打つ。打ち続ける。それが人生なのだろう。だったら僕は愚か者だなと、少し笑ってみよう。嘲笑ってもいいかもしれない。

 

 しかしそう考えると、人生というものはなんて面倒なものなのだと僕は諸手を上げてリタイアしたいが、しかしそれはすなわちイコールで死につながる。人生というラインから外れるわけなのだから、それは死だろう。

 

 馬鹿は死んでも治らないというが、未来から逃れることは死ななければ出来ないし、死してなおも自分が未来にどう影響を与えるのかはやはり死んでみないとわからないものではあるものの、しかし死んでしまうと分からない。堂々巡りで禅問答。変な話である。

 まあ、僕が未来になんらかの影響を起こすことはいいことでも悪いことでも決してありえないのだが。僕がこの先、生きるのなら、僕はきっと平凡に生きて平凡な人生を送り平凡に死ぬのだろう……平凡な生き方ができるかどうかは分かったものじゃないが。

 

 何はともあれ、僕は変に哲学的なことを考えてしまったんじゃないかと後々自転車に乗りながら恥ずかしくなり、赤面し前も見れないという状況であったが(流石に運転中なので前は見る)、家に帰ってからはテレビをつけることもなく、部屋の電気を消してただぼうっと天井を見つめていた。

 いや、何も見てはいなかった。確かに、視線を辿れば僕の目線は天井にこそあったが、意識は常にそこにあらず、と言った感じだ。

 ただ、何も考えないでぼうっとしていた。ただただ、時間を浪費していたのだ。見たいテレビ番組があるわけでもなし、また、しなければいけない課題もなし(あったところでやるかどうかは別だが)、放課後に一緒に遊ぶような友達もいないので、ただ呆然としていた。

 

 このアパートは壁がとても薄く、外の床を踏むだけでも近くの部屋にその音が届くほどのボロアパートなのだが、なぜかそのような一切聞こえては来なかった。足音やテレビの音はおろか──声や生活から生まれる音さえも、聞こえてはこなかった。……ああ、そういえば、なんでも、みんなで揃って温泉に行くどうこうの話を聞いていたな。僕も誘われたのだけれども、それは丁重にお断りしておいたので留守の間はよろしく頼むとみんなから留守番の役を受けていたのだった。ああ、そうだったそうだった。確か、今日帰ってくるんだっけか。仲のいいことだ。

 今からでも近所付き合いを始めればかなり仲の良いようになれるくらいに彼らはお人好しでかなりフレンドリーなのだろうけれども、それはやはり気が引けた。引っ越そうかと思ったりもしたのだが、ここより良い物件はそうそうないのでやはりここに住んでいる……ま、彼らが悪い人たちじゃないのは確かだ。

 

 しかし、声だとか生活の音が聞こえないから寂しい──というわけではなかったし、どの道その静寂は機械音による着信音によって途絶えられるのであった。

 ……どうやら、江ノ島からの電話らしい。バイブ機能で震える携帯電話を手に取り、出る。

 

「もしもし」

『もっしもーし、もしもし、もし、もしもしもし、もし、もしもし』

「もしを暗号みたいにするな。もしそれに意味があったとしても、僕は対応しきれないぜ」

「トントントン、ツーツーツー、トントントン」

「モールス信号で遊ぶな!」

 

 上体を起こし構える。一体何の用なのだろう。

 

『てやんでい、阿良々木センパイ。緊急事態』

「江戸っ子風になるんじゃない、違和感しかないぞ……というか、緊急事態? もし、お前が警察に補導されたとしても僕は身元引き取りに行かないぜ。そういうのはお前のお姉ちゃんに頼めば良いだろう」

『……私が補導されるような悪い子に見える? それに、まだ夕方ですらないから夜遊びとかじゃないし……』

「……見える。確かに今はまだ夕方だが、しかしその段階でお前を補導する警察官の方は非常に優秀だろう」

『ひど』

 

