ヒッキーだ。間違いない。
昼前の駅前、ラーメンの匂いが漂う通りで、ダボっとしたパーカーの背中を見つけた瞬間、私は思わず声をかけていた。
「あーっ! やっぱりヒッキーだ。やっはろー」
気づいた彼は、ちょっとびっくりしたように顔を向けて、「お、おう」と気の抜けた返事をした。相変わらずって感じ。でも、どこか安心する。
「ヒッキー、何してるの?」
首を傾げながら訊ねると、彼は少しだけ視線を外して、「飯食いに行く所だ」と答えた。
お昼だし、ラーメンかな? なんとなく、そんな気がした。だから、私は裾をつまんで、ちょっと甘えるみたいに言ってみた。
「私も行く」
彼の目がちょっとだけ見開いて、「は?」と戸惑った声を出したのが面白くて、「行こっ!」と強引に手を引いた。
ヒッキーと並んで歩く駅前の通りは、普段よりもちょっとだけ賑やかに感じた。
ラーメン屋さんののれんをくぐったとき、私はちょっとだけドキドキしていた。だって、こういうお店、入るの初めてだったから。
「……あ」
思わず声が漏れて、目の前の壁を見つめた。『硬め、普通、柔らかめ』って札が並んでる。えっ、なにこれ、選べるの? どれが正解?
「ヒッキー、麺の硬さは?」
わからなくて、助けを求めるように訊くと、彼はちょっとだけ間を置いてから言った。
「普通で良いだろう」
なんか、それだけなのに安心した。うん、普通でいいんだ。普通が、一番難しくて、一番大事なんだよね。
「わかったー」
それから注文を済ませて、ラーメンが来るまでの間、他愛のない話をした。ゲームのこととか、休日の過ごし方とか。ヒッキーは相変わらず適当で、でもどこか優しくて。私の言葉を、ちゃんと拾ってくれる。
やがて、ラーメンが目の前に置かれた。
ヒッキーの声に頷いて、私は箸を取る。
「じゃ、食べるか」
「そうだね」
一口すすった瞬間、じんわりと温かさが広がった。思わず、「おー」なんて声が出て、夢中で食べ始めた。
でも……ふと顔を上げたら、ヒッキーと目が合って、思わずお互いに視線を逸らした。
あはは、なんだか照れるな。ラーメンを食べるだけなのに、こんなにドキドキするなんて。
気まずさを誤魔化すみたいに、私は丼に集中した。ヒッキーも同じように、黙々と箸を進めていた。
──気づけば、完食。
それから、ちょっとお腹を落ち着かせるつもりで、ららぽをぶらぶら歩いた。冷やかしのウィンドウショッピング。別に欲しいものがあるわけじゃないけど、なんとなく楽しかった。
「美味かったか?」
ぽつんとヒッキーが訊いてきて、私は思わず笑ってしまった。
「うんうん。今度はゆきのんも誘って、三人で行こうよ」
そう言ったら、ヒッキーは少しだけ黙ってから、冗談っぽく答えた。
「美味いラーメンが食いたいって依頼が来たらな」
それって、また一緒に行こうって意味でいいんだよね?
