……さあて、何から語ろうか。
"その日"は古泉一樹の閉鎖空間ツアーから一週間ほどが経過していた。
いつもと変わらないはずの、そんな平日だった。
季節は夏の訪れを感じさせるように、朝でもそこそこの暑さである。
北高の立地の悪さが影響しているのは言うまでもないさ。
毎朝、こんな登山を強いられているんだ。
昼休みの一件以来俺は主に男子から負の感情をぶつけられるようになった。
だが当の朝倉さんはどこ吹く風なので特別なリアクションはなかった。
――しかしながら、何点か、変わった事がある。
たまたま通学中にキョンと遭遇した俺は一緒に登校する事にした。
すると後ろから俺とキョンの肩を叩いて「よっ」と声が上がった。谷口だ。
あれから二日で谷口は復活し、そのうちに俺をからかうようになった。
「なぁ、谷口……俺って普通の男子高校生だよな」
「はあ?」
キョンの発言で今にもなんなんだこいつと言わんばかりの表情の谷口は、こちらを見てきた。
俺は無言で首を横に振ってそれに応じた。
こいつの意味不明な発言に関しては知らないよ。
「普通の意味を定義してくれよ」
「そうかい」
「おいおい冗談だって。お前が普通かって話? ……まぁ、お前の横に居る、彼女持ち野郎に比べりゃマシだがな。それでも普通の人間は涼宮とまともな会話なんかできねぇぜ」
やはり涼宮が核弾頭のような輩という認識はどこもかしこも同じなのか。
しかし谷口よ。
俺はこの前のあれを除いてSOS団員ではあるものの、表立った奇行なぞ一切していない。
キョンの引き合いに俺を出すのはやめてくれ。
「しっかし明智よ。お前どうやっていつのまにあんな関係になったんだ。え? よりによって美的ランクAA+の朝倉涼子と」
「それを知ってお前さんに何の意義があるのかな」
言外に馬鹿にしているが、谷口はそんな事に気づかずそれに答える。
「馬鹿野郎、参考にするに決まってら。あと二ヵ月ちょっとで夏休みだぜ」
どうにも彼は気が早い男で、夏のナンパしか頭にないらしい。
だから普段の勉強が疎かになるんだよ。
原作での谷口は頭が良くなかったはずだ。
キョンも何も言えないといった様子でこちらを見る。
仕方がないので適当にいなす。
「ほぉ~。それは大変だー。谷口、オレから言えることはただ一つ。普段の行いに気を付けろ……だよ」
「時代はクールなインテリなのかぁ?」
ふぅ、と勝手に疲れた谷口に対してキョンが追い打ちを仕掛ける。
「なあ谷口、お前って超能力を使えるか?」
谷口の間抜け顔が見るだけで悲壮感を感ぜられるほどに進化した。
そのまま彼が禿げてもおかしくない勢いだ。
「……そうか、お前らはとうとう涼宮の毒におかされたんだな。手遅れだ。短い間だったが楽しかったよ。こっちに寄らないでくれ、涼宮が移る」
何故か俺も感染者扱いされたので、キョンと同時に谷口を小突く。
谷口は吹き出し、俺たちもそれにつられた。久々に馬鹿な事をして笑った気がする。
こいつが超能力者になれるほど世も末なら、俺は世界の支配者にでもなれるさ。
――さて、"その日"について語る前に、皆さんは何か忘れていないだろうか。
俺の黒歴史である日に、朝倉さんは「相談がある」と言っていた。
しかし結局特に話をされずに終わった一件についてだ。
その日は朝倉さんに振り回された上に古泉に閉鎖空間へ連行された。
正直なところ、俺もそんな事は次の日の朝にとっくに忘れていた。
そんな朝を迎えた日の放課後、またしてもの事件が起こった。
俺は放課後の文芸部室でメモ帳を眺めながら、作品の設定を考えていた。
キョンは古泉とオセロ。
長門さんは読書。
朝比奈さんはメイド姿。
