阿良々木暦は望まない   作:鹿手袋こはぜ

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004 (非)日常編

「神原ちゃーん、苗木ぃー。行っくよー!」

 

 水の中なのだから、それなりに抵抗はあるはずなのに。それを感じさせない軽やかな動きで、朝日奈はボールを上に上げ──そして、見事な身のこなしでこちらのコートへと、叩きつけるようにしてボールを打った。

 

 元々の体力や筋力もあってだろうか。苗木は、自分の側にきたボールを自陣の水面に落とさせまいと、必死に食らいつくようにして腕を伸ばしたが、どうしてもそこに存在している水の抵抗力に負けてしまい、相手──つまり、朝日奈と大神のチームに一点取られてしまう。

 

「ごめん! 神原さん」

「今のは相手が上手かった、次から頑張ろう! 深呼吸だぞ、深呼吸!」

 

 ブレスレットの正しい意味を教えてもらった私は(今となっては、なぜあの様な間違いをしていたのかが甚だ疑問であるけど)、肩で息をしながら精一杯の声かけを苗木にする。

 こういうのは、ある種の懐かしさを感じないでもなかった──なにを懐かしんでいるのかというと、それはやはり私の超高校級のバスケットボールという肩書きにも起因する部活動についてだろう。後輩や同級生、ときには他校の対戦相手に囲まれてコートを縦横無尽に駆け回った日々──けど、それは、懐かしむにしてはあまりに近しい記憶である。

 年数にするまでもなく、およそ半年ほど前の話で──コソ練こそしていたものの──こうした激しい運動は懐かしくはあるのだが、先述の通り懐かしむには結構最近の出来事だ。

 だというのに懐かしさを覚えたというのは、やはりこの非日常空間に置かれることで、過去の日常が恋しく思えてしまっているのだろうか?

 戻れるなら戻りたい。

 そんな、ある意味懐古的な思いに駆られる私であった。

 

 二階が解放されてから、一夜明けた日の昼前、私たち四人はプールで遊んでいた。

 泳ぎの速さを競ったり、浮き輪に身を任せてプカプカと浮いていたり、鬼ごっこなんかをしたりして──今はプールの一角を使い、二対二のビーチバレーをしている。

 初めて水連場に来た日も、つまりは昨日だが、そのときも同じように遊んでいた──飽きもせず、二日も続けてよく遊ぶなと思われるかもしれないが、娯楽の少ないこの施設において、まさしくオアシスと言えるプールは、遊び盛りの思春期である私たちにとってはとても貴重でありがたいものであったのだ。

 本当は、もっと違うこともしたいんだけど。

 わがままは言ってられないし、これはこれで十分楽しい。

 ウォータースライダーがあるわけでもなく、また流れるプール、波打つプールでもないただの長方形型の五十メートルプールだけど、それでもこうして楽しめているのは、若さゆえというものだろう。

 

 そして今、体育会系二人に対し、文武混ざった私たち二人のチームは端的に言って劣勢に立たされている。もともと私は、こういったボールを扱う競技を主に行ってきたために、それなりに動き方などは心得ているつもりだが……どうやら苗木はこういうことが不慣れなようで、精一杯動いてはいるものの空回りで終わっていることが多い。

 それだけでなく、相手チームもまた強力で。

 朝日奈は運動部をいくつも掛け持ちしている生粋のアスリートだし、大神はその大きな体を生かし、普通なら手が届かないようなところに飛んでいったボールをも拾ってくる。幸いなのは、あくまでも大神が朝日奈のサポート役に徹しているという点であるけれど、それでも極稀に大神自身が打つこともあるのでそれがまた恐ろしい。

 苗木は、むしろ筋がいい方だと思うのだ。よく動くし。諦めない心というものがヒシヒシと伝わってくる。

 実際、私たち二人のチームは決して弱くはないはずだ。

 

 そんな私たちにとって不幸であることは相手が朝日奈と大神だったということで。

 そして私個人にとっての不幸は本調子が出せないということだった。

 