そう思ったら、嬉しくてつい顔がにやけちゃった。
あれから、ヒッキーとはなんとなく、よく話すようになった。
いつの間にか、教室でも自然と隣にいることが増えて、私がトッポを開けてると、気づけば彼がそこにいて。
「ヒッキー、食べる?」
そう訊くと、彼は「……あー、うん」って、ちょっと気だるげに返してくる。だけどその指先はちゃんと、一本だけ取って口に運んでくれる。
それが、なんだか嬉しくて。
ヒッキーがトッポを食べてる間、私は彼の横顔をちらちら見てた。ちょっと眠そうで、でも真剣に食べてるようにも見えて、思わず笑いそうになる。
でもそのとき、周りの空気が少し変わったのがわかった。
教室の向こう、三浦が、葉山くんに何か言いたげな顔をしていた。
──気にしない。ヒッキーと話してるだけ。それだけなのに、どうしてだろう。私たちのこと、そんなに変に見えるのかな。
ヒッキーは、たぶん気づいてる。けど、顔にも出さずに、いつもの調子で。
「うん、ごちそうさん」
それだけ言って、マッ缶を口に含む。トッポの甘さと缶コーヒーの苦さの組み合わせ、なんだかヒッキーらしいなって思った。
だから今度は、私の番。
「じゃ、次はあたしね」
袖をつんと引っ張って、トッポの袋を指差して、私自身を指す。それで気づいてくれたみたいで、彼はちょっとだけ笑って、私に一本差し出してくれた。
「はい、どうぞ」
口を開けると、ヒッキーがくれたトッポがふっと触れた。
それだけのことなのに、教室の空気が一気に明るくなって、「うわーっ」ていう歓声があがった。私はちょっとだけ顔が熱くなって、思わずそっぽを向いた。
でも、ヒッキーは動じない。
周りがどうとか、そういうの、気にしないふりをするんじゃなくて、本当にどうでもいいって顔をしている。それが、なんだか少しだけ、かっこよかった。
私は、笑っていたと思う。
気づけば、自然と。
予鈴が鳴って、私はそっと席を立った。
平塚先生の授業に遅れると怖いから、名残惜しいけど席に戻らなきゃ。
「授業が始まるぞ」
ヒッキーがそう言って、私は頷いた。
「うん、また後でね」
手を軽く振って、自分の席へ。
背中を向けながら、なんとなく笑顔のまま歩いていた。
──特別じゃないけど、たしかな時間。
たぶん、こうやって少しずつ、友情って育っていくのかもしれない。
昼休み、廊下の窓辺。
私は、ヒッキーと並んで立っていた。何か特別な会話があるわけじゃない。だけど、この時間が、最近はちょっと楽しみになってる。
「ヒッキー、次の現国の小テストさ……範囲、結局どこだっけ?」
「お前、また聞いてないのかよ……」
呆れたような声。でも、ちょっとだけ笑ってるのがわかる。
私は頬を膨らませて、ノートの端をつついた。
「ちゃんと聞いてたもん。ただ、確認してるだけ」
「そういうのを、聞いてないって言うんだろ」
そう言いながらも、ヒッキーは自分の手帳を開いて見せてくれる。書かれた字は意外と丁寧で、私はそれを指でなぞるふりをした。
「ありがとー。さすがヒッキー。ぬかりない」
「使い方、間違ってる気がするが……まあいい」
窓の外は、少しだけ風が強い。スカートの裾がふわりと揺れて、私はとっさに押さえた。ヒッキーはそんな私をちらっと見ただけで、特に何も言わなかった。
──こんなふうに、他愛ない話をしてるだけなのに、いつの間にか時間が過ぎていく。
廊下で話してる二人の姿なんて、今ではもう、誰も驚かない。クラスメイトも先生たちも、いつの間にか見慣れた光景になっていた。
前だったら、三浦とかが「なにそれ」って顔をしてたけど、最近は何も言わない。葉山くんも、ただ静かにこちらを見るだけ。
「……なんか、平和だね」
ぽつんと呟いた言葉に、ヒッキーが「ん?」とだけ返す。
私はちょっとだけ笑って、首を振った。
「ううん、なんでもない。ねえ、今度の土曜日、空いてる?」
「……たぶん。なんだよ、またラーメンか?」
「違うよ。たまには、スイーツでもいいかなーって」
私がそう言うと、ヒッキーはほんの少し、考えるふりをしてから答えた。
「……まあ、甘いもんも嫌いじゃない」
「よし、決まり。じゃあ、また放課後、話そ?」
手を振って先に歩き出す。
振り返ると、ヒッキーは同じ場所で、いつものぼんやりした顔のまま、それでもどこか優しく見送ってくれていた。
──こうして、気づかないうちに、私たちはちょっとずつ“友達”になっていった。
土曜日。待ち合わせの場所に、ヒッキーは五分遅れて現れた。
私はすでに駅前のベンチに座っていて、スマホを見ながら来る気配をずっと待っていた。日差しはそこそこ強くて、スカートの裾に陽が当たると、ちょっとだけくすぐったい。
「……悪い、寝坊した」
そう言って現れたヒッキーは、寝癖を片方だけ残したまま、眉間に皺を寄せていた。
普通だったら「なにそれ」って笑えないかもしれない。だって、約束したんだし、時間守るのって、基本じゃん?
