001 (非)日常編
学級裁判の後。
私は地上に上がると、その足で食堂へと訪れていた。その道中、先刻まで地下で行われていた学級裁判のことを思い出す──
疑いの矛先を互いに向けあう、誰一人として望まない不安と恐怖に
オシオキとは名ばかりの、惨忍で、悪逆な、それでいて悪意に満ちていた非人道的な死処刑。
そして裁判中に響き渡る不愉快なクマの笑い声……。
こんなシチュエーション、こんな体験、私は今生において経験したことがない。おそらくあの場にいる誰もが、今の今まで、この先の人生においてこのような場面に自分の身が置かれるであろうということを予想していなかったはずだ。そもそも予想だなんて出来っこない。予想を覆すというよりも、予想を破壊した結果がこの未来であるのだから、未だ来ない破滅的な最果てを予め想うことなど──そんなこと、誰だってできなかったはずだ。もしそれが叶ったとしても、この生活で味わう暴力的な衝撃から受け身を取れるほど屈強な精神を持つ者はいないはずだ。
超高校級とはいえ。
所詮はまだ、高校級なのだ。
他と比べて格段と飛び抜けた才覚を表し、将来が有望であると期待されているだけで──まだまだ、子供なのだ。
中にはオシオキを見てもなお冷静な態度を然としてとる者もいた。きっと彼らは、私よりかは大人なのだろう。地獄を味わってきた人間なのかもしれない。だが、そんな風に気取った彼らよりも圧倒的に多数派であったのは庶民派である私たちの方だ。悪夢のような悲劇奇劇に慣れてはいない。ともかくそれらの事柄は平和ボケした多数派である私たちにとって脳髄膜を焼き焦がすような思い出となる。
初日、コロシアイの始まりを宣言されたあの時はまだ、実際に誰かが死ぬなんて思っちゃいなかった。ドッキリとさえ思案していた。だから心の中ではどこかで安心していたし、歓談を楽しむ余裕だってあるにはあった。むしろ毎夜毎夜死に怯え、神に願い、祈りを捧げるといった行為、信仰を行わなかったのは、被虐的な妄想をしていなかったからだろう。
私が人の死に触れたのは舞園や桑田の死が最初じゃない、江ノ島だって、私たちの目の前で死んでしまった──が、彼女の心臓が槍で貫かれたのを見たわけでもなければ、首を刎ね落とされるというそれだけで死を意味するような光景を目撃したわけでもない。江ノ島の死に対しては、死という人が生きるにおいて必ず訪れる現象の結果である遺留物──つまりは遺体を目にしていなかったため、悲鳴を上げはすれどもピンと来ない部分があったからだろう。
それだから、まだ安心していたいという気持ちが真実に気付きかけていた恐怖心に勝っていた。
だからこそ、こうして間近で、恐怖という人間の本能に触れる感情を叩きつけられると……どうしても、打ちひしがれてしまう。血溜まりをこの目に映し、人がただの肉塊に成り果ててしまうところを見てしまったのだから、どうしたって網膜に焼き付いたその惨劇を
私たちはただそこに立っていることしかできなかったのだ。
ただ、見ていることしかできなかったのだ。
頭の中が何かで強く圧迫され、なにかを考える余裕なんてなかったのだから。
ただ、本能的に、そこにあろうとしていた。
なにかをするのが怖かったのかもしれない。そこから移動するという、何処かへ向かって進むという前向きな姿勢が死にゆく彼らへの冒涜につながるのではないかと罪悪感を感じていたのかもしれない。
または、一人になるのが怖かったのかもしれない。誰かと一緒にいるという状況こそが、彼らの今にも叫びそうになっている心を抑制し、繋ぎ止めていたのかもしれない。裁判場にいることが、そこに立ち止まっていることが、自身の本能から下された存在証明に繋がっていたのだ。
だからこそ、私は、真っ先に体が動いたのだろう。
動いていないときの方が少ないと言われても不思議とは思えないほどに駆動させてきたこの肉体は、私の脳から送られる伝達を待つことなく、彼等と同様に本能に従いその場から走り去ったのだ。ただその本能が下した存在証明が、彼等とは違っただけで。していること自体は……違いはない。
いや、走り去った、なんて言い方は少しばかり表現を曖昧模糊なものにしてしまっている。
私は逃げたのだ。
どうしようもなくなって。
