森のピアノと 作:さがせんせい
真剣な眼だ。
それでいて、少し不安気であり、暗闇の中を歩き回って迷子になってしまったような……。
「話だけ聞くってのは、虫のいい話だよな。わかった、力になれるかはともかく、協力はするよ。あ、もちろんブラックなことは引き受けないぜ?」
「あんたはどういう眼で人を見てるわけ……そうじゃなくてさ。その、希美のことなんだけど」
夏紀は隣に座る子を指しながら話を進める。
どうにも、彼女――傘木希美は去年に吹奏楽部をやめたものの、顧問が滝戦線となり部活の在り方が変わったことで、吹奏楽部に復帰したいとのことらしい。
別に、いまから本番の席が欲しいわけじゃなく、けれども戻りたいか……。
「俺は完全に部外者なんだけどなぁ。なにをしろと?」
「あすか先輩の説得に力を貸して欲しいんだけど」
そして、目下最大の問題と言えば、低音パートの首領の説得だ。
希美としては、あすかさんからの了承を得たうえで部活に戻りたいのだとか。これは効率的な手段を選ぶだとか打算ではなく、彼女のけじめなんだろう。
「それは通さないといけないんだな?」
「うん……あすか先輩には恩義があるっていうか、あの人に認めて欲しいんだ」
「そっか……うん、なら仕方がない。俺からはなにも言えないしな」
なんて言ったものの、現状はなにも好転していなく、聞けば今日まで粘ってきたものの、あすかさんからは復帰の了承を貰えていないらしい。
あすかさんって効率的なやり方を選びそうだし、その上、どうも他人に関心を向けていない節がある。ああいうタイプは苦手なんだよなぁ。
「どうしたものか」
「一ノ瀬でも悩むことがあるのか」
夏紀が唸る俺を見てとても失礼な言葉を口にする。
「おまえは俺をなんだと思ってるんだよ……」
「さっきのお返しだけど?」
舌を出して小悪魔的な動作をして見せてくる夏紀。ブラック云々のことだろうか。
優子にといい、煽ってくるなぁ。
勝ち誇ったような顔しているけど、これくらいなら小学校の頃にもっと酷いものがあったし、気にすることでもない。
「むっ……」
俺の様子が気に入らないのか、若干頬を膨らませる夏紀に対し、希美が興味を持ったように話しかける。
「優子が男子相手に夢中になるのなんて初めて見たかも」
「夢中にはなってないよ。やられたぶんを返しただけだし」
「返せてる……のかな?」
「…………ノーコメント」
優子と接するときの気負っていない積極性とも、他の部員といるときに見るアンニュイなものとも違う。希美といるときの夏紀は、どこか熱を感じる。
それは、俺を表舞台に立たせようと奮闘してくれる阿字野に近いもののようであり、けれど遠いようでもあった。
っと、脱線してたな。
あすかさんにも復帰を認めない理由があるんだろうけど、そっちを聞いてみないことにはどうにもできない気がするんだよなぁ。けど、たぶん本心を話してはくれないだろうし、「部員じゃないキミには関係ないことだよ」とでも言ってきそうだ。
当たって砕けに行くのはどうなのだろうか。
「ふう……考えても仕方ないことか。とりあえず、あすかさんと話す際には俺も一緒に行くよ」
「いいの? 聞いておいてなんだけど、あすか先輩の圧凄いよ?」
「だったら滝先生に話を通して復帰すればいいだろ。でも、それじゃ納得できない理由があるから、あすかさんなんだろ? ならしょうがない。それを尊重するしかないじゃないか」
人によってはどうでもいいことであっても、当人にとっては他のなにかを蔑ろにしてもやらずにはいられない事がある。
どうあれ、納得のいく形にするには通らないといけない道があるなんてこと、とっくに知っているんだ。譲れないモノ、譲りたくないモノがあるなんてこと、自覚しているんだ。
「俺は他人だから、直接どうこうできるわけじゃないけど、それでも――手伝うくらいはできるよ」
支えられてきた。
悪辣な環境の中、俺がいま、こうしてピアノを弾けているのは、多くの人たちがいたからだ。俺にも、その僅かな手伝いくらいなら、きっとできるさ。
「ふふっ、なんか一ノ瀬くんを見てると、できる! って気がしてくるよ」
「流されないでよ、希美……こいつのは子供の能天気って奴なんだからさぁ。でも、ありがと。少しだけ元気出たよ」
来店した当初よりも明るい表情を浮かべる2人。
なにも解決はしていないが、気持ちは1歩前に進めただろうか?
