言うまでもなく。
何もこれは野球に限った話ではないのだが、スポーツの第一歩は走り込みからだ。
特に早朝かつ空腹時のランニングは、もっとも脂肪を効率よく燃焼させ、スタミナを増強させる。
俺は5時起きなので、毎朝ではないもののそれをやっている。
そして、第一歩であると同時に、走り込みは競技を引退するその日までやらなくてはならない。
つまり、何が言いたいかと言うと。
それこそアトランダムに選んだ9人が試合に出た方が勝ちを期待できるほどに、我々SOS団はスタートラインにすら立っていなかった。
挙句の果てに出場選手が顔を合わせるのが本番当日という、文字通りの出たとこ勝負。
よって、俺には練習をする意味が1ミクロンもわからなかった。
そして更なる事実。
「なあ。そういやキョン。オレたちって今日、体育なかったよな……?」
「ああ……」
「おや。奇遇ですね。僕もです」
「……」
言うまでもなく、俺のクラスは女子も体育はない。
長門さんのクラスは不明だが、今の所、彼女もいつも通り、制服である。
まあ、仮に運動用の服があったとして、長門はそれに着替えないのだろうが。
そして理数系特進クラスである9組に在籍している古泉一樹は、元々体育の時間が普通科と比べやや削られているはずだ。
ヒットしないのも無理はない。
制服姿での練習。
もう、俺は今すぐにでも帰りたくなった。
スポーツの神が今ここに居たら涼宮さんを含め全員土下座だ。
何なら、"入口"を地面に設置してもいい。"出口"が俺の家に繋がってる、あの部屋のだ。
そうすれば5秒と経たずに家に戻れるだろう。
しかし俺一人がそんな勝手な行動をしようものなら二日後と言わず、今からでも世界が滅びかねない。
はぁ、もうね、どうしろと。
諦めて俺は運動場に立つ他の団員たちを眺めながら、軽い体操から始めることにした。
ちなみに朝比奈さんに関しては、体操服やジャージがあろうがなかろうが、団長命令によってコスプレのままなのだろう。
本人も着替えるという意識さえない。
これがマインドコントロールと言わずしてなんなのか。
しかしよく考えたところ、何やら絶望的な気はしつつあるものの。
このSOS団が戦う限り『負ける事』は絶対にないのだ。
運動神経抜群の団長、涼宮ハルヒ。公式チート、長門有希と朝倉涼子。
この三人だけでどうにかなるだろ。うん。俺も含めて他はみんなおまけだ。
バットと硬式球を持ってマウンドに仁王立ちした涼宮さんによって、練習の開始が言い渡された。
「最初は千本ノックね」
いや、走れよ。何の最初なんだ。
ROOKIESなんか不良の喫煙生徒がランニングしているんだぞ。
俺たちの方が体力は有り余っているはずである。
横一列に並んだ俺たちに対し涼宮ハルヒはそう無茶を言い放つと、硬球という名の無慈悲の暴風雨が俺たちに降り注いだ。
ジーザス。
やはりスポーツを舐めている。俺がどうこう言える立場ではないが。
しかしながら涼宮さんの身体能力は驚きの連続で、定期的にトレーニングをしてる俺でもここまでやれる気がしない。
これはやる気の問題なのだろうか。
「ひー!」
朝比奈さんは殺人ノックに対応できずしゃがんでしまう。
すぐさまキョンがフォローに入っているので、俺は二人を気にせず補球に勤しむことにした。
「……」
長門さんは棒立ちで何もしていないが、何故か球が当たらない。
そしてたまに直撃コースが来た時だけ片手を動かしグローブでそれを撃墜していた。
野球はそういうスポーツじゃないんだが、彼女がやっているのはさながらインベーダーゲームだ。
そしてやはりと言うべきか古泉一樹はそこそこのパフォーマンスを見せており、素人目から見てもスポーツのセンスが窺えた。
明後日もそれくらい動いてくれると、何事も無しに勝てそうなんだが。
「いやあ。懐かしいな、この感触。久しく忘れてました」
「なかなかやるじゃないか」
「いえ、明智さんほどではありませんよ」
「それはどうも。当日も期待していいのかな」
「期待は嬉しいのですが。残念ながら、僕は本番に弱いタイプでして」
こいつの言動がいちいち三味線を弾いているようにしか聴こえないのは、俺の不徳さに問題があるのか。
とにかく食えない男である。
喰いたくもないが。
「なるほど。こうすればいいのね」
俺と古泉という真剣(ガチ)二人の動きを見よう見まねで再現し、朝倉さんもノックをさばいている。
俺たちからコピーした動きをパターンに合わせて正確に切り替えているのだ。
しかし、制服と言う都合上、なんというか、その、スカートの部分が気になるが。
どうやら謎の技術を駆使しているようで、中身が見えそうで見えない!
