第三十一話・偽
十二月十八日。
俺は普段通りに学校へ行って普段通りに一日を終える。
と、真底心から思っていた。
最期に原作を読んだのがいつだったかなんてのは俺自身が知る由もないことなのだが、それでもここまで腑抜けきっていた俺はとある奴に言わせれば『危機感が足りない』ってヤツなのかもしれない。いや、その通りだった。
朝、いつものように布団から這い出て缶コーヒー片手に軽いネットサーフィン、それを切り上げて朝食を済ませば制服に着替えて登校開始だ。
季節柄しょうがないことなのだが朝は特に冷え込んでいる、ともすれば「だるい、休みたい」などと弱音を吐くキョンの気持ちもわからなくもない。
「……誰が弱音を吐いてるって?」
お前だよ。
「俺はそんなこと言った覚えなんかないんだがな」
通学路も馴染みの坂道に差し掛かったあたりでキョンに遭遇、この会話はえっちらおっちら歩きながらのものだ。
お互いコートを着込んではいるものの着ないよりマシだという程度の効果しか得られないのは北高の制服が防寒性に長けてないからではなかろうか。
だからこそ寒い冬を乗り切るにはアツアツ鍋だ、数日後の鍋パーティはそこそこ楽しみだったりする。まあ闇鍋ゆえに何があるかはわからない、靴下を食わされるのなんかまっぴらごめんだ、それが万が一にでも古泉のだったりしたら俺はあいつとの接し方を考えなければならないだろう。キョンなら無難な食材をチョイスするだろうしそんな心配はないってわけさ。
念押しの意味も込めてキョンにその旨を確認しようと思った俺だったが、
「いよっ、皆の衆」
後ろからやってきた谷口に会話を遮られてしまう。間が悪い。
ハハハと朝からご機嫌なのには理由がある、言わずもがな谷口にはイブの予定ができたからだ。最近どうにも天狗状態ではなかろうか。ノリが良すぎて引いてしまう。
そんな調子じゃうまくいくものもうまくいかないぞと彼に言ってあげるとこれまた調子に乗った様子で、
「心配してくれてんのか? まぁ俺に限っちゃ問題ねえ」
ご覧の有様。
「お前のその根拠はどこから来る」
と谷口に対しもっともなことを言うキョン。
「場数が違うのさ場数が」
数だけは多いの間違いだと思うけどね。
こんな谷口のガールフレンドは確か周防九曜だ。【分裂】でそう言われてた気がする。
そいつが何者かはハッキリしていないが朝倉さんや長門さんたちとは別種類の宇宙人で、こちらに友好的な存在とは言い難いらしい。
正直なところそんな輩とは関わりたくないしなるべくなら雪山症候群なんて事態は避けたい。だが原作のことを考えればそうも言ってられないのだろう、辛いところだ。
「んなことよりよ、明智。俺はお前の方が心配だぜ」
俺が今後の成り行きを憂いでいると谷口がこんなことを言い出した。なんでだよ。
谷口はキョンと顔を合わせてから頷き、芝居がかったようにため息を吐いて、
「まだわかんねえのか……けっ、朝倉のことに決まってんだろ」
「ん、あぁ」
流石に察した。
俺としては他人に触れてほしくない話なんだけど。
「明智のどこに朝倉が惚れ込んでんのかは知らんが物事には限度ってもんがある」
「お前が言うのか?」
国木田みたいな突っ込みを入れるキョン。
それに対しうるせえ、と一言おいてから谷口は言葉を続け、
「年に一度のこのチャンスを活かさなきゃだぜ。朝倉のファンは多いんだからよ、まあぼやぼやしてっと後からきたヤツに追い抜かれちまうな」
耳が痛くなるような話をしてくれる。
俺とてその主張はわからなくもないし、きっと間違っていないのだろう。
しかしながらそれはごく普通のカップルでしか成立しないような前提だ。朝倉さんが宇宙人だとかそれ以前の問題として俺たちは"付き合っている"とは言えないわけで、いわゆる仮面カップルなのである。
キョンもそのことは承知なはずなのだが最近ではめっきり俺を煽る側についている。理不尽だ。
「……善処するよ」
最近ではこちらの方が口癖になりつつあるな、と思いつつ吐き出す。
キョンと谷口に並んでゆっくりと坂道を登っていく俺だったが、この時点で気づけなかったのは何故なんだろうか。
教室に到着した段階で異変に気づくべきだった。
のろのろといつもの席に座るキョンの後ろにまだ涼宮さんがいない、俺たちはチャイム間際に到着したというのに。
彼女とて人間だ、こういう時もあるさと思いつつ俺は俺で自席につこうとする。
