ゼムリア大陸西部に位置する、リベール王国。北のエレボニア帝国、東のカルバード王国という二つの大国と国境を接しているが、彼の国は小国でありながらもその存在感を強く示している。
それは、豊富な七曜石資源と高い導力技術により、両大国ともに対等な関係を保っているためである。
このリベール五大都市のひとつーー地方都市ロレント。
農業・鉱業の第一次産業を中心に発展しており、導力産業を主とするリベールにおいては非常に重要な都市である。
このロレント市街の外れに、ぽつんとたたずむ一軒の民家がある。
「父さん、遅ぇなぁ・・」
田舎とも揶揄されるロレント地方のさらに郊外に位置するこの邸宅。表札にはブライトとある。
一人で居るには広すぎるこの家に、うら若き少年――エステルが退屈そうな表情でふてくされていた。
テーブルに肘をついて、彼はため息までこぼしている。
太陽はとうに沈み、もう外は真っ暗闇なのに、父さんは一向に帰宅の気配を見せない。テーブルには腕を振るって作った料理が置いてあるけれど、このまま帰ってこないとそれも冷め切ってしまうだろう。
「シェラ姉もいないしな・・」
彼が実の姉のように慕っている女性も、準遊撃士の修行のため王国一周旅行に出かけているので不在だ。
そんなわけで現在、エステルは暇をもてあましているのだった。父の帰りが遅いこと自体はもう日常茶飯事なので慣れているが、彼が嫌うのはもどかしいまでの退屈である。
「あー、つまんねぇ。飯の前にもっかい棒術の練習でもするかな」
いよいよじっとしていられなくなり、ついに彼は席を立ち、テーブルを離れる。
「……おーい、今帰ったぞ」
「父さん!」
タイミングがいいのか、悪いのか。エステルが行動を起こした途端に、父さんは帰ってきた。瞬間彼の瞳はぱあっと輝きをみせ、玄関へと駆けだす。満面の笑みで父さんを出迎えた。
「ただいま、エステル。待たせちまったようだな。ちゃんと留守番してたか?」
「当たり前だろ! 父さんこそ、大丈夫だったのかよ」
「おお、ぴんぴんしてるぞ。それよりエステル、実はお前にお土産があるんだ」
父さんの帰宅に喜び勇んでいたからか。少年は父がその腕に抱く少女の存在に気づいていない。いや、目には止まっているだろうが、完全に意識の埒外においている。
「え、マジで!? 釣りザオ? スニーカー? それとも棒術の道具とか?」
「……違う違う。ほら」
笑いながら、父さんは胸元に抱いている毛布にくるまれた少女を、その顔を、エステルに見せる。
「……は?」
意識を失っているのか、死んでいるのか。少女は目を閉じたまま身じろぎひとつしない。そんな状態の少女を見せられて、エステルは一瞬思考停止した。
「可愛らしい子だろう?」
確かに少女の容貌は整然としていて、美しい。漆黒の長髪は流麗に輝いている。将来的にはとびきりの美女になるであろうことは伺えるものの、しかしその美貌を堪能するほどの余裕など、エステルにはなかった。
エステルの動揺をよそに父はにこりと歯を見せてほほえんでいるが、それに笑顔を返す余裕も、やはりない。
「な、な、な……なんだよ、この子はぁっ!?」
動揺はピークに達し、エステルはついに絶叫したが、父は落ち着き払った様子でたしなめる。
「大きな声を出すなって。起きちまうじゃないか」
「起きちまうって……こいつ、生きてんの? なんかぐったりしてるけど」
眼前の少女はあまりにも傷ついていて、満身創痍といった様子だった。だって、少女の身に纏う衣服はずたずたに引き裂かれ、所々血で汚れてしまっている。かなりの重体であることが見て取れるほどだ。だからエステルは、そんなことを聞いたのだ。
