プリンセス・プリンシパル PROFESSOR(完結)   作:ファルメール

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最終話 終わりの始まり

 

「はじめまして。私はシンディ。怖がらないで。私達、友達になりましょう」

 

 始まりは、好奇心から訪れたイーストエンドの貧民街だった。

 

 昼尚暗い街の、更に吹きだまりのような場所でうずくまって寒さに震えていた少女、リリィが助けを求めるように伸ばした血と泥に汚れた手を、そこには似つかわしくない清潔な装いをしたその少女、シンディ・グランベルは躊躇いなく握り返した。

 

 侯爵家に生まれ、優しい両親と親切な使用人達に囲まれ、病弱ながら何不自由無い暮らしを送ってきて幸せしか知らなかったシンディは、その時初めて、世界には不幸がある事を知った。

 

 夜の寒さに震える人が居る事を知った。

 

 飢えに苦しむ人が居る事を知った。

 

 眠りに落ちて、明日に目覚める事を祈らねばならない人が居る事を知った。

 

 何よりそうした人達の中に、自分と年の変わらない少女がいる事を知った。

 

 幼心に、それはショックだった。そして思った。

 

『こんな世の中は、間違っている』

 

 この時はまだ、だからと言って何かをしようというつもりは無く、漠然とした気持ちでしかなかった。

 

 それからというものシンディは、両親や使用人達の目を盗んで食べ物や玩具を、こっそりとリリィや他の泥ひばりの子供達へと持っていくようになった。

 

 子供達はシンディが自分達とは違った世界の住人だという事を、あるいは気付いていたのかも知れない。だが深く追求する事はせずに、友達として受け入れてくれた。

 

 大事に育てられているとは言え甘やかされている訳ではなく、侯爵家令嬢として学ばねばならない事は多く、息の詰まるような暮らしだったシンディにとってその時間は安らぎであったし、リリィ達だって彼女がやって来るのを心待ちにしていた。

 

 だがその日々は、ある日唐突に終わりを告げてしまう。

 

 リリィが暮らしている掘っ立て小屋を訪れたシンディは、しかし声を掛けても中から返事が無い事を訝しみつつも隙間だらけの扉を開けて中に入る。

 

 家の中では、ボロボロの毛布に包まってリリィが横たわっていた。

 

「なんだ、待ちくたびれて眠ってしまったのか……ほら、リリィ、起きて」

 

 揺すって声を掛けたが、親友は何の反応も返さなかった。

 

 この時、物凄く嫌な感覚が、シンディの背筋を駆け抜けた。

 

「リリィ……」

 

 シンディの指先がリリィの肌に触れて……心地の良い冷たさが伝わってくる。だがそれは残酷な感覚だった。

 

 幼いながらに聡明であるシンディは、一つの事を否応無しに理解した。してしまった。

 

 トモダチはもう、この世には居ないのだと。

 

 後で泥ひばりの子供達に聞いた話では、数日前からリリィは風邪を引いていたらしかった。

 

 風邪で人が死ぬ。

 

 シンディには信じられなかった。

 

 彼女とて風邪を引いた事は何度かある。だがそれで、死ぬかも知れないと思った事など一度も無い。それどころか外へ遊びに行けなくなる事を残念に思ったりしたぐらいだ。

 

 薬もあって、医者がいて、暖かい寝床があって、栄養の付く食べ物を食べられる自分と、それらのどれ一つとして持っていないリリィ。自分達の間にある差が、最悪の形で表出したのだとシンディは思い知らされた。

 

『こんな世の中は、間違っている』

 

 ドス黒い気持ちが、自分の中に生まれ始めている事を、この時のシンディは自覚していた。

 

 その後、シンディは他の泥ひばりの子供達は学校や信頼の置ける孤児院へと送った。これは彼女のなりの、リリィへの罪滅ぼしであったかも知れなかった。

 

 そしてそれからは外へと遊びに行く事は無くなって、侯爵家の当主としての勉強に熱を入れるようになっていく。

 

 この時のシンディは、侯爵家の生まれという立場を利用して、やがてはこの国を変えられるような立場に上り詰め、そして改革に乗り出す事を考えていた。

 

 実家が所有するケイバーライト採掘場の経営に力を入れ始めたのも、その一環である。リリィ達のような貧しい者を貧しいままにしているのは、彼女達が働けないからだ。ならば働く場を用意しよう。シンディにとってこれは雇用の創出、改革の一環であった。