 体調が悪いわけではない。

 これは、おそらく恒久的な問題だろう。

 私の左腕が()()()()()()()()()に変化していたために、左右の重量比がアンシンメトリーなものになってしまっていて──未だその偏重心に適応できていないため満足ならない動きしかできないのだ。

 人の腕は、その人間の体重の十六分の一を占めるという。私くらいだとおよそ五十キロ周辺であろうから、そこから計算すると、通常の状態である腕一本の重さは三キログラムと少し。

 この腕の大きさから考えて、明らかに重さは増えているだろう──毛量が多いので、なんともいえないけど、二、三倍近くは増えているのではないだろうか……? ともすれば、左腕に三から六キロ近い重りをつけて生活しているようなものなので、とてもじゃないがろくな生活は送れない。

 実際、最初の方は、歩くことすらままならなかった──あのときは、目覚めたばかりで寝ぼけているのかもしれないと思っていたけれど、今思えばそんな偏重心によるふらつきだったのかもしれない。

 ……もちろん、そんな状態で泳ぐことなど困難であり(クロールしようものなら、左半身がマッハで沈んでいく)、ビーチバレーも結構大変で、左腕を上げるのはどうしても難しいので、自然と何も変化のない右腕で──利き手でない右腕で、生半可では勝てないであろう二人に挑まなければならなかった。

 勝つことは目的ではないのだけど、そう分かってはいても、歯痒い思いが消えることはない。

 

 しかし、猿の左腕。

 この学園で目覚めたときには既に、私の左腕はそのような異質なものへと変化していた。

 人らしからぬ肌色に、女子高生らしからぬゴツゴツとした指、獣のように茂る体毛もそうだし、そもそも私の本来の腕とは骨格からして違うようであった。

 まるで腕を丸ごと取り替えられたような──いや、そうとしか考えられないような()()

 あまりに不可解で、あまりに不明瞭なこの腕は、一体どのような生き物の腕なのだろうか──?

 あるいは、私の腕がなんらかの奇病でこうなってしまったとでも言うのだろうか……? だとしたら、ブラック・ジャックにしか直さなさそうだな、と密かに思う。確か、動物関連でこう言う話がなかったっけか? 腕が、ではないけれど、全身に蛇の鱗が現れるという。

 さすがに全身の皮を剥ぎこそしないだろうが、本来の姿に戻すにあたり、腕を切り落としたりするのだろうか? そこまでして、実は腕自体に問題はなく、私の体に問題があって、腕を取り替えたところでまた変化する……なんていうオチはあまりにも酷い結末だろうが。

 ……医学関連で思ったけれど、同じ人間同士であっても皮膚やらを移植したところで、適合しなければなんらかの不具合が出るというのに──こんな、どこからどうみたって遺伝子単位で異なるだろう異形の腕をくっつけていて、私の体になにかしらの症状や弊害というものは現れないものだろうか?

 今のところそういう兆候は見られないけれど、ろくな医療設備も揃っていないこの閉ざされた施設で何らかの不具合が起きたときは、そのときは死を覚悟した方がいいのだろうか……? あるいは、誰かを殺してここから出る覚悟をか。

 

 いいや、馬鹿なことは考えないでおこう。

 例え外に出たとしても、人を殺したんじゃあ……戦場ヶ原先輩や、おじいちゃん、おばあちゃんに合わせる顔がない。

 母は幼い頃の私に、「薬になれなきゃ毒になれ。でなきゃあんたはただの水だ」と言ったけれど、悪い影響を与える毒になるくらいなら、一層のこと、このプールの塩素水のように希薄な存在になってしまった方が、私としては気が楽でいいと思う。

 戦場ヶ原先輩がプールに入ることを考えると、なお良い。

 むしろなりたい。先輩が泳ぐプールの塩素水になりたい。

 

 ……ともかく、話を戻すと、猿の腕と私の体との結合部分なんかは真っ先に炎症やら解離を起こしそうなものだが……変な表現になるけど、その問題の結合部分らしき部分はやけに自然な感じで、まるで最初からそうであったような──ほんと、違和感を感じさせない違和感で。

 縫合跡らしいものも見当たらず、一体どうなっているのだろうかと学のない私は考えるだけ考えてみるのだが、結局納得できる答えは出せていないというのがオチだ。

 謎は謎のまま、究明されることがない……非常にモヤモヤする。推理小説でいうなら、トリックは明かされたし犯人は捕まったけど、肝心の動機やらがすっかり抜け落ちてしまっているかのような腑抜けた感触が否めない。

 

 しかし、謎というのならあのクマも謎だけど、バッタの仮面ライダーよろしく、モノクマが私の体になにかしらの改造を施したのだろうか──?