「手当はすませたから、問題ないはずだ。だが、とりあえず休ませる必要がありそうだな。ベッドに運ぶから、エステルはお湯をわかしてくれ」
「あ、ああ!」
父さんに言われた通り、エステルはすぐさま湯をわかした。その熱湯で絞ったタオルで少女の身体を丁寧に拭き、汚れを落とす。少女が身につけていた服装は脱がし、とりあえずエステルの手持ちの衣服を着せてやった。
この家に女性はいない。だから、彼女がなんとか着られるのがエステルの衣服だったのだ。身体の大きな父さんの服を着せるわけにもいかないから。
少女の身体には至るところに裂傷が走っていた。とりあえず手当したという父の言葉通り、雑ではあるが包帯が巻いてあったが血が滲んでいてひどく痛々しい。ベッドに寝かせた後、改めて新しい包帯を付け替えた。
エステルに限らずこの年頃の男の子にとって、手当てとはいえ女性の身体に触るというのは少なからず羞恥を伴う行為であろう。しかし、エステルに恥ずかしがっている様子は見られない。
そんなことよりもこの子の怪我の手当てが大事だ。
その一心で懸命に手当てを行っていたから。
そして何より、女性に劣情を催すその感覚が、エステルにはまだわからないのだった。
「よく寝てんなぁ」
一通り手当てを済ませると、少女は安らかな寝息を立て始めた。ずっと苦しそうに表情を歪めていたから、穏やかな顔つきになったのを見ると、安心する。
「こいつ、俺と同じくらいの歳だよな。こんな真っ黒の髪の毛、初めてみた」
改めて少女を見ると、やはり綺麗な子である。その髪は腰のあたりまで伸び、枝毛一つなくさらさらと流れている。それとは裏腹に病的なほど白い肌は、この世のものとは思えないほどの儚さを覚えた。
そして、少女はひどく華奢だった。
エステルがその力を発揮すればあっさり折れてしまいそうな繊細さが、また彼女の儚さに磨きをかけている。
「確かに見事な黒髪だな」
その美麗さは、父さんも褒めそやすほどだ。
「まあ、ともかくさ・・こいつ、誰なの?」
少女の風貌に見とれるのをやめ、エステルはようやく尋ねた。
それは手当てしている間も、エステルがずっと気にしていたことだった。
どこからつれてきたのか。なぜ怪我をしているのか。
知りたいことは多々ある。
父さんがぎくりと冷や汗を流すのがわかったけれど、エステルはどんどん追及していく。
「もしかして、隠し子? 母さんをだましてたのか?」
「違う。まったく、どこでそんな言葉を覚えてくるのか……って、シェラザードしかいないか」
「うん」
「あの耳年増め……」
父さんは頭に手をあててため息をつき、恨めしそうにつぶやいた。
そして、ようやく語り出す。
「父さんも、仕事関係で知り合ったばかりなんだ。だから、まだ名前も知らない」
「仕事って、遊撃士の?」
そう尋ねると、父は神妙な顔で頷いた。
エステルの父――カシウス・ブライトは、民間人の安全と地域の平和を護ることを目的とする「遊撃士」の職についている。
遊撃士は遊撃士教会という、王国軍とは一線を画する民間組織に所属する。協会は国家権力に対する不干渉を規約に掲げており、ゼムリア大陸各地に支部を置く巨大組織。あくまでも中立の立場にあるため、時には国家間の仲介を行うこともあるほどだ。
カシウスは遊撃士としてすさまじい活躍をあげる、エステル自慢の父なのである。
「おっと、目を覚ますぞ」
ふと父がそう呟き、エステルも少女の方に向き直る。
「んっ……」
少女は小さく身じろぎし、聞こえるか聞こえないかくらいのか細い声を洩らした。
「わ、琥珀色だ。キレー……」
ゆっくりと目をあけた少女の瞳は、思わず見とれてしいまうほど綺麗な琥珀色だった。
「……ここは……?」
