かくして驚くほどあっさりその日は訪れた。
開催する事で誰が得しているのかもわからないようなマラソン大会である。
ん? 日曜日までどうしていたのかだって?
申し訳ないがそれは今回の話とは何ら関係がない。
機会があれば詳細はお話しするとしよう。
――何て事はない。朝倉さんと幸せに過ごしていただけだ。
本当に特筆すべき事などなく、その日に向けて特別何かしていたわけでもない。
草野球大会の時とは違い個人プレーでいいらしい。
きっと同じ出来事を体験する事に意味があるのだろう。
同じ時間を共有し続ける事は難しいが、同じ思い出を共有し続ける事なら誰にでも出来る。
間違いなく涼宮さんは"いい傾向"だろうさ。
日曜日。
雨ならば中止になっていたはずだ。
残念な事に清々しい晴れやかな天気であった。
現地集合が十時までで開始が十五分。
もっと遅い時間でもいいだろうに、十二時が近くなれど多少の空腹は無視出来る。
因みにこれは全くSOS団とは関係ないのだが小学生向けのいわゆる"こどもの部"なんてのも無駄に存在している。
区分けするぐらいならこちらをハーフマラソンに設定すればいいのに管理が面倒なのか。
こどもの部の開催は午後かららしい。
一応触れておくがキョンの妹は参加しない。今日来てもいないからね。
何より住宅街の端っこと言えばこれまた聞こえがいい。
実際問題人の気配が普段はまるでない一本道に俺たちは立たせられていた。
「はぁ、しょうもねえ……」
ジャージ姿でそんな事を呟くキョン。
草野球大会の時と同じで全員ジャージ姿。
他の参加者でじいさんランナーなんかもジャージではあるが、俺たちは学校のだぜ?
男子は青で女子は赤。そんな集団が計七名。
陸上部だと勘違いしてくれる人がこの中にどれくらい居るのか。
正確な人数は不明だが概算にして五十名六十名程度。
俺に言わせると集まった方だと思う。
何故ならば昨日今日でしっかりしたマラソンイベントなどこの県に限らず近隣で開催されている。
ガチのランナーさんならばこんな所で油を売らないというものだ。
団体で参加しているのなんて俺たちを除けば地元の消防団員らしきおっさん集団だけ。
他は皆おっさんおじさんおねえさん(?)おばさんである。
――同世代ゼロ。
残念ながら当然の結果と言えよう。
なんて事を考えていると背中をつんつん突かれた。
「ねえ明智君、私たちってどうするべきなのかしらね?」
「……」
宇宙人二人組だった。
彼女らが何を言いたいのかは察しがつく。
涼宮さんがこのマラソン大会に優勝が可能な実力を秘めているのは今更だ。
しかしながらこの二人とて本気を出せばフルマラソンぐらいわけないのだろう。
地球人と競わせるのが間違っている。
「そういうのはキョンに訊きなよ」
「長門さんが訊いたらあなたに訊けって言われたそうよ」
少し離れた所に立ち尽くす無責任野郎を睨む。
こっちの様子に気付いたらしいが直ぐに目を背けやがった。
MIKURUフォルダの生殺与奪はまさに俺次第だという事を忘れるなよ。
亜空間にバラ撒いてやるからな。
――それにしても何て可愛いんだ。
誰か?
