プリンセス・プリンシパル PROFESSOR(完結)   作:ファルメール

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第25話 ロンドンの一番長い日 その3

 

 ロンドンの一角に存在する新王室寺院。

 

 本日、王族や主立った諸侯が列席して戦勝祈願の式典が行われるそこに、ロンドンの近代的な町並みにはまるでマッチしない乗り物がやってきた。

 

 自動車や馬車よりは、ずっとゆっくりとしたスピードでのんびりと動く乗り物。

 

 牛車である。

 

 座乗するのはアルビオン王国ではあまり見ない扁平な顔つきをした壮年の男。ちせの直属の主である堀川公であった。

 

「東方の瀛州より先の太政大臣にして特命全権大使堀川昌康公。貴国の戦勝祈願式にご臨席賜りたく候」

 

 堂に入った態度で朗々と謳い上げるのは、牛車の傍らに立つちせであった。

 

 王国兵は思わぬ来客に戸惑いがちであったもののそこは一国の大使、VIPである。特に断る理由も無く、堀川公一行は簡単な手続きの後に寺院の中へと通された。

 

 

 

 

 

 

 

 ほぼ同時刻、メイフェア校では。

 

<それでアンジェ、まずはどう動くべきかしら?>

 

「まずは、プリンセスの居所を突き止めないと……」

 

 つかつかと敷地内を進んでいくプロフェッサーとアンジェ。

 

 今は夜で、ゼルダ達も出払ってしまっているので学園内の雰囲気はひっそりとしたものだ。

 

「どうするか……」

 

 時間が無いので、流石の天才スパイの顔にも焦りが見える。

 

 プロフェッサーが、あるいはゼルダ麾下のスパイが留守番に残っているかも知れないので警戒しつつ窓から部室を覗き込んでみると……

 

<アンジェ、どうやら探す必要は無さそうよ>

 

「?」

 

 すっと動かしたプロフェッサーの指が「覗いてみろ」と部室の窓を指差す。アンジェも、プロフェッサーの反対側に立って部屋の中を覗き込む。

 

 すると……

 

「はい。女王暗殺にプリンセスが関わってると国民が知れば王国内は混乱に陥ります」

 

 恐らく、連絡役にゼルダが残していった人員なのだろう。

 

 物騒な内容を、無警戒に電話している男が居た。

 

「作戦後は用済みという事ですな。哀れな事で……」

 

 彼はその言葉を最後まで言い切る事が出来なかった。

 

 ゴツン!!

 

 鈍い音が、部室に響いた。

 

 アンジェが部室に置かれていたアンモナイトの化石を即席の鈍器にして、その男を殴りつけたのだ。

 

『どうした? 何があった? 何の音だ? おい……』

 

 何かあった事は電話越しの相手にも伝わったようだが、しかしそれ以上の言葉を聞く前に、プロフェッサーが受話器を置いた。

 

 見ればアンジェが、倒れた男に拳銃を突き付けていた。

 

<……アンジェ、そいつの尋問は任せる。私は、少し確認したい事があるのでね……>

 

 プロフェッサーはそう言うと、もうアンジェにも連絡員の男にも興味を無くしたようだった。記憶している番号へと電話を掛ける。

 

『……出ろ。出なさいよ……』

 

 内心では、そう祈るように呟くプロフェッサー。しかし得てしてこういう時の祈りは裏切られるものだ。

 

 いくら待っても、呼び出し音が繰り返し繰り返し鳴るだけで向こう側の受話器が取られる気配が無い。

 

『ぬうっ……!!』

 

 思わず、心の中で舌を打つ。

 

 今、彼女が電話を掛けているのはアルビオン王国軍の兵舎だ。それもイングウェイ少佐が統括している部隊が駐屯している部署へ。

 

『出ないって事があるか……っ!!』

 

 いざという時は国家を守る為に即応せねばならない彼等が、電話に出ないなど有り得ない。掛かってきた電話が、国家の存亡を告げる火急の報かも知れないのだから。特にイングウェイ少佐は規律正しく部隊を纏めている優秀な軍人だ。彼の部隊に怠慢などもまた有り得ない。

 

 それが有り得るとすれば……考えられるケースはそう多くない。

 

 それは……!!

 

 国家を守るべき彼等が電話に出ない場合は……!!

