異世界人こと俺氏の憂鬱   作:魚乃眼

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異世界 なんてっ探偵とアイドル

 

 

――"探偵"。

みなさんがどれだけこの職業に夢と期待を馳せているのかは知らない。

一つ言わせていただきたいが実際問題そう素晴らしい世界などではない。

やる事は多々あるので腕さえあれば食いっぱぐれはしないんだろう。

事実として――実力はさておき――俺がそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とは言え探偵業が成功するかどうかの一つの基準が実力なのは確かだ。

だがそれよりも大きく要求されるのは"コネクション"。

いわゆる裏の世界も知らなきゃならないし、ある程度は通じていた方が便利だ。

その辺はご容赦願いたいね。

ただでさえ法律で縛られている存在なんだから。

 

 

「――で」

 

オンボロ雑居ビルの二階。

そこにオフィスを構えている俺。

苗字のおかげかは知らないけど客入りは上々。

仮に一日もクライアントが来なかったとして次の日にどさっとなんて事もザラ。

ご理解頂きたいが、だからこそ落ち着く時間は大切なのだ。

窓を背に無駄に高級感のある椅子に座り、デスクに肘をつけながら彼女を呆れた眼で見る俺。

飲んでいたコーヒーも落ち着いて飲めなくなってしまう。

コーヒーカップに注がれたそれが冷める前に彼女には帰って頂きたい。

 

 

「君は冷やかしに来たのかな」

 

「私はあなたの顔を見たくなったから来た……ってのはどう?」

 

どうしろってさ。

カーキカラーのパンツスーツに身を包んだ彼女。

はっきり言おう。

えらい美人が俺のデスク越しに立っていた。

スカ―トから露出する脚はグンバツ。

脚だけに限らずスタイルはそこらのモデルじゃ敵わないほどに均整がとれている。

 

 

「もう。ヤらしい事考えてたでしょ」

 

いいや俺は冷やかしに来た君がさっさと帰ってくれないかとばかり考えているんだよ。

君は新聞記者のくせにこんな所で油を売る神経が俺にはわからない。

定期的に来ている気がするけど上司は何をどう判断しているんだ?

クビにならないのか。

青い長髪を右手でふぁさっと効果音がつくように髪をかき上げた彼女は。

 

 

「心配ご無用。私は宇宙人だもの」

 

とお決まりの意味不明な台詞を発した。

はたして社内での彼女の立場が俺は気になって仕方がない。

そしてこれも意味不明な事に彼女がやって来る日は依頼人が来ない。

俺が暇な時を見計らって来て――どうやってだ――いるのはいいとしていつも誰も来ないのはおかしい。

客が来ない日が珍しいからおかしい、のではない。

彼女が来る=二人きりみたいな方程式がおかしいのだ。

ここの事務所の悪い噂でも流しているんじゃなかろうか。

……しょうがない。

椅子から立ち上がり給湯室に向かうとしよう。

 

 

「……君の分のコーヒーを淹れてこよう」

 

「お願いするわ」

 

さて、この不良記者をどうしたもんか。

そもそも俺を取材したためしもなければ彼女の新聞社に俺の事務所の広告が掲載されているわけではない。

行動原理が本当に謎である。

誰でもいいから俺に依頼してくれないもんだろうか。

喜びながらロハで彼女の身辺調査をしてやるというのに。

宇宙人とかいう割に彼女の経歴など普通の人間と何ら変わりない。

変な宗教にはまっているのならわかるんだが。

すると彼女は。

 

 

「そうそう。今日はあなたに依頼があるのよ」

 

驚いた事にこの日が彼女による最初の依頼だった。

……いや、違うな。

最初で最後の依頼だったさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――芸能プロダクションことSOS社。

つい数年前までは全くの無名だったその会社は一年前のある時期を境に急成長を遂げる。

無表情、無反応、前代未聞のお人形さんのようなアイドル長門有希。

ともすれば世界を股にかける空前絶後の大ブレーク。

たった一年間という短い期間ながらにして大スターの座を手にした彼女。

この世界で彼女の名前を知らない人などいないだろう。

アイドルに興味なんてない俺でも知っている。

だが。

 

 

「ある日、突然の引退。その後芸能界から姿を消してしまう……ね」

 

