イリヤは言葉を失っていた。陰鬱な洞窟から地上に上がってもいないのに燦々たる太陽、それに煌き輝く海が目の前に広がっている。
これは偽りの天国だ。イリヤはそう直感を抱いた。これが本物のわけがない。なぜならば、あまりにも目の前の光景が美しすぎる。現実のはずがなかった。
「これは一体…」
呻くように士郎がつぶやく。見れば、ふらふらと、海に近づいているようだった。あのおぼつかない足取りを見れば、それはきっと無意識にやっていることだということが分かる。
「シロウ、動いちゃダメ」
イリヤは鋭く士郎を制止した。それで、彼もはっと意識が戻ったらしい。ぴたりと足が止まる。
「この空間が何なのか見定める必要があるわ。バーサーカー!」
イリヤの呼びかけに応じて、バーサーカーは咆哮を上げる。どすんどすんと、地を震わしながら一行の前に出て、大きく石斧を振り上げた。
地響きと共に地面が揺れる。勢いよく、バーサーカーが石斧を地面に叩きつけたのだ。舞い上がる砂ぼこりは一時的にイリヤたちの視界を奪った。
「けほっけほっ」
舞い上がる砂ぼこりが晴れる。そこには、陰鬱な洞窟が広がっていた。燦々とした太陽も、煌く海も、全て偽りのように消え去っていた。
「あれは一体何だったのでしょうか。幻覚なんて生易しいものではない。もっとひどいもののように思えます」
「一種の精神汚染ね。偽りの天国を撒き餌に狩りでもしているものがいるのかしら」
進むべきか、退くべきか、イリヤが判断を躊躇していると。
「…なんか悲鳴が聞こえないか」
士郎の言葉に、イリヤは耳を澄ませた。確かに、この奥から悲鳴のようなものが木霊している。
「助けに行こう」
士郎は今にも走り出していきそうだ。
イリヤは舌打ちをすると、髪の毛を数本抜いて、横に払う。銀色の細い糸が士郎の身体にぐるぐると巻き付いた。
「何するんだ、イリヤ」
「予防よ予防。勝手に行かれたら困るもの。まったく、わたしがはげちゃったらどうしてくれるのよ」
「シロウ、この洞窟に普通の人間がいるとは思えません。この奥にいるものが何者であれ、それは迂闊に近づいてよい存在ではない」
「…セイバーの言う通りだ。イリヤ、勝手に行かないからほどいてくれないか?」
イリヤはため息をつくと、手に持った銀色の細い糸を軽く振った。それで、士郎の拘束も解かれていく。
「さて、それじゃあお決まりの偵察でもしましょうか」
イリヤは銀色の小鳥を二羽作り出して洞窟の奥へと放った。
「ちょっと使い魔と視覚を共有するから静かにしててね」
イリヤは目を閉じて、二羽の小鳥が見ているものを直接見る。
仄かな灯りが延々と続く洞窟を滑空していく。奥にうすぼんやりと、鈍く銀に光るどろどろとした物体がぼんやりと見えた。そこから、小さなモンスターのようなものが生まれたかと思うと、本体から離れる前に銀色の物体から出た触手に絡めとられて捕食されていく。それを延々と続けていく物体だった。
あれは…。
不意に吐き気を覚えて、イリヤは使い魔との視覚共有を遮断する。
「大丈夫か、イリヤ」
突然うずくまったイリヤの背中を士郎がさすった。
「この奥に行ってもいいことはないわ…引き返しましょう」
よろよろとしながら立ち上がると、来た道を引き返そうとした。
「イリヤスフィール、いったい何を見たのですか…?」
セイバーが心配そうに尋ねた。
「…アブホース。外なる神。決して人間が触れてはならない存在よ。捕食されるか精神が汚染されるか、碌でもない未来が待っていることには変わりないのだから」
外なる神との邂逅という事象について、イリヤは想定をしていなかった。今回は幸いにして、邂逅未満で離脱することができたが、あのままふらふらと洞窟の奥へ進んでいたら、どうなっていたか分からない。