どうも少女は状況をはかりかねているらしい。身体を起こさずに、視線だけを這わしている。
「目を覚ましたか。ここは俺の家だ。とりあえず安心していいぞ」
優しい声で声をかけるカシウスであったが、対する少女は不服そうだ。冷たい目で、じっと父を睨みつけている。
「……どういうつもりなの」
そうしてようやく口を開いた少女だったが、その言葉はありがとう、でもごめんなさいでもなかった。
「は?」
なぜ、目覚めて開口一番に言うのがそれなのか。疑問に思ったが、しかし少女はさらに憎まれ口を叩く。
「正気とは思えない……どうして、放っておいてくれなかったの」
「どうして、って言われてもなぁ」
いきなり責めたてられて、カシウスは困り顔だ。
「いわゆる、成り行きってヤツ?」
「……ふ、ふざけないでっ!」
ついに少女は激高し、声を荒げはじめた。
自分が怪我人であるということを、この少女はわかっているのだろうか。
「カシウス・ブライト! あなたは自分がなにをしているのか……」
「おいっ! 怪我人が大声を出すなよ。怪我に響くだろっ!」
父と少女の遣り取りを黙って見守っていたエステルだったが、ここにきて介入した。自分の身を案じない少女の行動に苛立ったのだ。
しかし怪我人を殴るわけにもいかない。
そこでエステルは、普段棒術の練習を行う時の半分以下の力で少女の右頬をはたいた。
「……えっ?」
きっ、と父を睨んでいた少女の目が、ふっと緩んだ。突然のエステルの暴挙に、少女は再び混乱状態になってしまったらしい。
「だ、だれ?」
その声も、さっきとはうって変わって不安そうだ。
「エステルだ! エステル・ブライト!」
満を持して、エステルは自らの名を告げる。
しかし、未だ頭に疑問符が浮かんでいる様子の彼女に、父が横から補足する。
「俺の息子だよ。お前さんと同じくらいの子供がいるって話しただろう?」
「そういえば……って、そんな話をしてるんじゃなくてっ!」
「だから、大きな声出すなって!」
またも声を荒げる少女に、まだ懲りないのかと、エステルはその左頬をはたいた。
「きゃっ……」
可愛らしい声を洩らす少女を前にして、さらに追い打ちをかけるのは憚られる。
だが、しかし彼女は初犯ではないのだ。厳しくいかなければまた再犯が行われるかもしれない。だからエステルは少女の目前に手をかざし、騒いだらまた叩いてやるぞと暗に告げた。
「わかったか?」
「わ、わかったから……。ごめんなさい」
しゅんとして、ついに謝罪する少女。それを見てエステルは満足げに笑った。
「ははは。言いくるめられちゃったな。ま、この家ではエステルに逆らわん方がいいぞ」
「はい、そうみたいですね……」
ようやく騒ぐのを諦めたらしい。ため息混じりにつぶやいた。だんだん彼女が落ち着いてくるのを見て、エステルは尋ねる。
「で、名前は?」
「え?」
「だから、名前だよ。お前の。俺はさっき名乗ったけど、お前は名乗ってない。不公平だろ?」
「……」
そう言うと、少女は黙り込んでしまった。なぜそんなに言いたくないのかと、エステルは首をひねる。
「まあ、今更隠してもしょうがないだろう。不便だし、聞かせてもらおうか?」
そうして、図らずも二人して彼女に詰め寄るような構図になる。
元々暗かった表情はさらに陰りを見せ、少女はついに俯いてしまった。追いつめられた小動物を見ているようで、あまりいい光景ではない。
居心地の悪い静寂が、空間を包む。
そして数秒の後、ようやく決心したのか、少女は顔を上げた。
「……わかりました。私は、私の名前は……」
――ヨシュア、と。少女はそう名乗った。
その日から、ブライト家は三人家族となったのだった。