涼宮さんは昨日の閉鎖空間によるストレス解消が効果を発揮したのか、普通だった。
もしかしなくても数日後に、あわや世界崩壊の大騒動があるのだ。
事前に阻止できるのならばした方がいいに決まっている。
しかしながらそのイベントはある種のフラグらしいので俺の一存でどうこう出来るとは考えにくい。
そもそも俺が奮闘したところで、対涼宮さんにおいてはキョンが最強なのだから。
とにかく今は、束の間の平穏を大事にしなければ……。
部室は朝倉さんからの精神攻撃に対する避難所で、俺の能力なんかよりも頼もしく思えた。
だが俺のその勘違いは数十分としない内に払拭されることとなる。
――コン、コン、コン
それはとても丁寧なノックだった。
叩かれたのは言うまでもなくSOS団アジト、文芸部室のドアだ。
俺はかつて社会人として働いてた頃に入室時のノックは二回より三回の方がよい。
という、特に意味のない哲学を持っていた事を思い出した。
「どうぞー」
ネットサーフィン中の涼宮さんが顔も上げずに、外の来客に対して言った。
誰もドアを開けて迎え入れるという心意気の奴はここに居ないのだろうか。
朝比奈さんが慌ててそれに対応しようとした。
俺はおいしいお茶を淹れるべく準備している彼女を制する。俺が行きますよ。
ドアを開けて「どなたですか」と来客の顔を窺う。
「今日は、明智君」
――つい反射的に俺はドアを閉じてしまった。
何やら俺は幻聴と幻覚の疑いがあるらしい。変な薬を服用した覚えはないが。
そうでなければドアの向こうに朝倉さんの姿があった説明がつかない。
ホラー小説だ。
精神恐慌が何だ、俺はまだハゲたくない。
これが谷口が言う涼宮毒なのか。
俺は何も見ていなかったのだ。
後ろを振り向いて部室に居るみんなに報告した。
「誰かいると思ったけど気のせいだったみたいだ」
そんな俺の声を聞いてか再びドアがガチャリと開き、後ろから俺に語りかける。
俺は後ろへ振り返るつもりはないぞ。
「何かの冗談かしら。来客に対して話も聞かずに閉め出すだなんて非常識だわ」
常識を覆すような能力を行使できる朝倉さんに言われていい台詞とは思えない。
というか入るならさっさと入ってくれないかな。
半ドアの状態で顔だけを覗かしている朝倉さんはさながら『シャイニング』のジャック・ニコルソンを彷彿とさせた。
それほどまでに俺はこの状況に戦慄していた。
「それでどういう用件なの、朝倉さん」
昨日と同じようにメモ帳ごと机に突っ伏している俺。
その左に座る朝倉さんに、涼宮さんはそう訊ねた。
この場に居座る朝倉涼子はどうやら俺の幻覚幻聴ではなかったらしい。
「単刀直入に言うと。私もこの部活に入れてほしいの」
潔く俺の完全敗北を認めるので、どうかこれ以上の精神攻撃は許してほしい。
もう朝倉さんの破天荒さに呆れる気力もない。
――そして意外な事に彼女のこの要望は真剣に受け止められているらしい。
少なくとも涼宮さんは真面目に検討しているようでありった。
長門さんも読書を止めて朝倉さんと涼宮さんの二人をじっと見ていた。
後の面子はと言うと、キョンは俺に何となく「最悪の場合を想定しておけ」と言わんばかりの表情で沈黙していて。
朝比奈さんはまさかの来訪者に、気が動転したものの何とかお茶を出すことに成功した。
そしてあえて説明する価値はないが、古泉はいつも通りの思わせぶりなニヤニヤ顔。
「SOS団は厳しいわよ。恋愛を禁止するつもりはないけど、団員たるもの節操のある生活を心がけて頂戴。不純異性交遊なんてもってのほかよ!」
はたしてこの集まりはいつ厳しかったのだろうか。
まぁ、キョンにとっては楽でない事は確かだ。