姿を消すどころではない。

失踪、あるいは消失したとしか考えられない。

引退発表も、会見さえ行われなかった。

SOS社の人間も長門有希の行方は知らないのだとか。

応接席に座った彼女はコーヒーカップをテーブルに置き。

 

 

「ええ。そのSOS社を調べてほしいのよ」

 

「……長門有希じゃあないのか」

 

「あなたはそっちを探せるのかしら?」

 

「さあな……やってみない事にはどうとも言えんさ」

 

とにかくSOS社を調査してほしい理由がわからないね。

SOS社。

 

 

『世界を大いに盛り上げるためなら洗脳もいとわない会社』

 

正式名称は不明だが社長の涼宮ハルヒがそんな発言をどこかの雑誌の取材の際にしたらしい。

弱小プロの繁栄を妬んだ連中からはそのように呼ばれているとかいないとか。

とは言え元が無名の会社。成り上がりもいいとこ。

先月にあった長門有希の電撃引退以来徐々に会社の名前は人々の記憶から消されようとしている。

後に残るのは長門有希という記号だけ。

CDやグッズは未だに売れるだろうがかつての輝きが今のSOS社に無いのは当然の事だ。

事実として他のアイドルが売り出されていないわけなのだから。

落ちぶれたのさ。

 

 

「もちろん私の狙いは長門有希よ。でも、まずは外側から牙城を崩していくものでしょう?」

 

「先月の出来事とはいえ今更じゃあないか。君が長門有希を取材したいのか、それとも引退の真相をつきとめたいのかは知らないけど、スクープは自分の手で掴んでくれ。探偵は何でも屋じゃあない」

 

「お礼はたっぷりさせてもらうわよ」

 

「結構」

 

ささ、そのコーヒーを飲み干したらさっさと帰って頂きたい。

君が居なくなったら本当に俺の力を必要とするような依頼人が来るかも知れないんだ。

素行調査と言えど、必要なら徹底的に調べ上げるさ。

悪いけどSOS社を俺が調査する必要性が皆無である以上は蹴らせてもらうね。

俺は金で動く人種じゃないし、君が美人なのは俺の心には影響しない。

すると彼女は笑みを浮かべながら俺の方を見つめ。

 

 

「あなたが本当に知りたいのは自分の事」

 

「……何の話だ」

 

「ふふっ。あなたは自分に関する記憶が無い。今から約三年前、それ以前の自分の記憶がないのよね」

 

「知らないな」

 

「当り前よ。知らないんだもの」

 

違う。

俺は俺が探偵だという事実だけは知っている。

現在、二十四歳らしい俺。

つまり二十一歳から前の記憶がない。

事務所に置いてあったインスタントコーヒー瓶や、冷蔵庫の中の缶コーヒーから俺がコーヒーマニアな事だけはわかったさ。

自分が知っている範囲で自分に下せた評価がこれだ。

 

 

一、文学の知識:そこそこ。事務所には短編集も含め【赤毛のアン】が全巻置いてある。

二、哲学の知識:自然哲学のみ。

三、天文学の知識:皆無。

四、政治学の知識:感心が湧かない。

五、植物学の知識:麻薬毒薬劇薬に関する事のみ。

六、科学の知識:造詣深い。情報系の分野に長けているらしい。

七、俗世間の知識:職業柄か詳しい。

八、ベースを弾ける。

九、護身術に長けているらしい。身体の動かし方がなんとなくわかる。

 

まあ、こんなものは自分の証明にはならない。

単なるオマケでしかない。

何故俺の記憶について知っているかは謎だが、俺は結局この女を深く探るつもりはない。

なんだかんだで必要性がないからだ。

これも、なんとなくわかっている。

 

 

「君は勘違いしているな。オレの名字を知っててここに依頼しに来たんだろ」

 

「……もちろんよ」

 

「オレは煙草は吸わないけれど、煙草を持ち歩くようにしている」

 

俺が何者かは知らない。

だが、この事務所の机には俺の名刺らしきものとシガレットケースが置かれていた。

初めて自分の意識を覚醒させた時、俺はこの事務所で寝ていたらしい。

それ以前の記憶がない。

ただ。

懐から一本の煙草を取り出す。

 

 

