ネクロノミコンは円蔵山の鍾乳洞、龍洞の中にあるというキャスターの予言は、凛や桜を納得させるに十分なものであった。
「決まりね。それならちゃきちゃき調査に乗り出しましょう」
凛の言葉に、桜も頷く。この姉妹はどちらかというと好戦的な部類に入るとイリヤは思っている。凛はもとより、桜も戦い自体は好きではないだろうが、いざという時の行動力はあるいは突出しているかもしれない。
しかし、イリヤは今は慎重派だった。ネクロノミコンの完全版。実在するかも定かでないような魔術書が、こんなに簡単に見つかって良いのだろうか。何がしかの罠や、あるいは途方も無いトリックがあるのでは無いだろうか。
そもそも、今まで話にさえ上がらなかったネクロノミコンが急に焦点になるのは妙だ。あのネクロノミコンである。いくら極東とはいえ、冬木のように霊脈がある土地に、そのような大魔導書が存在すれば、魔術協会の目に留まること間違いなしなのに。
「用心するべきよ、リン。甘く見ると痛い目に会うわ」
イリヤは静かに言った。
ネクロノミコンが今まで話題にもあがらなかった事実は重く見るべきだろう。第二魔法と第三魔法の所縁の土地、冬木は極東にあるとはいえ決して魔術協会から見て未開の土地というわけでもなく、敵対勢力が跋扈し調査研究ができないというわけでもない。そして、冬木の土地にネクロノミコンの、それも完全版があると分かれば、魔術協会は必ずなにがしかのアクションを取る。
それがなされていないということは、隠蔽されていたのか、そもそも簡単には手に届かないところにあるのか。どちらにせよ、用心するべき理由になる。
「用心?こっちにはサーヴァント四体と魔術師四人もいるのよ?何を用心するのよ」
「いかにサーヴァントといえども、人の子よ。例えばグレート・オールド・ワンがいたらどうするの」
「はん、そんなものが冬木にいてたまるものですか」
凛は鼻で笑った。冬木の管理人として、そのような宇宙的存在はいないという確信を持っているのかもしれない。
「甘いわよ、リン。この地はゼルレッチ、第二魔法の所縁の地。何かの拍子に変な世界につながった結果、ネクロノミコンがあるのかもしれないし」
「む、確かに…」
むぅ、と凛は黙り込む。
「なぁ、イリヤ、一つ聞いてもいいか?」
士郎がおずおずと話しかけてきた。
「なぁに、シロウ。つまらない質問だったら怒るからね」
「グレート・オールド・ワンってなんだ?」
イリヤはきょとんとした後、思わず笑いだしてしまった。まさか、グレート・オールド・ワンを知らない魔術師がいるなんて。
しかし、見れば桜も知らない様子であるし、セイバーもあまり分かっていない様子だ。説明する必要があるだろう。
「いい?グレート・オールド・ワンというのは神に近しい存在、しかし決して神ではない存在よ。例えばギリシア神話ってあるじゃない。わたしのバーサーカー、ヘラクレスはギリシア神話の英雄で、そこにいるライダーは、言い方は悪いけど怪物ね。でも、これはしょせん地球規模の話でしかない。グレート・オールド・ワンというのは宇宙的な神話の存在。わたしたち魔術師は、その神話のことを、地球に棲むグレート・オールド・ワンの名前を取ってクトゥルフ神話と読んでいるわ」
士郎と桜、そしてセイバーは熱心に話を聞いている。しかし、それとは対照的に、凛やライダーは話を聞くことにあまり乗り気ではないようだ。それも当然だろう。これからイリヤが話すのは、狂気の世界の一端なのだから。
「クトゥルフ神話における神の存在を、私たちは外なる神と呼んでいるわ。彼らは宇宙の体現者であり、大いなる存在よ。そして、彼らほどの力はないけれど、惑星レベルで見ればやはり神にも等しい大いなる力を持っているのがグレート・オールド・ワンと呼ばれる存在。決して人が関わってはいけないものだわ。外なる神も、グレート・オールド・ワンも、狂気と破壊しかもたらさない存在であるのが一般的だから。だから、わたしたちは畏敬を込めて、彼らのことを邪神と呼んだりもするわ」
「つまり、おっかないから近づかないほうがいいというわけだな?」
士郎の質問に、イリヤはうなずく。
「いくらサーヴァント、英霊が強かろうと、あくまでそれは地球規模の話。宇宙規模はスケールが違うもの。退散させることはできるかもしれないけど、そもそも出遭うべきではないのよ。そして、わたしたちが探しているネクロノミコンという本には、そういった知識がたくさん書かれているとされているわ。本来知るべきではない知識ね。普通に生きていれば、たとえ魔術師でも、地球レベルの話をしていれば済むもの」
根源の渦という概念は宇宙規模のものかもしれないが、これに到達しようという試みはあくまでも地球規模の話にしかならない。魔法という概念も、その時代の文明では到達できない結果を残すというものでしかなく、地球規模の話に限定されている。
かくいうイリヤも、クトゥルフ神話について、詳しいわけではない。詳しく知れば知るほど狂気もまた深くなる。いわば、深淵を覗き込んで、深淵に覗き込まれ返されているようなものだ。
「…つまり、本来は触れるべきではないものに、俺たちは触れようとしているんだな?」
「そうよ。怖気づいたかしら」
「冗談。イリヤを助けるためだったら、どんなことだってする。これくらいのことじゃ怖気づいたりしない」
士郎は頼もしいことを言ってくれる。