この場の雰囲気にいたたまれなくなって。
あの場所から逃げ出したんだ。
私が本能で行なった逃避という行為について責め立てる人間は誰もいないだろう。誰だってあの恐怖から逃げ出したかったはずなのだから──ただ、私にとっての恐怖からの自己防衛の手段がその場所から逃げるということであって。そして頭よりも体が働く私が、たまたま足を動かすことができて、たまたま、逃げたいと体も感じていて……それだから逃避することができた。
誇れることではないが、しかし良くやったと思いはする。
しかして同時に、罪悪感と自責の念に駆られる。
罪悪感を感じるだなんてただの自己満足に過ぎないのだと分かってはいるのだが、どうしてもそれは私の心を締め付けてやまない。
責める者がいないなら、自身が私を責める。或いは幻聴となって現れる母が、私に言葉を聞かせる。
「逃げるのは悪い事じゃない。ただ、悪くないだけ」
「そんな、こと。言われなくったって、分かっている」
「いいや、駿河。アンタはなにも分かっちゃいない、アンタはただ、分かった気になっている道化だ。──そいつはきっと、無知よりタチが悪い」
鈍痛が、脳の奥を襲った。
気分なんて、良いわけがない。
丁度タイミングよく扉が開いたエレベーターへ駆け込む。
私は死というものに怯えていた。
間近で触れた人の終わり。
命を奪ったが故に奪われた命。
殺人という罪に対する報復とはいえ、あまりに
目には目を、死には死を。ハンムラビ法典じゃあるまいし。
吐くことができたなら、その場で吐いてしまいたかったとさえ思える。
思えてしまう。
行き過ぎた罰に、嫌悪の情を全身で感じてしまう。
そうやって、ゲロインになりかけていた私は冒頭の通り食堂に向かっていたのだ。腹が減っていたわけではない。何か口に入れておきたいという食いしん坊な願望でもない。ただ、事実を確認したかった。
バスケットコートの中を走るように厨房へ乗り込むと、
苗木の無実を証明するため調査していたときには一本欠けていた包丁セット……今、確認すると、それは全て揃っていた。過不足なく、何事もなかったかのように太々しい顔をして、包丁はフックに掛けられていたのだ。
それを見るなり、厨房を飛び出し、食堂を抜け、寄宿舎の方にあるトラッシュルームへと向かう。
そこもまた、先ほど見た景色と似たようなものであった。焼却炉が厨房に似ているという意味ではない。状況が、それが意味する日常という普遍的なシチュエーションこそが似ているのだ。
普通に考えて日常的にガラス玉の破片なんて落ちているわけがない。
血が滲み、焼け焦げたワイシャツの袖なんて論外だ。
きっとこれだと苗木の部屋もそうなのだろう、と、私は壁に身を預け、ずるずるとそのまま床に尻餅をつくように座り込む。
私たちが学級裁判をしている最中、モノクマはここいらで殺人の痕跡を血の一滴残さず消してしまったのだ。文字通り、血の一滴も残さずに。
感傷に浸る間もなく、悲しみに暮れる暇もなく、まるで今回のこの事件が空想であったとでも言いたげな焼却炉を視界から排斥し、小さく唸る。
怒りを覚えずにはいられなかった。
日常とも言えない今の私の日常が憎いとさえ思えた。
遣る瀬無い気持ちが心臓を満たす。
「これじゃまるで、なにも、起きてなかったみたいじゃないか……」
誰にも聞かれることのないような声で、誰にも向けていない言葉を言った。
そこにあるようにしてある
暫くそのままの状態でいたかったが……やけに重たく感じるこの体を起こし、そして硬く握った拳で焼却炉の鉄格子を怒りに任せ力の限り乱暴に殴りつけた。物に当たることはあまり無いため、この暴力的な行動に自分でもビックリしている。
自然と、利き手である左手──すなわち、猿の腕と化してしまった左腕で、鉄格子を殴ってしまっていて。
けれども、それでも、怒りの捌け口となった鉄格子は、ただ私の左腕に呼応し揺れる程度だろうと……そう、殴りつけたときには思っていた。けれども、現実はそうではなかった。
どうしてか鉄格子は、バキン、という甲高い金属音を発しながら、折れてしまったのである。
私の腕の骨が、ではない。
鉄格子が、折れたのだ。
