その瞬間、世界は一つになった。
あるいは元々分裂などしていなかったのかもしれない。
古泉一樹が原作において度々口にしている理論。
自分はゲームのセーブデータのような意識でしかない。
過去の記憶は架空の情報を与えられているだけで、世界は今から五分前に創られたばかりかもしれない。
彼の主張の是非を論じたところで人類にそれを観測する術は皆無。
確かな事実として、SOS団員におけるαとβの意識が一つになったということだ。
だが、最重要人物の涼宮ハルヒはこの期に及んで部外者であった。
"異世界人"が定義によって、それと言えるかわからない曖昧なものだとすれば"神"とて同様だ。
言うまでもなく唯一神と持ち上げた所で世界中の宗教が同じ神を唯一神としているわけではない。
宗教の差とは神の差であり、教えの差。
古泉一樹と橘京子が相容れない事実さえ、涼宮ハルヒが仕組んでいた事に他ならない。
否、彼女だけの責任ではない。
この場合において重要なのは罪悪感だけではない。
間違いなく涼宮ハルヒは"撃鉄"だった。
結果として宇宙人未来人異世界人超能力者ら"弾丸"が放たれた。
ならば"引き金"は。
それを引いたのはただ一人の主人公。
あるいはジョン・スミスだった。
「う、ぐ、ううぅっ……」
彼の記憶は一つになった。
α世界における平和的な一週間。
β世界における問題と言える問題が同時多発した、彼の人生の中で一二を争う最悪な一週間。
これで彼が消失世界を体験していればこの一件は最悪とも何とも思えなかっただろう。
主人公の彼は結論も出していなければ決断も下していない。
だが、時は止まらない。
いつも今日ではないのだ。
「ぐぅ………な……ん…なんだ…これ……」
頭を抱えて、ただうずくまる。
その様子を見ていた二人組さえ、状況を把握出来てはいなかった。
異常事態だという事だけを辛うじて理解出来たのだ。
「……ヤ、スミ………?」
どうにか精神を落ち着け、顔を上げた彼が見た方向には渡橋泰水の姿は見られない。
その方向だけではなく文芸部室から彼女の姿は消失していた。
もしかすると彼女は初めからそこに居なかったのかもしれない。
――神が曖昧な存在だとしても、救世主はどうだろうか。
特に宗教に興味が無い日本人が連想する救世主と言えば彼に他ならない。
彼が水をワインに変えたのは、血の精神に他ならない。
生前と死後。
現代社会に生きる人々が彼の奇跡の全てを知り尽くす事は無理だ。
神は死んだ。
だが、彼は生き返った。
ならば涼宮ハルヒはどうなのだろうか。
彼女は神なのか? 超人なのか? 全てはただの"偶然"なのか?
未来人はまさに、してやられたといった様子で。
「……くっ。あり得ない……規定事項にも禁則事項にもない事態だ………誰の仕業だ……!」
"結果"が全てではない。
"過程"こそが全てであり、結果は一過性のものでしかない。
未来人の制約と誓約は過程を無視している。
時間が断続しているのならば規定も禁則も不要。
彼ら未来人に強硬策が出来ない決定的な理由。
――そう、ユニーク。
長門有希はそれを理解していた。
涼宮ハルヒは絶対的な一意性を持つオンリーワンな存在。
彼女を切り捨てる事が出来るのは"異世界人"だけだ。
平行世界にならば、可能性が存在する。
だからこそ異世界人は原作に現れなかった。
『不要なものを捨てる』
これこそが原作での涼宮ハルヒの真底に存在する"闇"。
彼女は光であると同時に影さえも世界に与えていた。
「あの異世界人の仕業なのか……? それとも……さっきまで居たあの女………。…あれは一体何だ……?」
彼も、橘京子も、何も言葉を発せられなかった。
未来人だけが悪態をついている。
「予定は未定だとでも言うのか。涼宮ハルヒ、異世界屋、異世界人」
神が創めに天と地を造った。
