プリンセス・プリンシパル PROFESSOR(完結)   作:ファルメール

16 / 30
第16話 シンディ・グランベル

 グランベル侯爵家は、アルビオン王国でも有数の名家である。いや「名家であった」という表現が適切かも知れない。

 

 現在は二年前にケイバーライト採掘場で発生した爆発事故によって当主とその妻が死亡し、病弱な一人娘しか残っておらず、彼女の叔父が後見人として家を切り盛りしている。

 

 そのような状況なので没落の未来が待ち受けているとしか思えないお家だが、しかしそこは腐っても鯛、アルビオン王国の歴史ある名門の家柄である。未だ訪れる客は多く、その層も幅広い。……少しずつ、減りつつはあるが。

 

 貴族・政治家・商人……そして、軍人も。

 

 この日、花束を抱えてグランベル侯爵邸を訪問したのは王国軍の制服を着た精悍な青年将校だった。家令に事前に交わしていた約束を伝えると、彼はまずは用意された一室にてブーツの泥を落として、ブラシで入念に着衣に付着した埃を落とす。それらの工程を三度繰り返した所で、漸く屋敷の奥に通された。

 

 屋敷の主は、生まれながら体が弱かったが二年前の爆発事故によって生来患っていた肺病が悪化して埃や煙を吸い込む事が出来ない。この処置は当然の事だった。

 

 そうして通された寝室には軽く3人は入れそうな天蓋付きのベッドが置かれていて、一人の少女が横たわっていた。

 

 顔色は青白くて血色が悪く、さらりとした金砂の髪は色素が抜けかけている。もう長い間、日の光に当たっていないのだろう。

 

「あぁ、イングウェイ少佐……よくいらしてくれました」

 

「ミス・グランベル……ご面会を許してくださり、光栄であります」

 

 ベッドの上の少女、シンディ・グランベルは左手を差し出して握手を求めた。

 

 これはいささか無礼とも取られかねない振る舞いだが少佐は気にした様子も無く左手を差し出して握手に応じた。軍隊でも右手を怪我している場合などでは、左手を使って敬礼する事が認められている。シンディが過去の事故で右手を喪失しているのを少佐は知っていた。

 

「さぁ、お掛けになって……」

 

 少佐は持参した花をテーブルに置くと、勧められた席に腰掛ける。

 

 そうしてしばらくの間は両者共に他愛の無い世間話などで談笑していたが……メイドが持ってきた紅茶のカップがほぼ空になると、そろそろ頃合い良しと見たのかどちらからともなく真剣な目つきになった。

 

「ミス・グランベル。これを……」

 

 ベッドの上のシンディはイングウェイ少佐が懐中より出した一枚の紙を受け取ると、折り畳まれたそれを広げた。

 

 そこには十数名の軍人の名前が記されていた。署名の下には、拇印が押されている。

 

「……これは、血判ですね」

 

「はい、私と志を同じくする中で尉官以上の者が集まって、何があろうとこの国を変えるという意志を誓い合ったものです」

 

 誇らしげに、イングウェイ少佐が語る。一方でシンディは、すうっと目を細めて彼を観察するような態度になった。

 

「……決起の日や、具体的な作戦については、まだ決まっていませんでしたよね?」

 

 シンディのその言葉には確認する響きがあった。

 

「はい、今回はあくまで同志の結束を強めるという意味の集まりでしたので」

 

「ふむ」

 

 少佐は気付かなかったが少しシンディの声の響きが冷たくなった。

 

「……少佐、ここには12名の名前が書かれていますが、あなたが声を掛けて集まったのはこの12人で全員だったのですか?」

 

 そこを尋ねられたイングウェイは、少しだけ恥じるような申し訳なさそうな表情を見せた。

 

「いえ……集まったのは私を除いて15人。3名は、それぞれ理由を付けて判は押しませんでした」

 

