――向寒の候、日ごとに秋が深まっていた高校三年の十一月某日の話。
高校生活最後の文化祭もなるたけ悔いが残らぬように大いに楽しんだ。
SOS団による自主制作映画も第三弾にして事実上の最終作となったわけだけど、それに恥じぬ大作になった。
なんせ上映時間が二時間オーバー。おかげさまで編集作業で徹夜づけの日々だったのは言うまでもない。
文化祭の話はまたの機会にお話しさせていただくとして、今回は少々私事ながら情けない話である。
というのも件の編集作業の無茶がたたったのか俺は体調を崩してしまい朝から寝込んでいた。
「……う、うう」
二度寝三度寝を経て今に至るわけだけども風邪薬の効きはイマイチらしく安眠までは今しばらく時間がかかりそうだ。
ジーザス、頭痛がするし吐き気もする。文化祭中は学校中を動き回ってたってのに。
あるいはマヌケなことに文化祭明けで緊張が解れてしまったに違いない、二徹三徹もザラだったし。
いずれにせよ異世界人だろうがなんだろうが風邪を引くときは引くもんだから困る。
当然学校は休んださ。枕元の置時計のライトを起動させて現在時刻を確認すると午前十時数分で、もう二時間目に入っているのか。
遮光カーテンを閉め切った薄暗い部屋でただただ自分の回復をひた願うばかりの一日かと思われた。
が、それをよしとしなかったのはあろうことか当事者の俺ではなかったのだ。
布団にくるまりながら暗がりの天井をぼーっと眺めていると、ふいに自室の扉がノックされた。
母さんが何か用でもあるのだろうか、正直声を出すのもおっくうなほどなので無言のままでいるとついに扉が開かれた。
夜目が利いたおかげで侵入者が誰かはすぐにわかった。静かな足どりで部屋に入ってきた人物は俺の母親などではなく、長い姫カットの青髪を携えたあのお方である。
「あ、朝倉さ、ゲホッ」
俺は思わず上体を起こしてしまう、と同時に盛大に咳込んでしまう。
当然のように朝倉さんが平日に関わらず俺の家に来たからだ。
ベッドに寝そべっている俺の方まで近づいてきた朝倉さんはゆっくりと俺の額に右手を添えてから。
「酷い熱よ、寝てなきゃだめじゃない」
いや、俺はこの状況が理解できないのだけど。
何故君がここに来ているんだ。学校はどうしたんだろうか。
朝倉さんが制服姿なのを察するに学校を抜けてきたんだろう。
何もわざわざそこまでしなくても、などと思っていると朝倉さんはあっけらかんとした様子で、
「学校は早退してきたわ。……それより」
寝てなきゃ駄目、なんて言っておきながら朝倉さんはスタスタ窓辺まで歩いて行ってぴしゃっとカーテンを開けた。
外の光に目がくらむということはないが、朝倉さんの表情からは並々ならぬ気迫を感じた。
なんというか、上から来るようでいて下から来るようでもある、そんな感じだ。
「明智君、私に連絡してくれたらすぐに家まで行ったのに」
そこまで事態は急を要していないし、俺の病欠については問題なくホームルームで岡部教諭の口から告げられているはずである。
こちら側としては朝倉さんが来てくれて嬉しさ半分戸惑い半分なわけで。
「いやいや、熱も38度あるかどうかだからね。一日ゆっくりしてたら治るよ」
だから安心して君は学校へ戻ってくれ、と俺は言外に伝えた。
朝倉さんにもその意はしっかり伝わったのだが。
「私が来たからにはもう安心よ、今日は私があなたの助けになる番だから」
なんて言いながらにかっと笑っていて、どう見ても帰る気配は見受けられない。
だいたい早退してきたって、そんなにあっさり抜け出せるものなのだろうか。
それに日ごろから助けになってるというかお世話になっているのは間違いなくこっちの方だ。
朝倉さんはベッドから這い出ようとする俺を制して完全に横に寝かしつけると俺の顔を覗き込みながら得意げな表情で。
「さ、なんでも言ってちょうだい。私は明智君と手となり足となるわ」
普段だったら「なんでも」という魅力的なワードにいらぬ反応を見せてしまいかねないけど、生憎と俺はそこまで余裕がなかったさ。