神は言った。
『光あれ』と。
神は人形を造った。
涼宮ハルヒの能力がどこまで出来るのか。
少なくとも彼女自身でさえそれを理解出来てはいない。
「ちっ、どうなっている……?」
未来人が虚空へ問いかけた。
瞬間。
世界は急変した。
雷鳴、衝動、融合。
佐々木が生み出した閉鎖空間はその原型からかけ離れつつあった。
全てを受け入れる優しい世界は、涼宮ハルヒの世界さえ受け入れようとしていた。
白と黒は例外なく他の色を排除する。
部室棟の外は正真正銘の異世界か、そうでなければ地獄のような光景。
超自然的の枠さえも超越していた。
天がかき乱され、地面にある存在全ての色がぶつかり合っていく。
佐々木によるセピア。
涼宮ハルヒによるモノクロ。
限りなく近いが決してして同一ではなかった。
「……"驚天動地"だ」
彼がそう言ったのは何の因果だろうか。
谷口と、涼宮ハルヒと彼が出逢っていなければこんな事を口にする機会なんてない。
何故なら彼はどこにでもいる普通の人間。
一介の男子高校生。
「俺は、世界は、何がどうなったんだ?」
普通の少年が居るべき世界ではなかった。
しかし彼は選ばれた。
何より彼は選んでしまった。
そして、まるで最初からその場に居たかのように彼女は現れた。
「――この瞬間を……始まりを待っていた」
奇しくも周防九曜は弾かれた。
朝倉涼子とも長門有希とも近い存在。
司令塔に近いという一点においては喜緑江美里にも似ていた。
周防九曜はイントルーダー。
突然の登場など、出過ぎた真似でしかない。
「――"ゼロ"。……全て決まっていない、完全な終着点。ここに二元論は存在しない」
所詮彼女も中立でしかなかった。
仮に周防九曜が自らによる意思で決定した正義を掲げていたのならば、全ては終わっていた。
その結論を彼女が出すのかどうか。
彼女も、その先の領域へ達せるのかどうか。
人間の可能性だけが彼女を到達させることが出来る。
明智黎は主人公ではない。
主人公と同じ、人間だ。
「わたしはここに来た――」
「……まさか、な。僕がどうにかする前に既に完了していたとは」
「―――」
「お前が裏切ったわけでもないらしい。なら誰の仕業だ」
それはこれからわかる。
涼宮ハルヒの分裂であり、涼宮ハルヒの驚愕。
彼女こそアルファであり、オメガ。
見事なまでに徹底された自作自演。
やがて、部室のドアが再び開かれた。
人間の精神は素晴らしい。
浅野さんは受け入れる事より、棄てる事を選択したようだ。
それでいい……。
彼はずっとそうしてきた。
だけどこの世界で彼は拾う事を学んだ。
取捨選択さ。
一つずつ、成長していく事を学んだ。
「ボクが戦うなんて事はこの調子じゃあないだろうね」
朝倉涼子だってそっちを期待しているんだろ。
僕は彼に力を貸す。
彼の勝利が僕の勝利なのさ。
「明智黎がヘタレ天パ野郎に負けたのも仕方ないよ」
「私だったらきっと勝てたんでしょうね」
「間違いなくね。だからこそあの二人は君と明智黎をぶつけさせた」
唯一の誤算は僕の存在。
彼らとて分裂、驚愕の流れは知っている。
だからこそ浅野さんの精神を崩壊させにかかった。
分裂世界が統合されようと、相変わらず明智黎と朝倉涼子が潰しあうように。
惜しかったね。
「所詮人間の計算何てタカが知れてるね」
「……さあね」
「君は人間さ。僕もそう思う。何故なら君は、今までずっと明智黎を殺そうとしていない」
「私が決めた事だから。私を助けてくれたあなたたちを裏切るなんて、無理よ」
決着はつけてあげるよ。
親不孝も何も、僕は生まれなかったのだから。
それくらいわけないだろ。
「約束しよう。この一件が解決して、ワンクッション置いたその時――」
「私が死ぬ」
「いいや、違うね。死ぬのは"情報統合思念体"の方だ」
「……本気かしら?」