個人的な意見としてだが団員の正体云々が無ければ、SOS団は帰宅部の次にぬるそうな部活である。
ともあれ、団長からのゴーサインが出てしまった以上は俺も諦める。
絶望だ。
「ふふ。わかったわ、涼宮さん。でも、いつかみたいなコスプレは私には無理かな。明智君以外に見せたくないもの」
「そう言ってくれるとオレは嬉しいよ」
はたしてこの時の俺は嬉しそうな表情だったのだろうか。
そんは事は誰にも聞いてないので、永遠の謎となっている。
――てな訳で。変わった事その一は、朝倉さんのSOS団侵略であった。
そりゃあ確かに彼女を守るには部活の時間も一緒にいた方がいいに決まってるさ。
これとほぼ同時に俺は下校時に家まで送るという使命が科せられた。
しかし俺が朝倉さんにSOS団への加入を提案しなかったのは。何というか、
この期に及んでではあるが。未だに朝倉さんと付き合っているという自覚が薄いからだ。
これは後で長門さんに訊いたことだが、
「何故涼宮さんが朝倉さんのSOS団入りを許したと思う?」
との俺の質問に対し。
長門さんは無表情ながら、どこか呆れた声でご教授してくれた。
「簡単なこと。朝倉涼子も涼宮ハルヒが言う"宇宙人"に該当する。朝倉涼子を涼宮ハルヒが受け入れるのは、ごく自然なこと」
異世界人も含め、四人しっかり集まったんだから満足すればいいものを……。
だが、確かに原作で涼宮さんは朝倉さんをどこか肯定している発言があったのは事実だ。
遅かれ早かれ、だ。
朝倉さんがいればこうなっていたのだろう。
まったく――。
「どうもこうもない。でしょ、ふふふ」
俺の台詞を盗らないでくれ、朝倉さん。
次に変わった事と言えば、校内における俺の知名度である。
クラスの中での扱いが変化するなら、俺も身から出た錆だと許容できた。
前述の通りそこまで俺が悪者扱いされてはいない。
だが、校内で俺の知名度が……もっと言えば悪名みたいなものが広まってしまった。
それもその筈で、涼宮さんのように表立った行動はしてないものの俺はSOS団の一員だ。
よって必然的に朝倉さんとの交際について尾ひれ羽ひれが付いて回り。
台ドンもあって、なんかこう俺は不良みたいな扱いをされていた。
まことに遺憾である。
進学校気取りなだけあって今どき北高に不良などと呼べる存在は居ない。
つまり俺がこういった不本意な形で目立つのは確かに筋が通る話であった。
一説によると俺は、暴力で朝倉さんを言いなりにさせてる、だとか。
SOS団の真の支配者は涼宮ハルヒではなく俺だ、とか言われたい放題であった。
しかしながら俺に対して直接、なんで朝倉さんと付き合っているのか。
という質問をされた時は両親に説明した時とほぼ同じ内容を説明。
女子生徒も朝倉さんと会話していく中で、俺が朝倉さんに対して何か悪いことをしたのではという誤解は解けたらしい。
つまり結果的に俺の名前だけが独り歩きしてしまい、現在ではある種の風評被害を感じている。
けれど、まぁ、俺が彼女助けたくて助けたわけで結局は自己満足のため。
だから胃の痛みもそのツケだと思って割り切るさ。
宇宙人は気まぐれだから、一か月もすりゃ俺に飽きるだろう。
何か俺からするわけじゃあないし。
……淋しくはあるが、それでいいのさ。
最後に変わった事と言えば、これは蛇足である。
朝倉さんが定期的に俺の昼飯――つまりお弁当――を作る事を宣言した。
具体的には火曜日と木曜日の週二日である。
朝倉さん本人は。
「本当は毎日作ってもいいんだけど、そうすると女子のみんなに悪いもの」
男子のみんなはどうでもいいらしい。
そして朝倉さんの中ではお弁当を作るイコール俺と昼食を共にするという認識なのか。