それにこのタイプの鉄格子だと一本折れるだけなんていう器用な真似はできない。その周りにも波紋が広がるようにして、まるで
「……っ!?」
まるで車が突撃したかのように轟音を立てながら形を変えていったそれを見て、思わず後退りしてしまう。目と鼻の先で発生した瓦解的な変化に理解が追いつけなかった。
この非日常的な現状を目の当たりにしてか、頭の中は思考回路を絵の具で塗りつぶされたかのようなってしまい、なにも考えることができず、そのときは一種のパニック症状に陥っていた。けれどもそんな中であっても理解が出来たのは、
私の腕力はそれなりに力強い方だとは思うが、それでもあくまで一般の範疇に収まる程度なのだ。だからこんな一般的とは思えない自体になるはずがない。まず考えてあり得やしない。
だが、明らかに普遍的ではないこの猿の腕が、非普遍的な結果を招く……それ自体は然程不思議ではなかった。
あまりにも謎に満ちた異質なものであるから。
それがどんな結果を生み出そうとも不思議ではない。
近所の中学生がボールを投げて一四〇km/hを出そうものならメディアが騒ぎそうなものだが、プロの野球選手の投球速度が一四〇km/hで球界が震えることはないだろう。
だから私はこの猿の左腕が鉄格子をこのような形状に変化させてしまうほどの力を持っているのだという事実をすんなりと飲み込むことができた。漫画の読み過ぎだ、中二病(高校生)だと嘲られても文句は言えないが、しかしこの漫画のような状況と漫画のような腕を前にして、それでもなお、私に文句が言える人はいないはずだ。
慣れだ。きっと感覚が麻痺してしまっているのだ。だから私は、この異常が異常を呼ぶ状況に疑問や恐怖を感じない。
夢であってほしいと願えるこの環境下で、悪夢のような左腕が、白昼夢のような出来事を起こしたというのだから。
更におかしなことが起きても不思議じゃない──そうやって考えることを放棄し、それはそういうものなのだと腹の中に飲み込んでしまった私は、もはや手遅れであると言えるだろう。
けれども。
それは、
その溝は並大抵の努力で──また、この刹那的な時間で──埋められるほど浅いものではなかったようだ。
さっき腹の中に飲み込んでしまった──と表現したが、例えば魑魅魍魎の類を飲み込んだところで、ただの人間である私はそれを消化することもできずにただ腹わたを貪られて死んでしまうだけだろう。
だからこそ私は驚いたわけだし、この左腕に驚きを隠せずにいた。
でもその驚きも、表面に色濃く出ていたものではない。少し退いてしまっただけなのだから。
つまり私は──異常に染まり始めてしまったとでもいうのだろうか。
ともかくこの異常的な生活で麻痺していた感覚というものを、改めて異常な事柄をぶつけられることにより少しは取り戻すことができた気がする。
こういうときにするべきことは落ち着くことだ。
監視カメラがある以上、この行為がモノクマに露呈してしまっていることは明白だろう。だが、このことをみんなに知られるわけにはいかないと察する。
この鉄格子の有様と私を関連付ける者はいないだろうが、猿の腕が関わってくるとそれもまた別だ。
とにかく私はこの場から離れようと寄宿舎へ繋がる扉に手を掛けようとした。がしかし、ドアノブに伸ばされた手は思わぬ形で空を切ることになってしまった。
「なにか、大きな音がしたけど」
突然姿を現した霧切を前に、不可抗力とはいえ物を壊してしまった後ろめたさからか、思わず左腕を後ろに隠してしまう。
私より早く扉を開けた霧切は私の背後を気にするような仕草をした後、トラッシュルームの中に入ろうとした。それを遮ろうと腕を出すが、左側を通る彼女に対し左腕を使って制止を行うというのは──さっきのことをどうしたって思い出してしまい、彼女を傷つけてしまいそうで怖かったからだろうか──躊躇ってしまう。結果左腕と比べて遠くにある右腕を伸ばすことになり、結局それは意味をなさず霧切が部屋の中に入るということを止めることはできなかった。
「あっ、ちょっと」
「これは……」
既に中に入ってしまった霧切は、裁判前と比べると大きく変わり果ててしまった鉄格子を目にしてしまっていた。見られてしまった、という思いとともに、私はこの状況に対する言い訳を考えつつあった。