「へいへい、子供の俺は退散しますよ。じゃあ、また明日」
「うん、明日ね」
希美が小さく手を振ってくるので、そのまま席を立つ。
またピアノの前で姿勢を整え、鍵盤に手を置く。
明日のことはひとまず忘れ、ピアノに集中しよう。面倒なことはいくらでもやってくるが、いまだけは。ピアノを弾く間だけは、雑念を捨てて、俺のピアノのためだけに――。
改めて、一ノ瀬のピアノに耳を奪われる。
聞こうと思わなくても、つい耳を傾けてしまう。そうして、行きたいわけでもないのに、森へと連れて行かれる。
「やっぱり、凄い……」
滝先生が連れてきた同い年の男子。
部活の終わった後に、優子のリクエストに応えた一ノ瀬が弾いたあのとき。それが私が初めて、あいつのピアノを聴いたときだ。
「一ノ瀬くん、凄いね……楽団でピアノソロを聴いたこともあったけど、全然違う……」
隣に座る希美が、その声音が、どこか弱々しい。
「練習、したんだろうなぁ。きっと、へこたれる時間もないくらい、練習したんだろうね」
「……希美?」
「うん、よし! やっぱり練習はウソをつかない!」
一瞬陰ったように見えたのは気のせいだったかのように、希美は満足そうに笑顔を浮かべる。
やっぱり気のせいか。
「にしても、一ノ瀬は謎が多いなぁ」
「そうなの?」
「そうそう。滝先生が連れてきた凄腕のピアニスト。いい奴だし、ピアノの腕は凄いけど、それ以外はよくわからない。時折達観した顔をすれば、子供みたいな笑顔をするし、落ち着いているかと思えば急に騒ぐし……」
「へぇ、そっかそっか」
「なに? なんでそんな笑顔なわけ」
「いや〜夏紀、一ノ瀬くんのことよく見てるんだなぁって」
「は!? ちょ、違うから。違う、違う」
「はいはい」
絶対勘違いされた。
本当、あいつは人を狂わせる。それでも頼ったのはきっと――。
「あ、そういえばアジ……阿字野? って人が一ノ瀬の先生って聞いたんだけど、それくらいだったなぁ。あいつ個人のことでわかってるのって」
「阿字野? それって、ピアニストの阿字野壮介!?」
意外なことに、希美は知っているようにフルネームで聞いてくる。
「ごめん、その阿字野さんかは知らないよ」
「えぇ……あ、でもそうだよね。阿字野壮介って、確か若い頃の事故でピアニストとしては引退してたはずだし……すっごいピアニストだったらしいけどね。ごめん、忘れて」
希美から出てくる情報を忘れるには遅すぎて。それらの情報は、しっかりと覚えてしまう。
阿字野壮介。事故で引退したはずのピアニスト、か。
1度湧いた疑念は消えることなく、残り続ける。
翌日。
放課後、もしくはあすかさんの都合がいいときに話を聞く手筈になっているので、空いている教室で各パートから漏れてくる音を聞きながらキーボードを弄る。
「あすかさんとの話が始まる前に連絡するって言ってたけど、普通に考えれば放課後になるよなぁ。もしかして練習参加させてもらってた方が良かったんじゃ?」
どうして空いている教室で一人キーボードを弾いているのだろうか。手っ取り早く、低音パートの練習に混ぜてもらえば良かった。
「はあ……ダメだなぁ」
やってしまったものはどうしようもない。
こういうときは弾くに限る。
曲に没頭していけば、より深く理解ができるし、練習にもなる。今日はいい風が吹いていたから、その風に乗せるように、どこまでも、どこまでも伸びていくように。
――どれくらい弾いているのか自分でも気になりだした頃。
突然に教室の扉が開かれ、小柄な影が飛び込んでくる。
「なんだ?」
息を上げながら入ってきたのは、みぞれだった。
俺に構うこともなく、教室の隅へと消えていく姿は、なにかから隠れるようであり、怯えているふうに映る。
「……なんだか、俺と阿字野が会ったときみたいだな」
あのときは俺がピアノの下で泣いていたんだっけ。それを落ち着かせるために阿字野がピアノを弾いて――そう、よく覚えている。あれ以来は聴いていないけど、それでも心に残ってる。
後で原曲を聴いて知ったけど、あのとき聴いたのは阿字野のアレンジだった。だけど、やっぱり残っているのは、俺が好きなのは阿字野の弾いた曲だった。
「…………茶色の、小瓶……」
弾き終わるのと、曲名がつぶやかれたのは同時だった。
振り返ると、物陰から少しだけ顔を出したみぞれが、こちらを覗いていた。