「それは……自分にも部下や家族が居る、勝算もプランも明確でないのにそんな危険は犯せないとか……そんな所でしょうか?」

 

「えぇ……全くその通りです」

 

「そうですか、それは良かった」

 

「は?」

 

 シンディは言い捨てると、少佐から提出された血判状を真っ二つに引き破って、くしゃくしゃに丸めて床に捨ててしまった。

 

「ミス・グランベル……何を……?!」

 

 思わず、イングウェイがソファーから腰を浮かせた。顔には些かの憤りが浮かんでいる。対してシンディは少しも動ぜずに、静かな目で少佐を見据えていた。

 

「信頼出来る人が少なくとも3名は居たのですから」

 

「は……」

 

「……少佐、もう一度確認しますがあなたはこの血判を促す時に、具体的な行動計画や決起が成功後のプランなどは何も語らなかったのですよね?」

 

「え、えぇ……」

 

「では、あそこに名前を連ねている人達は信用出来ません」

 

 床に転がっている紙玉に目をやりつつ、シンディが言った。

 

「……?」

 

「家族や部下を持つ責任ある立場にありながら、何一つプランも立たず先の見えない決起に安易に参加しようなどと考えるような者は、自分の決断に責任を持たずにいざとなれば仲間を売って保身に走るものです。少佐、あなたの同志の中で本当に信頼出来るのは逆にその血判を押さなかった3名だけです。あなたは今後、彼等をこそ粘り強く説得して、信頼を得るように動いてください」

 

「……成る程、そういう事ですか」

 

 納得したイングウェイは、再びソファーに座り直して話を続ける態勢になった。

 

「若さに見合わぬあなたの見識に、私は感服致しました。あなたの聡明さは、お父上のそれを受け継いでおられるようですね」

 

「……そう、でしょうか?」

 

 これは予想外の反応であったらしい。少しだけ、シンディの片眉が意外そうに動いた。

 

「えぇ、昔……今よりも植民地出身者への風当たりがずっと強かった頃に、あなたのお父上……前グランベル侯は声高らかに訴えられました。『植民地の出身者も王国と女王陛下に忠誠を誓う我が国の臣民であり、ただ本国の出身でないというだけである。不安無く我がグランベル領に来たれ』と。その頃、私はまだ少年でしたが……その言葉がどれほど暖かく、そして心強く響いたか……今でも、覚えております。我々の後援者であるあなたの中にも、その志が生きているのですね」

 

「……私は別に、生まれた場所を拠り所にせねば他者から優越を感じられない者とは違うというだけですよ。それに……ごほっ、ごほっ」

 

 僅かに咳き込んだ後に、シンディは話を続ける。

 

「私は貴族だから」

 

「……」

 

 イングウェイは何も言わず、病弱な令嬢の言葉の続きを待った。

 

「貴族とは何であるか? 平民と、女王陛下が流す筈だった涙を、自らの血と引き替えにする事を躊躇わない者の事を言うのだと、私は信じています。ですが………私はこの通り病床の身で義務を果たす事もままならず、それにこの体では婿を取る事も出来ないからグランベル侯爵家は私の代で終わる……恐らくは、後10年ほどでね……ならばせめて、私は自分の財をこの国を良くする為に使いたいというだけですよ……私が居なくなった後も、少しでもこの国の人々の暮らしが豊かに、社会が明るくなるように……」

 

「……この国の貴族が皆あなたのような方ばかりであったのなら……我々も決起などという道は選びませんでした。あなた方の下で、理想を実現する為に精励したでしょう……」

 

 イングウェイは、これについては心底残念そうに首を振った。

 

「……ですが少佐、必ず成功する革命でなければ、やる意味はありません」

 

 シンディはそう言うと、ベッドの傍らに置いてあった頑丈そうなケースを指差した。少佐がそれを手に取って、目線で「開けても良い」と了解を得た上で蓋を開く。

 

「……!!」

 

 思わず、ごくりと唾を呑んだ。

 

