プリンセス・プリンシパル PROFESSOR(完結)   作:ファルメール

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第20話 最後の幸運

 

 ロンドンの一角、通称『幽霊通り』と呼ばれる区画。

 

 ここを通った者はその半分が生きて帰っては来ないと言われている。それも必然、幽霊通りの名前の由来はこの先がモルグ(死体置き場)に通じているからである。

 

 工場からの排煙が雲を作っているようで昼尚暗いロンドンであるが、それにしてもこの幽霊通りは一層暗い。それは実際に日当たりが悪いというだけではなく、何が起こっても不思議ではないとでも表現すべきか、そんなおどろおどろしい空気がこの一角にはわだかまっているように思えて、ここを通る者には実際よりもっと暗く見えていた。

 

 そしてそうした印象は、決して偏見とは言えない。

 

 類は友を呼ぶと言おうか朱に交われば赤くなると言うのか。

 

 どこか後ろ暗い側面を持っていたり脛に傷のある者が集まって、法に触れるような行為もごく日常的に行われており、更に治安の悪い一角にあっては人目が無ければ強盗や刃傷沙汰も日常茶飯事であったりする。とどめにそうした行為を取り締まるべき警官達も賄賂を受け取って彼等の行為を半ば黙認するような、末法としか言い様の無い状態であったりする。

 

 流石にそういう最危険地帯からは外れてはいるものの、それでも二番目か三番目かぐらいに治安の悪いエリアにフランキーの事務所はあった。

 

 ここはまだほんの一月も経ない過去に彼がしがない高利貸しであった時に使っていたもので、立ち並ぶ古いビルの一角の、ゴキブリがもれなく同居人として付いてくる優良物件であった。

 

 表向きとは言えこの街を支配するボスの座に就いたからにはもっと一戸建ての豪華な屋敷に引っ越して、執事やメイドを15人ぐらい、運転手は3人ぐらい雇いたいと思って彼はプロフェッサーに申し出たが、にべもなく却下された。

 

<目立つ事は暗殺に繋がる>

 

 この一言で、全て済まされた。

 

 しかしこれはフランキーとしても納得の出来る正論であったので、押し黙るしかなかった。

 

 彼も裏社会に首を突っ込んでいる身であるが故、暗殺がどれほど恐ろしいものかは身に染みている。そしてそれを避けるには目立たない事こそ肝要であるという事も知っている。マフィアに追われる身でありながら、行きつけのレストランに子牛の煮込みを食べに行って殺された男の話も聞いた事がある。いくらロンドンの闇を支配するボスに上り詰めても、その後すぐに殺されてしまったのでは意味が無い。

 

 フランキーがプロフェッサーに従うのは半分は逆らえば即座に殺されるという恐怖があるが、もう半分はその物欲故だ。

 

 彼は一瞬の伝説・逸話を遺すのではなく長く裏世界のボスの座に君臨して、栄耀栄華を極めたいと欲望している。

 

 その為には、この程度の我慢は必要経費であろうとフランキーは自分自身を納得させた。

 

 この日、事務所にプロフェッサーが姿を見せた。

 

 フランキーも彼の部下も、弾かれたように反射的に起立し、ぴんと背筋を伸ばす。

 

<挨拶は良いわ>

 

 そっと義手を動かして「座って良い」と合図すると、プロフェッサーはあちこちが破けて中の綿が見えてしまっている来客用のソファーに腰を沈めた。

 

<ダニー・マクビーンの借金の一本化は終わったの?>

 

「ええ、ボス。詳しくはこれを」

 

 証文などを取り纏めて百科事典のように分厚くなったファイルを、フランキーが差し出してきた。受け取ったプロフェッサーがそれに目を通していくと……

 

<……うわぁ>

 

 酒・女・ギャンブル……さしもの彼女も思わず頓狂な声を出してしまう程の、酷いとしか形容の出来ない金の流れの状況がそこには記載されていた。

 

 この反応はさもありなんと、フランキーは肩を竦める。

 

「あいつ、私達以外にもあちこちから借金してたみたいね。それでコゲ付いて、首が回らなくなっていたみたいよ」

 

<……事故で蒸気技師を続けられなくなって、酒に逃げて、女を抱いて、ギャンブルにも手を出して……お決まりと言えばお決まりのパターンね……薬に手を出していない事だけが、唯一の救いか>

 

 そう、口では呟きながらプロフェッサーは脳内では別の事を考える。

 

『……だから、ノルマンディー公の誘いに乗ったのか……』

 