いずれにせよ、女子生徒との昼食は朝倉さんにとって人間を知るいい機会なのだ。
彼女もその認識はあるようで、俺は何となく安心した。
朝倉さんがSOS団に入った時点で、登校時も俺が彼女のマンションまで迎えに行くようになったのだ。
流石に限られた朝の時間を有効活用してお弁当を作っているところに俺が押しかけるのは憚られる。
よって朝倉さんが弁当を作る日は、一緒の登校がない。
それに、弁当の中身は知らない方が楽しみというものである。
つまり、"その日"は朝倉さんと俺が一緒に登校してない様子からわかるだろう。
彼女がお弁当を用意している火曜日であった。
そう、月並みな台詞だが。
「――死ぬにはいい日だ」
「突然どうしたの?」
「いや、何でもないよ。ただの独り言さ」
放課後の部室。
俺の目の前にあるのは、なんてことない日常だった。
キョンと古泉はオセロをして楽しんでいる。
明らかなワンサイドゲームで、古泉は絶賛連敗中なのだ。
だけど彼のその笑顔からは、初めて普通の楽しさが感じられた。
涼宮さんは何とあのチラシ配りの時に着た、バニーガールのコスプレをしている。
彼女の辞書に"黒歴史"の文字はないのだろうか。
朝比奈さんの髪をこれでもかと弄り、メイド姿の朝比奈さんで遊んでいる。
ついさっきまではキョンのせいで涼宮さんの機嫌が悪くなったような気もした。
今は鳴りを潜め、その影もない。
長門さんは平常運転の読書。
「……『死ぬにはいい日』って言葉。ネイティブアメリカンの挨拶よね」
朝倉さんが俺にぽつりとそう漏らした。
いつも思うが本当にしっかり彼女の知識は構築されているのだろうか。
少なくとも一般的な女子高校生の水準に設定しているとは思えない。
――死ぬにはいい日。英訳すれば"It's a good day to die."。
朝倉さんが言ったように、ネイティブアメリカンの古い挨拶と伝わっている。
日本の北海道におけるアイヌ民族もそうだが、歴史的に先住民と称される民族は、資本主義とは異なる独自の価値観を持ち合わせている。
それは生きる事も同じだ。彼ら狩猟を生活の糧とする人々は、"潔く死ぬ"という考え方を持ち合わせており。
どう生きたか、よりも、どう死ぬのかという考え方が尊重されているそうだ。
少し解釈は異なるものの。日本の"武士道とは死ぬことと見つけたり"なんてのも、本質的には同じなのだろうさ。
そしてこれは、他でもない朝倉さんにも共通する信念なのだ。
"やらないで後悔するくらいなら、やってから後悔すればよい"。
それは、人間の感情を正しく理解できない彼女が考え付いたやり方。
彼女なりの価値観に基づく自分自身が人間に近づくための抵抗だったのかもしれない。
だからこそ、長門有希の影としての朝倉涼子が成立するのだ。
もっとも、この世界においてその芽を"抓んだ"のは俺のエゴに他ならない。
これこそが俺の本当の責任とやらであり、放棄するわけにはいかない。
こんな考え方の時点で俺は"詰んで"いるのだ。
ま、宇宙人の朝倉さんが"死ぬにはいい日だ"なんて言い出したら、俺にはスタートレックしか浮かばない。
どうも趣味がオッサンじみている。
「そうだね。死して尚、不浄の者たれ。そんな意味じゃないかな」
「宗教ってよくわからないわ」
「オレも同じさ。人は、生き続ける事がすべてなんだ」
「いつか。私もそう言える日が来るのかしら?」
朝倉さんは不安そうな顔で俺にそう訊ねる。
これもプログラムされた表情なのだろう。
だが。
「その考えを忘れないことが大切だよ」
今はこれで充分だ。だから俺は彼女の力になろうと思える。
そんな何気ない日の、深夜十二時を回ろうかという時に、俺の携帯電話は鳴った。