放課後、奉仕部の部室。
比企谷八幡は、天を仰ぎたい気持ちを抑えて静かに椅子に沈んでいた。
膝の上には、由比ヶ浜結衣。肩には、一色いろはの柔らかな重み。
ふたりの美少女が、まるで猫のように絡みついてくる。
「ヒッキー、あったかいねー」と頬を寄せる由比ヶ浜。
「先輩、じっとしててください。あ、わざとじゃないですからね?」と小声で笑ういろはす。
──いや、無理だろ。
理性ではわかっている。
これは友情だ。
彼女たちにとっては触れることも、重なることも、全部仲がいいからという言葉で正当化される。
それは過去の観察と、積み重ねたやり取りから明白だ。
けれど。けれどだ。
体は正直だった。
美少女に囲まれ、髪の香りが鼻先をかすめ、柔らかな感触が肌をかすめる。
そんな状況に反応するなというのが、そもそも無理な話である。
欲を否定することはできない。
ただ、それを隠し通すだけが、俺の最低限の誠実さだった。
この状態で、もし俺が何かを求めれば、たぶん──拒まれない気がする。
彼女たちは笑ってごまかし、冗談で済ませて、きっと怒りもしない。それがむしろ怖かった。
友情の名を借りて、どこまで許されるのか。どこまでなら踏み込めるのか。
その境界がもう見えなくなっていた。
「……落ち着け、俺」
小さくつぶやいて、目を閉じた。
視界を奪えば感触は薄れる。気がする。
気がするだけで、実際はどんどん意識がそっちに向かってしまうのだが。
──ああ、ほんと、これ友情かよ。
でも、彼女たちは笑っている。
純粋に楽しそうに、まったく悪意なく、信頼だけでこの距離にいる。
だからこそ俺は裏切れない。裏切りたくない。
この心地よさに甘えた瞬間、何かが崩れる気がした。
俺の中のかろうじて守っている一線が。
だから今日も何もなかった顔をして、ただ息を飲み込む。
欲望はある。
それでも触れないと決めたのは、俺自身だ。
由比ヶ浜といろはすがじゃれつくように身体を預けてきて、それを拒めないまま俺は硬直していた。
決して下心なんて持っていないと、何百回唱えても足りなかった。
言い訳のしようがなかった。身体が勝手に反応していた。
気づかれたのは、その瞬間だった。
──雪ノ下雪乃の視線が、そこにあった。
ゆっくりと顔を上げたとき、彼女はテーブル越しに静かにこちらを見ていた。
冷たいというより、凍てつくようなまなざし。
怒っているわけではなかった。責めているわけでもない。
ただ、その目はまるで、裏切り者を見るような目だった。
俺は言葉を失った。
声を出すどころか目を逸らすことすらできなかった。
雪ノ下は言わない。
だがその視線はすべてを語っていた。
──あなたたちは、友情だと言った。
──わたしは、それを信じようとした。
──けれど、これは……。
その沈黙があまりにも雄弁すぎた。
言い返せない。
これは不可抗力だ。どうしようもなかった。
だが、それがどれだけ無意味な弁解かわかっていた。
由比ヶ浜もいろはすも、何も気づいていない。
笑っている。今まで通りのあたたかな空気のまま。
だからこそ雪ノ下の視線だけが、異物だった。
そしてたぶん俺自身が、その空気を壊したんだと思った。
友情は嘘じゃない。本気だった。
ふたりを信じていたし、信じられていると思っていた。
でも、それだけじゃない反応をしたのは、俺だった。
雪ノ下雪乃は、それを見逃さなかった。
──俺は、何かを失ったのかもしれない。
冷や汗が止まらない。
教室でもなく体育館でもなく、部室で。
平和そのものの奉仕部で、俺は今、人生最大級の危機に直面していた。
由比ヶ浜の甘えた笑い声。いろはすの小悪魔的な囁き。
そのあいだで俺は、いかなる戒律にも匹敵する自制心を総動員していた。
だがすべては遅かった。
雪ノ下雪乃の視線が、明確に俺の下半身あたりを射抜いたとき、全ての言い訳が泡のように弾けた。
目が合う。いや違う。目が合ったのではない。