 

『守るべき国家を自分達の手でひっくり返そうとしている時だけだ!!』

 

 嫌な予感が当たった。

 

 昨日、フランキーとの会話でロンドン市内に陸軍の一部部隊が集結していて、その部隊は海外植民地出身の兵士が中心となっていると聞いた事が、今になって脳裏に蘇る。

 

 あの時は、イングウェイ少佐には短兵急に動くなと釘を刺していたから大丈夫だろうと深く追求はしなかったが……

 

 しかし今にして考えてみれば迂闊であった。

 

『……会いに行く時間は無いにせよ、せめて確認の電話の一つでも入れるべきだった……!!』

 

 プリンセスの身に危険が迫っていると考えていた焦りもあったがこれは自分の失策だったと、プロフェッサーは歯噛みする。

 

 だが、後悔も反省も後回しだとすぐに頭を切り換えた。

 

 今は今の最善を考えねばならない。

 

『少佐達はクーデターを起こすつもりだ……と、すればその場所は……戦勝祈願式典が行われる、新王室寺院……!! そこしかない!!』

 

 今日、そこには女王や諸侯が一堂に会する。そこに爆弾でも放り込めば、この国の支配層を一網打尽に出来る。少佐はそれをやるつもりだ。

 

 と、プロフェッサーの頭脳が結論を弾き出した時だった。

 

「プロフェッサー、分かったわ。プリンセスとゼルダは、新王室寺院に居る」

 

『……!!』

 

 アンジェの告げた情報は、プロフェッサーにとっては悪い(バッド)……否、最悪の(ワースト)ニュースであった。

 

 イングウェイ少佐の部隊はクーデターの為に新王室寺院に向かっていると推測され、そしてプリンセスとゼルダもそこに居る。こんな偶然は無い。

 

<プリンセスを女王暗殺の黒幕に仕立て上げて、革命軍を扇動するつもりね……かなり……かなり拙い>

 

 本当に、時間も人手も無い。

 

 今のプロフェッサーは態度や表情には出ないよう極力心掛けるが、内心ではかなり焦燥している。

 

「お、お前達!! こんな事をしてただで済むと思っているのか!!」

 

 アンジェに縛り上げられた連絡員が、唾を飛ばしながら喚いた。

 

「別に。あなたが喋らなければ済む話よ」

 

<アンジェ、あまり血が出ないようにね。これからも使う部室が汚れるのは、その、困る>

 

 頷いたアンジェが、持っていた拳銃を無造作に男の頭に照準した。

 

 がちりと、撃鉄を起こす。そうして引き金に指がかかって……

 

「待……!!」

 

 引き金を絞ろうとした所で、ぐっと横合いから伸びてきた手がアンジェの腕を引っ張って射線を逸らせた。咄嗟に、アンジェは引き金から指を外した。

 

「このバカ……折角慎重に事を進めていたのに」

 

 すんでのタイミングで現れたのは、異動になって学園から姿を消していたドロシーだった。

 

「ドロシー、どうして……」

 

 アンジェにしては珍しく、今日の彼女は明らかな動揺の色を見せた。

 

「政府からの命令でゼルダの作戦内容を探ってた。うちらは政府と軍部の椅子取りゲームに巻き込まれたのさ」

 

<……やはり、そんな事だったのか>

 

 委員長から受け取った義眼に記録されていた映像には、コントロールのリーダー席に軍の制服を着た男が座っていた。それを見た時から、プロフェッサーはバックにあるのがおおよそそんなシナリオであろうとアタリを付けていたが、予想が当たった。

 

 ドロシーは連絡員の男の頭にアンモナイトの化石をもう一度ぶつけて気絶させると、プロフェッサーから受話器を受け取って掛け直した。

 

「今は共和国内もピリピリしてる。ベアト、こっちに来な。アンジェとプロフェッサーだった。お陰で作戦が台無しだ」

 

<ベアトリスも居るのか……>

 

 プロフェッサーは前に目立った行動はしないようにと忠告しておいたが、どうやらそれが功を奏したようだった。

 

「ドロシー、プリンセスを助けに行かないと」

 

「私が受けたミッションにプリンセスの救出は含まれていない。私達はスパイだ。任務外の事に手は貸せない」

 

「そう……」

 

 スパイとしての正論を突き付けられて、アンジェは肩を落としてしまう。一方でプロフェッサーは、動揺した様子も見せなかった。

 

<……気にする事ではない、アンジェ。誰がやらなくても、私達でやれば良いだけの事だ>

 

「まぁ待てよ。プロフェッサー」

 

 すっと、ドロシーが手を差し出した。

 

「確かにスパイとして任務外の事に手は貸せないが。だけど、友達としてお願いするって事なら。全力で手を貸してやるよ」

 

<「……」>

 

 アンジェとプロフェッサーはしばらく顔を見合わせて、そしてそれぞれドロシーの手に自分達の手を重ねた。

 

