みなさんは"ハインリッヒの法則"というものをご存知だろうか。
大規模――災害級と言い換えてもいい――な事故が1件起こる背景には中規模な事故が29件。
そしてあわや事故になるかもしれなかったヒヤリ、ハッとした場面が300件あるという法則だ。
1:29:300の数値が出たのは昔の統計でしかない。
しかしながら300件の危険なシーンを減らすことが29件の事故及び1件の災害の予防になるのは言うまでもない。
事故になる可能性がありつつ実際には事故にならなかった所謂ハプニングを"インシデント"と呼ぶ。
つまりヒヤリ、ハッとしたその時、インシデントは発生したという事だ。
当然個人レベルではなく企業レベルの話なのだが。
だったら俺たちはどうなんだ?
事件事故、両手の指より多いくらいには経験してきたはずだ。
実害の有無はさておき。
「……出ろ」
そう言うと俺の左手には"ブレイド"が具現化された。
オーラ――実際には生命エネルギーより上位のエネルギーを行使しているが名称が不明なので未だにオーラと呼んでいる――をゴッソリ持ってかれるこの感覚も慣れたもんだ。
ブレイドを持った俺を見て朝倉さんは。
「私の真似かしら?」
「かもね」
「ふーん」
北高、部室棟の外周の一角。
そこで対峙する俺と彼女。
奴さんはどう見ても俺を仕留めるつもりらしい。
「明智君は私と約束してくれたもの。他の女を好きになってもその約束は守ってもらいます」
「……何だって」
「私と一緒に死んでくれる、って約束してくれたじゃない……。安心して? あなたを殺したらすぐに私も死ぬから」
「ナイスアイディアだ」
減らず口を叩く事ぐらいは出来るらしい。
とは言え、あっちは殺す気でも俺は殺す気がない。
殺し合いは成立しないってわけだ。
では俺は何をするのか?
決まっている。
「喧嘩上等ってヤツかな」
思い返せば今まで俺と朝倉さんは喧嘩と呼べる喧嘩をした事がなかった。
したくなかった。
ともすれば俺は彼女を裏切った重荷を未だに引きずっている。
それはそれでこれはこれじゃないか。
衝突する事を無意識の内に否定していたんだ。
……情けない。
恋は盲目、ってのは結局のところそういう事でしかない。
だからこそ喧嘩別れなんて事態に陥るんだろうさ。
全てを受け入れようとしないから。
そんなのはただの仮面カップルでしかない。
もう止めにしたはずだ。
「散々暴れ回って最後はオレか? 言いたい事があるのは朝倉さんだけじゃあねえぜ。この際だから言っておくけど、君はオレに尽くそうとし過ぎなんだよ。鬱陶しい。オレは自律出来るっての!」
言いたくもない嘘を言うのは辛い事だ。
嘘には二種類存在する。
思い違いと、意図的なもの。
彼女が後者で俺が前者。
それだけの差でしかない。
歩み寄れるだろ。
「ふふふふふふふ……。遺言は済んだかしら?」
「こっちの台詞だね。死ぬ気なんてサラサラないよ」
「絶ぇぇっっ対に、許さないから!」
そう言うと同時に、彼女の雰囲気が変わった。
威圧的でも何でもない。
が、一番危険な状態だってのは理解出来た。
「私以外となんて許さないわ他の女に触れるって言うの?ねえどうしてこうなっちゃったの私たちあんなに愛し合ってたわよね繋がってたわよね私の一方通行なんかじゃないわよねならきついなんて言わないで重いなんて言わないで私の愛を受け止めてくれる?私の全てを受け止めてよねえねえねえねえねえ」
「注文の多いお嬢様だ……」
「そっか。じゃあ――」
来る。
「――死んで?」
こう言う時、廻り合わせに感謝したいもんだ。
彼女の右手に持つナイフからの攻撃。
それは俺から見て左方向からの攻撃であり、迎撃するには左利きである方がマシなのかもしれない。
真実はわからない。
俺がサウスポーだというだけだ。
一閃また一閃と刻まれていく斬撃。
回避するよりカウンターを狙う方が確実だ。
逃げているだけじゃ朝倉さんには勝てない。
ガチリ、ガチリとエッジだけが噛み合っていく。
俺たちが噛み合っていない事への当てつけだとしか思えないね。
――何もかもが対照的に思えた。
俺と朝倉さんだ。
性別、性格、挙げればキリがない。
ナイフを順手持ちする彼女と逆手持ちするこの状況もそうだ。
俺のプランは簡単だ。
彼女を大人しくさせて、二人でこの世界を出る。
平行世界移動の技を久々に使う時が来たと言う訳だ。
二度と使いたくはなかったが。
とは言え、実際に傷つけるつもりなど毛頭ない。
いつぞややったように朝倉さんの意識だけを断ち切る。
一方の朝倉さんが振るうベンズナイフには猛毒が仕込まれている。
かすり傷でも俺は再起不能になるだろう。
俺が意識を断つにはかすり傷程度では駄目だ。
クリーンヒットさせる必要がある。
とにかく、アドバンテージの差はあれど一撃で勝敗は決してしまう。
切りつければ勝ち。
「……」
「っちぃ……」
素人と玄人との差とでも言うべきか。
流石は朝倉さん、ナイフ捌きが恐ろしい。
次の一手が読めない。
フットワークからして俺と違う。
緩急、フェイント、こちらをあざ笑うかのように確実に俺を刈り取るつもりだ。
じわりじわりと追い詰めて、いたぶる。
――いたぶる?