愚問だ。
朝倉さんだ、決まっている。
俺にその属性は無いはずなんだけど今日の彼女はポニーテール。
未来の朝倉さん2パターンを踏まえた上で見るとやはり見慣れているだけあって今のが一番だ。
いや、決して朝倉さんが劣化していくと言いたいわけではない。
未来の朝倉さんを愛するのは未来の俺の仕事であって今の俺の仕事ではないのだ。
そういう意味だよ。
勘違いされたくないので言っておくさ。
因みに長門さんは眼鏡を眼鏡バンドでくくりつけている。
裸眼でもいいと思うんだけどそこは既に拘りと化しているらしい。
俺が眼鏡が云々という台詞を今更彼女に言う訳にはいかないしな。
「好きにしたらいいじゃあないか」
「……」
「明智君が思う長門さんの"好き"って何なの?」
「それは一人で決める事さ。この前の校内マラソンのリベンジを果たすもよし、準優勝に終わるもよし、キョンのように一時間タイムで終わるもよし」
言っておくと俺はそうするつもりだ。
一時間で走破するだけでも大したものだと思ってほしい。
フルスロットルで行くなんていくら平素から運動してても無理無理。
素人だし馬鹿は馬鹿でも体力馬鹿ほどではないし。
take it easy(落ち着いて行こう)って事さ。
「……了解」
俺の話をどう判断したのか長門さんはそう一言残すとその場を離れていく。
各自の定位置は抽選で決められているのだ。
ガチでやる人にしか関係ないけど。
何の宿命か朝倉さんと俺は並んでの位置関係になっている。
おい、君インチキしただろ。
「いいじゃない」
「これも今更か……」
何だかたった一年なのにもう十年近く朝倉さんとは付き合っているかのような気分だ。
昨今の中高生カップルは一年続くだけで記念とか何とかレアケース扱いされるそうじゃないか。
俺にはその神経がよくわからない世界だ。
乗り換えを批判するわけではないが、朝倉さんに対する想いが一朝一夕のものではない事は確かなんだ。
こんな駄目人間代表の俺でも頑張れるようになるんだ。
消失世界に逆戻りはしたくない。
仮に同じ状況俺と同じ関係の朝倉涼子がいる世界へ飛ばされたとしても、俺はここがいいんだ。
彼女に対して嘘はつきたくないし、出来る限り本当の事を言いたい。
だから。
「別にオレと一緒に走らなくていいよ」
「あら」
「朝倉さんと走るのが嫌だって言ってるわけじゃあない。でも、オレの実力からして涼宮さんに勝てないのは事実でね」
「ふーん」
「オレの分まで走ってよ。そして優勝してくれるとありがたい」
朝倉さんだって負けず嫌いなのは知ってるよ。
だからこそ、今回は本気を出すべきなんだ。
涼宮さんだってその結果を真摯に受け入れるだろう。
先月の入団試験もそうだった。
「オレは彼女が悔しがる姿を見たいのさ。君に打ち負かされる事でね」
「……悪趣味じゃないかしら」
「それだけ朝倉さんに肩入れするって事だよ。好感度なんかいらないさ、君の分だけあれば」
「もう。そんな事言われちゃ、おめおめと負けてあなたに慰めてもらおうだなんて思えないわよ」
「完璧に勝つ。だろ?」
「そうね。……じゃあ私が優勝するから何かプレゼントでも考えておきなさい」
あいよ。
別に、結果だけ求めているわけじゃないさ。
朝倉さんが涼宮さんに勝とうとしてくれるその姿勢だけで充分だ。
去年だったらそんな事、まずなかったのだから。
"結果"の積み重ねだってそれが過去の産物ならば"過程"なんだ。
物事の片方の面だけを見るのはやめるべきなのさ。
そうこうしている内に市民マラソン開始のスターターピストルが発射された。
ホイッスルでいいのに、そんな所にも無駄を感じてしまうのは俺の悪いクセなのか。
とにかく宣言通り朝倉さんは優勝するつもりらしく、俺の左横からすぐさま前方へ向かって消えて行った。
いずれはSOS団女子三人のデッドヒートになるのだ。
他の連中にはどう見えているのかね。赤ジャージの女子高生がぶっちぎりな状況ってのは。
俺だったら恐ろしくて二度と走れなくなってしまうかもしれない。
それなりの速度を維持しているのは俺と古泉ぐらいだが、その俺だって今回ペースを上げるつもりは毛頭ない。
キョンと朝比奈さんは恐らく更に後方に居るのだろう。
彼らに負けない程度でいいのさ。
ランキングにしてSOS団の中では五位だ。
走りきる事に意味があるというマラソン特有の言い訳をさせてもらうとするよ。
「最近の若いもんは凄いのう……」
おじいさんのそんな呟きが聞こえたような聞えなかったような。
とにかく住宅街を抜け、森林公園付近まで進んだ頃には既に二キロ以上は進んでいるはずだ。
タイムなど自分で計測していないが、ランナーがまばらになり始めているのだけは見受けられる。
折り返し地点まで辿り着く頃にはギブアップまで行かなくとも徒歩移動の人も出てくるだろう。
俺は日頃の苦労もあって少しの苦労で行けそうだ。
決してきつくないわけではないが、本物の念能力者の修行に比べてみろ。
フルマラソンですらノミ以下なのは以前説明した通りだから。
――それにしても10㎞か。
前世で俺が通っていた高校は電車通学だったけど、ちょうど自宅から10㎞とかそこらの距離だった気がする。
もっとあったかもしれないが正確な距離なんて確かめてはいないからね。
今思えば詩織は俺の家のほぼほぼ隣に家があった。
幼馴染であり、家族ぐるみの付き合いみたいなもんだった。
それで俺と同じ高校に進学したんだぞ、あいつも。
もしかしなくても詩織は俺に付いて来たんじゃないのか?
