秋めく空の下、ひたすらに階段を昇る。柳洞寺に至る石の階段はただただ長く、身体が丈夫ではないイリヤにとっては拷問だった。
イリヤは運動ができない。身体が激しい運動を果たせるほど強くないのだ。彼女が生まれ落ち、強大な魔力を背負った代償の1つだった。
「大丈夫か、イリヤ。おぶってやろうか?」
よっぽどひどい表情をしてたのか、士郎が尋ねた。
「…ううん、大丈夫よ」
士郎におぶってもらうというのはとても魅力的な提案だったが、セイバーもいるし、何より柳洞寺には彼がいる。士郎の姉として、弟におぶってもらっているという格好の悪いところは見せられない。
「ほう、セイバーとそのマスターよ、何用かな」
山門から見下ろしているのは、長髪の青年だった。よく見ると、生身の日本刀を手に持っているところから、只者ではないことがわかる。
彼もきっとサーヴァントだろう。噂に聞くアサシンのクラスのサーヴァントだろうと思った。
「いや、ちょっと野暮用でな」
「ふむ。セイバーのマスターだけであれば分かるがセイバー自身と見慣れぬお嬢さん、それに霊体化したサーヴァントまでいるとなると流石に私としても警戒せざるを得ないな」
アサシンはそう言いながら、しかし特別に何か戦闘の準備をする様子もない。
「申し遅れました。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。そこにいるエミヤシロウの姉にあたります。以後お見知り置きを」
イリヤは優雅に一礼する。
「姉君…?」
アサシンは不思議そうに士郎の顔を見たが、ふっと鼻で笑うと、やれやれと首を振った。
「おいアサシン、お前今何を思った」
士郎は明らかに不機嫌そうだ。
「ふむ。セイバーのマスターがそれを望むのであればまた一興か。通るが良い」
そう言うとアサシンは幻のように消え去った。大方、霊体化してしまったのだろう。
「あいつ絶対勘違いしてる」
「わたし嘘は言ってないわよ。むしろ妹って紹介した方が年齢的に嘘だし」
「日本には嘘も方便っていうことわざがあってだな…」
「ウソモホーベン?知ってる?セイバー」
「いえ、知りません。ウソモホーベン、ドイツ語ですか?」
イリヤは思わず噴き出してしまった。確かに、ウソモホーベンという響きのドイツ語があってもおかしくない。
ちらりと士郎の顔を盗み見ると、彼は既にあきらめ顔であった。
山門をくぐると、境内の中を箒で掃いてる人物が目に止まった。彼は士郎と同年齢くらいで、眼鏡をかけているせいか、真面目一徹という印象を受ける。
「お、一成、朝から精が出るな」
「む。その声は衛宮か」
一成と呼ばれた少年は顔を上げた。
「セイバーさんと…そちらの女性は何者だ」
「ああ、こいつは…」
「衛宮士郎の姉のイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと申します。以後お見知り置きを」
一成はきょとんとした後、イリヤと士郎の顔を見比べた。
彼は何度か一人で頷いた後、大きく息を吸って
「喝!」
境内に響き渡るような大声をあげた。
「おお、衛宮よ、なんと嘆かわしい。まさかいたいけない少女に弟扱いされることを愉しむような軟弱な男だったとは」
「いや、待て、誤解だ!おいイリヤ、なんとかしてくれ」
士郎のもはや哀願にも達した言葉に、さすがにイリヤはかわいそうに思えてきた。
そも、士郎をいじめたくて自ら姉と名乗っているわけではない。例えば、商店街で同じ問いをされたら妹と答える確率のほうが高いだろう。そのほうが都合がいいし、士郎もそれを望んでいる節がある。
だが、この場だけは。イリヤは士郎の姉でなければならない。
んー、とうなると、イリヤはごそごそとポケットを探った。念のため、いつも財布を入れていたのは正しかった。まさかこんな理由で使うことがあるとは思わなかったけど。
「これを見て」
イリヤが財布から取り出したのは、小さな四角いプラスチック製のカードだった。確かこの国では運転免許証と呼ばれているはずだ。
「…む?」
一成は眼鏡をかけなおしながら、運転免許証をまじまじと見つめる。
「わたしの父は日本人なの。名前はエミヤキリツグ。シロウのお父さんよ。母はドイツ貴族の末裔で、名跡はそちらを継いでいる」
「なるほど」
「先天的に発育不全だから誤解されちゃうけど、もう18歳なの。だからシロウのお姉さんなのよ」
イリヤが18歳以上であることを、目の前の少年は否定することはできないだろう。なにせ、日本の国家権力がそれを認めてしまっているのだ。それに、いくら彼が猜疑心が強くイリヤが嘘をついていたらそれを見破ろうとしても、決して見破ることはできないだろう。何せ、イリヤはうそをついていない。イリヤの父親は確かに切嗣だし、切嗣は士郎の父親だし、確かに18歳であることには間違いないし、ゆえに士郎の姉であることに間違いはない。