とりあえず水枕の交換と喉が渇いたから何か飲み物を持ってきてもらうよう注文すると朝倉さんは即座に部屋から出て行った。
頭が上がらないとはまさにこのことに違いない。俺は朝倉さんに感謝すると同時に愛想を尽かされたくないので回復したら俺も何かしてあげねばという使命感に駆られた。
かくして献身的な宇宙人こと俺の彼女は、ほんの数分で俺の部屋に戻ってきた。
タオルにくるんだ水枕を俺の後頭部にセットすると俺の前の前にすっとマグカップが差し出される。
「生姜湯よ」
個人的にはキンキンに冷えたスポーツドリンクあたりをがぶっと飲みたかったがこちらの方が身体にいいのは言うまでもあるまい。
古くでは生姜は薬用漢方として処方され、今日でも変わらずに頻用されているとか。
俺は再び上半身を起き上がらせてマグカップを受け取ろうとしたが朝倉さんはすぐに手渡さず、マグカップに口元を近づけて。
「ちょっと待ってて……ふふっ。熱いからふーふーしてあげる」
フーフー吹くならファンファーレでも吹く方が愉快な光景なのだが、これはこれで悪いもんじゃない。
この光景を第三者が見ているのならばいざ知らず現在俺の部屋には朝倉さんと俺しかいないので恥ずかしがりもしない。
そもそも今更羞恥心などあろうはずもなく、どちらかといえばこそばゆい感じがした。
で、それから改めてマグカップが差し出されたので俺はありがたく頂戴することに。
すするように飲む。うむ、熱い、そして辛い。
「本当は私が治してあげるのが一番早いんだけど……」
ちびちびと生姜湯を口に含んでいる俺を見て申し訳なさそうに言う朝倉さん。
確かに彼女の技術力――風邪が原因ではないが原作で長門さんがキョンにナノマシンを注入していたっけ――なら地球上の万病に対応することが可能に違いない。
しかしながら俺はその力のお世話になるのを遠慮させていただいている。
深い理由はない、が強いて言うならズルしてまで生理現象を誤魔化そうとは思えないだけさ。
要するに俺のエゴであって、朝倉さんが無力感を感じるのはお門違いではなかろうか。
その旨を述べると朝倉さんは「そうね」と肯定してから言葉を続け。
「でも、もし明智君が現代医学でどうにもならないような病気にかかっちゃった時は容赦なく治しちゃうから」
慈しむような顔をしながらこれまた喜ぶべきなのか怪しい発言を俺へと投げつけてくれた。
それから時間をかけてゆっくり生姜湯を飲み干すと身体は多少暖まった、ような気がする。
いわゆるプラセボ効果なのだろうが、ともかく俺は途端に眠気に襲われてしまう。今なら安眠できそうだ。
「……悪いけどオレはちょっと眠らせてもらうよ。なんなら帰ってくれて構わない」
「わかったわ。ゆっくり休んでちょうだい」
マグカップを彼女に渡すと俺は身体を再度横にして瞼を閉じる。
少し離れた場所からカラカラと静かな音がする、朝倉さんがカーテンを閉じてくれたらしい。
指の一本も動かさず、ただただ固まっているとやがて感覚が失われていく。
どうやら今まさに俺は眠りにつこうとしているようだ。
「お休みなさい」
薄れゆく意識の中、優しい声色で俺に向かって朝倉さんがそう言ってくれたようだった。
睡眠とはレム睡眠とノンレム睡眠の二種類が周期的に繰り返すさまを指すのだが、夢を見ない俺にはどちらでも関係のない話である。
本当に夢を見ていないのか、あるいは夢を見ていたという事実を忘れているのかは知らない、が、現に夢らしい夢の記憶が皆無なので考えるだけ無駄なのだ。
閑話休題。そんなことはどうでもいいのさ。まどろみ数分にしてグースカ眠りについた俺が次に目覚めたのはそれなりに時間が経過してからだった。
ぱちりと目を開くと寒気が引きつつあるのか心なしか少し楽になっていた。もっとも未だに喉はイガイガするし身体はダルいけど。
時間を確認しようと寝返りをうって置時計へ手を伸ばすと。
「おはよう。今は三時半よ」
驚いたことに朝倉さんがまだいたようだ。てっきり帰っていると思ってたのに。