視線が貫かれたのだ。
それは、問いかけでも疑問でもない。ひとつの確信と、ひとつの裁き。
冷たい。氷のように鋭く、正確に核心を突く視線。
殺される、と思った。
指一本でも動かせば、無言で急所を貫かれるような気がした。
この部室に、今、魔女裁判の判決が下された気がする。
──静まれ、俺の息子。
内心で必死に懇願する。
いや、もう命令だった。
「今すぐ収まれ」「何事もなかった顔をしろ」「友情を、裏切るな」「雪ノ下を、がっかりさせるな」
自分で言ってて、泣きたくなった。
いや、そもそも俺が泣きたいのはそこじゃない。
どうしてこんな目に遭ってるんだ俺は。
どうして美少女ふたりに囲まれてるのに、幸せじゃなくて、地獄みたいな冷や汗をかいてるんだ。
……いや、違うな。これは友情という名の、拷問だ。
きっと、どこかで俺が悪いんだろう。
何かの報いなのだ。
そう思って俺は身動き一つせず、ただ目を閉じた。
雪ノ下の視線が、ゆっくりと外れるのを感じたとき、俺はようやくひとつだけ学んだ。
──次からは、座布団か本を膝に乗せておこう。
しかし由比ヶ浜の髪が、俺の首元にふわっとかかった。
それだけで危険信号は点滅を始める。
シャンプーの匂い。甘い、柔らかい、なにかいけない香り。
くそ、やめてくれ……。そんな武器、こっちは何も持ってねえんだ。
「ヒッキー、あったかーい」
「先輩、ちょっとだけこうしてていいですか?」
結衣が背中にぴとっと張り付く。
いろはすが腕に頬を乗せる。
それぞれ優しい笑顔で、まるで猫が寝床を探すみたいに自然に俺に触れてくる。
……俺のHPバーがゴリゴリ削られているのが、音で聞こえそうだった。
SAN値が下がっている。確実にゼロに近づいている。
むしろ今ゼロじゃないのが奇跡。運営に通報されるレベル。
おまえらは知らないんだ。
自分たちがどれだけやばいものを持っていて、それをどう無意識に振り回しているのかを。
こっちはもう、内面で警報が鳴り響いてる。
理性と煩悩が仁義なき戦いを繰り広げてる。
そして理性軍は今、全軍撤退中だ。
止めろ。
この柔らかさはなんだ。その匂いはなんだ。
この密着距離は、果たして友情というフィールドで許される距離なのか。
やめてくれ……!
こっちは雪ノ下の視線でさっき、精神を一度完全に焼かれたんだぞ!?
もう無理。比企谷八幡、ただいま精神的死にかけております。
「ヒッキー、顔赤いよ? 熱ある?」
気づかれた!? やばい、気づかれた!?
けどその熱は外気じゃねえんだ!
お前らの攻撃が連続HITしてるだけなんだ!
「……別に。暑いだけだ」
声が震えてないことを祈るしかなかった。
すでに俺の理性は、HP1でがまんを選択し続けている勇者状態だ。
そして心の中で叫ぶ。
──止めて。もう……SAN値はゼロよ。
俺は助けを求めていた。
理性はもう崩壊寸前。
柔らかな感触、甘い匂い、密着、密着、そして密着。
由比ヶ浜の頬が肩に乗って、いろはすの指が袖口をいじってくる。
──おい、こっちは今、命のバトンを握りしめてる自覚あるか?
「先輩、あったかいですねー」
「ヒッキー、今日ちょっといつもよりやわらかいかもー?」
知らん! 俺の硬度なんか気にするな!!
もうやめてくれ、比企谷八幡の理性はとっくにゼロよ!!
──視界がにじむ。
気づけば唯一の理性の砦、雪ノ下雪乃が正面にいた。
その横顔はいつも通りで、静かにノートをめくっていた。
いましかない。
いま、俺が生き延びる唯一の方法は──彼女に助けを求めることしかない。
だから俺は目で訴えた。
助けて。マジで限界です。これ、ほんとにヤバいやつです。
友情の名を借りたフルコンボ地獄です。
視線、送った。目線、合わせた。
心のなかで20文字/秒の念波を放った。
……だが雪ノ下は、一度こちらに視線を寄せると、すぐにすっと逸らした。
──えっ、今の、通じてないの?