 ケースの中にはポンド紙幣がぎっしりと詰め込まれていた。

 

 少佐という階級からイングウェイもそれなりに高給取りではあるが……しかしそれでも彼の年棒の何年か分に相当する額だった。

 

「確かに、それはその通りでしょうが……」

 

「今は下手に動かず耐えて、力を蓄えるべき時です」

 

「しかし……」

 

「実際に、信頼出来る人が3人しかいない状況なのですから。結束を固め、より多くの同志を募らなければ」

 

「……確かに……」

 

 説得を受け、イングウェイは一応ながら納得を示した。頷いて、ケースの蓋を閉じる。

 

「そのお金は、革命の資金として役立てて下さい。いちいち使途を報告して貰う必要もありません。少佐の事は、信用していますから」

 

 イングウェイは立ち上がると、ベッドのすぐ傍まで歩み寄ってきて再び左手を差し出した。シンディも彼に再度の握手で応じる。

 

「その信頼に応えねばなりませんね、ミス・グランベル……必ずや、我々はこの国を変えると誓います……隔てなき世界の為に」

 

「はい、少佐。隔てなき世界の為に」

 

 

 

 

 

 

 

 イングウェイが退室した後に、後に残されたシンディはシーツの下をまさぐって硬い感触が指に当たるのを確かめるとそれを掴んで取り出す。

 

 ベッドの中から出てきたのは、ケイバーライト採掘場などで使用されているガスマスクだった。それを装面するシンディ。

 

 シュコー……シュコー……

 

 ほどなくして、寝室に規則正しい呼吸音が響き始めた。

 

<その通りだよ、少佐……この国は変わらなければならない……>

 

 ベッドから起き上がったシンディ=プロフェッサーは、窓際にまで歩み寄ると閉ざしていたカーテンを開いて庭先の様子を見る。

 

 ちょうど、渡したケースを持ったイングウェイが正門を出る所だった。

 

 イングウェイ少佐とは、彼女は浅からぬ付き合いがあってその人となりも知っている。軍人としての能力は確かで植民地の出身者でありながら若くして少佐にまでなり、部下にも優しく人望がある。総合的な評価としては尊敬に値する人物であると言える。同じ未来を望んでいるという点に於いても。

 

 少佐は王国軍内に於ける植民地出身者の中でも出世頭であり、同時に植民地出の軍人からの王国への不満を一身に受け止める立場でもある。

 

 昔から程度の差こそあれ何処の国でも絶えた事の無い問題だが、植民地の出身者は軍でも内地でも総数に占める割合が最も多く、危険の矢面に立たされて労働力・生産の大半を占めながらも、本国の出身者に比べて権利には大幅な制限が課されている。不満が溜まるのは必然であった。勿論、少佐自身にもこの現状を憂い、国を変えようという志がある。

 

 そうした事情と立場からイングウェイ少佐は半ば本人が望み、半ば担ぎ上げられる形で革命を画策するメンバーのリーダーとなっているのだ。

 

 プロフェッサーはシンディ・グランベルという表の顔が少佐と個人的親交があった事からこの計画を知るに至り、現在では家の財産を使って彼等のスポンサーとなっている。

 

 つまり金を出す立場であるから、ある程度は組織の方針に口も出せるのだ。

 

<でも少佐、あなたは大切な事が分かっていない>

 

 少佐は自分達がこの国を変えてみせると言った。

 

 それこそが最大の問題点なのだ。

 

<少佐……あなた達には、この国を変える力など無い>

 

 プロフェッサーはそう言い切った。

 

 後援者という立場ながら、しかしプロフェッサーは彼等の決起が成功するとは思っていなかった。現状ではどう贔屓目に見ても、成功率は一割を割るだろう。

 

 いや失敗するだけならまだ良い。失敗して彼等と自分が処刑されるのにはプロフェッサーは耐えられる。

 

