放課後、奉仕部の扉が開く音はいつもと変わらなかった。
先に入ってきたのは、由比ヶ浜結衣。そしてすぐ後ろに、比企谷八幡。
「やっはろー」
「……おう」
挨拶も口調もこれまでと何ひとつ変わらない。
なのに雪ノ下雪乃は、はっきりと異変を感じていた。
違う。何かが違う。
目に見えるような大きな変化ではない。
距離が近いとか、言葉遣いが変わったとか、そんな単純な話でもない。
それは、空気だった。
ふたりのあいだに流れる、ゆるやかで、甘くて、けれどどこか触れてはいけないもののような空気。
たとえば、肩が自然にぶつかるくらいの距離に座る。
たとえば由比ヶ浜が彼の袖を引いて何気なく笑う。
たとえば、比企谷がそれを気にする素振りもなく普通に応じる。
以前ならあり得なかった。由比ヶ浜は不器用で、比企谷は臆病だった。
だからこそ雪乃はこの二人を把握できる対象として扱っていた。
それが今は、未知の存在に変貌していた。
雪乃にとって、比企谷八幡という人間は論理的に理解できるものであり、由比ヶ浜結衣という少女は感情の予測が可能な存在だった。
だがその両者が絡み合うことで生まれたなにかは彼女の想定外だった。
それを言葉にして問いかけることは、できなかった。
問いかけた瞬間、何かが壊れてしまいそうで。
あるいは知らなくてよかったものを、知ってしまいそうで。
だから雪乃は黙って紅茶を淹れた。カップを三つ並べそっと椅子に腰を下ろす。
由比ヶ浜が比企谷の分も砂糖を入れてあげて、比企谷がそれを特に否定もせず受け取る。
それを見て雪乃は一つだけ思った。
──あの二人は、わたしの知らない場所に行ってしまった。
理解できない。
理解したいとも正直思えない。
でも、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ羨ましいと、感じてしまった。
雪ノ下雪乃は誰にも気づかれないように静かにカップの縁に口をつけた。
紅茶は少しだけ苦く、温かかった。
休憩時間、廊下を歩いていたとき見かけた。
由比ヶ浜結衣が比企谷八幡の腕に、楽しげに絡みついていた。
声は弾んでいて笑顔は自然で、二人の間にある空気は柔らかく滑らかだった。
わたしは歩みを緩めて、少しだけ距離を取りながらその様子を見ていた。
じゃれつくように袖を引っ張る由比ヶ浜さん。
それに対してあくまで無表情を崩さず、けれど受け入れるように歩く彼。
──自然だった。
やがて二人は女子トイレの前で立ち止まり、何かを言葉少なに交わして別れた。
由比ヶ浜さんが中に入り、比企谷くんが扉の前で待っている。
それだけのやり取りに不思議なほどの親密さがあった。
数分後。由比ヶ浜さんが出てきて、「待ったー?」と笑いながら肩をぶつけ、比企谷くんが「待ってねーよ」と応じる。
教室へと戻っていく二人の背中は軽くぶつかり合いながら、ゆっくりと歩いていった。
──恋人、ではない。誰が見てもそうだろう。
キスもしないし抱き合いもしない。手を繋ぐことすら必ずしも必要としていない。
けれどその距離感は確かに近かった。
信頼とか、好意とか、そういうものが空気に染み込んでいた。
そのとき、わたしの中にすとんと落ちる感覚があった。
あれは友達だ。あれこそが友達というものなのだと。
わたしが思っていた友情よりも、ずっと形が曖昧で、時に恋に似て、時に家族のようで、
でもそのどれとも違っていて──それでも崩れない距離。
比企谷くんと由比ヶ浜さんのあいだには、確かにそれがあった。
わたしは、もうその型を否定しない。
理解できなくても、否定する理由はもうどこにもない。
ただ、彼らの背中を見送りながら、心の中でそっと言葉を落とす。