その俺の、珍しく下種な視線に気づいた朝倉さんは。
「あら。明智君なら、頼めばいつでも見せてあげるわよ」
何をとは聞かずに、俺は首を振って前に視線を戻す。集中集中。
俺は何も考えちゃいないんだ。
「わきゃあっ!」
やがて、キョンは朝比奈さんのフォローに徹する事ができなかったらしく、バウンドした硬球が朝比奈さんのヒザにヒットしてしまった。
軟式球だろうと当たればどうなるかわからない彼女である。
ただちに泣き出すのは明白であった。
キョンはこちらに目をやり「後を頼む」とだけ言って、朝比奈さんを連れ消えてしまう。
おそらく保健室にでも向かうのだろう。
涼宮さんが何やら激昂するが、それも無駄だと悟ったらしく。そのうちにノックを再開する。
流石に捕球、しかもノックだけやっていても付け焼刃にすらならない。
せめて実践に則したフライの練習はすべきである。ただ高めなだけでは駄目なのだ。
次第に俺と古泉の勢いは無くなり。朝倉さんもどことなく雑にやっている。
こちらのやる気の低下を悟った涼宮さんは、やがて野球部員相手にノックを始めるようになった、
「……おや。そういえばあなたはサウスポーでしたね」
黙々と素振りを始めた俺に対し、古泉はわざとらしくそう声かける
「それに片手スイングですか。いやはや、脱帽しました」
何も俺は実戦で片手打ちを狙っているわけではない。やるかもしれんが。
素振り練習は。スタミナ、筋力、バッティングフォーム、この三つの向上が主な目的だ。
草野球レベルではピッチャーの球威など程度が知れているが、プロのプレイヤーはいくら動体視力があろうと、目でボールを直に見て打っているわけではない。
コースを読み、自分が持つバッティングフォームから最適なものを選択し、再生するのだ。
その中で片手スイングの素振りは。
見落とされがちな、バッティング時の下半身の動きを研究することができるのである。
実際、プロ野球の中継でもたまに軽く片手で振っているだろう?
そんな事をやっているとやがてキョンが帰ってきた。
どうやら朝比奈さんは先に帰宅させたらしい。
残念ながら当然の処置である。
「やあどうも」
「何やってんだ、アイツは」
キョンは野球部員を虐待している涼宮さんを指差す。
「オレたちじゃあ涼宮さんの相手をするのは役者不足でね」
「ええ。先ほどからあの調子なのですよ」
ちなみに朝倉さんと長門さんは俺たちから少し離れたところでのんびりしている。
時折、何かを話しているようだがこちらには声が届かない。
すると、涼宮さんはバットを置き、汗を拭いて。
やがてノックが終了となった。
「驚きですね。本当に千本ちょうどです」
「そんなもんを数えられる、お前の方が驚きだ」
「……」
長門さんが無言で立ち上がり踵を返す。キョンは慌ててそれについていった。
自由解散らしい。
古泉の方を見ると「お先にどうぞ」と言ったので、俺は軽く手を振って、朝倉さんと一緒にグラウンドを後にした。
涼宮さんはまだまだ続けるようで、次はピッチングの確認を開始していた。
「それで、どこまで本気でやるつもりなの?」
下校中の俺にそう訊ねるのは朝倉さんである。
彼女のマンションへの帰路を辿りつつ、どうしようもない会話が始まろうとしていた。
「どういう意味かな」
「言葉通りの意味よ。張り切って練習していたじゃない」
どうやらそう判断されていたらしい。あの程度の練習で十全も何もあったものではないが。
その旨を彼女に伝えると非常に驚かれた。
「あら。明智君は意外とスポーツマンなのね」
そんなつもりはない。
というかむしろ普段の俺がどう見られているというんだ。
「……やれる限りはやりたいさ。最悪、また涼宮さんがこの世界を消しにかかる」
「それにしてはやり切れないみたいだけど?」
つくづく恐ろしい宇宙人である。
俺はどうせ出来レースなので語る事にした。
「涼宮さんは彼の活躍が見たいのさ。オレがいくら活躍しようが、機嫌を損ねはしないだろうけど、満足するかは甚だ、疑問だよ」
「ふーん」
「古泉だってそうさ。それがわかってるから、きっと明後日も本気を出さない」
「それで。やれる限りって訳ね」
そう言うと彼女は俺の数歩前に出て、立ち止り、こちらを向いて訊ねる。
「明智君は、それでいいのかしら?」
「いいも何も、なるようになれば一番だけど」
「その結果。涼宮さんが世界を滅ぼすとしても?」
そう言われてしまうと、いつもながら、どうもこうもない。
原作みたいにホーミングモードとやらに頼るのもアリなのだが……。
俺は揺らいでいた。
「やってから後悔しろ。って話かな。それが主人公なら許されたんだろうけど、生憎とオレは彼と涼宮さんの引き立て役でね。エラーをしないことが仕事さ」
こんな女々しい俺の言い訳を聞いた朝倉さんは、まるで気持ちを切り替えたかのように、俺にこう切り出した。
「じゃあ、明智君」
「何だい」
いつぞやのように、夕日を背にした朝倉さんは、まるで呪文を紡ぐように。
笑顔で俺にこう言い放った。
「――他でもない、私のために、本気を出してちょうだい」
頼むからやめてくれ。
そんな事言われたら。
「……いいよ」
「ふふっ」
「今回だけだぜ」
「私は明智君の"奥の手"が見たいのよ」
「奥の手は先に見せるな、見せるなら更に別の奥の手を持て。ってのがポリシーでね。それに、オレの引き出しはそこまで多くないんだ」
「面白くないわね」
「その辺は既に、織り込み済みだと思ってたけど」
「見せてあげないわよ?」
その脅しは心臓に悪いからやめてくれ。
とまあ。
試合においてベストを尽くすという意味ではあるものの、俺は初めて本気を出すことにした。
この心境の変化が、何に由来しているのかは、俺にはわからないが。
俺が再び彼女を心理戦で圧倒できる日は果たして来るのだろうか。
そんな事を考えつつ、オレンジの空に対してどこかブルーな俺は、朝倉さんを彼女の家まで送るのであった。