 

 勿論、低賃金で扱き使うなどという事はしない。適切に労働時間を決めて、休日もしっかりと設ける。その為、労働従事者達の士気は高く、シンディや両親達は彼等から慕われていた。

 

 だがある日、家族揃って採掘場の視察に出掛けた時だった。

 

 閃光、爆煙、轟音。

 

 いきなり襲ってきたそれらに飛ばされた意識を取り戻した時、倒れていたシンディは体を起こそうとして、だが右手が自由にならなかった。

 

「…………」

 

 彼女の右手は、瓦礫に押し潰されていて抜けなかった。

 

「……仕方無いか」

 

 はぁ、と溜息を吐くと、シンディは左手で手頃な大きさの石を拾って。

 

 グシャ、グシャ、ぐちゃり。

 

 何度も何度も、自分の右腕に叩き付けて、腕を潰していく。

 

 そうして瓦礫との境目の部分の肉が削ぎ取れて、骨が見えるまでになったのを確認すると、思い切り引き抜いた。

 

 ぶちっ、ぶちっ……

 

 嫌な音を立てて、肉が千切れて……そうして、右腕を棄てて、シンディはこの場から逃れた。

 

 痛みはあるが、それを気にしたりへこたれたりしている間など無い。彼女は意識と痛覚を切り離した。

 

 父や母を探さねばならない。その一念が、シンディを動かしていた。

 

 しかし。

 

「うあっ……」

 

 小さな悲鳴を上げて、シンディは倒れてしまう。小石に蹴躓いたのだ。

 

 右腕を失った事による重心のバランスの変化や、出血多量によるものではない。足下はしっかり見ていた。なのに足下にあった小石が見えなかった。

 

 見えている筈の物が、見えなくなっている。

 

「……ケイバーライト障害……!!」

 

 アルビオン王国の負の側面。それが、自分にも降り掛かってきたのだと彼女は理解する。

 

 それでも立ち上がって、両親を探しに行こうとするが……出来なかった。

 

「がっ……ぐっ……ごほっ……ごほっ……!!」

 

 急激に襲ってきた痛みに、胸を掻き毟るように押さえると、その場にうずくまってしまう。

 

 生まれつきシンディは肺が弱かったが、それでもここまでの症状が出た事は無かった。意識が戻るまでの間に吸引したであろう大量の粉塵が、彼女の体を蝕んでいたのだ。

 

 結局、動けなくなったシンディはこのすぐ後に救助にやって来た労働者に助けられて病院に搬送される。

 

 一命は取り留めたものの、シンディは右腕を喪ってケイバーライト障害を発症し、肺の持病も悪化した。

 

 両親の死に目にも会えなかった。叔父から聞いた話によると、二人の遺体はあまりにも酷い状態だったので、シンディには見せずに弔ったという事だった。

 

 病院のベッドの上で、考える時間だけは潤沢にあったシンディの胸中に去来したのは、一つの想いだった。

 

『憎い……憎い、憎い』

 

 何故、リリィのような子供が死ななければならない?

 

 何故、両親のような立派な人達が死ななければならない?

 

 何故、私にばかりこんな事が起こる?

 

『憎い。憎い』

 

 アルビオン王国も、この世界も、全てが憎い。

 

『こんな世界など、壊れてしまえ』

 

 傷が治ったシンディは、しかしこれ以降は外へ出る為には常にガスマスクを装面する事が必要になった。

 

 メイフェア校の幽霊、怪人プロフェッサーは、この時に生まれたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 カサブランカ。

 

 現在、チーム白鳩のメンバーはコントロール内部に於ける軍と政府の椅子取りゲームのゴタゴタから離れるようにして、この地に休養に来ていた。煙や霧でいつも薄ぼんやりとしているロンドンに慣れている彼女達にとって、この地の海と空の鮮やかさは感動的ですらあった。

 

 とは言え、人間は良くも悪くも順応する生き物。そろそろ、この空と海にも彼女達が慣れてきたある日の事だった。

 

「さっき白い花を持った男から口説かれたわ」

 

 砂浜に設けられた一席。

 

 広げた新聞を読みながら、アンジェが無感動に言った。

 

「何?」

 

「ほ、本当ですか?」

 