 そう思ったりしたけれど、そうではないらしく。その根拠として昨夜モノクマが私の部屋に訪れた際に交わしたこんな会話が挙げられる。

 モノクマが無実を主張したのであれば怪しい限りだけれど、この場合はモノクマがボロを出したというか、状況証拠のようなものなのでそれなりに信憑性は高い。

 

 ともかく昨夜のこと。夜時間が近いため、倉庫を離れてそろそろ寝ようかと部屋に戻ったときのことだ。

 

「ねえ、神原さん」

「うわっ、モノクマ?!」

「うわってなにさ、うわって」

「いや……マットレスの下から出てきたら、誰だって何だって驚くだろう。というか、どういうことなんだ? ひょっとして、いやひょっとしなくても、各部屋のマットレスの下にはモノクマが格納されでもしているのか?」

「そんなわけないジャン! 今の世界情勢を考えても、ボクのような高性能ロボットを作るのは困難なわけだから、こんな意味のわからない使い所が不明な場所に機数を割けるわけがないんだよね」

「……? ということは、モノクマは私の部屋のベッドのマットレスの下に、わざわざこうして潜んでいたということか? 潜んで、私の帰りを待っていた。ということはもはや夜ば──」

「言わせないし、そんなシチュエーションはあり得ないよッ!」

「カンモノは存在しないのか……」

「なんだよそのカップリング! 誰得だよ! というか、なんでボクが受けなのさ!」

「クマもネコも似たようなものだろう」

「問題発言! 問題発言だよ!」

「若いときは無茶やるものだと聞くし、私ももう少し放送コードギリギリなことをしたいなあって」

「若いときに無茶やって、その先の人生真っ暗になっちゃったらお終いだけどね……ところで神原さん」

「なんだ? モノクマ。スリーサイズ以外なら答えないぞ」

「なんでさ! 普通逆じゃない?」

「なに? 普通(きゃく)じゃない? だと? なんだか変な言葉遣いだな……まあクマだし仕方がないといえば仕方がない」

「クマじゃないよ、いやクマだけど! でもただのクマと違って高性能なの!」

「私は別に構わないぞ。にしても脚のサイズ……、太腿からか? それとも土踏まずからか?」

「どっちでもいいよ……いや、どっちでもないよッ」

「なに?! どちらでもないということは、ひょっとして、モノクマは足は鼠蹊部から始まる派なのか? ……話が合うのは癪だが……仕方あるまい、それじゃあ鼠蹊部のサイズから」

「鼠蹊部のサイズってなにさ?! っていやいや、そろそろボク夜時間のアナウンスしなきゃだからさあ、早めに話を終わらせたいんだけど」

「早いも遅いもあるものだろうか? いいや、私はないと思う。幼くったって、歳を重ねていたって、足というのは実に素晴らしい部位であると私は思うぞ!」

「聞きたくなかったです……同級生の性癖だなんて……聞きたくありませんでした……」

「ん? なにか言ったか?」

「な、なんでもないよッ」

「私は眠いんだ、するならするで、さっさと話をしてくれないか」

「酷い! なにさなにさ、妨害してたのは神原サンじゃん!」

「酷くて醜くて、愚かなのが人間だぞ」

「自覚してるんならやめてほしいんだけどね」

「そんな醜い人間だからこそ、そんな愚かな人間だからこそ、何かできることがあるんじゃないだろうか──とふと思ったのだが、一体何ができるのだろう」

「ボクに聞かないでよ。知らないよそんなこと」

「そういえばつい先日、『こどもなんでも相談』という名前のコールセンターに『人は死んだらどうなるの?』と訊いてみたのだが、微妙な対応をされたことを思い出した」

「それはキミが高校生だったからじゃないの?」

「それじゃあおやすみだ。明日は……明日の風が吹く!」

「なにか言おうとしたけど良いのが思いつかなかったからって、そんな適当な言葉を繋げないでよ! この施設窓がないから風なんて吹かないし! っていうか、さらっと寝ないでよ!」