「何かあったの?」
「いや……そう、私が来たときからこうだったんだ。なにか、あったのかもしれない」
「…………」
霧切は間を置いた後、「そう」と一言、言って私の方に振り返る。
「ねえ、話があるんだけど。いいかしら?」
ツンとした冷たい表情で霧切は言う。表情だけでなく、態度にもその冷たさは顕著に現れていた。
ちなみに彼女は裁判でも冷静であった少数派である。過去になにがあったのかは知らないが、記憶が無いと言っている以上、なにやら深い事情があることは明らかだ。
そんな相手に訝しんだ思いを抱くことは自然的であったが、それを表に出すことは良くないと考え、あくまで私は友好的な態度を示した。
「別に構わないが」
「そう。あまり人に聞かれたくないことなんだけど……まあ、まだみんな裁判場に居るでしょうから今ここで話すわね」
ああ、と答えを返そうとするが、それを待たずに霧切は話し始めた。
相談というわけでもないらしく、またなにか私に警告をしたいというわけでもないようで。彼女と接点を持ったことがないため、そして彼女自身が誰かと会話をしているという状況をあまり見たことがないからか、いったいその口からどんな言葉が飛び出してくるのかは未知数だ。
「薄々気付いていたかもしれないけれど、今回の事件の真相は、裁判で明かされたものとは違うわ。結果的に桑田くんがクロだって分かったから、モノクマは何も言わなかったみたいだけど……」
「苗木の推理に間違いがあったっていうことか?」
「そうなるわね。クロを特定する、という点においては正しいものだったけど。事件を明らかにするという目的で推理を行なっているのなら、あれは……間違っていることになる」
「…………」
「別に苗木くんが間違えていることを責めるつもりはないんだけど」
霧切は少し、曇ったような表情をする。
なにか思うところがあるのだろう。
「まず今回の事件では桑田くんが舞園さんを襲った……ということが事件の真相の一部として語られていたけど、それは違う。舞園さんが、桑田くんを殺害するために部屋に招いたのよ」
「……それはそうだろう? だって、舞園は自分の命を狙う輩を返り討ちにしようと──」
「違うわ。舞園さんは自分の身を守るために人殺しを決意したわけじゃない……いいえ、自分のためという点では同じかもしれないけれど、でも別に恐怖に怯えて殺害を企てたっていうわけじゃあないのよ。舞園さんは結果こそああなっちゃったけど、あくまで加害者……だって、不思議に思わない? 部屋のネームプレートが入れ替わっていて……怯えていたはずの舞園さんが夜時間に人を部屋に入れて……包丁まで、用意していたのよ」
「……まるで舞園が人殺しをするために苗木に嘘をついたみたいに言うんだな」
「そう言ってるのよ」
溜め息をつくように霧切は言葉を吐いた。
少し不服に思うところはあったが、それをぐっと抑え、話を聞く。
「結論から言うと、舞園さんは苗木くんに罪を被せようとした。部屋を交換したのだって、夜、部屋の前に来た誰かに怯えていたからじゃない。苗木くんの部屋で桑田くんを殺害することで、彼にその罪の全てを擦りつけるため」
「聞き捨てならないな。それはあまりにも酷いんじゃないか? 舞園は死んでしまったが、死者に対する侮辱の言葉を見過ごすほど、私は腐っちゃいない!」
「……これを見て」
そう言って霧切が私に渡したのは、一面が黒く塗りつぶされた一枚のメモ用紙だった。
おそらく、筆跡を探していたのだろう。古典的なやり方だが、しかしその効果はしっかりとした痕跡を残してその紙に刻まれている。白く浮かび上がった文字は、誰かが誰かに対し部屋に来るようにと呼び出しをしている文章を象っていた。
「これは……」
「苗木くんの部屋──つまりは現場から見つかったものよ。部屋に備え付けられているメモ用紙なんだけど、あの夜に部屋にいた人物が舞園さんだったという状況から察するに、きっと彼女が書いたものね。そして恐らく宛先は──」
「……桑田、か」
「そうなるわね。まあこれが私が書いたものかどうか疑っているのなら、苗木くんの部屋に行って残っているメモの束と切れ目を合わせてきたら良いんじゃないかしら?」
