Erlösung   作:まるあ

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ep1

 いつかはその日が来るとわかっていた。

 儚い、短い命なのだと分かっていたのだから―。

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが倒れたのは突然だった。弟であり兄である衛宮士郎の屋敷で、いつものように夕飯を食べていたとき、ふと目が眩んだかと思うと、気がついたらたたみの床に伏していたのであった。

 一緒に楽しくご飯を食べていた人たちが目を瞠り、一瞬だけ惚けた後、慌てて自身の身体を心配するように近くに寄って来るのを見ながら、彼女は意識を手放した。

 

 次に目を覚ましたのは、見慣れた自分の部屋だった。まず目に入ったのは、毎朝最初に目に入るベッドの天蓋だった。

「あ。イリヤ、起きたの」

 イリヤの侍女、リーゼリットがイリヤの顔を覗き込む。表情に乏しいが、彼女が少し安心していることを、長い付き合いのイリヤには分かった。

「リズ、心配かけたわね」

 起き上がろうとして、イリヤは力が入らないことに気づいた。

「まだ起きちゃダメ。あと1日寝たらだいじょぶ」

 リーゼリットは首を横に振る。

「イリヤは1週間も寝てたんだから。あと1日寝てもいい」

「…1週間も寝てたんだ」

 その事実は、イリヤの前には重くのしかかる。

 イリヤの寿命が短いことは、誰よりも自分がよく分かっていた。だから、ドイツのお城を出た後には後悔しないように精一杯生きてきたのだけど。

 目を閉じて、自分の身体に異常がないか探る。異常はなさそうだが、明らかに生命力が昔よりなくなってきている。

 これは、あと半年は持つだろうがそれ以降は未知数だ。ひょっとしたら五年くらい生き延びるかもしれないし、もしかしたら半年後の今頃は死の床に就いているかもしれない。

「…あとごめん。イリヤのこと、シロウに言っちゃった」

「お兄ちゃんに!?」

  一番知られたくない相手に、自分のことが知られてしまった。

「なんで?お兄ちゃんがこのあとわたしの顔を見るたびにどんな表情を浮かべるかと思うと…」

「何があったんだ、教えろって、見たこともない剣幕でシロウが言ったから…」

「それでも…!」

 文句を言おうとして、言っても仕方ないことにイリヤは気づいた。もう起きてしまったことだ。何を言おうと、もうかわらない。

「…それで?シロウはどこ?」

 知られてしまったのなら仕方ない。それならせめて、彼とたくさん会って、甘えて、今生に悔いのないようにしたい。

 もしかしたらそれは衛宮士郎という少年にとって、枷になってしまうかもしれないけれど。

「シロウはセイバーと一緒にドイツに行った」

「…は?」

「アハト翁を尋問するとか言ってた」

「第三魔法を顕現できなかった失敗作なんて、お爺様にとってはどうでもいいと思うわ」

「セラがそう言った。そしたらアインツベルンを滅ぼしその智識と智慧を手に入れるだけだって」

 あの士郎が殴り込みをかけるなんて、イリヤには想像ができなかった。それだけに、彼が自分のことを大切に思ってくれているのだということがわかる。

 希望を持ってしまう。魔術師未満の状態から聖杯戦争を生き抜くという奇跡を起こしたのだ。自分にも、あるいは奇跡をもたらしてくれるのではないかと。

 話したら疲れた、とイリヤは目を閉じて眠りにつこうとした時、ドアがノックされた。

「入りなさい」

 イリヤが言い終わらないうちにドアが勢いよく開いた。普段なら決してそのような礼節に欠くようなことはしないイリヤのもう一人の侍女が思いつめた表情でイリヤの顔を見つめていた。

「心配かけたわね、セラ。わたしは大丈夫よ。まだ起き上がれないけど、明日には戻るわ」

「お嬢様…良かった…」

 セラは安堵の溜息をつくと、次の瞬間にはいつもの、感情を排した侍女としての表情に戻っていた。

「お嬢様、衛宮士郎がお見舞いに来ました」

「シロウが…、通しなさい」

 セラが身体を避けて道を開ける。そこにはイリヤの兄の姿があった。

「よう、イリヤ。目が覚めて良かった」

 そう言うと、彼はリーゼリットの隣に腰掛けた。

「シロウ。あなたはリズにどこまで聞いたの?」

 単刀直入に、イリヤは尋ねる。彼女にとって、今いちばん知りたいのは、それだった。

「…イリヤの寿命のことは、多分聞いた。まぁ元からわかっていた話ではあるからな。期限が明確になっただけで」

 士郎の表情は少しばかり暗くなった。

 そう、イリヤはこの表情が見たくなかったのだ。士郎を自分のものにしたい。けれど、それには寿命の問題がつきまとう。自分が死んでしまうのは仕方ないが、後に残された士郎に暗い表情をさせたくない。その板挟みに懊悩していたのに、こうもあっさりと…。

「でも大丈夫だ、イリヤ。お前の爺さんからちゃんと助かる方法を聞いてきた」

「えっ…」

 そんなはずがない。第三魔法の成就という悲願を諦めたアインツベルンはもはや存続価値がない。ましてや、第三魔法を成就できなかった失敗作のために尽力するわけがなかった。

「なんだかんだ言ってあの爺さん、お前のことを大切に思ってるんだよ。ちゃんと2つも方法を用意してくれてる」

 もし、最高傑作以上の最高傑作を作る算段がついたとしたら。アインツベルンは再び第三魔法の成就のために動き始めるだろう。

 イリヤスフィールはアインツベルンの最高傑作だ。アインツベルンのホムンクルスとして、彼女は最も第三魔法に近いところにいた。その最高傑作でさえ第三魔法に届かないのであれば、アインツベルンは第三魔法を手にすることはないと、アインツベルンは悲願を諦めたはずだった。