 

 という会話だったのだが……ん? だからどうした感をそこはかとなく感じる。

 ああそうそう、もう少し続いていたような……なにせ寝入る前の話だから、記憶が曖昧なのだ。

 続きは確かこうだ。

 

「で、どういう話なんだ?」

「……えっとね、神原さん。学級裁判の後、神原サンはトラッシュルームにいたよね……?」

「トラッシュルーム……? ああ、確かに、いるにはいたけれど」

「でね、初めて見たとき驚いたんだけど、トラッシュルームの鉄格子が『破壊』されてたんだよね。『傷ついてる』とか『曲がっている』とか、そういうんじゃあなくってさ。それこそ、まるで折り鶴をクシャって手のひらの中で小さく押し潰したみたいに『破壊』されてたんだよ」

「…………」

「学級裁判の直後のことだったから、ちょっと気を抜いて休んでいたらコレだもん……監視カメラの録画を見返してみたら神原さんがその左腕で──怪我をしているはずの左腕で、鉄格子を殴って、破壊しちゃってるんだから」

「…………」

「ああ、咎めてるわけじゃないんだよ? いや、しちゃあいけないんだけど、でも校則にそう書いてはなかったからね。……監視カメラを破壊しちゃダメってだけで、鉄格子を破壊しちゃダメって書いてなかったし」

「……確かにあの鉄格子は私が壊した、申し訳なく思ってる」

「咎められないと知った途端白状するあたり、四国の魔法少女みたいだね! ……まあ、申し訳なく思うんなら、その腕見せてくれないかな? もし怪我してるなら、学園長としても心配しないわけにはいかないんだよね。それに気になるんだ……大神さんならまだしも、キミがその細腕であんなことができるだなんて、あまりにも不思議すぎるんだ」

「それは……できない相談だな」

「んー、まあ話せないなら話せないでいいんだけど。実のところ、神原さんも詳しくは知らないんじゃない?」

「……ッ!」

「図星みたいだねッ! ああ、なんだかスッキリした! さっきまで振り回されっぱなしだったからスッキリした!」

「っ……性格が悪いんだな」

「人、もといクマの話を聞かない神原さんには何も言われたくないよ!」

 

 ──ということが、昨日の夜にあったのだ。

 わざわざ聞きに来たということは、モノクマは、私のこの左腕のことについて詳しくは知らなかったということだろうし、そしてまた私と同じようにこの左腕のことに関しては『得体が知れない』状態なのだろう。

 様子見を決め込んでいるというか、触らぬ神に祟りなしではないが、腫れ物を扱うかのような振る舞いだ。

 それに、よく分からないものをよく分からないままにしておいたのは──知ることを諦めたのでなく、敢えて知らないことでこのコロシアイ生活に波乱がもたらされることを期待しての行為だとも思われる。

 その放置する行動が、良い結果であれ、悪い結果であれ、どう転ぶのか──モノクマにとっての良い結果というのは、すなわち私たちにとっては悪い結果なのだけど、どちらにせよ、モノクマの思惑通りになるというのは無性に腹がたつ。

 できることなら、叶うことなら──この左腕のことは秘匿のままに、なるたけ触れずに、この悪夢のようなコロシアイ生活を終えたいと思っている。

 

 秘匿と言えばそうだが、私はそういえば、まだ苗木にあのことを話していないのだった。

 霧切から頼まれた、舞園のことについて──この話を聞いたとき、彼はどう思うのだろうか?

 どういう表情をするのだろうか?