時計を見ると確かに午後十五時三十分を指していて、もう学校も終わっている時間だ。
俺は若干戸惑いながらも。
「もしかしてずっと家にいたのかな?」
「もちろん」
しかしこんな家にいても退屈なだけだろう。本当に帰ってくれてて構わなかったのに。
ありがたいけど非情に申し訳ない気持ちでいっぱいだ、なんて言うと朝倉さんは微笑みながら首を横に振って。
「ううん、明智君の寝顔を見ているのも面白かったわよ」
そうだろうか。世間狭しといえど俺の寝顔観賞なんかに時間を費やしてくれるのは朝倉さんぐらいなはずだ。
で、さっそくだが寝起きにして小腹が空いてしまった。思い起こせば朝は冷蔵庫にあった十秒メシこと某ゼリー飲料しか口にしていない。
いずれにせよ多少なりとも食欲が出てきたということは回復の兆しが見られているということに他ならない。
朝倉さんもその辺を察してくれたのか。
「お腹すいたでしょう。ちょっと遅いけどお昼にしましょ」
なんて言うと小走りで部屋から出ていってしまい、数分もせずに帰ってくるや今度は小さな土鍋を持っていた。
彼女の両手には鍋つかみが装着されており、ひょっとするとおでんかと思ったが流石に違うようだ。
いつの間にか引っ張り出されていた折り畳み式のファッションテーブルの上に土鍋を置くと。
「お粥よ。出来立てじゃないけど温めなおしてきたわ」
定番のメニューである。とはいえ家事スキルMAXの朝倉涼子にかかれば平凡な一品とて化けてしまう。
俺はその辺をとっくにご存知なので正直早く食らいつきたかった。だが土鍋ごと持ってこなくとも茶碗に入れてくれればよかった気がするのだけど。
すると朝倉さんは土鍋の上蓋を取り、れんげでお粥をすくうと俺の口元へと差し出してきた。
「はい、あーんして」
本当に本当にありがとうという言葉しか見つからない。
というかなんとなくだけど朝倉さんの方はこの状況を楽しんでいるような気がする。
はたして宇宙人に母性本能があるのかはわからないが今後も俺は朝倉さんにかなわないままなのだろう。
さて、肝心のお粥の味なのだが、どこをどう工夫すればこんなに美味しくなるのやら。
具材らしい具材はなく卵をといただけの比較的オーソドックスな代物だったが下地がダンチだ。
母が出してくれるようなものといえば精々が塩味がするかな程度だけれど朝倉さんが今回出してくれたのはダシがきいていた。
生憎と俺の舌では昆布の風味がして醤油で味を整えているようだということしかわからないが他にも何かと仕込みがあるのは容易に推測できる。
ともあれ至れり尽くせりとはまさにこのことだ。
「そうそう、すりりんごもあるけど食べられるかしら?」
地上に舞い降りたマイエンジェル朝倉さんが出してくれるものを誰が無下に拒めよう、そんな奴がいたら出てきてほしいもんだね、ブン殴ってやる。
それにしても馬鹿は風邪を引かない、の理屈でいえば俺はどうやら馬鹿ではないらしい。
最近こそ言われなくなりつつあるがかつては毎日の如く朝倉さんに「ばか」呼ばわりされてた気がする。
とまあ俺が風邪で学校を休むなんてのは大変珍しいことであり、なんだって三年のこの時期になっちまうんだか。
元より俺に皆勤賞はないわけだが。何故かって。
「……あの時を思い出すわね」
俺が食事を終えるや否や朝倉さんが食器類を片すと彼女はどこか憂いを帯びた表情でそう言った。
もう二年ぐらい前になるのか。紆余曲折の末に朝倉さんと俺は男女交際することになった――実際にはそれよりも前から体裁上は付き合っていたわけだ――が、その折に俺と朝倉さんは一日ばかり学校を休んだ。
あの時と今とでは立場が逆で俺が看病される側ってわけさ。
「色々あったっけ。あっというまの高校生活だったよ」
「そうね」
なんて過去を懐かしむにはいささか時期尚早な気がしないでもないが、俺たちが高校に通う残り期間など正味三か月もない。
冬休み明けてからはすぐセンター試験だし、二月はほぼほぼ登校しない。