「ありがとう……」

 

<感謝する、ドロシー……>

 

「アンジェさん、プロフェッサー!! 戻ってたんですか!? こっちはずっと準備して待ってたんですよ!?」

 

 すると今度は、泡食った顔のベアトリスが駆け込んできた。

 

「待ってた……?」

 

「あ……」

 

 尋ねられて、ドロシーはちょっとばつの悪そうな顔になった。サプライズパーティーを開く予定が、主賓にバレてしまった企画者のようだ。

 

「そうですよ!! 姫様の居場所を突き止めたのにアンジェさん達が戻るまで待つってドロシーさんが!!」

 

「……嘘つき」

 

「いいだろこれぐらいは。大体、アンジェが最初から素直に話してくれればもっと簡単に済んだんだ」

 

「……ごめん」

 

「二人とも、そんなの良いですから早くしないと姫様が~!!」

 

<それは、同感だな。勿論、私も同行する>

 

 と、プロフェッサー。彼女にしてみればやる事が増えた形となる。

 

 ここへ戻るまではプリンセスを助ける事だけが目的だったが、今はもう一つ。イングウェイ少佐を殺して彼の口を封じねばならなくなった。

 

 軽々に動かないようあれほど言ったのに、性急に事に及んだ時点でプロフェッサーの中でイングウェイ少佐の認識は既に同志から邪魔者へと変わっている。

 

 プロフェッサーの見立てでは、どんな手段を用いるにせよこのタイミングでクーデターなど行って成功する確率は一割を切る。しかも仮に成功したとして、少佐達はその後どうするつもりなのか。女王も諸侯も、要するに実質的にこのアルビオン王国を動かしている人間が丸ごと居なくなってしまったら、王国は言わば脳死状態に陥る。仮にそうならなかったにせよ、政治・軍事・外交あらゆる面で大きなダメージを受ける事は疑いない。そうなったら虎視眈々と侵攻の機会を伺う共和国は元より列強諸国から食い荒らされる形となって、この国は崩壊する。

 

 プロフェッサーが、殺そうと思えばいつでも殺せるがそれでもノルマンディー公を殺せない理由がそれだ。恐らくプリンセスを黒、つまりは共和国への内通者であると見抜いているノルマンディー公は目障りだが、彼が当代一流の人物でこの国の防諜に大きな役割を果たしているのはプロフェッサーも認める所である。後任も決まらないままに彼を殺してしまったら、王国の機密情報はザルのように諸外国に筒抜けになる。

 

 そうした見通しが、イングウェイには出来ていない。だからこんな迂闊に動けるのだ。

 

 ……と、なるとクーデターに失敗して捕縛されたイングウェイの口から自分の存在が漏れるという事態はプロフェッサーにとっては絶対に避けたい事態だった。意志に依らず口を割らせる方法など、ノルマンディー公ならダース単位で用意出来るだろう。

 

 それでも、自分の言う通りに動いてくれていたのならば同志としてプロフェッサーは彼を助けようと動いたであろうが、勝手な行動を取った今では始末するという方向に思考が向いている。

 

<……一つの目的が二つになったが……まぁ、向かう場所は同じだ>

 

 

 

 

 

 

 

 雪のちらつくロンドンの町中を、プロフェッサーの改造した自動車が滑るように進んでいく。

 

 乗っているのは当然運転席にドロシー、助手席にはプロフェッサー。後部座席にはそれぞれアンジェとベアトリス。

 

「式典は19時から。普通のルートじゃ遅刻だな」

 

「間に合いますか?」

 

<問題無い。ドロシー、近道をしよう>

 

 そう言ったプロフェッサーの行動は早かった。

 

 横から手を伸ばしてハンドルを掴むと、思い切り左に切る。

 

「ちょ!! 何するんだプロフェッサー!!」「な、何やってるんですか!?」「プロフェッサー!?」

 

 同乗している3人が、一斉に悲鳴を上げた。

 

 車は車道から歩道に乗り上げて、更にはその先にあったサブウェイの入り口に突っ込んだ。

 

 スピードに乗ったまま階段を降りていく衝撃はプロフェッサー謹製の最高のショックアブソーバーでさえも完全には吸収出来ずに、4人は上下左右に揺さぶられる。

 

「うおおっ!?」

 

 悲鳴を上げながら、ドロシーは車をコントロールする。反射的にブレーキを踏んだが車がスピードを落とす気配は無かった。

 

「ブ、ブレーキが利かない!?」

 

<この車を改造したのは誰だと思っている? あなたにも教えていない隠し機能の二つや三つは組み込んであるさ>

 