 数日前より、コントロールからチーム白鳩の中でドロシーだけに(正確には連絡員としてベアトリスも随行)別任務が言い渡されている。

 

 王国外務省の暗号表が、死亡した連絡員の体に埋め込まれている。その連絡員の死体はモルグに運び込まれてくる筈なので、それを回収してこいというものだ。

 

 この任務がチーム白鳩の中でドロシーにだけ下されたのは、連絡員の死体を見分けられるのがモルグで働いているノルマンディー公の協力者で、その協力者がダニー・マクビーン、ドロシーの父親であったからだ。

 

『……存外、世の中は狭い……』

 

 これを聞いた時には、ガスマスクの下でプロフェッサーは驚きに顔を歪めたものだ。

 

 自分が目を付けて雇い入れよう(囲い込むとも言う)としていた彼が、まさかドロシーの父親であったとは。

 

『逆に、借金苦で金で動くからノルマンディー公に目を付けられたのか……』

 

 人情や義理よりも、やはり金や利害で動く者の方がその行動を御しやすくもあり予測しやすくもある。

 

 そして……現在のダニーのような昔が忘れられず見栄っ張りでそこからの逃避で遊び好きな……一言で形容するならクズは、世の中から消えた所で全く問題無いし誰も困らない。実娘であるドロシーだって、この任務を受けるまでは何処で何をしているか全く知らなかったのだ。つまり、面倒な事になれば始末する事も簡単だという判断である。

 

 多分、ノルマンディー公の配下の誰か(多分秘書官であるガゼル)は「依頼を完遂すれば金をやる」とでもダニーに言っているのだろうが、支払われるのが金は金でも金属、特に鉛である可能性も往々にして有り得る。ちせの国に伝わる小咄では、札束を出せと言ったらイモの束を出すというオチもあったらしい。

 

『さて、どうするか』

 

 プロフェッサーとてダニーはいよいよとなったら切り捨てて構わない存在でしかないが……しかし替えが効かない事もないが、さりとて腕の良い技術屋は鉄砲玉にしかならないチンピラと違ってそこまで補充が容易という訳でもない。結論は、無理をしない範囲で彼をフォローするかという所に落ち着く。

 

 それにドロシーの手前もある。少なくとも自分に火の粉が降りかからない範囲内で、彼女の力になる事はやぶさかではない。

 

<彼の借金は私が払う。お金は今日にでも振り込ませるわ>

 

「分かったわ。ところで、ボス。面白い話を聞いたのだけど」

 

<ほう?>

 

 足を組み直したプロフェッサーの義眼が動いて、キュイッと音を立ててフランキーにピントを合わせた。

 

「この街の阿片窟で、変わった客が居るって話なんだけどね……」

 

<……>

 

 阿片窟。

 

 その単語を聞いて、表情は見えないがプロフェッサーは体を揺すって、明確に不機嫌な仕草を見せた。

 

 阿片窟とは読んで字の如く、阿片を売ったりそこで阿片を吸引させたりする店の事だ。この国の裏社会を清浄化して阿片を根絶しようとしている彼女にとっては、耳障りの良い単語ではないだろう。

 

<……それで、その珍しい客というのは?>

 

「いや、一人の放蕩貴族なんだけどね……」

 

<ふむ?>

 

 それだけなら珍しい話でも何でもない。

 

 親から多額の遺産を相続したは良いが使途が思い付かずに、酒や女に注ぎ込んだあげく今度は薬……貧困層であるダニーとは別パターンの、富裕層にお決まりの転落パターンではある。

 

「ただその男……本当ならもう40才をとうに超えている筈なのだけど……どう見ても外見が20才になったばかりにしか見えないぐらい若くて美しいって評判なのよ」

 

<ほほう?>

 

 今まではソファーの背もたれに体を預けていたプロフェッサーが、身を乗り出した。スパイであるチーム白鳩に所属していても、プロフェッサーの本職はやはり科学者である。好奇心を刺激してくれる対象には興味を惹かれるのだ。

 

<……名前は分かる?>

 

「ボスならそう言われると思って、分かる限りの略歴も既に調べてあるわ。こちらを」

 

 差し出された別の書類を受け取ったプロフェッサーは、手元の文章に義眼のピントを合わせた。

 

<……ドリアン・グレイ……?>

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あんたは?」

 

<あら……>

 

 百聞は一見に如かずという言葉もある。

 

 やはり実際にその貴族を見ない事には何も始まらない。若さを保っているのが単なる若作りなのか、それとも何かのトリックがあるのか。

 