グレート・オールド・ワンレベルの怪物であれば、遭遇することも視野に入っていた。それくらいであれば、狂気に取りつかれなければ、どうにか生き残れる自信はイリヤにはあったのだ。しかし、外なる神のレベルになると、人間の手に負えるレベルではない。
とはいえ、ネクロノミコン、その完全版を手に入れようという試みこそが無謀なものだ。それに対する試練には、それ相応のものが必要になるだろう。
「しっかし、どこまで進んだか、どれくらい進んだか、ということが分からないのはきついな。地理的にも、時間的にも」
士郎はため息をついた。ため息をつきたくなる気持ちも十分わかる。
この洞窟に潜ってからというもの、当然洞窟の構造が分からないから地理的に自分たちがどこにいるのか、ということも分からないし、それどころか時間感覚もくるってきている。体内時計が機能していないのだ。だから、お腹が空くといった生理的な欲求も遮断されている。
「いくら気に食わないとはいえ、キャスターに道案内を頼むべきだったかもしれませんね…」
セイバーさえも、弱音を吐き始めている。人は終わりの見えない営為こそ最も精神的にきつく感じてしまうのだ。
「大丈夫、大丈夫よ。確かにわたしたちはネクロノミコンに近づいてる…と思う」
イリヤはしかし、妙な確信を抱いていた。自分たちが通っている道に誤りはない。否、どの道を通っても行き着く先は同じだという。どの分岐をどのように進んでも、展開は同じなのではないかという疑念があった。
この洞窟は自然にできてものでは到底ないであろう。自然にできたものが都合よくハイパーボリアの遺跡につながっているはずがない。何者かが悪意を持って作り上げたダンジョンなのだ。
そうすると、行き着く先であるところのネクロノミコンには、どのようなルートを辿ってもたどり着くことができるし、ひょっとするとどこをどう行っても同じ光景を目撃するかもしれない。
…そのまましばらく歩き続けると、大きな断崖が行く手を阻んだ。恐る恐る下をのぞき込んでみたが、到底底が見えるようなものではない。
「どうやって下りればいいんだ…」
士郎は辟易としたように呟いた。
「あら、簡単よ」
イリヤは髪の毛を二本抜いた。
「これをこう組み合わせてっと…」
しゅるしゅると銀色の二本の糸が組み合わさっていき、大きな一羽の鳥になった。銀色の鳥は、優に三人は乗ることができるだろう。
「バーサーカー」
バーサーカーは低く唸ると、霊体化していく。さすがに、あの巨体をこの鳥に乗せるというのは酷な話である。
「さ、乗ってお兄ちゃん、それにセイバー。この子が連れてってくれるよ」
大きな銀色の鳥に乗って、底へ底へと沈んでいく。歌うような鳥の鳴き声は、洞窟内に反響し響き渡る。天への祈りに似たその鳴き声は、この地に住まう良からぬものを遠ざけてくれるようにも思える。
「イリヤはすごいな」
士郎がイリヤの頭を撫でる。
「そんなことないよ」
イリヤはえへへ、と笑いながらも士郎の言葉を否定した。
聖杯の器として生まれたイリヤにとって、この程度のことはすごいことでもなんでもない。もし、彼女が自分のことをすごいと思えるとすれば、それは第三魔法の再現に成功したときであろう。
これが大空を旅しているのであればよいのに、とイリヤは思う。セイバーは邪魔だが、士郎と二人きりで銀色の鳥に乗って大空を旅することができればどんなに良いであろう。
…五分もしない内に、大鳥は谷底へとたどり着いた。三人が鳥から降りると、しゅるしゅると元の銀色の糸へと戻っていく。
「あれは…」
セイバーが指さした先には、鉄の扉があった。殺風景な鉄の扉。だが、今まで見てきたものと比べると、明らかに異様である。
「あの扉を、開けましょう」
イリヤの言葉に、セイバーは頷いた。
「バーサーカー」
イリヤが声をかけると、バーサーカーが顕界する。それを見届けて、セイバーはそっとその扉に手をかけた。
ぎぎぎぎ、という音がして、ゆっくりと扉が開かれていった。