本当か、それ。
いくら怒りで我を忘れているとしても朝倉さんが俺とチャンバラごっこを続けるつもりなのか。
千日手にならないのは確かだ。
俺と彼女のポテンシャルからして俺がいつかやられてもおかしくはない。
だが俺を確実に仕留めるつもりならば他に何か仕掛けてくるんじゃないのか。
一瞬の隙が出来たとしてもそれをカバーできない朝倉さんではないはずだ。
「……ふふっ」
この瞬間を愉しんでいるかのような彼女。
心にもない事を言ったのもあるが、何であれ楽しめない俺。
朝倉さんは強くて俺は弱い。
それだけの話だ。
勝算と呼べる勝算がないまま死合いを続けていた。
数分だったかもしれないし数十分だったかもしれない。
やがて、朝倉さんが突然身を後ろに引いた。
距離を置いたのだ。
……どういうつもりだ?
「このまま続けててもキリがないわね。どうせなら圧倒的な絶望を味わせてあげたいじゃない?」
何を言っているんだ。
彼女が笑顔になったその時。
身体が、重くなった。
馬鹿な。
いつ仕掛けたんだ。
「言い忘れてたけど、今、北高の全域が私の情報制御下なの。おかげで攻勢情報はすっからかん。でもここで戦う限り私はあなたに負けないわ」
何、だと。
重力で俺を捕えようってわけか。
その技で俺を即死させる事さえ出来る。
俺の身動きを封じる程度で済ませるのは彼女なりの報復だろうか。
おかげさまでこのままだと詰みだ。
重力を防ぐ方法はない。
次元の壁さえ突き抜けるエネルギーだ。
防げる奴がまずこの世にいない。
「もうどうする事も出来ないわね。このままあなたにナイフを突き立てるなんて簡単だもの」
重力何倍があろうと自分がそれに適応出来れば問題ない。
朝倉さんにはそれが可能なのだろう。
どこのバトル漫画の世界だ。
宇宙人だがサイヤ人ではないはずだぞ。
ぐっ、とにかくやけにゆっくり近づいて来る。
早く俺を殺したくてたまらないんじゃないのか?
そんな訳あるか。
信じられるか。
「終わりね」
俺の両腕は垂れたがっている。
ブレイドを手放さないだけで精一杯。
だが、ようやく。
「――射程内に入った」
「え――」
ズバッ。
下から振り上げて彼女の腰から首にかけてを切りつける。
俺の、勝ちだ。
倒れ込む朝倉さんを支える。
ベンズナイフは……とりあえず俺が持っておこう。
「惜しかったね。ナイフを投げられていたらどうなっていたか……。もっとも弱点を対策しない俺じゃあない」
克服したわけではない。
簡単な理屈だ。
重力をゼロにする事は俺に出来ない――情報操作が出来れば別だろうが――し、防ぐ事も出来ない。
しかし軽減する事は可能だ。
「この地面の下を"切り拓いた"。……そこは異次元に繋がっている、断層だ」
重力とは上から下に作用する力ではない。
下から上を引き寄せる引力だ。
だから地下に仕掛ける必要があった。
いくら重力が次元の壁を越えようが無限に作用する力ではない。
距離を空ければ弱まる。
当然の理屈だ。
それでも朝倉さんが対応出来ない速度で一撃を放つのはかなりの負担だ。
左肩から左腕にかけて、まともに動かせそうにない。
ズキズキと言うかバナナみたいに今度こそ力なく垂れ下がっている。
「……時間切れか」
ぐっ、と身体に再び負荷がかかる。
一度仕掛けられた重力制御はそのままらしい。
朝倉さんが気絶したとは言え収まってくれるわけではない。
俺のオーラにも元々上限があるし、この世界では制限もきついらしい。
どうにか、地面に"入口"を設置する。
「オサラバだ……」
黒い穴に身体を沈めていく。
かくして俺と朝倉さんはシミュレーションを中断する事になった。
俺にとってはこれがクリアだから構わない。
よく言うだろ。
終わりよければ全てよしと。
結論から言えばRPGといい恋愛ADVといい、その世界が実在していたのかどうかは不明だ。