もしこれが本物だというのなら、そして霧切の言うことが真実だとでもいうのであれば、確かに、あの不思議と入れ替わってしまっていたネームプレートにも合点が行く。
このメモに書かれた『ネームプレートをよく見て部屋に来てくださいね』というのは、つまりは電子生徒手帳ではその時舞園がいた部屋と実際の舞園の部屋は違っていたため間違えられないようにするための対策だったのだろう。
けれども、そうだとしても信じられない。
あの弱々しい一人の女の子であった舞園が、自分から桑田を部屋に呼び、そして殺害しようとしていたなんてことは、私にとって到底考えにくい話であった。
「信じられないかと思うけど、でも、人間っていうのはそういうものよ。私は知っている。人は状況さえ揃ってしまえば簡単に人を殺してしまうんだから」
それは、桑田にだって当てはまる話であると言えるだろう。彼には別に、動機なんてなかったはずだ。誰か人を殺そうと、その好機を虎視眈々と狙っていたわけではない。外に出たいと、この悪趣味なゲームから離れたいと願うことはあれども、されども人殺しを行うほど彼の心は悪色に染まってはいなかったはずだ。
けれども舞園に襲われるということで、そしてそれを返り討ちにしてしまったことで。昂ぶってしまった気持ちを抑えられずに殺意の篭った包丁を突き出してしまったのだろう。
舞園だって、例外じゃない。
私だって、同じなんだ。ただ状況が揃わなかっただけで──
けれどもそれを認めてしまうことは、苗木が裏切られたということを認めてしまうことにも繋がってしまう。
「……彼は知っておく必要があるの、これから起こるであろう裁判を乗り越えていくためにも……この事実を知っておく必要が。なんでかは分からないけど、そう、思うの」
珍しく感情のこもった声で霧切は力強く言った。
握られた革製の手袋は、闇のように深い皺を作っている。
「なんでそんな話を私にするんだ……? それは、苗木本人にするべきことじゃあないのか?」
「私は彼とそう仲は良くないけど、あなたはそうじゃない。他人から冷たく突き出された真実よりも──身内から送られた言葉の方が、心に響くときだってある。それにきっと、彼は少しだけれどもこの事実に気がついてしまっている。だからあなたに……その輪郭が蕩けた考えを確かなものに変えてあげて欲しいの」
真実の皮を被った偽物を破壊し──その影に隠れた本当の出来事を、苗木に伝える。
いくら苗木が薄々勘付いているとはいえ、それはなかなかにどうして酷な役回りだ。
「厳しいな」
「でも、やるべきことよ」
私はどうしても、自分でやれば良いじゃないかという一言が出せないでいた。
霧切の善意を踏みにじる気がしたからではない。
苗木の哀しそうな顔を見たいからでもない。
ただ、責任感や義務感を感じたのだ。
これは私がしなければいけないのだ、するべきことなのだという思いが強くなり始めたのだ。
「……分かった。頃合いを見て、話してみる」
それがいつになるかはまだ分からないけれど、その責任を背中に背負いはした。
霧切から、私へ。
その責務は受け渡された。
「──そうそう、後で食堂に集合することになっているんだけど」
立ち去ろうと私の横を通った霧切は(良い匂いがした!)、思い出したようにそう言った。
「今日は、少し疲れた」
朝起きて、舞園の死体を見つけて、休む暇もなく捜査が始まり、そして学級裁判──今思い返せば、心が休まった瞬間なんてほとんどなかった。
今日はもう、寝てしまいたい。
布団でぐっすりと、惰眠を貪りたい。
なにもかも忘れて、夢の中に堕ちてしまたい。
そんな私の様子を察してだろうか、霧切は私の方を振り返ることなくそのまま食堂の方へ歩いて行きながら「分かった。私からみんなに説明しておくわ」と言ってそのまま角を曲がっていった。
再び一人になることで、安堵感というものが堰を切ったように溢れ出てきた。
その幸福感は、背徳的なもので。
冬の日の温もりのように、決して離したくないものだった。
部屋に戻った私は扉をくぐってからすぐ足跡を残すように服を脱ぎ、布一枚纏わぬ姿でベッドに飛び込んだ。
左腕を縛る包帯も、取っ払う。
布団に顔を埋め、強く強く握り締め、壊れてしまいそうなくらいに抱き締めて、そして、不甲斐なさを感じた。