自分はなんと妹想いの兄を持ったのだろう。けれど、それは破滅へと続く道なのかもしれない。
ネクロノミコン。狂気に彩られた魔導書。あらゆる魔術師が羨望し、忌避する至高の品。
未熟ゆえに士郎は、躊躇なく、そして必要な準備も知らず、それに触れようとしているのだ。
思案顔だった凛が口を開いた。
「グレート・オールド・ワンがいたところで逃げるだけの時間は稼げるでしょ。問題は…」
「発狂者が出る可能性があることね」
イリヤは彼女の言葉を受け継いだ。
宇宙的存在を見た人間は、それを理解しようとし、しかし理解できず、脳の容量がパンクし発狂することがあるという。イリヤ含め、ここにいる人間全員がアンリ・マユという一個の狂気に多かれ少なかれ関係したことがあるか、現在進行形でしているし、英霊はすでに生者ではないのだから、発狂という概念からは遠いところにあるだろう。しかし、クトゥルフ神話にはそのような常識は通用しない。
発狂を完璧に抑える方法は存在しない。宇宙的存在の前ではどのような対策も無意味かもしれない。だが、準備できることは準備しておく必要がある。
「サクラ」
イリヤの呼びかけに、桜の肩はぴくりと震える。
「何でしょう?」
「貴女、今でも聖杯とのパスはつながっているのよね?」
「…はい」
桜の力は、もしかしたらいちばん厄介かもしれない。というか、桜そのものがもはや邪神だったとしても驚かない。
「サクラが発狂したら全滅ね。魔術師もサーヴァントもみんな仲良く虚数空間に取り込まれておしまいだもの」
桜個人の魔力や術式だけであれば、イリヤがいればどうにか抑えが利くと思うが、聖杯とつながっているのであれば話は別だ。その膨大な魔力を背景にした力は、汚染の影響が濃い分、イリヤよりも莫大な力を発揮する。しかも、桜が持つ”虚数”属性と間桐の吸収の魔術との相性が良いのだ、あの汚染は。
「…そのあたりは大丈夫だと思います。間桐も傍から見たら狂った家系ですし」
間桐の家の魔術は同じ魔術師から見ても、あまり快いものとは言えない。
「…そうね。サクラが発狂するような存在を目撃したら多分シロウもリンも発狂するか」
そうしたらどうせ全滅だ。そのリスクはもはや受容するしかない。
さて、誰がネクロノミコンの探索に行くべきか、とイリヤが考え始めたところで、凛が口を開く。
「桜とイリヤが行くことは決定ね。イリヤが行かないとお話にならないし、最悪、桜の力が必要になるかもしれないし」
マキリの杯。間桐桜という人物はアンリ・マユと同一化できてしまう。イリヤは聖杯の器として完成されているから汚染の影響はないが、桜は不完全な聖杯だから、汚染の影響が濃いのだ。しかし、それゆえの膨大な力を行使すれば、難敵を退けることができるかもしれない。
「あと、私は絶対行くわよ」
凛の強い言葉は、反駁を許さないものだった。
冬木の管理人として、このような重大案件にはかかわらざるを得ない、という判断なのかもしれないし、単純に魔術師としての矜持なのかもしれない。いかに優秀な魔術師とはいえ、ただの人間である凛が行くことには気乗りしないが、しかし、彼女ほど自我が強ければ無残に狂うこともないという確信が持てる。
あとは…。
「士郎。あんたは残りなさい」
ぴしゃりとした凛の物言いに、士郎はむすっとした表情を浮かべた。
「なんでさ。俺だっていないよりはましだろう」
「あのね、話聞いてた?あんたはいちばん魔術師としての経験は浅い。つまり、狂う可能性が一番高いの」
「いや、俺だって…」
「その心配には及ばん、凛」
今まで霊体化していたのか、忽然と現れたアーチャーが話に割り込んだ。
「どういうことよ」
「そこの未熟者は、しかし私という英霊がいるように、英霊になる可能性も秘めた器だ。正直、グレート・オールド・ワンごときでは狂うこともあるまい」
じとっとした目で凛はアーチャーを見つめた。
「何を企んでいるのかしら」
「なに、客観的評価を下したまでだ」
そういうと、アーチャーはまた霊体化する。
「とにかく、俺は誰が何と言おうと行くからな」
「はいはい、わかったわかった」
凛はあきらめ顔だ。
「ところで、セイバーやライダーには何か意見ない?」
凛が、先ほどから黙りこくっているサーヴァントに声をかける。
「いえ、私にはありません。シロウの剣となり、盾となるだけです」
「サクラが行くのであれば、私もお供します」
殊勝なサーヴァントたちである。バーサーカーもきっと同じ思いでいてくれているだろうから、殊勝ではないのはきっと凛のアーチャーだけであろう。そのアーチャーだって、口では皮肉めいたことを言いつつも、きちんと付き合ってくれるのだから、いいサーヴァントに恵まれているといえる。
ちなみに、バーサーカーはイリヤが死ねと命令すれば死んでくれるという確信がイリヤにはあった。もちろん、そんなひどいことはしないけれど、それだけバーサーカーのことを信頼している証である。
「出立はいつにしますか?」
「んー、いつにしよっか」
桜の質問に、イリヤは唸る。
龍洞にネクロノミコンがあるという話は、あくまでもキャスターの直感と、それがいちばん確率が高い、というだけのものだ。したがって、そこにない可能性も当然あり得るわけで、そうするとなると、あまり時間をかけるのもよろしくない。
「明日にしましょ。明日は日曜日だし。宝石を準備する時間も欲しいし。士郎たちもそれでいいでしょ?」
イリヤを含め、並み居る面々は軽くうなずいた。