当然、手にした運転免許証だって本物だ。ただ、入手経緯を聞かれれば、うそをつかざるを得ないが。
「…これは失礼した、衛宮の姉君。私の無礼を許してくれ」
「いいえ、疑念は尤もだわ」
イリヤは淑女たる笑みを浮かべた。横で士郎の顔が引きつっているのは、おおかた外面で彼の友人をだましていることが気に食わないからに違いない。あとで士郎のことを蹴飛ばそうと心に誓った。
「ふむ、ということは父君のお参りか?」
「うん、そういうことになる」
「それでは墓地はあっちだ。衛宮が道を分かるはずだから連れて行ってもらうといい」
「ええ、そうするわ。親切にどうも」
「なに、ご先祖様を祭るのは良いことだ。お参りが済んだら寺によってくれ。わびと言ってはなんではあるが、お茶くらいはもてなそう」
「ありがとう」
優雅に一礼すると、イリヤは歩き始めた。
「おいイリヤ」
小声で士郎が話しかけてきた。
「なに?」
「墓参りなんて聞いてないぞ」
「言ってないもの」
「もとから行く気だったのか?」
「ええ」
はぁ、とため息をついて士郎はセイバーを見る。彼女には特に意見はなさそうだ。ただ、イリヤと士郎を見つめている。
士郎とセイバーと切嗣の墓参りをしたいとは前々から思っていた。果たして自分がどれくらい成長したか、ということを、それで測ってみたかったのだ。
今となっては、切嗣が迎えに来なかったのではなく、迎えにこれなかったことを知っている。けれど、それでも、彼のせいでアインツベルンの妄執から自分が解放されることもなく、つらい思いに耐えなければならなかったという憎しみもある。そもそも、彼が聖杯を手にしていれば、イリヤは父親とともにただの子供として生きていく道もあったかもしれない。
彼を許せるのか許せないのか。それが自分の成長を測る一つの物差しになると信じていた。
一人で行かずに士郎とセイバーとともに行こうと思ったのでは、自分一人では怒りが抑えられなかったとしても、この二人ならそれをなだめてくれるという確信があったからだ。それに、士郎はもとより、セイバーにも、切嗣との浅からぬ縁がある。彼らとであれば、切嗣に会いに行ってもいいかな、と思ってしまったのだ。
士郎に先導され、三人は雑木林の小道を進んだ。
しかし、道半ばで、ふと、セイバーが足を止める。
「どうした、セイバー」
士郎が振り返って自身のサーヴァントに尋ねた。
「…私はここに残ります」
有無を言わさぬほどきっぱりとした口調で、セイバーはそう告げる。
「なんでだよ。セイバーは親父のサーヴァントでもあったんだろ?墓参りくらいいいじゃないか」
「だからこそです。キリツグは士郎とイリヤスフィールと三人になりたいでしょう…。私は、そうですね、士郎たちがお寺に行っている間にお参りをしましょう」
第四次聖杯戦争のことは、イリヤも一通りは知っている。アインツベルンが用意したマスターがそのサーヴァントと不和であったことも。
切嗣という人間のことを、イリヤはあまり覚えていない。わずかに思い出せるのは幼いころに一緒に遊んでもらった時のこと。今の次に人生で楽しかった時期のことだ。あの時には母がいて、父がいた。今はどちらもいないが、弟がいて、サーヴァントがいて、メイドがいる。
「セイバー」
イリヤが口を開く。
「なんでしょうか、イリヤスフィール」
「エミヤキリツグという人間が実際はどんな人間だったのか、ということは、きっと私より共に戦ったあなたのほうがよく知っているのでしょうね。でも―」
イリヤは瞳を閉じて、何かを抱くように手を胸にあてた。
「彼は私の前では優しい
「…知っています」
「そう。それならいいの」
イリヤは士郎の手を取ると、引っ張った。
「それじゃシロウ、早く行こ。キリツグに子供二人が立派になったことを教えてあげなくちゃ」
「…ああ。じゃあセイバー、悪いがちょっと待っててくれ」
「はい。我が侭を聞いてくれてありがとうございます」
墓地の中にひっそりと、「衛宮家の墓」と書かれた墓石があった。
ここに切嗣が眠っている。自分が十年間に怨み続けてきた男。アインツベルンの裏切者。
イリヤの実の父で士郎の義理の父。
「悪いな爺さん。急な話だったから花も線香も用意してない」
士郎が墓石に話しかける。当然のことながら、お墓は何も答えない。
士郎が墓石から目を離し、イリヤに向き直る。彼は穏やかな瞳をしていたが、一転して、すぐに表情を曇らせる。
「イリヤ、手…」
言われて初めて気づいた。イリヤは両の手をぎゅっと強く握っていた。あまりにも強すぎて、皮膚を破り、毛細血管を傷つけてしまったらしい。じわりと血がにじんでいた。
ぱっと手を広げる。そして、何でもないというように手を振った。
「大丈夫、わたしは大丈夫よ、シロウ。さ、お参りをしましょう」