 ちせとベアトリスは、興味津々とばかりに身を乗り出して尋ねてくる。一方でアンジェの事だからと大体の察しが付いているドロシーは落ち着いたものだ。

 

「新しい指令だったわ。潜伏中のアルカーディル将軍の動向を探れって」

 

 果たして、語られたのは予想を全く裏切らない言葉だった。

 

「ま、うちらの男運なんてその程度って事だな」

 

 さばさばと、ドロシーが肩を竦める。

 

「アンジェに色恋というのがそもそも想像出来んのだ」

 

「好き勝手言わないで。それより……」

 

 アンジェは持っていた新聞を、隣の椅子でくつろいでいるプリンセスへと渡した。

 

「?」

 

「プリンセス、プロフェッサーがやったわよ」

 

「!」

 

 それを聞いたプリンセスは、むしり取る勢いでアンジェから新聞紙を受け取ると、記事に目を走らせる。

 

「何だ何だ?」

 

 ドロシーも興味深そうにプリンセスの後ろに回って、記事を覗き込もうとする。

 

 そしてすぐに、表情が強張った。

 

「これは……」

 

「……始まったのね。プロフェッサー……」

 

 一面記事には、舞台の上で踊るクラシックチュチュを着た少女の写真が大きく載せられている。

 

 そして、記事には『若きバレリーナ、エイミー・アンダーソン、ケイバーライト障害から奇跡の復活。プリンセス・シャーロット推進の研究、今後の医療の進歩に一石を投じる』とデカデカと書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 二日前、アルビオン王国王立劇場。

 

 一つの演目が終了して万雷の拍手が巻き起こる中、貴賓席の一角には異様な集団が陣取っていた。

 

 その中央の席にふんぞり返っているのは、黒いローブにガスマスクを装面した異装の怪人。プロフェッサーであった。チーム白鳩の中で彼女だけは、カサブランカに行かずにロンドンに残っていた。

 

 拍手をするでもなく、頬杖を突いたプロフェッサーはすぐ後ろに立ち尽くす青年を見やった。

 

<どう? エリック……今の気持ちは>

 

 プロフェッサーの後ろに立っていたのはエリック・アンダーソン。かつてノルマンディー公の手先として共和国への亡命ルートを探る為に、偽装亡命を試みた男だ。

 

 その目論見が露見してアンジェによって殺されかけた彼であったが、プロフェッサーが死体に整形手術を施した替え玉を用意する事によって難を逃れ……る、事は出来なかった。死んだ事になった彼には、当然ながら王国にも共和国にも行き場所は無く、生きられる場所はプロフェッサーの庇護下だけだった。

 

 この時、プロフェッサーはエリックにある取引を持ち掛けた。

 

 エリックが命以外の全てをプロフェッサーに差し出す代わりに、プロフェッサーは彼に二つのものを与える。

 

 一つは妹、エイミーの未来。彼女の目を晴眼者と遜色無いまでに治し、生活に不自由しないだけの金銭的な保障を行う事。

 

 エリックはその約束が履行されたのを、たった今自分の目で確認した。

 

 憧れの舞台で踊るエイミー。

 

 ケイバーライト障害の発症を宣告されたあの日に、奪われて永遠に喪われてしまった筈の、妹の未来。それが今、目の前に顕れている。

 

 滂沱として流れる涙を拭おうともせずに、しかし笑いしながら、エリックは舞台の上で一礼する妹を見詰めていた。被っていた帽子を脱いで、胸に当てる。

 

「僕はもう一度……もう一度、バレエを踊るエイミーを見たかったんだ。プロフェッサー、あなたには……感謝してもしきれない……」

 

 彼の願いは、確かに叶えられたのだ。

 

 一方でプロフェッサーにとってもこれは慈善事業という訳ではなく、彼女にもメリットがある話だった。

 

 プロフェッサーが開発した医療用義眼。エイミーはその移植第一号被験者だった。こうして拒絶反応も起きずバレエが踊れている事を見ても、エイミーによって義眼の安全性は証明されたのだ。

 

<……満足してくれたなら、私も嬉しいよ>

 

 プロフェッサーはそう言って<もっとも、天才である私がこれ以上無く完璧に助けているんだ、満足しないなど有り得ないが>と付け加えた。

 

<さて、フランキー、根回しは手筈通り進んでいるか?>

 