 だが現実には失敗して、その後どうなるか……王国内の混乱は瞬く間に共和国の知る所となり、彼等はそれを口実として何かしらの理由を付けて軍を王国内に侵攻させるだろう。……と、恐らくはこうなる。

 

 だから、プロフェッサーとしては軍内の不満分子に撃発されては困るのだ。

 

 少佐に依頼したのはその為の意見調整だ。渡した資金の使途も明言こそは避けたがその為のものだし、そして血判状を破り捨てて信頼出来る人間が3人しか居ないと言ったのも、言葉それ自体には嘘は無い。安易に後戻りの出来ない冒険に踏み出すような者は信用出来ない。が、しかしこの発言には言外に時期尚早である事を伝えて、急な決起を思い留まらせるという狙いがあった。

 

<そして、私にも……そんな力は無い>

 

 プロフェッサーは天才を自負してこそいるがどれほど優れていても科学者でしかない。銃に弾を込める事は出来ても、引き金を引く事は出来ない。

 

 そして少佐は、革命でこの国を変えようとしている時点でプロフェッサーの中では落第だった。

 

<革命などで、世界は変わらない>

 

 何故なら戦争、平和、革命。この三拍子は何百年も前から繰り返されてきた事だからだ。仮に少佐達の革命が成功したとしても、それは同じ事の繰り返しでしかない。

 

<よりよい世界に生きたい。もっと良い暮らしがしたい。そう願う人間の欲望だけが世界を変えていくのよ……>

 

 キュイッ、と義眼の瞳孔がピントを調整する為に動いた。

 

<私達に出来るのはそんな風に世界を変えてくれる人の登場に協力するか、もしくはその人が立った後に働く事だけ>

 

 プロフェッサーは前者で、彼女が少佐に期待する役割は後者だった。

 

 イングウェイに語った言葉には一つも嘘は無い。スパイではないプロフェッサーは、嘘は吐かない。

 

 どれほど来客の着衣の埃に気を付けても、空気清浄機を働かせても、ガスマスクを被っても、肺が吸い込む埃や煙を完全にシャットダウンする事は出来ない。今でもプロフェッサーの体は、次第次第に蝕まれている。恐らく自分は30までは生きられないだろう。それがプロフェッサーの自己診断だった。

 

 少佐や彼の部下には、プリンセスがこの国の女王になった後に、彼女の下で働いてもらわねばならない。今の王位継承権第1位から3位までの王族と違って、プリンセスだけはこの国を変えようと本気で思ってまたその為に彼女自身体を張って動いているし、だから必ず少佐達も彼女に同調する。プロフェッサーにはその確信があった。故に、成功する見込みが無いような決起に踏み切って無駄にその命を浪費するような愚挙は思い留まってもらわねばならなかった。

 

<む?>

 

 キュッ、キュッ……

 

 視界の隅に「妙なもの」を捉えて、再び義眼に内蔵された機械が稼働した。

 

 少佐が乗っていった車を追うように、邸宅の外れに停まっていた車が走り出したのだ。

 

<はぁ>

 

 規則正しい呼吸音に混じって、溜息が漏れた。

 

<少佐も些か、脇が甘いようだ>

 

 

 

 

 

 

 

 アルビオン王国のスパイを統括するノルマンディー公は、国内の有力者の邸宅にも常にスパイを配置している。

 

 今、イングウェイ少佐が乗った車と付かず離れずの距離を保ちつつ走行している車を運転するカールもそんな一人で、彼はグランベル家を監視する役目を負ったスパイだった。

 

 この家を訪れる客人はそれなりに多いが、その中でイングウェイ少佐は彼の目に留まった。

 

 彼は植民地の出身ながら優秀であり若くして少佐となり、しかし現在のアルビオン王国に不満を持っているグループのリーダーであるとの噂もある。

 

