…目が覚めると、目の前には心配そうにイリヤの顔をのぞき込む士郎の姿があった。士郎に膝枕をされているというか、あぐらをかいた士郎の膝の上に頭を乗せているような状態だった。
混乱する頭をなんとか整理しながら身を起こす。グレート・オールド・ワンを目撃したところまでは覚えているのだが、それ以降のことはあまり覚えていない。
「お目覚めですかな?お嬢さん」
聞き慣れぬ声がして、ビクッとイリヤははね起きる。
半魚人のような人間がそこに立っていた。
「あなたは…」
彼に見覚えがあった。正確に言うと、イリヤスフィールには見覚えがない。あのような奇怪な顔かたち、一度見たら忘れないだろう。
だが、確かに既視感を覚える。なぜだろう、と首を傾げたとき、一つの答えが思い浮かんだ。
これはイリヤ自身の記憶ではない。
「第四次聖杯戦争のキャスターね」
「おや、私のことをご存じで。さすがは小聖杯といったところですかな」
にたりと笑うキャスタージル・ド・レェにイリヤはぞくりとした。
ジル・ド・レェは聖杯戦争史上最悪のサーヴァントだ。それは神秘の隠匿という魔術に関わる者の第一義を軽々と無視し、冬木に凶悪な邪神を呼んだからである。
だが、彼は魔術師としての素質は低く、つまるところ聖杯戦争のカラクリを看破できるほどの力はない。魔女とまで謳われるキャスター、王女メディアとは違うのだ。
それが、なぜ、イリヤが小聖杯だということがわかる?
「イリヤ、あいつはな、あの怪物から俺たちを助けてくれたんだ…、まぁどんな奴かということはセイバーから聞いてるけど」
見れば、セイバーは見えない剣を構えたまま、ジル・ド・レェに対して警戒を解いていない。
「神話を破るには神話を用意しなければなりません」
突然、ジル・ド・レェは歌うように語りだす。
「迷宮の神たるアイホートを退けるのも、神話が必要なのです。ジャンヌからは神話にも匹敵するような力を感じましたが、天にまします我らが主では、決して、決して、この洞窟の闇に巣くう神話には勝てないのです。ゆえに、私が少しだけ、クトゥルフの眷属を呼び出し助けた次第」
「だからセイバーはジャンヌ・ダルクじゃないって」
あきれ果てたように士郎は口をはさむが、ジル・ド・レェにはまるで届いていない。
彼と完全に意思疎通をするのはきっと無理なのだ。第四次聖杯戦争の裏側で行われていた連続殺人事件、その犯人はこのサーヴァントとそのマスターの仕業なのである。常人では計り知れない精神を抱いているのだろう。
「おおジャンヌ。あなたは気高く何度も裏切られてもなお神を信じる。しかし!我らが神は決して我らを愛さない。我らを罰しない。不条理こそが神であり、絶望こそが神の愛である。あなたはなぜそれをわかろうともせず、神々しいまでの力を使おうとするのか?」
ジル・ド・レェは段々と早口になってくる。興奮していることが、傍目からもわかる。
「我らが聖処女よ、アイホートという邪神はあなたを汚すに相応しい。傲岸なる神はあなたから純潔をも奪おうとしたのです。それでもなおあなたは神を信じる。なぜ目を醒まさないのです。神は我ら人間を愚弄するのみで、導くことも、罰することもしないというのに」
グレート・オールド・ワンの一柱、アイホート。さきほどまでイリヤたちが対面していた怪物はそう呼ばれている。
あれは、下僕となることを了承した人間に、雛を植えるのだ。生殖行為の一環である。あのような身の毛がよだつような恐ろしい怪物の雛を孕まされると想像するだけで、イリヤは身震いしてしまう。
「外道、私はお前の高説を聞きたいわけではない」
「ええジャンヌ。大丈夫ですとも。いかにこの洞窟が禍々しい神の悪意に満ちていようとも、不肖ジル・ド・レェ、あなたをお守りすることが私の役目です」
「ちっ…」
セイバーがいらいらしていることが手に取るようにわかる。まったく話が通じていないのだ。いらいらもしよう。
「…ところで、キャスター。あなたは何者なのかしら」
イリヤは静かに問いかけた。
ジル・ド・レェというサーヴァントは、何があってもここにいては、第四次聖杯戦争から十年たった冬木にはいてはならない存在なのだ。
たとえ数多の平行世界を見ようとも。彼はこの場にいてはならない。
「と申しますと?」
「キャスタージル・ド・レェはね。第四次聖杯戦争で死ぬべき運命を背負っているの。聖杯を手にすることがなければ、当然のこと。聖杯を手にしこの世に受肉したとしても、あなたの存在を魔術協会と聖堂教会は決して許さないから。だから、アインツベルンの聖杯が再度問います。あなたは何者ですか?」
ジル・ド・レェの肩が震え始める。くつくと笑っているようだった。