嘘だろ!? これが通じなかったら、俺もう誰にも頼れないんだけど!?
いや違う。これは通じてないんじゃない。見なかったことにされたんだ。
その横顔には、冷たい拒絶でも哀れみでもなく、ただこう書いてあった。
──自業自得よ。
この時点で、俺の心の中の雪ノ下株は一時ストップ安。
いや、でもまあ……そうか。そりゃあ、俺がこの状況を招いたって言われたら、否定はできねえよな。
でもな雪ノ下。言わせてくれ。
──お前だけが頼りだったんだよ……。
とはいえ、ここで動いたら本当に死ぬ。比喩じゃない、いろんな意味で死ぬ。
俺はもう、微動だにしない観音菩薩と化して、ただ来世では穏やかに生きられますようにと念じ続けるしかなかった。
あれは、煉獄だった。地獄よりも熱く、天国よりも遠い。
男の本能と理性の板挟みで、俺はひとり静かに焼かれていた。
由比ヶ浜結衣の無防備な甘え。一色いろはの無意識な挑発。
寄りかかる、触れる、囁く、笑う。
それがすべて、友情という名の鎧をまとっていた。
あれは殺し文句じゃない。生かしたまま殺す手法だった。
生殺し。
心を締めつけるような優しさ。
こちらの内面の叫びなど知らぬふりで、彼女たちは明るく笑っている。
俺の理性は、日々すり減っていく。
かといって、本能に従えばすべてが崩壊するのは分かりきっていた。
だから、俺は選んだ。
帰宅後。
暗い部屋の中、ひとり静かに、誰にも知られないかたちで──処理した。
いや、分かってる。
最低だってことは。
だけど、許してくれ。俺は戦ったんだ。
心の中で、何百回も友情の尊さを唱えながら、それでも耐えきれなかった。
彼女たちは何も知らない。
きっと、これからも知らないままでいてくれる。
俺はそれでいいと思ってる。
この煉獄は俺だけが背負えばいい。
誰にも知られず、誰にも責められず、ただひとりで焼かれていく。
それが比企谷八幡という業を背負った男の生き方なのだ。
そう言えば最近、視線を感じることが増えた。
正確には、「痛いほど優しい」視線だ。
誰も何も言わない。だけど、その目が語っている。
──ああ、比企谷……お前、そういうことだったんだな。つらかったよな。分かるぞ。もう、無理するなよ……。
……なにが?
俺、なにかやったっけ?
葉山が前よりも話しかけてくるようになった。
廊下ですれ違うたび、「最近どうだ?」と妙に柔らかい口調で聞いてくる。
平塚先生にいたっては、肩に手を置いて「比企谷、お前はお前のままでいい」とか言ってきた。
先生、それ卒業式とかで言うやつですよね?