言うまでもなく他にいくらでも近い高校なんざあった。
俺がわざと遠い所、しかも特別偏差値が高いわけでもない所を選んであいつも同じ所を選ぶ。
そんな偶然あるわけないでしょう。
「……馬鹿か」
俺の"ブレイド"の能力であの世界まで行けるかはわからない。
もし俺が浅野の様子を窺い知る事が出来て、未だに情けない有様ならその時はどうしてやろうか。
涼宮さんなら確実に死刑宣告だろう。
昔から俺は鈍感野郎だったと言うのか。
むしろ昔の俺が鈍感だっただけなのかもしれない。
バレンタインだって毎年何かしらくれていた――ようやく思い出したがあいつのせいで俺はシュークリームが嫌になった――んだ。
あいつは俺の事がずっと好きだったんだ。
馬鹿は死ななきゃ駄目みたいだ。
どうしようもないな。
――なんてノスタルジックな思い出に浸れるのもこの時ぐらいだった。
森林公園を横目に山へ近づいて行く途中でSOS団三人娘の姿が対向車線から見受けられた。
三人とも眼が恐ろしい。何より一番恐ろしいのは、平然とこの三人がトップ争いをしている事だ。
彼女らの後ろに迫る人影は未だ存在しない。
予想していた光景ではあったが現実のものとそうでないものとは雲泥の差。
人間にしてこのパフォーマンスの涼宮さんが恐ろしいね。
その涼宮さんに追いついていた佐倉詩織が一番恐ろしいのでは。
彼女がSOS団に在籍していたらと思うと俺は本格的に修行の日々を送るべきだ。
一日一万回、感謝の正拳突きでも何でもしないと俺の立場がなくなってしまう。
最初からそんなものがあったのだろうか、いや、ないのだろう。
「……」
通り過ぎる時に、長門さんがちらっと俺を見たような気がする。
何かの決意表明なのだろうか。
とにかく宇宙人二人は好きにしていいさ。
SOS団らしさが何なのかは定義されていないが、部活動としてはそれらしい事をしているじゃないか。
一時の平穏が永遠のものとなるのが俺の願いなのさ。
――そしてそれは唐突に訪れた。
最初からいい予感はしていなかったと言い訳させてくれ。
何を隠そう因縁の場所まで俺は足を運んでいたのだ。
もう直ぐ折り返し地点という場所……そこはいつぞや周防と戦った峠の曲り道。
周防は今や俺たちと敵対などしていない。
トラウマじみた感覚も思い出だと割り切ろう。
何て、思って曲り道の中腹までやって来たその瞬間。
「――うぉっ」
一歩先へ踏み出したその瞬間、突如として俺の身体は浮遊感を覚えた。
それもその筈であろう事か俺は"落ちている"のだ。
道路と道路の間にいつの間にか出来ていたクレバス。
目の前には地面の断層か何かだろうか。壁のようだ。
通常では何をどう考えても考えられない。
明らかに誰かによる攻撃だ。
「ん、な」
こうして俺は叫び声を上げる事さえままならず、ただただ落ちて行った。
まるで地獄まで飛ばされるのではないかと思えるぐらいに長い時間。
それは俺の意識が途絶える事でようやく終焉を迎えた。
「――ここは」
次に眼に映った光景は地獄でも何でもない。
草むらの中だ。顔に当たる感触と目の前の緑でわかる。
気が付くと俺はどこかに飛ばされていたらしい。
とりあえず上体を起こす。
「山か? 森か? どっちでもいいが……」
日中だという事実だけを考えると本当に飛ばされただけなのかもしれない。
だが、何かしらの手段によって外界から隔離されたと考える方が俺にとっては自然だ。