「この煙草にはちょっとした細工がされている。中から小型のナイフが出てくる仕組みになっていてね」

 

「あなたの秘密道具なのかしら」

 

「いいや。オレの曽祖父さんの形見……」

 

俺の名前は明智黎。らしい。

その名の通り。

 

 

「かの名探偵、明智小五郎の子孫さ」

 

「ふーん。なら、そういう事にしておきましょう」

 

「このオレを動かすに相応しいお礼が出来るって?」

 

「そうよ」

 

一介の記者、それも駆け出しもいいところの年齢だろう。

彼女は俺と同じ二十代前半だ。

化粧と呼べる化粧を左程していない。

若さに油断しているいい証拠か。

そんな人がいったいいくらお金を積もうというのか。

アウトローな業界じゃないんだから。

 

 

「あなたが私の依頼に応じてくれるのなら、私が知っている事を話してあげる」

 

「君が話す? 何をだ」

 

「私は昔のあなたを知っているのよ」

 

もう一度彼女は笑みを浮かべた。

不気味な女だ。

底が知れない。

しかし、はったりだとは思えなかった。

どうしてだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今更SOS社について外部から調べて行こうにもやり尽くされている。

となれば正面から当たるのが一番だ。

内部の人間に聞けば何かしら掴めるものはあるだろう。

だが、探偵ですと明かしたところで何事だとなるのは言うまでもない。

身分詐称もグレーゾーンだが、必ず犯罪になるわけではない。

アポイントをとった翌日、俺の事務所よりもぼろっちい事務所へ向かう事になった。

 

――午前十時。

もっともあの会社に通常業務があるとは思えないから昨日でもよかったのだが。

スーツに身を包み、SOS社に向かって歩いて行く俺。

探偵がするような恰好ではない。

と言うか俺よりも別の部分に問題があった。

 

 

「……君、何でついて来たんだ?」

 

依頼者が同行するくらいなら自分で調べればいいだろうに。

我が物顔で彼女は俺の左に並んで歩く。

 

 

「面白そうだから」

 

「君がクビになっていないのが不思議でしょうがない。普段の仕事があるだろ」

 

「スクープを掴むためなら安いものね」

 

「辞表の用意をお勧めしとこう」

 

かくして変な同行者が付いて来てしまった。

邪魔をするのなら成功は保証できない。

そもそもあの会社を当たって新事実にぶつかれるかさえ保障できない。

ほどなくしてオンボロ事務所の応接室に通された俺と彼女。

副社長らしき男性――他に居ないのか。というか彼も俺と同じくらい若い――がやって来て。

 

 

「お待たせしてしまい申し訳ありません」

 

「いえいえ。ワタシの方こそ急なお話を提案してしまい、余計なお世話かもしれませんでしたが……どうぞ」

 

とりあえずの名刺交換が行われた。

彼は古泉一樹という名前らしい。

俺が渡したのは偽物だ。

経営コンサルタント会社"光陽園ソリューションズ"から派遣された社員。

横の彼女も含めてそういう事になっている。

 

 

「長門有希、突然の引退。いやあ驚きましたよ。何を隠そうワタシも彼女の大ファンでして……"ノーリアクションガール"は何回聴いたか数えきれませんね」

 

「その節は関係者各位をはじめ大変ご迷惑をかけてしまい申し訳ありません。我々の力不足がたたった結果と言えましょう」

 

「すると、本当に彼女は居なくなったと?」

 

「出来る限りの待遇をしてきたつもりではあったのですが、いやはや、本人ありきの世界ですから」

 

「なるほど。確かに芸能プロダクションは商品ありきの存在でしょう。SOS社も例外ではありません」

 

横の彼女は無言で出された紅茶に口をつけている。

俺は安い葉だというのを度外視しても紅茶は飲みたくなかった。

無意識からコーヒー好きらしい。

そんな事は口に出さず、俺は話を続ける。

 

 

「ですから、長門有希の成功を無駄にしないためにもSOS社にはワタシたちの力が必要でしょう」

 

「……済みませんが、僕の一存では判断しかねます」

 

「こちらの会社の経営は全て女社長の独断と偏見だと伺いました。部下はさておき、客観的によろしい状態とは言えません」

 

「そうかもしれませんね」

 