「何者!私は神を愛し、奇跡を目の当たりにし!そして奇跡をほかならぬ神の名によって汚された一個の篤信家であり瀆神家であるに過ぎません」
「聞き方を変えるわ。なぜここにいるのかしら」
「ふふふふふ、はははははは」
ジル・ド・レェは狂ったように笑い始めた。傍から見ていて、狂気じみたその笑いは、精神を逆撫でする。見ていて不安になるような笑い声だ。
「さすがは小聖杯!よろしい。答えてあげましょう」
先ほどの、躁鬱のような、感情の起伏の激しい声音ではなく、どちらかというと理知的で、落ち着いた声音であった。
「私自身はジャンヌにお目にかかりその蒙昧を啓くことがその目的ですが、ここにいられる理由はひとえにあなたを導くためです、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
イリヤは目線だけで、続けるように促した。
「根源はあなたが到達することを望んでいる。あなたがネクロノミコンを手にし、根源へ到達することを。英霊の座は根源の中にあります。その意味で、英霊は根源の僕でしかない。ゆえに、あなたがたを導くために、私が顕現したのです」
「そう。それなら話が早いわ。そんなものいらない。わたしは根源に到達するつもりはないし、ネクロノミコンもわたしとお兄ちゃんで手に入れるから」
ジル・ド・レェは一瞬だけ寂しそうな顔をした。
「なぜ他人の助力を拒むのでしょうか」
「決まってる。わたしの幸せは、わたしとシロウで手に入れるべきものだから」
きっぱりとイリヤは告げた。
そう。イリヤの幸せはイリヤ自身と、イリヤにとって大切な人たちで掴むべきものだ。それは士郎であり、バーサーカーであり、セイバーであり、凛であり、桜であった。突然現れたサーヴァントや、根源の渦などといった、得体の知れないものの助けを借りる謂れはない。
「我が助力を拒むとおっしゃるのですね」
「ええ。それでもわたしは必ずネクロノミコンを手に入れるわ」
そもそも、一度助けてもらったからといって、得体の知れないサーヴァントと道中一緒に行けるほどイリヤの肝は太くない。
「賢明な判断です。イリヤスフィール」
セイバーは少し安心したように言った。キャスタージル・ド・レェと最も因縁があるのがセイバーだ。そして、彼女が外道と呼ぶような人物と行動を共にしたがるとは思えない。
「ふむ。それでは宜しい。邪神たちの巣食うこの洞窟を、どのように踏破するか、見物させて貰いましょう」
ジル・ド・レェは霊体化しながらそう告げる。
「結局、あいつは何なんだ…」
士郎は疲れていそうだった。イリヤが気を失っている間にも、きっと彼はあのキャスターの相手をしていたのだろう。精神を消耗してしまうのも仕方ない。
「英霊化したシロウみたいなものでしょ」
「どういう意味だよイリヤ。アーチャーは気に食わないけどあいつほどへんてこじゃないぞ?」
「理想を抱き理想に裏切られひねくれた人という意味では同じよ」
英霊エミヤは人類の救済という途方もない理想を抱き、死後もなおその理想を追い求め、それゆえに絶望したなれのはてだ。ジル・ド・レェという人物も、神という理想を抱き、戦場の少女にそれを見出し、神の名でその少女が殺され、絶望したのだ。その意味で、この2人は似ている。
「しかしシロウとキャスターではひねくれ方が違います。アーチャーは子供の虐殺のような外道をしていません」
「そうね、セイバー。でも、それは外から見た時の話であって、内面は変わらないわ。絶望をどう表現するかの問題でしかないのだから」
悪行の限りを尽くし瀆神という形で絶望を示すか、世界の歯車となって奇跡のような瞬間…自身の殺害の可能性を待ち続けるか。
キャスタージル・ド・レェの思惑というよりも、その後ろにあるものの方が重要だろう。彼は根源が彼を送ったと言った。根源というものに意志があるのかはイリヤにはわからないが、仮に根源が動くとして、イリヤの想定とは逆に動いていることが気にかかる。
歴史には修正力がある。あまりに人類史、あるいは地球の歴史がおかしな方向にいかないように時に歴史は修正されるのだ。それは人類の滅亡を食い止めることであったり、根源への到達を邪魔することである。
ネクロノミコンの入手は、あるいはそのレベルのことかもしれないと危惧していたが、むしろ逆にネクロノミコンを手に入れることを手伝い、あまつさえ、イリヤが根源に到達することを望むと言っている。ジル・ド・レェの狂言の可能性もあるが、それならば彼がなぜこの場にいるのかということが説明つかない。
深く考えるだけ無駄なのかもしれない。ひょっとすると、何者かの気まぐれの可能性もあるし。
「さて、進みましょう。ここにいても仕方ないし、またアイホートが帰ってきてこられても困るしね」