 しれっと、助手席のプロフェッサーに言われてドロシーは涙目になりながら彼女を睨んだ。いつの間に取り出したのか、彼女の手には板状のリモコンが握られている。

 

「ひ、ひらはんら~!!」

 

 ベアトリスが赤くなった舌を出した。

 

「ま、待って!? 止まれ!!」

 

 駅員が、地下鉄の構内に自動車が飛び込んでくるというこれは夢か幻かと疑いたくなるような事態にあっても、職務を果たそうと体を張って制止しようとするが、無駄だった。そもそも運転しているドロシーですら止められない。駅員は悲鳴を上げながら飛び退いて、車は改札を牧場の柵のようにぶち破ってホームに突入すると、そのまま線路に下りてレールの上を走り始めた。

 

「プ、プロフェッサー!! あんた何をやっているのか分かっているのか!?」

 

 フルスロットルで線路内を疾走する車を、壁に激突しないよう必死にハンドルを切りつつ、ドロシーは反響するエンジン音に負けないよう声を張り上げた。

 

<勿論だ。ここを通っていけば、地上を走るよりずっと早く寺院に着く>

 

「で、でもプロフェッサー!! いくらなんでも地下鉄を走るなんて……!!」

 

 涙目になったベアトリスが、必死にプロフェッサーの肩を掴んで揺さぶる。

 

「……プロフェッサー……この線路は下り車線で、私達はロンドンの中心部の寺院へと向かっている訳だから……」

 

「えっ……ア、アンジェさん。それはまさか……!!」

 

 アンジェの言葉の意味を悟って、ベアトリスの顔がさあっと蒼くなった。

 

 そして彼女の中の不安を裏付けるように、前方からライトの光が見えてくる。

 

 前方から、列車が走ってきているのだ。

 

「プロフェッサー、今すぐ車のコントロールを戻すんだ!!」

 

「その機械を渡して」

 

 このままでは正面衝突で木っ端微塵、4人とも死ぬ。

 

 懐の拳銃に手を掛けるドロシー。アンジェも既に、プロフェッサーの背中に銃を突き付けている。だが、プロフェッサーは落ち着いたものだ。

 

<どのみち今からでは間に合わない。それよりドロシー、赤いボタンを覚えているか?>

 

「な、何!?」

 

<だから赤いボタンだよ。私が良いと言った時以外は触るなと言ったヤツだ>

 

「あ、あぁ!! それは覚えてるけど……!!」

 

 ハンドル脇に設置された赤と青のボタンに、ドロシーの視線が動く。

 

<今なら押していい。いや、押すんだ>

 

「何言ってるんだこんな時に!! それより……」

 

<良いからつべこべ言わずに、ボタンを押すんだ>

 

「く、くそ、分かったよ。もう!! こうなったら化けて出てやるからな……!!」

 

 恨み節を口にしつつ、ドロシーは赤いボタンを強く押し込んだ。その後で、やけっぱちになって叫ぶ。

 

「あぁ畜生!! スパイだから長生きなんて出来ないと思ってたけど、まさかこんな死に方するなんて!! 恨むからなプロフェッサー!!」

 

 その言葉が終わらない内に、異変は起こった。

 

 まずエンジン音が変化して、これまでよりもずっと心地良い響きに変わった。

 

「プロフェッサー!! これは一体何のボタンなんだ!?」

 

<前に言ったろう? ちゃんとシートベルトを付けているかどうか、確認する為のボタンだ。では皆様、シートベルトをお締め下さい>

 

 プロフェッサーに言われて、アンジェもベアトリスもそれぞれ反射的な速さでシートベルトを付けた。二人ともそうしなければヤバイと、本能で理解したのだ。

 

 そうしている間にも、変化は続いている。

 

 車の車幅が広がり、車体後部が伸びて車のラインそれ自体が流線型のものへと変化し始めた。

 

 そして加速・最高速共に、今までドロシーが経験した事もない程のスピードが出ている。

 

 車体全体が、翠色の燐光を纏い始めた。

 

「こ、これは……っ!!」

 

 度肝を抜かれたドロシーであったが、驚いてばかりではいられなかった。

 

 既に、列車が視界一杯に広がっている。車掌もこちらに気付いたようでブレーキを掛けているようだがとても停止には間に合わないだろう。しかもこっちは止まれないから、どっちみち激突する。

 

「プロフェッサー、車を止めてくれ!! いやバックだ!! 本当に死ぬぞ!!」

 

<……>

 

 プロフェッサーは何も言わず、先程地下鉄に突入した時のように思い切り横からハンドルを切った。

 

 その時、名ドライバーのドロシーには不思議な感覚が走っていた。

 

 全速で車を飛ばしている時、風圧で車体が地面に押し付けられるように、車体が下へと吸い付けられているのを感じる。

 

 ぶつかる!!

