放課後の廊下、夕陽が窓に斜めに差し込んで、光と影が床に伸びていた。
わたしはその中を、一人で歩いていた。ほんとはちょっと、探していた。
だって、雪ノ下先輩は帰っちゃったし、由比ヶ浜先輩も三浦さんたちに呼ばれてた。生徒会室に戻っても誰もいないし、正直、ちょっとだけ、さみしかった。
そんな時だった。
廊下の向こうに、比企谷先輩の背中を見つけた。
「──もう、どうして無視するんですかー!」
いつもの様にわざと少し大きめの声で言う。こっちに気づかせるために。
すると、ゆっくりと振り向いたその人は、相変わらずのぼさぼさ頭で、気の抜けた返事をした。
「あ? ああ、俺に話しかけていたのか」
ちょっとだけムカつく。……けど、それすらもお約束のやり取り。
計算のうちだと思ってくれてもいい。
わたしはふーっと息をついて、いつものテンプレートで切り返した。
「先輩とわたし以外、いないじゃないですか。うっわ、もしかして素っ気ない振りをして気を引くつもりですか? わたしのこと口説いてます? ごめんなさい、嫌いじゃないですけど、まだちょっと無理です。デートも何回か重ねてからでお願いしますね」
全部冗談。そう聞こえるように言ってる。でも、本音がゼロってわけじゃない。
比企谷先輩は、すぐに「それは無いから」と言い捨てる。はいはい、いつものやつ。
「速答ですか。ちょっと傷つくんですけど……」
そう言って口を尖らせてみせる。ほんの少しだけ期待した返事じゃなかったけど、それは仕方ない。
先輩って、そういう人だから。優しいけど、臆病で、不器用で、だけどちゃんと見てる。
「じゃあ、行きましょうか」
言った私の声に、先輩は「おう」と応じてくれた。
今日の目的は、生徒会のフリーペーパーの取材。べつに一人でもできたけど、理由があれば誘いやすいし、嫌って言わないのも分かってたから。
わたしのあとについて歩く彼は、まるで執事みたいだなと思った。ちょっと可笑しくて、でもどこか、安心した。
「今日はラーメン以外でお願いしますよ」
冗談半分、本音半分。だってこの人、ほんとにラーメンばっかりなんだもん。
「じゃあ、サイゼ?」
「却下」
そっけない提案に、即却下で返す。わたしだって、もうちょっとそれっぽいところで食べたいの。
それで、見つけたのが小さなたこ焼き屋さん。案外、こういうのも悪くない。
並んでベンチに座って、たこ焼きを一緒に食べる。手が熱くて、ふぅふぅってしながら、でも口に入れたら「……美味しい」って思わず笑っちゃった。
「……だって、しょうがないじゃないですか。美味しかったんだから」
そう言いながら最後のひとつを、比企谷先輩の口にぽいっと入れてあげた。
わたしにしては、かなり大胆だったと思う。だって、ほんとに彼女っぽいことしたなって、自分でもちょっと思ったから。
でも先輩は、「まあな」とだけ言って、何事もなかったみたいに咀嚼してた。
──ほんと、そういうとこ。
鈍感というより、見てないふり、してるんだよね。
もしかしたら、それが優しさなのかもしれないけど。
それから、ららぽでアイスを買って、適当な雑貨屋を冷やかして、もう取材なんてどこかに飛んでった。
ずるずる一緒にいるうちに、わたしは思ってた。
……これって、なに? デートじゃないの? わたしの勘違いなの? どこまでが生徒会の仕事なの?
答えはどこにもない。
でも、こうして並んで歩いてるだけで、ほんの少し、胸の奥があったかくなる。
それが“恋”じゃないって言われたら、わたしはたぶん、ちょっとだけムキになる。
だって、これはこれで、ちゃんと特別な時間なんだから。
次の日も、わたしは比企谷先輩の隣にいた。
教室じゃない。生徒会室じゃない。中庭でも屋上でもない。
ただの、昇降口前のベンチ。放課後、みんながぞろぞろ帰っていくその流れを、ぼんやり眺めている時間。
「……今日も暇なんですか、先輩」
「俺の存在意義って、そういうラベルか」
皮肉っぽく返されても、わたしは気にしない。
だって、こうして喋ってること自体が、もう日常だから。
いつの間にか、放課後になると先輩の姿を探す癖がついた。
それはべつに、好きだからとか“気になってるから”とか、そういうんじゃなくて。
……ううん。きっと、違う。
わたしはただ、誰かと一緒にいたいだけで。
気を使わず、無理せず、黙っていても怒られなくて、ちゃんと話せば聞いてくれる。そんなちょうどいい距離をくれるのが、たまたまこの人だっただけ。
「……あれですね。友情ですよ、友情」
そう言うと、先輩はふっと息を吐いた。
「由比ヶ浜も言っていたけど、その言葉、便利すぎるだろ」
「でも事実ですしー。ねえ、別に先輩もわたしのこと、女の子として意識してないですよね?」
「当然だろ」
即答だった。だから、わたしも笑った。
「ですよねー。わたしも、ぜんっぜんそういうのじゃないんで。先輩となんて、ないない」
本音を隠してるわけじゃない。これはほんとに、本気でそう思ってる。
……今は、たぶん。
教室でも、ちょっとした休み時間に背中を突っついてみたり、トイレの前で雑談したり、買い食いの相談をしたり。
先輩の反応が薄くても、毎日そんなふうに関わるのが、わたしにとってはなんだか安心だった。
人付き合いって、いつもどこかめんどくさくて。