「おはよ、明智君」
これまた定位置と化した俺の真後ろに座る朝倉さんがあいさつをくれた。
普段通りのやりとりだが心なしか朝倉さんの笑顔がいっそう眩しく見える、谷口にあんなことを言われたせいか。
俺は鞄を机のフックにかけながら、
「おはよう、朝倉さん」
「ちょっと来るのが遅いんじゃないかしら?」
さっそくザ・委員長なお言葉を頂戴した。
一応、彼女なりに俺のことを気にかけてくれているのかね。あるいはプログラミングされた行動の一つなのか、俺には知る由もないんだけども。
「一緒に入ってくるのが見えたからわかると思うけど、あいつらに付き合ってたから遅れたのさ」
「そう? ならいいとは言わないけど道草もほどほどになさい」
善処するよ、と喉まで出かかったが堪える。
「わかった、気を付けるよ」
それから数分とせずにチャイムが鳴り、ホームルーム、からの一時限目となった。
二、三時限と経過しても涼宮さんは未だ教室に来ていない。
でもってお昼休み。
今日は水曜日なので男子四人で飯を囲む日だ。
「ほんと、ここのところ冷え込むよね」
弁当箱の中にある鯖の切り身を箸でほぐしながら語るのは国木田。
「他のクラスじゃ風邪で休んでる生徒も多いって聞くし」
「なんでうちは平気なんだ? 学級閉鎖の"が"の字もねえ」
どか弁を口にかきこみながら訊ねる谷口。
「さあ。でも学級閉鎖になっちゃったら冬休みが削られるかもしれないでしょ、それはやだな」
実に同感だね。
ところで病欠の話題にもかかわらず涼宮さんが話題に出ないのは不思議だな。
子供は風の子を地で征く彼女が休むことなどまずないというのに。
だがキョンが気にしていないのだから俺が気にしてもしょうがないというものだ、と切り捨てた。
この判断が正しいかどうかはさておき、現実問題として世界はとっくに変わっているということに俺は気づいていない。まだ。
そんな平和ボケ中の俺をよそに話題は懲りずにクリスマスのこととなる。
「まったく明智や谷口は気楽でいいよな」
自動販売機で買った紙パックの牛乳片手にキョンが口を開く。
「流石に十五年も生きれば悟るぜ、俺みたいな奴にとってクリスマスは企業のキャンペーンでしかない」
サンタクロースを信じているであろう純粋無垢な妹さんが可哀想に思える情けない腐れ兄貴だ。
谷口はともかく俺も特別何か予定しているわけではないんだけどな。
いつも以上に淀んだ視線をキョンから向けられている気がする俺は助け舟を求めるかのように国木田に振る。
「オレのことはいいから……そうそう、国木田はどうなんだ?」
「僕かい? 残念だけど僕も相手はいないよ。紹介してほしいぐらいだね」
申し訳ないことに俺の知る範疇の女性に普通の人間と呼べるお方は皆無なんだなこれが。鶴屋さんは宇宙人でも未来人でも超能力者でもないれっきとしたこの世界の人間だろうが、身分からして普通と言えないのが正直な感想だ。
まあ国木田よ安心してくれ、俺もそのうち朝倉さんに「ごっこ遊びはおしまいにしましょう」と告げられてもおかしくない立場なのさ。
そりゃあ俺だって曲がりなりにも健全な男子高校生ゆえ、朝倉さんが魅力的な存在だとは常々感じている。
しかし、だ、文字通りに"住む世界が違う"んだから会えただけでも感動モノだというのも事実で、付け加えると俺が彼女を助けたのも客観的に見て押しつけがましい偽善に起因するものだ。
やらない善よりやる偽善とは言うが俺の行動はこの世界にとって有益なものだったのだろうか。
少なくとも原作のようにキョンが朝倉さんに対して嫌悪感を抱いたりはしていないし、クラス委員である彼女のおかげで学級全体にプラスの力が働いている、いいことだ。
そう、結局のところ俺は逃げ続けている、保留にしている。
わかっているさ、こればかりは正しくないってことは。
「浮かない顔をするんじゃねえぜ兄弟、そのうちいいことの一つや二つ、転がり込んでくるからよ」
谷口は国木田とキョンに対して言ったのだろうが、俺にとっては気休め以下の戯言だった。
否、戯言だとしか受け取れない俺が歪んでいるだけなのだ。
「そうかい」
キョンが呆れた顔で谷口を見る。
まさしくいつも通りのたわいない世間話。
オーライ、そろそろ本題に入ろう。
ようやく俺が事態を把握するのは放課後になってからのことだ。