 

 ドロシーがそう思った時に、視界が傾いた。

 

 車体が線路に対して水平から直角になって、その後でまた水平になった。

 

 ドロシー、アンジェ、ベアトリス、プロフェッサー。

 

 今や4人の視界は逆しまになっていた。

 

 この車は地下鉄のトンネルの天井にくっついて、それでも尚走り続けていた。

 

「まさか……プロフェッサー、この車にはケイバーライトが……!!」

 

<そう、ケイバーライトの重量軽減による加速と、磁場によって車体を壁に押し付けて、壁面・天井を走っている>

 

 プロフェッサーが赤いボタンはシートベルトを締めているかどうか確認するボタンだと言った意味が、アンジェ達にも分かった。もし付けていなかったら、今頃外へと放り出されていただろう。

 

 上下反転した視界の上には、既に列車の天井が見えていた。

 

 反重力走行しつつ時速300キロオーバーで走るこの車は、トンネル内で列車の上をすれ違うように走っているのだ。

 

<どうだ、素晴らしいだろう>

 

「ひ、ひぃぃぃいいいっ!!」

 

 ベアトリスが泣きながら、ひっきりなしに悲鳴を上げる。

 

 ドロシーの髪の一房が、列車の天井に掠った。

 

「みんな頭を引っ込めろ!! 首が飛んでしまうぞ!!」

 

「ひいい、怖い!!」

 

 アンジェがベアトリスの頭を、ぐっと下げさせた。

 

<肩の力を抜いてリラックスしたらどうかな、ドロシー。楽しんで仕事しなくては……音楽を掛けよう>

 

 カチッ。

 

 プロフェッサーが席から体を乗り出して、青いボタンを押した。

 

『♪~魚肉そぼろ~♪』

 

 地下鉄のトンネルに、場違いなミュージックが反響する。

 

 しかしドロシーもベアトリスも、音楽に興じている場合ではなかった。二人とも目が点になっている。

 

「そ、それより……ドロシー、前を」

 

 アンジェが、前方を指差す。

 

 暗いトンネルの先に、光が見えてくる。

 

 次の駅のホームだ。

 

<ではドロシー、あそこで地上に出よう。今度はあなたがやるんだ。出来る筈だ>

 

「あ、ああ……」

 

 ドロシーがハンドルを回して、4人の視界がぐるんと反転して衝撃が襲ってくる。

 

 トンネルの天井からホームに、車が着地したのだ。

 

 そのまま呆気に取られている駅員を尻目に、地下鉄に入った時と同じように改札をぶち破る。

 

 プロフェッサーはぽいと札束を投げ出した。あれで修理代の足しにはなるだろう。

 

 モーセの奇蹟によって割れた紅海のように左右に飛び退く乗客とすれ違いつつ車はそのまま階段を駆け上ると、一気に地上へと飛び出した。そうして歩道から車道に入る。

 

 ようやく慣れ親しんだ感覚が戻ってきて、地に足ならぬ地に車輪が着いたドロシーが恨めしげな視線をプロフェッサーに向けた。

 

「あんたどうかしてるぞプロフェッサー!!」

 

<そうかも知れないが。だがドロシー。これで地上を行くよりも5分は時間が縮まったぞ。さぁ、急ごう>

 

 プロフェッサーの視界に、義眼に搭載された電子脳が『死傷者ゼロ』を表示した。

 

「急ぐってこれ以上どう急ぐんですか!? さっきほどじゃないにせよ今だって時速150キロは出ているのに!!」

 

 泣きながらベアトリスが訴えてくる。

 

<まだまだ速くなるわ。水素エンジンとケイバーライトの組み合わせはこんなものじゃない>

 

「聞きたくなかった!!」

 

「……でも、これで確実に間に合うわね」

 

 アンジェが、懐中時計を見ながら呟いた。想定していた時間よりはずっと良いペースで来ている。後はこのまま壁に向かって進んで、壁中の通路を進めば式典が始まるより早く寺院に到着出来る。

 

「それはそうだが……プロフェッサー、生きて帰れたらこの車の機能を全部教えてもらうぞ!! 自爆装置でも付けられていたらたまらないからな!!」

 

 呆れと怒りの入り交じった顔と声で、ドロシーが言った。

 

<……何故知っているの?>

 

「「「えっ!?」」」

 

<……冗談だよ>

 


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