「以前無名だったSOS社が繁栄したのは長門有希個人の力でしょうか? ワタシは違うと信じています。彼女を支え続けた全ての人間の誰一人が欠けても彼女は成功しなかった。あなたがたの会社のポテンシャルを是非、ワタシたちが引き出して差し上げたい」

 

ほら、君も何か言わないか。

君のせいで俺がこんな嘘ばかり並べる羽目になっているんだ。

いったい何日かかるんだこの依頼は。

 

 

「古泉さん。社長さんを呼んできてもらえないかしら。彼女に決定権がある以上、あなただけでは私たちの話を蹴るにも蹴れないでしょう?」

 

「そういたいのは山々なのですが、生憎と社長は今席を――」

 

なんて有り触れた常套句を聞いて終わるかと思われたその時。

いきなり応接室のドアが勢いよく開かれた。

 

 

「なに、なになに!? あたしのやり方に文句がある胡散臭い連中が来たって聞いたんだけど」

 

社長の涼宮ハルヒ。

下手すれば高校生なんじゃないかってぐらいの若さだ。

しかも彼女ほどではないが美人。

何なら自分でアイドルをやればいいだろうに。

人の上に立つのが好きで仕方ないという馬鹿のオーラが感じられた。

副社長の古泉は。

 

 

「ちょうどよかった。涼宮さん、こちらがあの光陽園からお越し頂いた明智黎さんと――」

 

「――あっ!」

 

副社長の話もロクに耳に入れようとせず、女社長はソファに座るこちらにズカズカと近づく。

やがて彼女をじろじろ見つめると。

 

 

「ビリッと来たわ!」

 

「……ふふ」

 

「あなた、ここでアイドルやりなさい! あなたなら長門有希を超えれるかも知れないわよ!」

 

ビシっと人差し指を彼女に突きつけてそんな事を言い出した。

おいおい、意味が解らない。

ワンマンだとは聞いていたがここまで無茶する女だったのか。

道理で今まで成功しないわけだ。

所属アイドルの朝比奈みくるは売り出す気があるのかというぐらいに露出がない。

朝比奈みくるの実力ではなく、プロデュースに問題があるのだろう。

長門有希は上手くはまったわけだ。

 

 

「芸名は……そうね。朝倉涼子! あなたは今日からバイオレンスアイドル朝倉涼子よ!」

 

奇しくも彼女の本名と全く同じだった。

まるで、最初から彼女の事を知っていたみたいに涼宮ハルヒはそう言ってのけた。

 

 

「それ、いいわね。早速辞表を出しに行こうかしら」

 

とにかくあっと言う間の出来事だった。

依頼はどうしたのか、そんな事を確認するまでもなく全ては進んでいった。

とんとん拍子なんてものではない。

超特急、高速、少なくとも俺は置いて行かれてしまった。

 

 

 

――それから半年。

瞬く間に朝倉涼子は長門有希に追いついた。

1stシングルこと"優しい私刑"はシングルデイリーチャート1位を獲得。

初動売上は1,000万枚を突破。

テレビに映ったその時から世界は彼女に支配された。

時の人どころではない。

間違いなく時代だ。

長門有希が築いた黄金期を半分の期間で自らも再現してのけた。

今や国を越えて世界中の人々が彼女を目にしただろう。

動画配信サイトにアップロードされたPVの再生数は全世界からのアクセスを受けて一日経てば増えていく。

100万再生以降俺は確認していないし、それも二か月前の話だ。

今はどうなっている事やら。

 

 

「……どうもこうもあるのかよ」

 

新聞の一面には朝倉涼子ワールドツアー決定の見出し。

それも、彼女が勤めていた新聞社のものだ。

笑えるぜ。

俺は何をしに行ったんだ。

そんな事さえ考えるのが嫌になるほど半年前が遠い昔に感じられた。

結局一日無駄に事務所を閉めただけ。

タダ働きにしてはそれ相応の成果でも何でもない。

 

 

「ふっ」

 

いいさ。

期待してはいなかった。

はったりだったんだろう。

俺の事を知っている人間はこの世界に居ないらしい。

自分の事は一番最初に調べたが家族さえ居なかった。

記録として自分が出た学校はわかる。

家族構成だとか、その辺は何をどう探しても出て来なかった。

授業参観があったとしても親の姿を見た教師はいなかったという。

別に構わない。

俺が知らないのだからそれで構わない。

 