つつがなく終礼して掃除当番以外の連中は各々散開していく、ただ残っているだけの人もいるにはいるが、直帰しない奴というのは往々にして部活組である。
SOS団がクラブ活動かどうかなんて議論は生徒会の連中に丸投げするとして、俺たち団員はたとえ団長不在であろうと一先ずは部室に集合すべきなのだ。
まだまだ部室の飾りつけ作業が残ってるしね。
そんなこんなでSOS団が間借りしている文芸部部室へと足を運ぶわけだが、教室を出た朝倉さんは通りがかりに隣のクラスの一年六組を覗いて、
「……はぁ、まったくあの子ったら」
とため息まじりに呟く。
そして俺に鞄を「ごめん、ちょっと預かっててくれる?」と押し付けると、そろりそろりと教室内へ進んでいく。
どうしたのだろうかと俺が思うよりも早く、気が付けば次の瞬間には目を疑うような光景。
朝倉さんが近づいているその先にいる女子生徒らしき人、彼女は机に突っ伏して小刻みに背中を揺らしている、ここまでならただの寝坊助ガールで済むのだが問題はその女子生徒があの長門さんのようだということ。
驚くのはここからで、朝倉さんは長門さんの席の前に立つと右手を振り上げ拳を握りそのまま長門さんのつむじめがけてゲンコツをかましたのだ。
ごつん、と擬音が聞こえそうなくらいのものであり、
「ぎにゃぁぁっ!?」
このような奇声を発したのは他の誰でもないゲンコツを受けた長門さんで、ようやく見せた顔は苦悶の表情、しかも涙目で「い、痛い……」と呻いている。
当然だ、あれを喰らったら俺でも絶叫する自信があるね、間違いなく。
――うん?
苦悶の表情だって? 長門さんが?
原作では散々無機質だの無感情だのとキョンに評され続けてきたあの宇宙人の長門有希が、朝倉さんに胸を串刺しにされようと声一つあげなかった長門有希が、たかがゲンコツ一発で悶絶するなどと誰が信じられよう。
思考がままならない俺をよそにキョンは落ち着き払った様子でやれやれポーズ。
朝倉さんは長門さんの首根っこを掴みながらズルズルと引きずってこちらに戻ってきた。
「さ、行きましょ」
廊下の真ん中でようやく解放される長門さん。しりもちをついた状態。
こ、これは新しい宇宙式コントなのか、理解が追い付かぬ。
「立てるか? 長門」
手を差し伸べるキョン。
長門さんはぎこちない所作で彼の手をそーっと握り、
「あ……そ、その……ありがとう……」
「ど、どういたしまして?」
「…………」
いつも雪のように真っ白な彼女の頬が朱色に染まっている、まさしく嬉し恥ずかし。
いい加減に誰か教えてほしいんだけど、このラブコメちっくな様相はいったいなんなんだ。
言葉もまとまらぬまま俺が何か言おうとするよりも先にパンパンと両手を叩いて音を出した朝倉さんが、
「はいはい二人とも、そういうのは隠れてやってちょうだい」
ぴしゃっと言い放ったことでキョンと長門さんの二人は慌てて離れる。
ほんと、まるで意味がわからないやりとりだった。今からクリスマスパーティのかくし芸大会の練習でもしてるのだろうか。
気を取り直して四人で廊下を歩き、部室を目指していく。
それはそうとこのメンバで行動ってのはなかなかに珍しい。例え数分もせずに到着する道のりであろうと、珍しいものは珍しいのだ。
だいたいからして長門さんはいつも気が付けば先に部室にいる――もしかすると授業を受けていないのではないかとさえ思う――からね。
だからこそ長門さんが教室に、しかも居眠りなんてのはもうこれだけで涼宮さんが、
「ふふん? 有希が居眠り? 信じらんないわ。……そう、きっとこれは何かの前触れね。地球外生命体が何らかのアクションを起こすみたいな」
などと言い出してもおかしくないレベルの事態なのだが都合よく本人は不在だ。しょうがないというもの。
スタスタと先行する女子二人の後を追うように俺とキョンは歩いていく。
朝倉さんは長門さんと世間話、もとい一方的に語りかけており、
「長門さん、昨日は何時に寝たんですか?」
「……」
「また遅くまで――」
こんな話し声が聞こえてくる。
いや、それにつけても寒さを感じずにはいられない。
公立高校の廊下はもうハリボテなんじゃないかってぐらい冷気が漂っており、生徒はもれなくコートやカーディガンの類を羽織るなどして各々防寒策をとっている。俺たちとて例外ではなかった。
曲がりなりにも進学校と銘打っているのだからもう少しばかりどうにかならなかったのかな。困るぜ。