誰とでもうまくやってるように見られるけど、ほんとはたまに、誰とも話したくない日もある。
でも先輩とは、不思議と、黙ってるだけでも平気だった。
──そういうのって、たぶん友情って呼ぶんだと思う。
「じゃ、また明日も付き合ってくださいね、先輩」
「……お前の付き合うって、怖いんだよな」
そんなふうに嫌がられても、内心は断らないって分かってる。
だからわたしは、今日もまた、気づけば隣にいる。
これは恋じゃない。好きとか、そういうんじゃない。
でも、誰よりも一緒にいるっていう事実だけは、揺るがない。
そう。
──これは、いろはす的・全力の友情、なのです。
たぶん、わたしと比企谷先輩の関係は、ちょっと変わってる。
でも、今さらそれを気にするような人は、もう周りにいなかった。
たとえば、登校中の廊下で、隣を歩きながら指を絡めても。
たとえば、昼休みにじゃれつくみたいにハグしてみても。
誰も「え?」って顔をしないし、わたしたちも、気にしない。
だって、これは友情だから。
──それを最初に口にしたのは、たぶんわたし。
由比ヶ浜先輩が比企谷先輩に腕を絡めてるのを見たとき、ちょっとだけ不思議だった。あの人に、そんなことができるんだって。
でも同時に、ちょっとだけ、うらやましかった。
だから、わたしもやってみた。
意外と、簡単だった。先輩は、嫌がらなかった。
気づけば、それがわたしたちの普通になっていた。
放課後、なんとなく空いてるなって思ったとき、「映画行きません?」って誘ってみた。
そしたら、先輩は少しだけめんどくさそうにしながらも、「まぁ、いいけど」と返してくれた。
待ち合わせもなく、ふらっと映画館に寄って、軽いコメディ映画を選んで、ポップコーンとドリンクのセットを買った。
館内の少し暗い通路を抜けて、並んで座る。
ポップコーンのバケツに同時に手を伸ばして、指が触れたとき、わたしたちは何も言わなかった。
ドリンクを先に渡されて、二口ほど飲んで、何気なく戻す。先輩も、普通にそれを受け取って飲む。
間接キスがどうとか、気にするような関係じゃない。
ほんとは、昔ならちょっとドキドキしたかもしれない。
でも今は、ただ落ち着いていられる。
一緒にいると、温かくて、楽しい。
映画の途中、くだらないセリフにちょっと笑って、先輩が横で小さく吹き出すのを聞いて、わたしもつられて笑った。
──こういうのって、悪くないなって思う。
誰かといるのに、無理をしなくていい。
気を使わなくていい。
それでいて、ちゃんと隣にいてくれる。
それが好きじゃなくて、友情だって言えるのなら、
わたしは、たぶん、ずっとこのままでいいと思う。
「……今日の映画、まあまあでしたね」
「まあまあって、お前ずっと笑ってただろ」
「先輩もですよ。ちゃんとツボ浅いくせに」
映画が終わって、館内の明かりが戻ったとき。
わたしたちは、またポップコーンのバケツを半分残したまま、静かに立ち上がった。
外に出ると、夕暮れが街を染めていた。
わたしはふいに、先輩の袖をつかんで、くいっと引っ張った。
特に意味はない。ただ、そうしたかったから。
「また今度、行きましょうね。友情の証として」
「……その友情って言葉、便利だよな」
「でしょ?」
そう言って笑うと、先輩も少しだけ、肩をすくめて歩き出した。
この距離感が心地いい。
深くもなく、浅くもない。でも、ちゃんと信じられる。
──わたしたちは、たぶん、恋より長持ちする友情を育てている。
わたしは、甘い友情の世界に堕ちていた。
それは、苦くもなければ、痒くもない。
ただ、ちょっとだけ温かくて、ちょっとだけずるい。
放課後、制服の袖が少し擦れるくらいの距離で並んで歩く。
ふざけて手を引いたり、腕を組んだりしても、先輩は何も言わない。
コンビニの前でじゃんけんして、負けた方がアイスを買うルールも、いつの間にか定着してた。
「先輩、あーんしてもいいですよ?」
「いいってなんだよ……」
口ではそう言ってるくせに、受け取るときはちゃんと手が伸びてくる。
そのくらいの親しさ。
そのくらいの、甘え。
でも、それで全部が許されてるわけじゃないってこと、
ほんとは、ちゃんと分かってる。
──この関係には名前がない。
でも、それでも成立してる。
わたしがそれを「友情」と呼ぶことで、全部丸くおさまってる。
それが、すごく楽で、居心地がよくて。
だから、今はそれで十分だった。
先輩は、絶対に余計なことは言わない人で。
わたしも、たぶん、同じ。
でも、たとえば、もしも冗談みたいに笑いながら、「先っちょだけ」とか、そんなことを言われたら。
わたし、多分、断れない気がする。
ほんとは怖い。
でも、それを断ったら、この関係も壊れてしまうんじゃないかって。
だから、そう言われたら、笑ってごまかして、
きっと、冗談に乗るふりをしてしまうと思う。
だって、わたしはもう、ここに甘えてしまっているから。
心の奥で、ちゃんとわかってる。
この楽しいには、代償があることも。この幸せが、ずっと続かないことも。
でも、それでも今は、幸せだから。
信頼してる。
言わないことを、互いに選べるくらいには。
このまま、名前のない関係の中で、もう少しだけ笑っていたい。
その先に何があっても、今だけは。