本気も何もないさ。
未来の朝倉涼子がそれを証明している。
さながら擬似シード権。
勝っている事がわかりきっている試合ほど楽なものはないよね。
とにかく、僕が戦う時はその時だ。
「今日じゃあないよ」
そんな話をしながら部室棟の階段を上っていく。
嬉しい事に、本当にいつの間にか彼女は僕の手を握ってくれていた。
ほんの少しだけ認めてくれたような気がする。
焦らなくていい。もう直ぐ戻って来るよ。
すると。
「……先客が居たようだね」
古泉一樹と大人の朝比奈みくる。
階段を上り終えたその先の廊下に、二人は佇んでいた。
驚き半分、期待通りが半分といった様子で古泉は。
「いい天気……だとは言えそうにありませんよ、こんな日は」
「朝倉さんはわたしと会うのは初めてですね。明智くんはお久しぶりです」
立ち尽くす古泉一樹と、一礼する朝比奈みくる。
やっぱり役者は揃いつつある。
因果を断ち切るのは人間の役目だ。
僕がするのは彼女と同じさ。"補助輪"なんだから。
朝倉涼子は物珍しさを感じたように。
「へえ。古泉君は来ると思っていたけど、あなたまで来ていたのね」
「私事だけど用事があるんです。わたしが行かなきゃならない用事が」
原作通りなら彼女も難儀している。
だけどさ、僕の主人格は二人して厄介だよ。
明智くんは完全な善意から。
浅野さんは彼女を選ばなかった罪悪感から。
人の死を、嫌っている。
みんなの幸せを願っている。
彼が正義で、誰が生きればそれでいい。
未来人だって救うつもりなのさ。
「それにしても、いっちゃんとみくるんが揃うなんてね。祭りだ祭りだ」
ワライダケを食べた患者を見るような目で二人に見られた。
ともすれば僕は朝倉涼子に左足の爪先を踏まれながら子声で。
「……ちょっとあなた、誤魔化すつもりはないの? 普段の明智君が言いそうな事を言いなさいよ」
痛いって。
それに説明して困る事はないでしょ。
原作とかその辺を言う訳じゃないんだから。
もっとも、朝比奈みくるは知っているかもしれないね。
未来がどうなっているかはわからないけど。
涼宮ハルヒが居る限り、勝利は約束されている。
彼女はハッピーエンド以外を認めてくれないんだ。
朝比奈みくるは納得した様子で。
「明智くんの"もう一人"の方ですか……。確かにここは不安定な世界。出て来きても不思議じゃありません」
「やっぱりボクを知っているみたいだ」
「はい。アナザーワンさん」
言いづらくないかな、それ。
名前とはただの識別番号だってのはもう一方の未来人の言い草だけどね。
顎にに右手を当てて何か考えた様子をしながら古泉一樹は僕に言う。
「あなたは何者ですか……? どうやら普段の明智さんとは違うようだ」
朝比奈みくるに訊ねた方が早そうなのに。
僕から聞くことに価値があるんだろう。
人間らしさ、いや、仲間だから……かな。
僕はわざとらしく右手で頭を掻く。
「あー、まあ、御覧の通りだよ。ボクはボクなんだ。明智黎ではあるけどちょっと違う」
「……差支えなければ、ご説明願えませんか。僕には見当もつきませんよ」
観察するという事は、見るのではなく観るという事。
聞くのではなく聴くという事。
古泉一樹の観察眼は既に人間の域を超えている。
僕について単なる世界統合の弊害だとは考えちゃいない。
隣の朝比奈みくるから恐れられるのも当然。
「明智黎の主人格は現在ダウンしている。だからボクがこの身体を動かしてるのさ」
「つまり彼は意識が無い、と?」
「正解。ボクの正体は単なる自己防衛プログラム。それも、緊急用」
「なるほど。明智さんは自分の意識を保てないまでに何らかの緊急事態に直面しているわけですね。朝倉さんに危機が迫っていればそれも頷けますが、当の本人がこの場におられる。何より彼はその程度で根を上げる弱いお方ではない」