でも私は、ただ言った。
「ううん、気にしてない」
ほんとはちょっとだけムッとしたけど、それでも許せた。
友達だから、かな。ヒッキーだから、かな。
そのまま歩きながら、前から気になってたパフェの店に向かう。
私がちょっと浮かれておしゃべりしても、ヒッキーは相変わらず適当な相槌しか打たない。でも、ちゃんと話は聞いてくれてる。
私の好きな味、嫌いな果物、前に食べてみたいって言ってたこと――そういうの、ちゃんと覚えてる。
店に着いて、注文を済ませると、席はカウンターだった。横並び。
斜めにヒッキーの顔が見えて、私はパフェのスプーンをくるくると回す。
「ヒッキーって、こういうとこ、来たことある?」
「……ない。男一人じゃ入りにくいだろ、こういうのは」
「ふふっ、だよね。でも、私と一緒ならいいでしょ?」
そう言うと、ヒッキーはちょっとだけ肩をすくめて、ぼそっと答えた。
「まあ……友達だしな」
ね、そういうとこ。
普通に「ありがとう」とか「嬉しい」とか言えばいいのに、ヒッキーはいつも、回り道ばっかりする。
でも、それでもいいって思えるのは――
きっと、友達だから。
別に特別じゃない。恋じゃない。ドキドキなんて、たぶん、してない。
──ただ、隣にいてくれるだけで、ちょっと救われる。
そういう関係が、今は心地よくて、私にはちょうどよかった。
帰り道、駅までの道のり。
パフェの甘さがまだ口の中に残っていて、私はなんとなく、舌先で上顎をなぞっていた。隣を歩くヒッキーは手をポケットに突っ込んで、いつも通り無口だった。
でも、黙ってても気まずくないのが不思議だった。
「ヒッキー、今日はありがとね」
何気なく言った言葉に、彼は少しだけ顔をこちらに向けて、「……ああ」とだけ返す。たぶん、それなりに楽しかったってことなんだと思う。
その証拠に、歩くスピードは揃ってるし、駅までのルートも、こっちが何も言わなくてもちゃんと理解してくれてる。
「そういえばさ、ヒッキー。今度、カラオケでも行かない?」
「……俺に歌わせる気か」
「えー、ヒッキーの歌、ちょっと気になるかも」
「やめとけ、世界の終わりが来る」
冗談のような会話。でもそれでいい。
そうやって、意味もなく笑っていられるのが、今の私たちだった。
改札前で立ち止まる。電車はそれぞれ逆方向。
「じゃあ、また月曜ね」
「……ああ。トッポ、買っとけよ」
そう言われて、思わず笑ってしまった。
なんでそういうとこ、ちゃんと覚えてるかな。
「うん、ヒッキーの分もあるかもね」
手を振って別れてから、ホームに向かう階段を降りながら、私はふと立ち止まった。
別に、特別な日じゃない。デートでもない。
でも、今日が終わるのがちょっとだけ惜しい、そんな気がした。
──きっとこれが、友情ってやつなんだろうな。
恋よりも長持ちして、優しくて、少しだけ切ない。
でも、今はそれで、十分だった。
日曜の午後。
サブレのリードを持って、いつもの公園の坂を下りながら、私はちょっとだけ空を見上げた。雲はゆっくり流れていて、風はやわらかい。春の気配が、足元をすり抜けていく。
いつものコース。いつもの時間。
でも、あの人がそこにいるとは思ってなかった。
「ヒッキー?」
ベンチに座って缶コーヒーを飲んでたのは、見慣れた後ろ姿だった。
声をかけると、ヒッキーは顔を上げて、まばたきを一つ。
「……ああ。サブレの散歩か」
「そっちは? 待ち合わせ?」
「いや、ただの散歩。なんとなく」
たまたま。偶然。
でも、その“なんとなく”が、ちょっとだけ嬉しかった。
「じゃ、一緒に歩こ?」