 話さなければならない。その義務感に気付いてからというものの、私の心には、話すべきか否かの迷いが、さながら洗濯機のように渦巻き始めていた(ここで言う洗濯機はランドリーにあるそれではなく、プールでよくやる淵をみんなで回ってプールの水を渦巻かせる例のアレである)。

 

 ──ともかく、そんな人ならざる左腕を隠すため、日頃巻いてある包帯を防水性の包帯に巻き替え、私は溌剌(はつらつ)とビーチバレーに興じていた。

 体の重大な部分が異常をきたしているのに溌剌というのも、なんだかおかしな感じがするけど。

 

「神原さんッ!」

 

 苗木が上げたボールは、これまでになく良い位置に飛んできた。

 普段の癖でそのボールを受け取ってしまいそうになるけれど、すんでのところで身をよじっては右腕を掲げ、体勢が崩れる前に素早く腕を振り抜く。

 やはり、利き手でない腕では──加えて身体の比重が左右違うのだから、どうしても体重が乗っていない脆弱なスマッシュしか打つことができない。

 易々とではないものの、しかしボールは水面に着く前に拾われてしまった。

 

「いくよっ、さくらちゃん!」

「むぅ」

 

 朝日奈の放った、とても高くて普通なら落ちてくるのを待つようなトスを、大神は難なく最高高度の地点にまで飛びつき、そして上から叩きつけるようなボールを──実際、隕石か何かかと錯誤してしまいそうな威力のボールを──こちらのコートに打ち込んできた。

 そしてそれと同時に……大きな体をした大神が高く跳躍したからだろう、その際に発生した波が苗木をさらい、不自然な方向へと姿勢を崩させた。

 苗木にとって幸か不幸か、その波によって運ばれて行く先は大神が放ったボールの着水地点で──痛々しい破裂音を上げながら、ボールは弾け飛んだ(サッカーアニメよろしく、ボールは破裂しなかった)。

 大神の力が強いからだろう、回転もだいぶ加わっていたらしく、苗木の顔面にクリーンヒットしたボールは弾けるようにして予想もつかないような方向へと勢いそのままにすっ飛んでいった。

 大神は高く飛んだために未だ宙にいて。朝日奈はボールが跳ねて(跳ねると形容して良い域は既に超えているが)行った先とは反対の位置にいて。

 ──それは一瞬の出来事で、苗木が水面に沈んで行くのと、朝日奈、大神チームの陣地にボールが着水したのはほぼ同じタイミングだった──。

 

 ──それから、ビーチバレーは中断し一旦休憩を取ることになった。

 だいぶ疲れてしまっていた私と苗木は、休憩中であってもプールではしゃぐ朝日奈を視界にうちに捉えながら、プールサイドにあるベンチに腰をかけて肩の力を抜いた。

 

 そして、食堂から持参していた飲料水を飲みながら、私は考えていた。

 ビーチバレーの最中に考えていたことを再度、検討していたのだ。

 

 やっぱり、今話すべきだろうか……?

 今はまだそのときではないと言われれば納得してしまいそうだが、しかしだとしたら、いったいいつそのときが来るのかが分からない。

 不穏な話だけど、気付けば何もかもが終わっていた──なんてオチには辿り着きたくない。であるのならば、今話すべきなのだろう──けど。

 けど、当たって砕けようにも、砕けちゃいけない問題だしな……。

 最良の選択なんてできるはずはないが、しかしなるべく近い結果を求める。苗木に先日の事件の真相なるものを伝え、そして彼を傷つけることのないような結果を──そんな高望みができるほど徳を積んだ覚えはないが、そんな幸せを望んでもいいほどに不幸な生活環境であるとも思う。

 もっとも、今私が望む幸せの原因は、その前に起きた不幸であるというのだから、マッチポンプもいいとこだけど。

 

 柄にもなく深刻そうな表情で考えていたからだろうか。

 苗木は私を労うように、

 

「お、惜しかったよね! それにしてもあの二人、凄いよね。目が追いつかなかったよ」

 

 と、声をかけてくれた。

 ああ、気を遣わせてしまったんだな、と、申し訳ない気持ちで胸が痛む。

 気を遣おうとしていて、気を遣われるというのは、情けないの一言に尽きるからだ。

 

 ──ああ、こんな気持ちになってちゃ、話すことも話せない。

 ええい。

 私は(あお)るように水を飲んで、話を切り出すために彼の名前を呼んだ。

 