 若作りという線も大いに有り得る話ではある。勿論個人差はあるが、女は化粧で外見と実年齢に相当サバを読む事が出来るし、少なくはあるが20年経っても変わらない人だって男女問わず居るには居る。一世紀が過ぎるくらいには、全然老けなくて吸血鬼疑惑が持ち上がるような作家だって現れたりするかも知れない。

 

 可能性は五分五分。だからこそ自分の目で確認するのだ。

 

 そう考えたプロフェッサーはフランキーの事務所を出ると件の阿片窟へと足を向けたのだが……その道中でダニーと出くわした。この幽霊通りでは顔を隠したり全身をローブで包んでいるような者も珍しくはなく、プロフェッサーの異様な風体もそこまで目立つものではなかった。

 

<立ち話もなんだ。どこかの店に入ろうか>

 

 そう言ってプロフェッサーは、すぐに目に付いたあまり店先の掃除が行き届いていない酒場へと入る。ダニーもそれに続いた。

 

 ストローが無いのでプロフェッサーは何も注文しないが、一方でダニーはまだ日も高いと言うのにさも当然のようにアルコールを注文した。

 

<……>

 

 少しばかり沈黙するプロフェッサー。

 

 しかし気を取り直して話を続ける。

 

<少し時間が掛かってしまったが、あなたの借金の取り纏めは終わった。約束通りそのお金は私が支払って、あなたを技師として雇いたいと思う>

 

「その事なんだがよ」

 

 やや言い辛そうな雰囲気で、ダニーが切り出した。

 

<何か?>

 

「娘と会えたんだ」

 

<……娘>

 

 ガスマスク越しでダニーには分からなかったが、プロフェッサーの片眉がぴくりと動いた。

 

「奇跡なんだよ。すっかり諦めてたんだ。その娘と会えて……だから俺たちにはやり直す為の金が要るんだ」

 

<……だから、契約金を更に加増しろと?>

 

 どこか呆れたように、プロフェッサーが言った。

 

 契約金として借金を全て清算して、十分な給料を支払い住居を用意するというのは破格の条件である。その上で更に金を上乗せしろとは。面の皮が厚いとはまさにこの事だ。

 

 とは言え、流石にダニーにも恥という概念は残っていたらしい。だから先程は言い出しにくそうにしていたのだろう。

 

「あいつ綺麗だからよ。服でも買ってやって一緒に街を歩くんだ。『どうだ、俺の娘は綺麗だろ』って言ってさ。こんなクソみたいな人生からオサラバして、今度こそ俺は生まれ変わるんだ!!」

 

<……>

 

 一瞬だけ、プロフェッサーの脳裏にそんな光景がよぎった。

 

 今よりもう少しはパリッとした紳士服に身を包んだダニーと、たまの外出にちょっとおしゃれした町娘のようなドロシーが並んで街を歩いていて……

 

 それが難しいであろう事を、プロフェッサーは知っている。

 

 10年前のあの革命から現在に至るまで、多くの事が変わってしまった。

 

 マクロは世界情勢から、ミクロは家族関係に至るまで。

 

 ダニーは知らないが今のドロシー(彼の話によると本名はデイジーというらしい)は、共和国のスパイ。今更足抜けなど出来る訳がないし、頻繁にダニーと会ったりも出来ないだろう。無知とは幸福であり、同時に不幸だ。

 

『だが……その程度の希望は持たせてやっても良いか。彼にも、ドロシーにも……飴と鞭は、使い分けなくてはね』

 

 自身の判断に多少は情が絡んでいて不合理・不効率である事は自覚しつつ、だがそれは最終的な結果には影響しない『ゆらぎ』の範疇でしかないと結論付けて、プロフェッサーは決断する。

 

 それに、ダニーにはまだ運があるようだ。もし金の加増を申し込んだのがノルマンディー公の手の者だったのなら、彼は確実に消されていただろう。

 

 契約を履行してキッチリ約束の報酬だけを受け取る相手なら信用して今後の仕事も任せられるだろうが、土壇場になって報酬の追加を要求してくるような……とどのつまり金で動くのではなく金に汚い奴は信用されない。つまりそれは、より多額の報酬を提示されたらあっさりと自分達を裏切るからだ。そんな不確定要素は、排除するのが鉄則。

 

 話を持ち掛けてきたのが金以外にもダニーの行動を制御出来るカードを持っていて、そして彼の話が真実であると知っているプロフェッサーである分、彼は幸運だった。

 