で、三月に入れば即卒業。あの部室ともお別れになってしまう。
「私、楽しかったわよ。もちろん今も楽しいけど、明智君のおかげかしら」
そう言ってくれれば冥利に尽きるといいますか、俺の身勝手で君を助けたばかりにこうなったんだけども。
ところでよくよく思い出せば原作で朝倉さんは生存しているような描写があった。驚愕で。
もっとも一年生の時の俺は驚愕を読んだという記憶が抜け落ちてたわけで、細かいことは気にしない方がいいだろ。
今日は我が母も空気を読んでくれているのか余計な茶々を入れてこない。真の平穏だ。
このまま時間が止まってくれるのも悪くないのに、などとしんみりしていると急に朝倉さんがずいっと顔を近づけてきて。
「ねえ」
「な、なんでしょうか」
「明智君は子ども、何人欲しい?」
一切の邪気がない笑みでそんなことを突然言われたものだから俺は盛大に咳き込んでしまった。
ちょっと待ってくれ。そういう話は俺たちにはいくらなんでも早すぎるでしょう。
若干の恐怖を覚えつついっそタヌキ寝入りでもしてやりたい気持ちに駆られながら俺がそう言うと。
「早くないわよ。だいたいあなた私にプロポーズしてくれたじゃない、自分で言ったことも忘れたのかしら」
「まさか」
それは今年の一月ごろにまで遡るが、俺は彼女に対してちゃんと言ってやった。
二年の時の冬休み明けの某日の通学中に勢いで。
「朝倉涼子さん。オレと結婚を前提に付き合って下さい」
断られたら軽く首でも吊る予定であったが、朝倉さんは何言ってるのといった表情で。
「あら、とっくにプロポーズは受けてたはずよ」
う、ううん。俺はそんな風なことを言った覚えは、あるかもしれない。
いやしかし明言した覚えまではないぞ。こういうのはケジメが大事なのだ。
何はともあれ朝倉さんの返事は。
「うん、それ無理。だって明智君には必ず私と結婚してもらうから、後から解消されるような関係にはなりたくないの。よろしくね」
彼女の中では前提どころかもはや不文律と化していたらしい。
おどけた顔で返事をくれた朝倉さんも中々に可愛かったね。
いやいやここまではただのままごとレベルで済むけども、子供の人数などままごとでは言及しないだろうに。
目の前の朝倉さん曰く。
「大学卒業したらすぐよ、ジューンブライドでしょ?」
こんな弱っている時にそんな話をされてもマジに困るってやつだ。
社会に出て早々に結婚など今時珍しいに違いない。
「そうかしら。宇宙人と異世界人のカップルより珍しいものなんてないと思うわよ」
それを言っちゃあお終いだぜ。この世界が平和なのはひとえに涼宮さんの精神が大人になってくれたおかげであって、不思議であふれかえってないのが救いだ。
とにかく俺たちの婚期についてはまたの機会に考えようではないか。うむ、それがいい。
でも一姫二太郎がよかったりなんか思っている俺は結局のところ馬鹿なのである。
「ジューンブライドって、6月は梅雨にぶつかんなきゃあいいけどさ……」
「大丈夫。いざという時は晴れにしちゃうから」
いや、駄目でしょう。確か原作で長門さんが天候操作は推奨できない的な発言をしていたぞ。
怖じ怖じとその旨を朝倉さんに伺うと彼女は淡々と。
「問題ないわよ、地球の生態系に悪影響が及ぶほどの後遺症が発生するのは早くても約数百年後になるわ。その頃には私たち死んじゃってるし、そもそも後遺症がないかもしれないの」
そんな未来への遺産は嫌だ。どうせタイムカプセルを埋めるならもっといいものを未来へ託すべきなのだ。
俺は自分の子孫に文句を言われたくはないぞ。
「情報操作の必要がないことを祈っておこうかな……」
「ふふっ。式はどこがいいかしらね」
いや、だからその手の話題は向こう二、三年ほどは勘弁して下さい。
そんなやり取りをしているうちにSOS団の皆が俺を見舞いにやってきて、キョンから「アホップル」呼ばわりされたりもしたが、これもいい思い出になったと思いたいね。
もちろん風邪は翌日にはすっかり良くなったということを補足しておこう。