辺りを見渡す。自生している木と草むらだけ。
俺の住んでいる街かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
とにかく行動あるのみだった。
「……さて」
まずい事になったわけだ。
これが攻撃だとして、俺を狙った行動なのは明白。
時間経過の概念があるかどうかも怪しいが、俺の体力に限界があるのは確か。
当面の問題は俺の自衛能力が大幅にダウンしているという一点。
人類的強さランキングで言えば俺は下には位置しないと思うが攻撃手は異端者。
宇宙人と想定するのが手っ取り早い。
今の俺はまず勝てない。
「何でこういう時に限って手ぶらなのかね……」
俺が何かを"切る"には刃物が必要らしい。
何故かは知らない。そうだと解るからとしか言いようがない。
古泉の言い分と同じだ。
そして市民マラソンにナイフを持ち歩く奴が居るか?
居ないだろ。そんな事したら逮捕だ。
せめてカッター程度でもあれば空間を切る事は出来る。
……だけど、切れるだけだ。
これは一つの例えだが、想像してみてほしい。
目の前にいい大きさのホールケーキがあったとしよう。
それを食べたい大きさに分けるには入刀する必要がある。
で、それを切る。
俺が能力で出来るのはそこまでなんだ。
ケーキとケーキの間に少し隙間が空くかもしれないが殆ど変化はない。
ケーキはそのまま残り続ける。輪郭だけでいえばホールケーキのままだ。
"操る"という能力はその切ったケーキを皿に動かす事を意味する。
つまりいくら空間を切り裂こうと、それをこじ開ける事が今の俺には出来ないわけだ。
だから"異次元マンション"等の能力が行使出来ないのだろう。
どうにもこうにも、使えない能力だった。
――そして。
無人の住宅街でマラソンを再開する俺。
謎の男と一緒に。
「どうしてこうなったんですか!?」
「うむ。私にもさっぱりわからん!」
「オレを助けに来たんじゃないんですか!?」
「キミは私を神か何かと勘違いしてないかね! とにかく今は走り続けるのみだぞ!」
現在俺たち二人はとにかく走り続けている。
否、逃げ続けているのだ。
後ろから決して早くはないが確実に迫り来る集団。
何? 無人の住宅街じゃなかったのかって?
俺は嘘はついてないよ。
呼吸を必死に続けながら、同行者の男は現状をあざ笑うかのように。
「キミも"奴ら"のエサにはなりたくあるまい!」
「くっ、当たり前じゃないですか!」
そろそろ体力的にもきつくなり始めた俺が一体何から逃げ続けているのか。
生憎と後ろを振り向く余裕さえもないから覚えている範囲の特徴を述べよう。
黒くただれたボロボロの肌、血走った赤い眼光、言語すら発せられない状態で奴らは徘徊している。
俺のような生者の血肉を貪るためだけに。
そうだ。
「どうして、はぁっ! ゾンビに追われてるんだ!」
「決まっておる! 奴らは腹を空かせているのだよ!」
白衣で白髪のくせに俺とそこまで歳の差がなさそうな同行者の青年がそう答えた。
そんな事ぐらい言われなくてもわかっているって。
俺が知りたいのは実行犯とあんたの正体だ。
「うむ。私は今世紀最大の魔術師と呼ばれることになる予定の男だ! 覚えておくがよい!」
……『やれやれ』って言うのにはまだ早いよな?
それは全部が解決してからだ。ちくしょう。
とにかく、ゾンビとの遭遇は今から数十分前の出来事であった――。