仮にあったとしてそれが三次元かどうかも怪しいと言うのが本音である。
戻って来た場所は朝倉さんの部屋で、夢オチならそれもよかったがそうでもない。
左腕がブラブラしているのが何よりの証明であった。
九月某日の真昼間。
日付が土曜日だったから良かったが、どうしたものか。
「……とりあえず着替えに一旦帰るか」
朝倉さんが目覚めた時に、誤魔化す必要があるからな。
そしてこの世界は間違いなく元の世界だ。
緑のテキストエリアもないし、朝倉さんの親愛度とやらも見えない。
見る必要が今更なかったからいいのさ。
"異次元マンション"を使って着替えに帰宅――制服は俺が来ていた一着分だけ。世界を移動して増えはしない――して戻って来ると。
「――あら? いつの間に寝ていたのかしら……?」
俺が苦労してソファに寝かしつけておいた朝倉さんが起きた。
少しびびったがどうやら本人に今までの覚えはないらしい。
それどころか後で判明した事だがキョンにも古泉にも、長門さんにも記憶はないのだとか。
まるで俺だけが体験した悪夢のようであった。
とにかく、かいつまんだ説明を彼女にする事に。
「……にわかには信じがたいわね」
「オレだって気のせいだと思いたいけど」
ロッカールームに仕舞っておいたベンズナイフを取り出す。
朝倉さんに再び渡して。
「これを持った朝倉さんに襲い掛かられたのは事実らしい」
「そんな……」
気に病む必要はない。
俺にも悪い部分があるらしいし。
何より。
「オレに遠慮しなくていいよ。言いたい事は言ってくれて構わない。喧嘩するほど仲がいいならオレたちはその分喧嘩しなきゃ駄目じゃあないか?」
「嫌よ。私は明智君が好きになってくれたままの私を見てほしいもの」
「まさか。月並みだけどオレは朝倉さんそのものが好きなんだから、今更嫌いも何もあるかよ」
皮肉を言われるだけならいいだけ言われてた気がするしね。
馬鹿とか何とか言われても俺は君を信じている。
少なくとも俺は信じたまま行動してきたんだから。
とにかくこの日を境に俺と朝倉さんの関係が少しばかり変化したのは事実だ。
歪んでしまったのか、それとも矯正されたのか。
それは不明だが未来の俺が自分に満足しているならそれでいいのさ。
俺は納得している。
「……ねえ、明智君」
「何かな」
――さて。
その日の夜の話。
朝倉さんの寝室。
俺がピロートークなるものについて語るのは多分これが最初で最後だ。
人様に語って聞かせる事じゃないからな。
ただの報告だよ。
「あなたは私に迷惑をかけてる、だなんて気負う必要はないの。私だってこれからわがままを言わせてもらうわ」
「やっぱり今更だ」
「だから」
空の青さというのは決まった色ではないらしい。
太陽光の反射だとか云々によって人間の視覚がそう判断しているに過ぎない。
否、色自体が曖昧なものでしかないのだ。
俺の世界はそうだった。
だが、今日ではない。
例えこの部屋のように暗がりの中でも、俺は朝倉さんの瞳の色がわかる。
理解ってのは目に映るものをしっかり把握して、それでもそれは理解の助けにしかならない。
それだけ難しい。
それでも俺は彼女を理解したいと思う。
必ず。
「私の全てを受け止めてよ」
わかった。
約束しよう。
――で。
「薄々感付いてましたよ。あなたの仕業だろう、と」
休み明けの月曜日。
昼休みの文芸部室に俺は呼び出された。
誰か。
長門さんではない。
彼女はいなかった。
現在、室内は俺と呼び出し人の二人きり。
「余計なお世話でしたか?」
「全部、あなたのシナリオ通りだったんですかね。喜緑江美里さん」
返答次第では薄緑にしてやってもいいんだが。
とにかく、食えない女性なのは確かだった。
ワカメ髪のくせして、食えないとはこれ如何に。
「禁則事項、って事でお願いします。……ね?」
ね。
じゃあねえよ。