 だが優秀な軍人をただの疑惑で切り捨てるのは惜しいし、確実な反逆の証拠もまだ掴めていない。あるいは彼のバックにはもっと大物が居るかも知れず、上手く行けば芋蔓式でそいつを引きずり出せるかも知れない。そうした思惑から尻尾を出すのを期待して泳がされているというのが今のイングウェイ少佐の現状だった。

 

 そのイングウェイ少佐がグランベル家を訪れて、そして出てきた時には入った時には持っていなかったケースを大事そうに抱えていた。

 

 家の中で何かあった。そう考えるのは必然の流れだった。

 

 ここで少佐が何処へ行くのかを突き止めて、それを上役に報告すれば大きな手柄となる。

 

 昇進か、あるいはボーナスの支給も期待出来るというものだ。

 

 ……と、浮つきかけた彼は「いかんいかん」と気を引き締め直すと、ハンドルを握る手に力を入れた。

 

 少し車が左に寄ったようなので、やや右寄りにハンドルを切って車の軌道を修正しようとする。

 

「……?」

 

 そうした時に、彼は違和感に気付いた。

 

「ハンドルが……?」

 

 手にしたハンドルが、動かなかった。右へ回そうと力を込めているのに、ぴくりとも回らない。

 

 反射的に左側に回そうとするが、それもならなかった。ハンドルは万力で固定されたように、左右のどちらにも動かなかった。

 

 そうしている間にも、車はどんどんと左へと寄っていく。

 

 このままではテムズ川に突っ込んでしまう!!

 

 背中に氷柱を入れられた心地になって、カールは咄嗟にブレーキを踏む。だが、それも無駄だった。

 

「なっ!?」

 

 ブレーキペダルは足の踏み込みを押し返すように固くなっていて、車は少しもスピードを落とさなかったのである。

 

「い、一体何が……!?」

 

 考えるよりも先に、車は減速しないままいきなり左に90度カーブしてテムズ川に真っ直ぐ突っ込んでいくコースに入る。

 

 咄嗟にドアを開けて飛び降りようとするが、それもならなかった。ドアもドアノブも、見えない巨人の手で押さえ付けられているかのように動かせなかったからだ。

 

「う、うわああああっ!?」

 

 悲鳴を上げるカールの視界が、フロントガラスから見えるテムズ川の河面で一杯になる。

 

 そして、地震のような衝撃が襲い掛かってきて割れたガラスから入ってきた水が車中に充満した。

 

 シートベルトを外す事もままならず、水で肺腑を満たしながら彼は秋には帰るからと約束した故郷の恋人の顔を思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 車がテムズ川に突っ込んで、野次馬が集まってきている。

 

 そこからやや離れた高台に設置された街灯の上に立って、その喧噪を睥睨している一つの影があった。

 

 つば広の羽根付き帽子を被って、顔には17世紀のペスト医師を思わせるマスクを装着している。体には黒いマントを羽織っていて、夜から生まれた生き物のようだ。

 

 シュコー……シュコー……

 

 独特の呼吸音が、夜闇に吸い込まれていく。

 

 鴉を思わせるこの怪人こそ、スパイ服を纏ったプロフェッサーだった。

 

 自分の家から出た少佐が尾行されている事を察知したプロフェッサーは、すぐに尾行車の後を追っていた。

 

 そしてテムズ川の近くにさしかかった所で、行動に出た。

 

 電磁気操作能力を持つプロフェッサーは、金属を自由にコントロール出来る。自動車などは格好の餌食であった。彼女は磁力で車を操って、テムズ川に落としたのだ。

 

 ノルマンディー公の手の者をただ殺害したり、行方不明にしたりする事は出来ない。グランベル家を監視していた者が始末されたり失踪したりしたら、当然ながら「この家に何かあるな」と疑いが掛かってくるからだ。

 

 その点『事故死』ならば少なくとも10の疑いを6や7に抑える効果はあるだろう。

 

<……彼の代わりが居れば、ノルマンディー公とてすぐにでもこれで暗殺するのだけどね……>

 