「随分と明智黎を買ってくれるんだね、いっちゃん」
隣の朝倉涼子は「いっちゃんだとかみくるんだとか、さっきから気味悪いわよ……」と愚痴っている。
でも僕は愛称で呼び合うくらいの関係がいいと思うんだよね。
ただ君に対してそれは難しいね。アサクラ―って本人の呼び名っぽくないし。
「何を言ってるの? まだ交代できないのかしら」
「これでも回復率は速い方なんだけどね」
精神だろうがダメージはダメージさ。
β世界の明智黎の出来事はα世界の明智黎にも引き継がれた。
同じ結果にならないのはやっぱり僕のおかげなんだって。
「お喋りは後でも出来るんじゃあないかな。その時にボクが居るかと言われれば多分居ないけど」
「……ええ、頃合いでしょうか」
古泉一樹がそう言ったその瞬間、一瞬だけ外が明るくなった。
ほぼ同時に強烈な音がする。
「うひゃー、二人とも派手にやりますねえ」
「私はあなたのキャラがよくわからないわ」
それでいい。
本来の僕はプログラム。
さっきから適当な言葉を並べているだけに過ぎない。
明智黎本人であれば違うさ。
会話でさえ僕にとっては記号であり、数字でしかなかった。
僕が求めるのは愉快さ。
朝倉涼子の探究と上手く噛み合うとは限らない。
だから僕は、君に理解される必要はないのさ。
「始まりました」
一言だけ、確かな声で朝比奈みくるはそう言った。
表情と眼差しには強い意志が感じられる。
「じゃあ、行きますか」
「何であなたが仕切るのよ」
「その台詞ってハルにゃんを意識してるの?」
痛い痛いよ。
二回連続で爪先を踏まれた。
普段の明智黎相手にはそこまでしていないよね。
まったく――。
「――どうしようかね」
僕たち四人で文芸部室のドアを開ける。
それだけは確かであった。
奇しくもこの四人は、揃っていた。
宇宙人朝倉涼子。
未来人朝比奈みくる。
異世界人こと僕氏。
超能力者古泉一樹。
足りないキャストは追々やって来る。
だからまずは、僕たちが行かなくっちゃあな。
「僕としましては平和的に解決したいですね。朝比奈さんはどうでしょうか」
「……わたしにもわかりません。この時間線上はもはや"線"と呼べませんから」
「その辺りについても詳しい話をお伺いしたいものですね」
流石は『機関』のリーダーと言うべきかな。
情報収集に余念がない。
彼自身の好奇心もあるだろうけど。
そして、文芸部室の前に到着した。
「待ってなよ……」
僕と彼がお前を倒すのは今日じゃあないんだ。
今日は過去にけじめを付けてもらう。
浅野さんにも、彼女にも。
――そうか。
やっぱり俺の"違和感"は正しかったって事だ。
何故、佐乃と佐藤が協力していたのかがようやくわかった。
俺が死ぬ運命だとか、そんな事よりももっと話は単純だった。
幽霊でも亡霊でもどっちでもいいさ。
彼女は間違いなく死んでいる。
「……何だ。僕が変人と言われようが僕は気にしないが」
「もう。あなたが気にしなくてもわたしが気にするのよ」
「それは君が勝手に僕の周りをうろちょろするからじゃあないのか?」
"切り札"でもなんでもなかったさ。
それに、分裂したのは俺だけではなかったらしい。
人間の精神を善悪だけで分けようってのが無茶だ。
だけどそれをやろうとしてしまった。
俺は逃げようとしてしまったんだ。
「わたしがあなたに相応しい、カッコイイ通り名を付けてあげる」
「……はあ?」
無駄に頭が回ったと思うよ。
俺の名前を無理矢理弄った結果がそれなんだからさ。
「今日から浅野君は"変人"卒業。いつも偉そうだから、"皇帝"。……どう?」
そのせいでもっと酷い呼ばれ方もするんだから。
この時から俺は使っていたのさ、彼女の口癖に影響されて。
「どうもこうもないな」
結局受け入れた俺は優しいんだか、甘いんだか。
覚悟はとっくの昔に出来ている。
……後は待つだけ。