気候の変化はライフスタイルにも大なり小なり影響を与える。
夏の間は中庭で朝倉さんとお昼をとっていたけど、ここのところは部室に行って電気ストーブという申し訳程度の暖をとりつつ朝倉さんの美味しいお弁当をいただいているというわけ。
その折に長門さんがいることが往々にしてあるのだが言うまでもなく俺は落ち着かないのだ。
「わたしのことは気にしなくていい」
等とこちらに一瞥もくれずに読書をする長門さんはいったいいつお昼ご飯を食べているのやら。
ひょっとして栄養食品あたりでパパっと済ませているのかも。だとしたら感心しない。
長門さんが早弁しているとも思えないし、自分で用意してなけりゃ学食かね。
いつぞやの合宿でわからされたことだが彼女は見かけによらずたくさん食べる、早食いだって得意なはずだ。
涼宮さんは基本学食らしいから今度それとなく長門さんが学食に普段通ってないか訊ねてみよう。
閑話休題。
実に長い前フリだったが、まあご容赦願いたい。
それほどまでに俺にとって衝撃かつ驚愕な出来事だったのだから。
「しっかし、人生何があるかわからんもんだな」
部室棟の階段を上っている最中、キョンが呟くように言う。
ちんたら歩きの男子に比べて女子は早く、一階分は差が開いていそうだ、上を見ても姿は見えない。
とりあえずキョンの言葉に反応しておこうか。
「何の話さ」
「谷口だ」
「ああ」
納得。
原作中では詳しく語られていないが、俺が彼を見ている範囲で「ナンパが上手くいったぜ」だのといった女遊びに関するポジティブな発言を耳にしたことはない。
もちろん成功していた黙っている可能性もあるかもしれないものの、なんかこう雰囲気みたいなものからして調子づいているのは中々に珍しいのである。
「相手は私立校のお嬢さんだとよ。今世紀トップクラスの謎だな」
「美女と野獣みたいだって?」
「少なくとも俺はあいつが血統書付きのお利口なイヌには見えん、餓えたケダモノだ」
普段の彼の態度を見ている手前反論のしようはない。
もっと言えば今回のケースは谷口のナンパが成功したわけでは決してなく、周防九曜の方からひっかけてきた形なのだ。ううむ。
そう、人生何があるかはわからない。
俺がこうやって物語の世界に入り込んでしまったように、涼宮ハルヒが常識を置き去りにしてしまうほどの力を持つように、先入観だけで物事を推し量っていては大きなしっぺ返しをくらう。
たったそれだけのハナシ。
ようやっと部室のある階まで行き、朝倉さんと長門さんに続いて部室に入った俺氏は今度こそ思考が完全にストップした。
「は……?」
目の前にあるのは部室。まごう事なき文芸部としての部室だ。
あるのは机と椅子と本棚そしてパソコン。
正直に言おう、信じられないし信じたくない。ドッキリにしてはタチが悪すぎるぜ。
だがいい加減に俺は察した。この違和感が何に起因するものなのかを。
「な、なあ……キョン」
できる限りの冷静さを働かせつつキョンに訊ねる。
椅子にコートをかける彼はドア付近で棒立ちの俺を不思議に思い、
「ん、どうした明智。そんなとこに突っ立って」
「お前さ、涼宮ハルヒ、って知ってるか」
「あん?」
なんだ、なんの話なんだ。と真顔でキョンは返答した。
「いや……いい、小説の話さ、気にしないでくれ」
俺は何事もなかったかのように取り繕い机に鞄を置き彼の横の席に一張羅をかける。
そしてパイプ椅子に腰かけ、深く深呼吸。
――マジかよ、ウソだろ
決まってはいけない事象が決定的になってしまった。
昨日これでもかとクリスマス装飾を施していたSOS団アジトが一夜にして殺風景な旧校舎の一角に早変わり、教職員のしわざとは考えられない。
そしてキョンが涼宮ハルヒというワードに一切の関心を示していない。
原作では「どうやったらあんなやつを忘れることができるんだ」とか言ってたのに。
他三人は何事もなく本を読んだりくつろいだりしている、もう放課後のいい時間だ、古泉や朝比奈さんが来ないことを気にしたりもしていない。
ない、ない、ない、否定ばっかりじゃないか。
「やれやれ、って感じだな」
声にならないぐらいに小さな声で俺は呟く。
とてつもなく恐ろしい想像が俺の脳を支配している。
つまり。
「……ジーザス」
俺をこの世界に呼び寄せた涼宮ハルヒが"消失"した。
異世界人である俺だけを残して。