「そうだな」
士郎は静かに手を合わせた。それをまねして、イリヤも両の手を合わせて目を閉じる。
結局、許せるのか許せないのか。
もしかしたら、人には人を赦すということはできないのかもしれない。彼自身の心中はどうであれ、切嗣はイリヤの母を裏切りイリヤ自身も裏切った。アインツベルンを裏切るということはそういうことだ。
人類の救済。切嗣という人間が望んだことは、人の身には余ることだった。ゆえに、聖杯に願ったのだろう。だが、その聖杯は汚染されていた。
何もアインツベルンを裏切らなくてもよかったのだ。他愛のないことを願えばよかったのだ。魔法のようなことを願うから、人々が苦しむ。等価交換だ。それならば、汚染された願望機が、代償としてちっぽけなものしか奪えないようなものを願えばよかったのだ。
しかし、切嗣は願望機の破壊を望んだ。きっとそれは正しい選択だったのだろう。
なぜ。彼はなぜ自分を選んでくれなかったのだろう。すべてを救うために、一番大切なものを犠牲にする。そのような修羅の道に、なぜ彼は足を踏み入れてしまったのだろう。
彼の願いは息子が継ぎ、彼の義務は娘が継いだ。人類を救済する正義の味方への祈りは士郎が受け継ぎ、アインツベルンのマスターとして第三魔法を完成させるという営みはイリヤが受け継いだ。
その差は何だったのだろう。
なぜ自分が父の願いを継げなかったのだろう。
その理不尽さは、彼の真の思いが奈辺にあるかを問わず、彼を赦すことなかれとイリヤに告げる。
結局、切嗣という人間は、自分の娘よりも大切なものがあったのだ。
人知れず世界を救った切嗣は、結局誰にも称えられることはなく。
捨てられたイリヤは憎しみと誇りだけを胸に過酷な日々を送り。
最期まで会うことはできなかった。
やっぱり、赦すことはできない。赦せるはずがない。
捨てたくて捨てたわけではないのだろう。それは、イリヤにも理解ができる。
それでも―捨てたという事実は厳然と、重くのしかかる。
「キリツグ、わたしはあなたを赦さない」
イリヤは心の中で小さくつぶやく。
結局、その想いがイリヤを形作っているのだ。死ぬその瞬間まで、イリヤは彼を赦すことはないだろう。
ゆっくりと、イリヤは目を開ける。横を見ると、士郎はまだ手を合わせていた。
きっと報告することが山ほどあるのだろう。けれど、それにしては必要以上にまじめで必死な顔をしていた。
人生に一度しかない、しかし人生で最も高い山を乗り越えようとしているみたいに。
「シロウ?」
イリヤに呼びかけられて、士郎ははっと目を開ける。
「どうした、イリヤ?」
「…そうだ、シロウのお墓はここなの?」
なんとなく、彼が何を思って切嗣の墓に手を合わせたのか、直接的に尋ねるのは避けてしまった。あまりにもその表情が必死だったから、尋ねてみていいものか迷ってしまったのだ。
「…それは遠回しに俺を殺すと言っているのか」
びくっと士郎の肩が震える。実際にかれを殺そうとしたことがあるイリヤとしては、困ってしまう問いかけだ。
確かに、士郎が凛に奪われるくらいなら殺しちゃうのも一つの手ではあるのだが。
「シロウがさ、大人になって結婚して、子供ができて、老いていって、そして死んだときの話」
「そういうことならここだろうな。爺さんを一人にしっぱなしというのも悪いし」
「…そっか」
「イリヤもここにするか?百年後くらいにさ、親父とまた一緒に眠るのも悪くはないだろ」
「…遠慮しとくよ、悪いもん」
ここはあくまでも衛宮家の墓だ。アインツベルンの墓ではない。
士郎は自分のものだ。イリヤにはその確信がある。でもそれはイリヤの兄としてという意味であり、弟としてという意味であった。彼が生涯の伴侶を選ぶとき、きっとイリヤは候補にも挙がっていないだろう。イリヤの外見はあまりにも幼すぎる。
それなのに、衛宮家の人間でさえないイリヤがこの墓に入ることは、士郎の未来の花嫁に悪かろう。
この胸に抱く想いはただの兄弟への愛情だけではないのだから。
「なぁイリヤ」
そう呼びかける士郎の表情は寂しげだった。
「なに、シロウ?」
「…ずっと一緒にいてくれるか?」
士郎の真意がわからない。ずっと一緒のずっとというのはどれくらいの時間の長さを指しているのか。
士郎がアハト翁の助けを借りたとき、必ずなにがしかの代償を差し出しているはずだ。それが何かわかるまで、彼の言動を縛ってしまうような約束をしてはいけない。
ずっと一緒にいるなどという約束をしてはいけないのだ。
姉である自分が士郎を縛り付けてはならない。イリヤはそう思っていた。
「…もう、雨に濡れた子犬みたいな表情をしちゃって。シロウは可愛いなぁ」
にこにこしながらイリヤが言うと、士郎は憮然とした表情を浮かべた。
「…ったく、人の気持ちも知らないで」
士郎の独り言は、しかししっかりとイリヤの耳に届いた。