「なあ苗木」

「なにかな? 神原さん」

 

 疲れもあってか、苗木は少し背を丸めた姿勢でそう訊き返してきた。

 

「その、舞園のことなんだが──」

 

 そこまで言って、言葉に詰まる。

 話そう話そうと考えていただけで──こうやっていざ話し始めてみると、なにをどう話せば良いのかてんで分からなくなってしまったのだ。

 頭が真っ白というわけではないのだが、浮かんでくる言葉一つ一つがどこかダメなような気がして──苗木を傷つけてしまう気がして、仕方がない。

 だから、言葉が出ない。

 出せる言葉がない。

 いきなり本題に入るでなく、もう少し、なにか話を挟めば良かったか──しかし、後悔先に立たずである。

 今となってはなにをどう考えようと、先ほど発言した舞園の名前を取り消すことはできない。

 これが普通の会話なら、前言撤回もできただろうが──なんせ、話題は故人だ。

 そう簡単に、取り消すことのできる話でないことは明らかだった。

 現に苗木は、

 

「舞園さん? 舞園さんがどうかしたの?」

 

 と、私の発言を息を詰めて追求してきた。

 

 どう、返したものか。

 一度、深く肩で息をして──それから、緩慢な動きで水を飲む。

 醜い時間稼ぎで、そして結局上手い言葉選びはできなかったのだが、それでも、心を落ち着かせることはできた。

 相手に不安を与えかねないような、たどたどしい口調で私は話し出す。

 うまく言葉が出てこないのと同時に、うまく口が開かないのだ。

 

「その、舞園の事件が、二日前に……あっただろう? あれから私なりに、考えてみたんだ。それで、いくつか引っかかることが、あってだな」

 

 これは嘘だ。

 舞園が苗木に罪を被せようと画策していたことに気付いたのは私ではない。

 であるからして、私なりに考えてみた──という行為自体は嘘ではないにしても、しかし『いくつか引っかかることがあった』というのは虚偽の事実だ。

 元々この話は霧切から聞いたことだし、気が付いたのも当然霧切なわけで。

 ……だけど、その点を言うべきかを迷う。

 また、迷う。

 私は、こんなに優柔不断な性格だったっけか。そんな風に思わないでもなかったが、なにぶん今自分が置かれている環境というものがいささか特殊すぎるため、いかんせん仕方がないようにも思えた。

 

 だが、どうしたものだろう。

 あなたの口から──と、霧切に言われていたため、ここで霧切の名前を出すのは少し違うんじゃないかと思ったりする。

 霧切から聞いたと言えば、苗木は私以外の人が思ったことなのだと──とどのつまり、壁を感じかねないだろう。

 苗木が真実を受け入れやすくするために、と、霧切はわざわざこの件を私に依頼してきたのだから……ここで霧切の名前を出してしまうと、そんな彼女の気遣いも無駄になってしまいかねない。

 

 あるいは、むしろあえて壁を感じさせることで、緩衝材の役割を果たさせるというのも有効な手立てのように思えたが、それはあくまで壊れる壁、乗り越えられる壁の場合だ。

 人の死に関わる話題で、そんなに脆く、頼りない壁は生まれないだろう。

 

 散々迷った挙句(喋りながらなので、そこまで深く考えれてないけど)、そこの辺はぼかして話そうかと決定付けて、言葉を続ける。

 

「なんでも、舞園がいた部屋──つまり苗木、お前の部屋だが、そこに置いてあったメモにどうやら使用された形跡があったらしいんだ。それで、調べてみたところ、どうやら舞園が誰かを部屋に呼ぶような内容が書かれていたんじゃないかと推測できたんだ」

「…………」

「積もるところ、桑田のやつは殺意を持って舞園がいた部屋に行ったわけではないのではないか──桑田のやつが、舞園を襲ったわけでなく──」

「──逆だった……っていうこと?」

「……そういうことになる」

 