 しかし、アインツベルンの魔術が頭打ちだったとしても、それに外からの魔術を組み合わせることでさらに高みを目指せると思ったのであれば。

 きっと目の前の少年は甘美な果実のごとく映っただろう。

 なにせ高度な魔術、最も魔法に近いとされる固有結界を彼は持っているのだから。しかも、この魔術は継承可能である。

 つまり―。イリヤはそこで思考を打ち切った。今大切なのはアハト翁の思惑ではない。

「それで、2つの方法って?」

「1つは簡単だ。イリヤの身体の複製を用意して意識をそちらに移す。けど、これは万一の事故の可能性もあるし、別の身体に入るのはイリヤも嫌だろう」

 それは嫌だ。魔術回路を失ってしまうかもしれないし、かといってまた身体を切り開かれるのはごめんだ。

「だからこれは緊急避難だ。最後の希望として残しておく。本命は2つ目だ」

 士郎はここで言葉を切った。思わず、イリヤは生唾を飲んで彼の言葉を待つ。

死者の書(ネクロノミコン)を手に入れる。その知識の中に必ずイリヤを救う方法があるだろうって、イリヤの爺さんは言ってた」

死者の書(ネクロノミコン)?」

 イリヤは思わず耳を疑った。

 ネクロノミコンといえば、おそらく最も有名な魔術書だろう。様々な禁断の知識を網羅し、見たものを破滅と狂気に誘うといういわくつきのものだ。しかし、禁書指定されていたこともあり、今となってはある程度まとまって残っているのは現在確認できるものが世界に五冊、それも完全版はこの世に存在しないともいう。

「ネクロノミコンなんて、手に入るはずがない。あれはすべて厳重に保管されている。いかにアインツベルンと言えども手に入れるどころか閲覧することさえ難しいわ」

「それが、お前の爺さんがいうにはこの冬木のどこかにあるらしい。それも、失われたはずの完全版が、な」

「…それが本当だとしたら、それだけで魔術師の戦争が起きてもおかしくない。聖杯戦争なんて比べ物にならないほどの、陰惨で悲惨な」

「そうだ。だから、冬木のネクロノミコンには管理者が必要だ。お前の爺さんはアインツベルン、遠坂、マキリ、それに衛宮の四家が共同管理することを提案するらしい」

 冬木の魔術師の均衡において、衛宮という存在は無視できなくなってきつつある。それを如実に表す提案だった。そうでなければアインツベルン、遠坂、マキリの御三家と共に語られるはずがない。

 アハト翁がそこまで具体的に提案したということは、冬木のネクロノミコンが実在する可能性がかなり高いということだ。そして、もし仮に完全版のネクロノミコンなどというものが本当に存在すれば、それは魔術師にとって聖杯にも比肩するような、全てを叶える願望機にも見えるだろう。

 禁断の知識。宇宙の真理。失われた魔術。そういったものが書き記されているのだ。その中には当然、ホムンクルスの延命を可能にするような知識が含まれているだろう。

 ネクロノミコンの完全版を手にするということは根源の渦(アカシックレコード)に限りなく近づくということであり、それが一個の魔法のようなものなのだから。

「お爺様は本気ね…」

 アハト翁の思惑としては、最善はネクロノミコンの知識の独占であろう。魔術の知識はそれを知る人が少なければ少ないほど力を持つ。だが、それでは他の魔術師の家門や魔術協会が良い顔をしないだろう。そこで、冬木に所縁のある魔術の家門で共同管理するということにすれば、まだ他の者たちも文句を言いづらい。

 そして、そのネクロノミコンが完全であれば完全であるほど、その知識を手に入れられる者は少なくなる。あれは狂気の本だ。生半可な魔術師ではあの書物を全て読み解く前に狂気の沼に沈んでしまうだろう。

「というわけで、俺は早速セイバーと調査に乗り出すから、良い知らせを待っててくれ」

 士郎はにかっと笑ってイリヤの頭を撫でた。

 魔術師としては封印指定をされてもおかしくない彼だけれど、魔術に対する知識は驚くほど少ない。仕方ないのだろう。彼の魔術の師は彼が魔術師になるのを望まなかった。

「駄目よ」

 イリヤは自分でも驚くほどきっぱりと、彼の意思を否定した。

「なんでさ」

「ネクロノミコンは危険すぎるの。シロウに扱える代物じゃないわ。いいえ、ほとんどの魔術師には不可能でしょう。この冬木であれを扱えるとすれば、聖杯の一部であるわたしか、サクラ、それに神代の魔術師であるキャスターくらいでしょうね」

「危険ってどういうことさ。それに遠坂でもだめなのか?」

「ネクロノミコンには禁断の知識が網羅されているの。それは本来人が知るべきではない知識。簡単に言うと、狂うのよ。狂気に陥るの。リンが完成すればそれに対抗できるくらいの魔術師になれるかもしれないけど、今じゃまだ無理ね」

「…そうなのか」

 士郎はしばらく何かを考えるかのように唸っていたが、やがてイリヤの顔を見て口を開いた。

「あれ、じゃあなんでイリヤや桜は大丈夫なんだ?いくら聖杯とつながっているからって気が狂うとかそういうのとは関係ないような…」

「忘れたの?冬木の聖杯は汚染されているのよ。この世全ての悪(アンリ・マユ)にね。その呪いは一個の狂気だわ。つまり」

 イリヤはそこでわざと言葉を切った。士郎、リーゼリット、セラの順番にその表情を見回す。

「わたしとサクラ、もう既に狂っているようなものだもの」

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