 

「――遅れちゃった」

 

ふと、気が付くといつの間に入って来ていたのか彼女が事務所の中に居た。

季節は既に冬。

申し訳程度の電気ストーブはまともに機能してくれていない。

そんな中、朝倉涼子はソファに座っていた。

 

 

「どうしたんだ有名人。こんな場所で油を売ってて平気なのかよ」

 

「依頼の報酬がまだだったもの」

 

「嘘だろ。大体オレは長門有希について何も調べていない。君に報告も出来ない」

 

「嘘じゃない」

 

そう言うと彼女はこちらまで近づいて来る。

デスク越しに立つ彼女と、椅子に座る俺。

半年前と同じ構図だ。

 

 

「もう、そろそろ」

 

と、彼女が言った瞬間。

俺の目からは涙が溢れ出した。

少しだけ、ほんの少しだけ俺は思い出せた。

 

 

「……オレは君に、会ったことがあるんだね」

 

「うん」

 

「ここじゃあない何処か、違う場所で」

 

「そうよ」

 

「君はオレを知っている」

 

「ええ」

 

「一つだけ、教えてくれないか」

 

こんな感覚は多分、生まれて初めてだったんだろう。

悲しさに起因する涙ではなかった。

だけど、きっと悲しくなってしまう。

涙を袖でぬぐい、どうにか彼女の顔を見上げ。

 

 

「朝倉涼子。君は一体、何者なんだ?」

 

俺は納得できた。

これまでの全てに。

 

 

「ふふっ。私は宇宙人よ。そして、違う世界であなたのお嫁さんをやっているの。始めたばかりだけど」

 

「……そうか。そうなんだ」

 

「朝倉涼子はアイドルを引退する。あなたともお別れね」

 

「……ああ」

 

「安心して。また会えるわよ」

 

「わかってる。さっき、わかった」

 

「よかった」

 

ちくしょう。

思い出したぞ。

俺は何回も、こんな思いをして来たんだ。

何度も彼女と別れたんだ。

百万回愛して、それで。

 

 

「待ってくれ! 今度こそ、待ってくれないか」

 

「いつかまた――」

 

俺は身を乗り出して手を伸ばした。

だが、左手は彼女の身体を掴めずに空を切る。

 

 

「――じゃあね」

 

そんな声が聞こえた気がした。

十二月、十八日の事だったと思う。

朝倉涼子による最後の報酬だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから更に二年が経過した。

朝倉涼子を失ったSOS社だが、次のアイドルは見つかっていた。

サイコガール橘京子とミステリアス周防九曜の二人組。

長門有希や朝倉涼子ほどではないが、そこそこ売れている。

来年の春にようやく日本ツアーだ。

 

 

「……」

 

俺は未だに自分の事を思い出せていない。

だのに探偵としてのノウハウはあるらしい。

明智小五郎の子孫だなんて方便もあって、今日も食いっぱぐれていない。

とくにこのシーズン、クリスマスが近い。

何かと依頼は多いのである。

こんな時期に素行調査が来るのは人間不信が多いのか、それともそういう社会なのか。

とにかく言えるのはアイドルという偶像も必要悪でしかない。

消耗品でしかない彼女らは今日も働く。

俺もそうだ。

誰かの代用品でしかない。

 

 

「でも」

 

俺は依頼が来るのを待ち続けている。

俺は探偵だ。

依頼をされるのであって、俺が依頼する事はない。

伝説のアイドル、朝倉涼子が今どこに居るのか調べてくれ。

そんな依頼が来るのを待っている。

 

 

――ギィ

 

そろそろこの事務所もどうにかしたいもんだ。

少なくともドアを開け閉めする度にやる気のない音がする。

依頼人も萎えてしまうというものだろう。

 

 

「……ふっ」

 

その心配はなかったらしい。

わかってたさ。

なあ、遅かったじゃあないか。

依頼人なんだからくつろげばいいものを。

立ち尽くされてもこっちが困る。

俺は依頼人の顔を見て。

 

 

「で」

 

君は冷やかしに来たのかな。

 

 


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