 だがその幸運もいつまでも続きはすまい。恐らくはこれが最後だろう。

 

<……いいだろう>

 

「えっ!!」

 

 もっと渋られると思っていたのだろうか。ダニーが意外そうな反応を見せる。

 

<借金の完済に加えて、給料半年分を契約金に加算する>

 

「あ、ありがてえ!! あんたは神様だよ!!」

 

 興奮したダニーが席を立って、プロフェッサーのすぐそばに跪くと彼女の手を取って頬ずりを始めた。プロフェッサーは彼の手を振り払うでもなくされるがままにしていたが……

 

<ただし、条件が二つ>

 

 ウィンと、手袋越しでも分かる駆動音を鳴らしてプロフェッサーの、ダニーの右手の物とは比べものにならない程に高精度の義手が動いた。

 

 ここから話す内容は、プロフェッサーに言わせれば慈悲であり忠告だった。彼女はダニーに釘を刺しておく事にしたのだ。

 

<一つには、これ以上欲を掻かない事……あまり図に乗らないようにね……>

 

 ガスマスクを経由しての合成音のような声だが、そこに先程までは無かった底冷えするような寒さが宿っているのは、鈍いダニーにも感じ取れた。

 

「あ、あぁ……流石の俺も、そこまで強突く張りじゃねぇ……」

 

<結構、そしてもう一つの条件は……>

 

 僅かに間を置いて、そうして続けられたプロフェッサーの声はオクターブが一段低くなっていた。

 

<今、あなたが引き受けている仕事からはすぐ手を引くのだ>

 

「え……そりゃあ、あんたの所で働くからには死体漁りは……」

 

<違う>

 

 とぼけているのか、それともプロフェッサーの言葉の意を掴み切れなかったのか。

 

 少なくともプロフェッサーは前者だと受け取った。

 

<ノルマンディー公とは手を切れと言っているの>

 

 事も無げにそう言われて、ダニーは明確に動揺を見せた。

 

「な、何でそれを……」

 

<この街で起こる事で、私に知らない事は無い>

 

 ずいっと、ダニーの眼前に顔を出して額を付き合わせるようにしてプロフェッサーは凄んでみせる。

 

<良いか? ノルマンディー公の捜し物は探せなかった事にして、もう彼等とは縁を切るのだ。それが約束出来ないなら……>

 

 プロフェッサーはそう言って、テーブルに置かれていた金属製のスプーンを手に取ると義手のパワーで先端を二つに引き裂いて、先割れスプーンに改造してしまった。そうして尖った二つの切っ先をダニーの眼前に突き付ける。思わず「ひっ……」と上擦った声が彼の喉から漏れる。

 

 もし自分がプロフェッサーの言う通りにしなかったならどうなるか……その未来を想像して、体中を伝う不快な感覚から冷や汗を掻くとはこういうものかと、ダニーは漠然と思った。

 

<言っておくが、これは脅しではない。私は殺ると言ったら手間も経費も度外視して絶対に殺る。世界中何処へ逃げても地の果てまであなたを追い詰めて確実に暗殺する>

 

 この言葉には一切の誇張も虚偽も無い、単なる通告である事がダニーは直感的に理解出来た。さっきまでプロフェッサーは人間だった。でも今は違う。人の形をした、別の生き物のように思える。ライオンの前の兎と言うか、被食者が捕食者を前にして抱く感情とはこんなものかと、ダニーは理解した気がした。

 

<……よろしいな?>

 

「あぁ、分かった。分かったよ」

 

<結構>

 

 先程までの威圧感を消して人間に戻ったプロフェッサーは立ち上がると、懐から何枚かのポンド札を出してテーブルに置いた。

 

<では……私はこれで行くので……後はあなた一人で楽しんで>

 

「あ、あぁ……」

 

 そうしてプロフェッサーが退店すると、ダニーも置かれた札束を握り締めてすぐに酒場を飛び出すと別のパブへと駆け込んでいった。この幽霊通りでは、一際繁盛している店だ。

 

 そんな彼の姿を、ビルとビルの狭間からプロフェッサーが見送っていた。

 

 パブの曇りガラス越しだが……彼が語り合っている人影は、ドロシーのものであることを彼女の義眼は判別する。

 

 仲直り出来るか、これからも上手くやっていけるかどうかは天才であるプロフェッサーの頭脳をして計り知れないが……

 

<まぁ、たまにはこういうのも良いだろうさ……>

 

 プロフェッサーはそう呟いて、ロンドンの闇に消えていった。

 


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