 でもまあ江ノ島の口調はいつもと変わらずとても明るく軽いものだったので、大したことじゃないんだろうな……と、後輩に何かあったのではと少なからずも心配していた自分が馬鹿らしく思えた。

 

「で、どうしたんだ? 緊急事態って」

『七海センパイと日向センパイが、今、予備学科の生徒に襲われてる』

 

 襲われてるっていうか、絡まれてるっていうか……いやでも、もうその段階は通り過ぎちゃってるかな。ともかく、二対複数人で殴る蹴るされてる、らしい。

 

「──それが、どうしたんだ? なにも僕に電話してくることじゃないだろう」

『いや、だから助けに行けばって話だよ。警察に連絡も考えたけど、こっちの方が良いでしょ。それに、あの時のお返し……? っていう意味合いも含めて』

 

 殴る蹴る、というのは、つまりイジメみたいなものなのだろうか……思い返してみれば、日向には友達がいないと聞いたが、もしかしたらそれは七海が関係しているのかもしれない。本科の生徒は、予備学科の生徒に嫌われている……少なくとも、好かれちゃいない。だからこそ、七海が日向と仲がいいと知った時はかなり驚いたものだが、もしかして日向は七海と──本科の生徒と仲良くしてた故に予備学科の生徒たちとの間に確執が生まれ、恨みを買っているのかもしれない……。

 

 だとしても、僕が行ったところでだし、助けるつもりなんて……ない。

 きっと、ないはずだ。

 

『行かないんですか? 阿良々木センパイ』

「江ノ島、お前はもう貸し借りなんて気にしなくっていい。許してやるし、あの時の話をどこかで出すこともない。だからどうか、助けに行かない僕に対して黙っていてくれ」

 

 こんなことを言えば相手から怒鳴られるかもしれない……もしくは、案外コロッと態度を変えて許しが貰えたことを喜ぶかも……と思っていたのだが、通話は相手の無言切りという形で終わることになった。

 

 …………。

 

 助けに行く気はないし、義理もないし、場所も分からない。

 助けに行く気は無いというのは、僕の本心だろうか?

 ああ、本心だろう。僕はいつだって、本心だ。気の向くままに行動し、思うがままに行動して、後先考えずに自分の正しいと思うことを行ってきた。

 ……本心だとして、これは正しい行為か?

 

 自分に対するその問いかけに、僕は唇を噛み締めることしか出来ない。

 

「……そもそも、場所を教えてくれていない時点でただの嘘だろう。あいつも悪趣味だ」

 

 僕はそう高をくくった言葉を吐き、再度床に寝転がった。

 

「……はあ」

 

 もしも、という気持ちがないわけではなかったものの、しかしやはり行く気にはなれなかった。僕が行く必要なんて……ない。きっと他の誰かが上手くやってくれるはずだ、と。他の誰かって、誰だ? 少なくとも自分ではないはず。

 

 また、電話が鳴る。

 また、江ノ島なのだろうか。

 

 面倒だなとため息をつき電話に出る。

 

『あ、阿良々木くん?』

「…………」

『そのっ、今、日向くんがっ、あのっ、私の代わりに、そのっ』

「…………場所は?」

『え、あ、ああっ、希望ヶ峰学園の、予備学科棟の、近くの路地裏……その、今──』

 

 電話を切った。電話の受話器の向こう側に涙目の彼女の姿が容易に想像出来た。あのように取り乱し滅茶苦茶な喋り方をしているあたりかなりの緊急事態のようだ。しかし──

 

 ──いや、後悔は後でするものだ。今から後悔することなんて考えている場合じゃない。本末転倒というものだ。

 

 ああもう、だから嫌なんだ。くそう、自分で自分が嫌になる。

 

 僕は電話をかけメールをしながら自転車を漕いで、初めて向かう希望ヶ峰学園予備学科棟の近くにある路地裏とやらに向かった。

 もうこれっきりだ。自分に嘘をつくのはやめよう。

 こんな単純に剥がれてしまうメッキなら、最初から貼らないでおこう。

 

 後悔は──してもいい。

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