 少しだけ残念そうに、プロフェッサーはひとりごちた。

 

 遠距離から磁場によって対象が乗り込んだ車を操り、川に落としたり壁にぶつけたりする。これは、ほぼ確実に事故死を装える理想的な暗殺の手段と言える。暗殺に限らずあらゆる犯罪の理想型は追手に捕まらない事ではなく、そもそも犯罪があったという事実それ自体が発覚せず、事件に発展もせずに追手自体が掛からないというものだ。

 

 プロフェッサーはこの手段を使えばほぼ確実にノルマンディー公を、今日にでも殺害出来る。しかも事故死という事で捜査は打ち切りとなり、彼女を含めて誰にも容疑は掛からない。

 

 だが、殺してしまったとしてその後どうするのか。

 

 ノルマンディー公はやり方の是非はさて置くとして、国に二人とは居ない当代一流の人物である事には間違いない。革命から現在に至るまで、壁によって東西に分かたれた今のロンドンは世界中のスパイが暗躍する影の戦争の舞台と化している。そんな中で世界各国のスパイを寄せ付けず、王国の機密を守り通して覇権国家たらしめている一助を担っているのがノルマンディー公と彼が率いる内務省保安隊公安部の功績である事には、疑いを挟む余地は無い。

 

 スパイの仕事は潜入して情報を得るのもそうだが、防諜も同等かそれ以上に重要な役目だと言える。

 

 ノルマンディー公が死亡し、その後でプリンセスが女王になったとする。だがその時、各国のスパイに水を注いだザルのように情報がボロボロと抜かれてしまっていては、国や世界を変えるどころの騒ぎではない。

 

 そうした事情からプロフェッサーは、恐らくプリンセスが共和国に内通しているという確信を持っているであろうノルマンディー公を殺してその口を永遠に閉ざしてやりたいとは思いつつも、それが出来ないというジレンマを抱えていた。芸は身を助けるという言葉があるが、ノルマンディー公の優秀さが、そのまま彼を守る武器として機能していた。

 

<……やはり、当初の予定通りレースを続けるしかないか……>

 

 プリンセスが女王となって、ノルマンディー公が手出し出来ない立場を手に入れるのが早いか。

 

 ノルマンディー公が内通の証拠を掴んで、プリンセスを国家反逆の大逆人として告発するのが早いか。

 

 あのパーティーの時からずっと、これはスピードの戦いなのだ。

 

<……あまり、時間をかける事は出来ないか……>

 

 そう呟くと、プロフェッサーは黒いマントを翼のように広げ、月をバックにロンドンの町並みへと飛び立った。

 

 

 

 

 

 

 

「お嬢様、お電話が……」

 

 自宅に戻って寝間着に着替えベッドに潜り込むと、ほぼぴったりのタイミングで家令が電話を抱えて入室してきた。

 

「どなたから?」

 

「それが……」

 

「?」

 

 いつもは打てば響く早さで明瞭な答えを返してくる執事が、今日はどうにも言葉を濁している。

 

 この反応から、電話の相手が何者なのか。プロフェッサーことシンディには既におおよその想像が付いた。

 

「はい、もしもし。シンディです」

 

<あぁ、プロフェッサー。お体は大丈夫かしら?>

 

 受話器の向こうから聞こえてきたのは、予想通りの声だった。

 

「これは……プリンセス。ええ、お陰様で。お心遣い、痛み入ります」

 

 形式通りの挨拶を交わしつつ、シンディはさっさと手を振って退室するよう家令に合図した。一礼して、執事は部屋を出て行く。

 

 そうして余計な耳が無くなった事を確認すると、シンディはガスマスクこそ付けていないが、既にプロフェッサーとなっていた。

 

「何かありましたか? 現在の任務で、問題でも?」

 

<ええ……実はプロフェッサー、あなたに工場を一つ、買ってもらいたいんです>

 

「はっ?」

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。