 その言葉を聞いて、苗木はシンと口を閉ざしてしまった。

 私からはもう、出せる言葉がないので、お互いに黙ってしまい、自然と重苦しい空気が──体に染みるように痛む沈黙が、重く体にのしかかってくるように場を支配する。

 まるで、海底にでもいるかのような──そんな重さが、今の私の気持ちを表すに適した表現だと思えた。

 そんな気持ちを私が感じる必要はまずないのだろうけれど、ここで微笑みを浮かべていられるほど、私は無情な人間ではない。

 もっとも、この左腕の件がある限り、私は真っ当な人間らしさという概念からは少々脱線してしまっているようにも思えるが。

 

 苗木は、「逆だった」ということの意味を深く考えるように身を屈める。

 やがて鬱々とした動きで顔を上げて、

 

「……そっか、そうだよね。うん」

 

 と、誰に向けるでもない言葉で頷いた。

 

 霧切が言うに、苗木は薄々気付いているかもしれないと言う事だったから、元々あった考えに裏付けがされたのだろう。

 彼の横顔を見てみると、負の感情とともに、満足そうな思いが、前を向いた彼の表情に混じっていた。

 

「ありがとう。お陰でスッキリしたよ。実はさ、ボク、なんとなく気付いてたんだ……だけど、違うんじゃないかって、思ったりもしたんだ。でもこうして神原さんに言われて、やっぱりそうなんだって思ったよ。そうだよね、やっぱり舞園さんは、ボクのことなんか──」

「それは……違う。それは違うと、私は思う!」

 

 否定的な苗木の言葉に、思わず立ち上がる。

 さながら脊椎反射のように──口から出た言葉も、言ってしまえば脊椎反射だけど、だからこそ嘘偽りのない本当の思いであった。

 本音は時に人を傷つける──そのことを知っていながらも、だがそれでもこの言葉は今言うべき言葉なのだと信じて、私は苗木に訴えかける。

 

 強張った視線が苗木の瞳を深々と刺す。

 それは、釘でも刺したかのように離れない。

 

「舞園がどんなやつなのかは、苗木自身がよく知っているはずだ。今まで舞園のことをそうやって信じていたのだって──そんなことするはずがないって、そう思い、信じていたからなんだろう」

 

 力が籠る余りに声は震え気味で、お世辞にも聞こえやすい声量ではなかったが、それでも苗木はしっかりと聞いてくれているようだった──それに、応えなくては。

 より一層力を込めて、心を込めて、訴える。

 怒りにも似た、けれども決してそうではない複雑な気持ちで、訴える。

 

「──信じていたのなら……その気持ちは、きっと間違ってない──間違っていて良いはずがないんだ……!」

 

 そこまで言って、私の体からはすっと力が抜けるようだった。

 反射的に伸ばされた足は、胴体の自由落下により曲げられる。崩れるようにし、さっきとは打って変わって、私はうなだれるような姿勢で、しゃがれた唸り声のようなものを出していた。

 

 感情が表に出過ぎたせいか──はたまた、舞園を話題に上げたせいか──彼女が死んでしまったことに対する遣る瀬無さや、自責の思いが、堰を切ったように溢れてくる。

 そした意図せず感情が、口から漏れ出る。

 

「悪いのは、モノクマなんだ……舞園を苦しめた、モノクマが悪いんだ……」

「……らしくないよ神原サン。元気出してよっ」

 

 励ますはずの私が、こうして苗木に励まされている……どうしてこうも、私は弱いのだろうか。

 私の体は一つだって傷ついていないというのに、苦しいのは、死んでしまった彼ら彼女らだというのに──禍根は消えず、心に付けられた負の爪痕からは、感情が溢れでていた。

 

 のうのうの生きてしまっていることを、何もできなかったことを責める、今は亡き母の苛む声は聞こえてはこなかった。

 けど、だからこそ、こうして何の遮りもなく聞こえる苗木の励ましが、やけに聞こえやすかった。

 

 もしも苗木に何かあったとして──私は、きっと、何もできないままなのだろう。

 それは嫌だと思う。

 友達が死ぬのは、一度だって嫌だと言うのに──二度目は、きっと、耐えられない。

 けど、嫌がるばかりで。

 今の私には、その避けたい運命に抗う術がなかった。


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