誘うと、ヒッキーは少しだけ目を細めて、サブレのリードをちらっと見てから立ち上がった。私たちは、何も決めずに並んで歩いた。
道すがら、サブレが立ち止まっては草の匂いを嗅ぎ、私はそれを待つ。
ヒッキーは、文句ひとつ言わずにただ歩幅を合わせてくれる。
たまに交わす言葉は短くて、でもちゃんと笑えて。
気づけば、駅前まで来ていた。
「……お昼、まだでしょ?」
私がそう言うと、ヒッキーは少しだけ間を置いてから頷いた。
「まあな」
「じゃ、食べてこ。たまには、私が誘ってもいいでしょ?」
入ったのは、前から気になってたカフェ。サブレは入口でおとなしくお留守番。
ガラス越しに見えるその姿を眺めながら、私たちはランチプレートをつついた。
「これ、ちょっと味見してみる?」
「……じゃあ、そっちもよこせ」
小さな交換。スプーンを渡して、ヒッキーが少しだけ眉を上げて、「悪くない」なんて言う。私は、それを聞いて笑った。
食後の紅茶が少しだけ冷めたころ、テーブルに静けさが落ちた。
でも、その沈黙すら心地よくて。
私たちは、そのまま何も言わずに座っていた。
帰り道、駅からの坂を上る途中、サブレがふいにぐいっと引っ張った拍子に、私は少しよろけて、そのまま、ヒッキーの手に触れた。
「あっ……」
「……ほら、危ねぇから」
そのまま、手を握られた。
ぎゅっとじゃなくて、ふわっと。
ほどけてもおかしくない、でも確かに繋がってる、そんな手だった。
私たちは何も言わずに歩いた。
沈黙があたたかい。時間がゆるやかに流れていく。
夕陽が差し込む道を、手を繋いで帰った。
特別なことは何もなかった。約束もしてなかった。
でも、それでもいいと思える日だった。
──こうして、私たちの友情は、今日も変わらず続いていく。
ほんのりと、温かく。
教室から廊下へ、次の授業までの短い休み時間。
私はヒッキーの腕に軽く自分の腕を絡めて、並んで歩いていた。
「ヒッキー、ちょっとだけ来て。トイレ行くの、つきあって」
「いや、俺は入れないからな……」
「わかってるよー。手前のとこまでって意味だし」
そう言いながら、私は彼の腕をぐいっと引っ張った。ヒッキーはなんだかんだ言いつつも、ついてくる。
途中すれ違うクラスメイトたちは、ちょっとだけ目を見張って、でも何も言わない。もはやこの光景は“見慣れたもの”になりつつある。
女子トイレの前。私は手を離して、振り返った。
「じゃ、すぐ戻るから。逃げないでね」
「……逃げねーよ」
それだけ言って、私は中へ入った。
出てくると、ヒッキーはちゃんと立って待ってた。壁にもたれてスマホをいじってる風で、でも顔はなんとなくこっちに向いてた。
「お待たせー」
「……ちゃんと手、洗ったか?」
「え、なに急に。ちゃんと洗ったし。石鹸も使ったし。ねえ、ヒッキーは?」
「俺は用もねーのに洗うのか?」
「じゃあ流した? 鼻とかすすってたでしょ、さっき」
「……うるせぇよ」
こんな他愛ないやり取りが、なんだかんだ楽しい。
廊下の掲示板の前でちょっと立ち止まって、授業の連絡とか確認してるふりしながら、私はヒッキーの横顔を見上げる。
「……仲良すぎって言われるけどさ」
「まぁ、そりゃ言われるだろうな」
「でもさ、友情だよ友情。ね?」
そう言ったとき、後ろで誰かが小さく笑った気がした。
けど、誰も何も言わなかった。言えなかった。
たぶん、私が真顔で、まっすぐにそう言い切ったからだと思う。
──そう。これは友情。
恋じゃない。でも、他の誰にも真似できない関係。
そうやって、私たちは今日も一緒に歩いている。