 傍らに立っていたフランキーは「ええ、ボス」と、プロフェッサーの前で膝を折った。

 

「既に、彼女……エイミー・アンダーソンがケイバーライト障害を発症していた事実と、そのカルテはコピーを取って王国中の新聞社に送りつける手筈が出来ているわ。後はボス、あなたのゴーサイン一つでいつでも行けるわ」

 

<結構>

 

 頷いたプロフェッサーは隣に座るアルコール太りの中年男性を見やった。

 

<ダニー、どうかしら? 医療用義眼の設計図は>

 

「うむむ……」

 

 難しい顔で、ダニー・マクビーンは生身の左手と、プロフェッサーが付けた右手の義手で把持した設計図を睨み付けていた。

 

 そこには門外漢のフランキーにはさっぱり分からない、精緻な図面や複雑な計算式がびっしりと書き込まれている。

 

「こりゃ、中々難しいなぁ……よくこんな精巧なギミックを……」

 

 難しい顔で、頬を掻くダニー。

 

<おや、自信が無いのかしら?>

 

 この言葉は、プロフェッサーの計略だった。

 

 彼女自身も科学者であり技術屋であるから、知っているのだ。

 

 技術者が「出来ないのか」と聞かれた時、次に来る言葉は決まっている。

 

「出来らぁ」

 

 そう、それ一つしかない。

 

「嘗めんなっての。俺だって右手を無くすまでは、名の通った蒸気技術者だったんだぜ。あんたからもらったこの手は、油を差すのさえ忘れなきゃ生身の手よりも調子が良いんだ。大船に乗ったつもりでいなよ」

 

<……結構>

 

 心中で『あげてはいないけどね』と呟きつつ、首肯するプロフェッサー。

 

 次に彼女は、逆隣に座る女性を振り返った。

 

<委員長、共和国へは当然、あなたはこの事を報告するのでしょうね?>

 

 共和国側のスパイである委員長は、今は度が入っていない眼鏡を掛け直しただけで何も言わなかった。

 

 この沈黙は即ちイエスである。

 

 プロフェッサーは再び満足そうに頷いてみせる。

 

 委員長からコントロール、即ち共和国へと医療用義眼がプロフェッサーが開発したものだと伝われば、共和国側もますますプロフェッサーの重要性を認めるようになる。そしてプロフェッサーがプリンセスの臣下である事は、アンジェやドロシーから既に伝わっているだろう。

 

 プリンセスを懐柔・籠絡できれば臣下であるプロフェッサーもそのまま付いてくる。

 

 それを知れば、共和国は今回のように簡単にプリンセスを害する事は出来なくなる。手に入らなければ消せという方針は変わらないだろうが、手に入れられる可能性があるのなら軽々にその権利を放棄するのは惜しくなってくる。プロフェッサーはそこまで読んでいた。

 

<さて……>

 

 プロフェッサーは、椅子から立ち上がる。

 

 エリックに約束した二つの内の、もう一つ。彼女はそれをこれから、この場に集まった者達に与えるのだ。

 

 それは労働の、本当の悦び。

 

 給料がいくら上がるとか、休日が何日増えるとか、そんな些末なものでは無い。

 

 自分の仕事が世界を地球儀のように回し、時代を変えていく実感。

 

 どんな天上の美食も美酒も絶世の美女も、麻薬を使っても決して得る事が出来ない、極上の快感。

 

<今日、この日より……私の居る場所こそが世界の中心になる。今日より私の為に世界は回り始め、時代は私と、私の女王が望んだ形へと変わり始める>

 

 大仰に振り返ったプロフェッサーは、エリック、フランキー、ダニー、委員長。

 

 それぞれへと順番に視線を送った上で、謳い上げる。

 

<あなた達には私の傍らの、特等席を用意しよう。世界が変わりゆく様を、間近で目の当たりに出来る>

 

 もう一度、大きく振り返ったプロフェッサーの眼前には自分達よりも目上の席。

 

 即ち現アルビオン王国女王やノルマンディー公が列席する貴賓席があった。今の旧き世界を、旧きままにしておく者達が。

 

 これはプロフェッサーの、宣戦布告であった。

 

<さぁ……世界よ、我が前に跪け!! 時代よ、我が女王の為に動き出すのだ!! はははははははははははははは!!!!>

 


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