──素敵ね。
それだけを胸の奥にそっとしまって、わたしは踵を返し自分の教室へ戻った。
奉仕部の部室。
日が傾き始めた窓辺で、由比ヶ浜さんは、比企谷くんの肩に軽く頭を乗せていた。
彼はといえば特に動じる様子もなく、本を読み続けている。
その間、由比ヶ浜さんは笑ったり、頬を膨らませたりくすくすと小さく声を漏らしていた。
──色眼鏡ではない。
わたしはもう、斜に構えた見方をしていないつもりだった。
恋人のような仕草? 確かにそう見えなくもない。
だがそれは甘やかされた距離ではなく、育てた信頼の結果だと今ではわかる。
肩が触れる。腕が絡む。冗談めかしてスキンシップが重なる。
だがそれは決して媚びたものではなく、むしろあまりに自然すぎて、無垢にすら見えた。
これこそ友情なのだと──わたしは確信を深めていた。
だがそこでふと思い出す。
以前、由比ヶ浜さんが言ってくれた言葉。
──「ゆきのんも、わたしの友達だよ」
その瞬間、わたしの中で何かがかすかに揺れた。
もしあれが本気で、もしあれが彼女なりの友情の形だったのなら──
わたしは、それにどう応えるべきなのだろう。
由比ヶ浜さんの友達として、彼女に触れてもいいのだろうか。
笑いかけてもいいのだろうか。
冗談を言って、隣に座って、肩を並べてもいいのだろうか。
──そうして、わたしはようやく気づいた。
由比ヶ浜さんが比企谷くんに向けていたあの距離感。
わたしはそれを「理解しない」と切り捨てていたけれど、本当は、ただ「知らなかった」だけだったのだ。
ならば。
わたしも、近づいてみるべきなのだろうか。
少しだけ勇気を出して。
彼女が差し出した輪に、手を添えてみるべきなのだろうか。
迷いはある。
照れもある。
自分らしくないと思う部分もある。
でも、今、隣で静かに笑っている彼女を見て、わたしはひとつだけ、思った。
──たぶん、きっと、怖くはない。
放課後の廊下。
窓の外には、夕陽が斜めに差し込み始めていた。
由比ヶ浜さんの背中を見つけたとき、わたしは少しだけ躊躇った。
彼女は教室前のベンチで友人と談笑していたが、その表情は柔らかく、いつものように空気のようにまっすぐだった。
わたしは数歩だけ近づいてそれでも足が止まってしまった。
──何を言えばいいのだろう。
理由はなかった。ただ話したかった。
それだけのためにわたしは歩み寄ろうとしていた。
だけど、これまで幾度も交わした言葉が今はまるで遠くに霞んでしまっていた。
そのとき、彼女がこちらに気づいた。
視線が合った。
わたしは、ほんの少しだけ息を呑んで口を開いた。
「……由比ヶ浜さん」
思ったより声が柔らかく出た。
それは、わたしが自分自身に驚くような響きだった。
由比ヶ浜さんはすぐに立ち上がった。
友人に「ごめんね」と笑って手を振ってこちらに歩いてくる。
「どうしたの? ゆきのん」
その笑顔はあまりに自然で、まるでわたしが話しかけることをずっと待っていたかのようだった。
──ああ。
怖がることなんて、最初からなかったのだ。
「……少しだけ、お話できるかしら」
「うん、もちろん」
迷いは、すっと消えた。
わたしはほんの少しだけ微笑んだ。
それに気づいた由比ヶ浜さんが、もっと嬉しそうに笑った。
その瞬間、わたしは確かに思った。
──ああ、これが友情なのだと。
雪ノ下雪乃は、目を疑った。
由比ヶ浜結衣が比企谷八幡に腕を絡めている。それはもう見慣れた光景だった。
だから今日もその程度のものだと思っていた。
ところがその位置には、由比ヶ浜ではなく、一色いろはがいた。
明るい声色で何かを囁きながら、彼女はいかにも楽しげに彼の肩へと顔を寄せていた。