みんな、どこか遠くを見る目で俺を見てくる。
やめろ。
俺は別に、死地に赴く戦士じゃないし、最終巻の主人公でもない。
ただ、友情という名の地雷原を毎日どうにか歩いているだけの、一般高校生だ。
だけど、周囲の認識は明らかに変わっていた。
──あいつ、悟ってるよな。女子に囲まれてるけど、目が死んでる。生きたまま煉獄に入れられた人って、ああなるんだな……。
誰がそんな設定つけた。
俺はただ、理性で日々を耐えてるだけなのに。
由比ヶ浜が笑って腕を組んでくるたび、いろはすが甘えた声で絡んでくるたび、
俺は心の中で叫びながら、無になってるだけなのに。
それを、なぜか「達観」と呼ばれている理不尽。
いや、達観じゃない。あれはただの自衛だ。生き延びるための技術だ。
でもたぶん、こうして優しくされてしまうと、もう誰も本当の俺の苦悩に気づいてくれない。
──比企谷八幡は、今日も無言で、友情に焼かれている事に。
韜晦していたが、もう我慢の限界だった。
いや、何を我慢してるんだ俺は。
こっちはずっと受け身で、柔らかさだの匂いだの触れ合いだの、好意と信頼に偽装された攻撃を一方的に食らっているだけだ。
由比ヶ浜といろはす。
どちらも友情の名のもとに、俺のパーソナルスペースを概念ごと破壊してくる。
……だったら、逆にこっちから仕掛けてやろう。
もちろん、本気じゃない。
あくまで教育的指導である。
羞恥心と距離感を取り戻させるための、予防的セクハラだ。
「なあ、いろはす。お前、距離感って知ってるか?」
「えー、またそうやって照れてるんですか? 先輩ってばほんと可愛い」
じゃあと、俺は真顔で言った。
「じゃあ今度は俺が頬に触れても、友情ってことで許されるよな」
「えっ……」
その場が、止まった。
いろはの手がピタリと動きを止め、由比ヶ浜も飲んでいたジュースのストローから目を逸らした。
沈黙が流れる。
「……え、えっと、それは、その、ちょっと……」
「ほら見ろ。そういうことだ」
俺は椅子に深くもたれながら、極めて冷静に言い放った。
「お前らさ、友情だからOKって言ってるけど、それって相手が何もしないって前提だから成立してんだよ」
「……」
「じゃあ聞くが、もし俺が男として反応したらどうすんだ? 友情です、で全部済ませられるか?」
……沈黙は続く。たぶん、この沈黙こそが答えだった。
俺はため息を吐いて、言葉を柔らかくした。
「仲が良いのはいいことだ。触れたいのも、まあ分からんでもない。けどな、相手が安心してるからって、好き勝手やるのはただの甘えだ」
結衣がゆっくりと背筋を伸ばす。いろはが指先を自分の膝に戻す。
「……ごめん、ヒッキー」
「……わたしも、ちょっと調子乗ってたかもです」
──これで、いい。
俺は、彼女たちを否定したかったわけじゃない。
ただ正しく甘えるためには、節度がいるんだという話だ。
友情に逃げた無自覚な優しさは、相手を苦しめる。
そのことに気づいてくれただけで、十分だった。俺の言葉は、完璧だったはずだ。
友情と節度の関係。
無意識の甘えが引き起こす誤解の可能性。
そして、俺というひとりの男子高校生の尊厳。
全部、言葉にした。
噛んで含めるように分かりやすく説明した。
「お前らのその無防備な接触、ギリギリだからな?」というのを、全力で、理性的に訴えた。
……なのに。
「……ヒッキー、やっぱり優しいよねー」
「そうそう。ちゃんと怒ってくれるところが、信頼できるんですよねー。だから、つい……」
──あれ? おかしいな?
今の、怒ったというより説いたんだけど?
……そして、次の瞬間。
結衣が、こっそりと俺の膝に頭を乗せた。
いろはすが腕にすり寄って、くすぐるように触れてきた。
「今日だけ、特別ね」
「先輩、ちゃんと反省してるので、罰として甘えます」
……いや、なぜそうなる!?
こっちは全力で理性の話をしたはずなんだ。
ガチのトーンで諭したはずなんだ。
でもなぜか、彼女たちは構ってくれて嬉しいとしか受け取っていない。
わかってる。
由比ヶ浜は、優しさを受け取る天才で。
いろはすは、あえて聞こえないふりをしてくるタイプで。
──つまり、無敵コンビなんだ。
俺の理性は、もはやその場で絶叫していた。
やめろ。すりすりするな。俺は論理の力で勝とうとしただけだ。
頼む、せめて数センチの距離を保ってくれ。
ちょっと心臓に悪いから。あと生きて帰れる保証がないから。
「ヒッキー、だいじょうぶだよ。信じてるから」
「そーですよ。先輩なら、ちょっとくらい反応しても、ちゃんと友情ってことにしてくれますし」
……もう、ダメだよ、パトラッシュ。
俺の中の理性が、最後に「ご武運を」と言って消えていった。
──神よ、俺は何か間違ったのだろうか。
煉獄は、まだ終わらない。