比企谷はそれを特に拒むでもなく、曖昧な顔で適当な相づちを打っていた。
腕を絡めひそひそ話し、笑い合う。それだけならどうということはない。
──だが、それが比企谷八幡相手であるとなると話は別だった。
雪乃の中で小さなざわめきが生まれた。
その感情に名前を与えることはしなかった。
ただ彼女は、そのまま一歩引いた場所で観察を続けた。
そこに由比ヶ浜が現れた。
手には紙パックのジュース。肩にかけた鞄を揺らしながら、彼女は自然な足取りで二人の元へと歩いていく。
いろはが比企谷に寄りかかっているその光景を由比ヶ浜は見た。
見て歩みを緩めることもせず、そのままにっこりと笑った。
そして隣に加わり、比企谷の反対の腕に自身の手を添える。
何か軽口を言って三人で笑う声が響いた。
焼きもちを焼く気配は一切なかった。
むしろそこにあったのは、この関係が当然という確信のような落ち着き。
──ああ、そうか。
雪乃の中で、ひとつの思考が腑に落ちた。
彼女は今、嫉妬を見たのではなかった。奪い合いでも、張り合いでもなかった。
それはただの友情だった。
けれど、そのただの友情が自分の知っている友情とは違った。
密着し、触れ合い、笑い合う。表面だけ見れば、まるで恋人のようにすら見えるその距離感。
でも、それは愛ではなく、信頼だった。媚びでもなく、駆け引きでもなく、ただの親しさだった。
由比ヶ浜の笑顔がそれを教えてくれた。
もし彼女がそこで小さくでも口角を引きつらせていたら──
わたしは、あれを恋の綱引きだと解釈したかもしれない。
でも、違った。
結衣はただ笑っていた。いろはも同じように笑っていた。
そして比企谷はその真ん中で、困ったような顔で、でもそれを受け入れていた。
──勘違いするところだった。
雪乃は、深く息を吸った。
これは、あくまで友情だ。
彼らの中にしか存在しない友情のかたちなのだ。
自分にはまだよく分からない。
でも、それでも否定する理由はない。
雪ノ下雪乃はその場を離れ、静かに背を向けた。
足取りは軽くも重くもなかった。
ただ、少しだけ世界が広がった気がした。
わたしはただ見ていた。
放課後の奉仕部室。
テーブルの上には課題のプリント。けれど誰も手をつけていない。
空気は緩やかに、そして奇妙に満たされていた。
比企谷くんの膝には由比ヶ浜さんの頭。彼の肩にはいろはさんが頬を寄せている。
その体勢で三人は、何かの動画を一緒に見て笑っていた。
──どういう姿勢なのかよくわからない。
常識で考えればあり得ない。誰かが見れば必ず言葉を失う。
それほどまでに、三人の距離は近すぎた。
誰の腕が誰のものか。指が触れているのはどの手なのか。
そんな境界線はとうに曖昧になっていた。
ふと、いろはさんがジュースのストローを比企谷くんに差し出す。
それを彼は何も言わずに受け取って、一口。
その様子を見た由比ヶ浜さんは、笑って彼のシャツの裾をくすぐるように引いた。
これが友情だというのなら。それは、もはや限界突破していた。
心がざわつく。けれど不快ではなかった。
親密で、奔放で、だらしなくて、温かい。それでいて誰も特別を主張しない、均等な親愛。
人間関係は、こうあるべきだと誰が決めたのだろう。
距離とは、接触とは、信頼とは、どこからどこまでが正しさなのだろう。
この三人は、それを軽々と超えていた。
たぶん、もう友情という言葉では足りない。
けれどそれ以外の言葉を、彼ら自身が必要としていないのだ。
そして、不思議なことにその光景は、どこまでも幸福そうだった。
わたしにはできない。たぶん、これからも。
だけど、だからといって壊そうとは思わない。
それはたぶん彼らだけの形。わたしの知らない友情の果て。