戦車道にのめり込む母に付き合わされてるけど、もう私は限界かもしれない   作:瀬戸の住人

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今回は何時もより少なめの内容ですが、前回同様史実を絡めた妄想話になっています(苦笑)。
但し、今回は“ガルパン本編には無関係な様で、実は凄く関係有りそうな話”なのですが…鉄道ファン以外には細か過ぎて伝わらないかも知れない(爆)。

其れでは、間近に迫った決勝戦前の一時をどうぞ。



第88話「いよいよ、全国大会決勝戦です!!」

 

 

 

此処は、夜明け前に鹿島臨海鉄道大洗鹿島線・大洗駅を出発して陸上自衛隊・東富士演習場へ向かう“大洗女子学園戦車道チーム用・臨時貨客列車”の中。

 

此の列車は「先頭が鹿島臨海鉄道の貨物輸送用ディーゼル機関車・KRD5+私達の戦車道チームの戦車を積んだ貨車が8輌+鹿島臨海鉄道の6000形気動車2輌(此れに私達が乗っている)+車掌車代わりに連結されたドイツ軍用装甲列車用の車輌1輌」で編成されていると言う、常識では余り考えられない代物なのだが、戦車道全国高校生大会・決勝戦へ初出場する私達の為に大洗町や鹿島臨海鉄道の皆さんが用意してくれた大切な列車なので、私達は一切文句を言わずに乗っていた。

 

そして夜が明けると車内では仮眠を済ませた皆が持ち込んだ弁当を開けて朝食を摂っていたのだが、其処へ良恵が“一寸した話”を私へ振って来た。

 

 

 

「嵐、最近戦車道の歴史を調べていて驚いた事が有ったのだけど……」

 

 

 

でも、私は彼女が振って来た話に心当たりが有ったので、笑顔を浮かべつつ……

 

 

 

『分かった♪』

 

 

 

「えっ、もう分かったの!?」

 

 

 

『良恵の事だから、鉄道ネタでしょ?』

 

 

 

と遣り取りをした後、彼女は苦笑いを浮かべて「バレたか♪」と呟いてから頷くと、私はこう答えた。

 

 

 

『多分、良恵が言いたかった事は“JRの前身に当たる日本国鉄の軌間、つまりレール幅が明治期からの狭軌(1067㎜)から()()()()()()()()(1435㎜)()()()()()()()()は、当時勃興したばかりの戦車道の関係者が政府に対して「狭軌では戦車が運べないのに、何故日本の鉄道を標準軌に改軌しないんだ!」と訴えたから”かな?』

 

 

 

すると良恵は「あっ、やっぱり知っていたんだ!」と驚きの声を上げた処、私は『御免ね、折角の話の腰を折っちゃって』と謝った後、此の話を知った理由を告げた。

 

 

 

『私は、みなかみタンカーズの座学に有った“戦車道の歴史”で何度も教わっていたし、地元に在るJR東日本の水上駅が「SLぐんまみなかみ*1」の発着駅になっている関係で鉄道が好きだから、よく覚えているんだ』

 

 

 

すると良恵が「そうだった。みなかみ町って鉄道の町だものね!」と答えてから……

 

 

 

「上越線の水上駅は今でこそローカル駅だけど、国鉄時代からの主要駅で通過禁止駅だから、今でも上越線の全列車が停車するし、かつては上越国境越えの機関車(補機)を揃えた水上機関区が在って、更に駅の近くには現役の転車台*2が有って……」

 

 

 

と、まるで“あんこうチーム(Ⅳ号戦車H型仕様)”の秋山 優花里先輩みたいに喋り続けていたら、何と彼女が座っている席の隣に当人が滑り込んで来て……

 

 

 

「原園殿に長沢殿、先程御話しされていた“国鉄の軌間と戦車の話”について詳しく知りたいです!」

 

 

 

と話し掛けて来た為、私は苦笑いを浮かべつつ……

 

 

 

『じゃあ、詳しい事は良恵に御任せしようかな♪』

 

 

 

と告げた処、彼女は笑顔で「はいっ!」と答えてくれた。

 

 

 

 

 

 

戦車道にのめり込む母に付き合わされてるけど、もう私は限界かもしれない

 

 

 

第88話「いよいよ、全国大会決勝戦です!!」

 

 

 

 

 

 

と言う訳で、此処からは長い話になるけれど“此れから始まる全国大会決勝戦”にも一寸だけ関わって来るかも知れない“戦車道と鉄道の関わり合いの歴史”について、良恵が語ってくれた話の内容を要約して紹介します。

 

 

 

1872(明治5)年10月14日に日本最初の鉄道として新橋~横浜間が開業後、日本の鉄道の軌間は一部の私鉄を除いて基本的には1067㎜で建設されていた。

 

此れを“狭軌”と言う。

 

しかし、明治中頃から鉄道の輸送量が増大するにつれて「国際的な軌間である1435㎜の“標準軌*3”に変えた方がスピードや輸送力の増大に繋がるのではないか」と考える人達が増えて行き、「狭軌の儘でもレールや路盤等の軌道設備の強化や車輌・鉄道システム全般の改良で輸送量増大は可能だ」と考える人達との間で論争が何度か生じる様になった。

 

此れを「改軌論争」と言うが、当時は日本の鉄道が成長期だった事や鉄道が国の発展に重要で有ると考えられていた為、此の論争は次第に政界を巻き込んだ大論争へと発展した。

 

特に1917年、当時の寺内 正毅(てらうち まさたけ)*4内閣の下で内務大臣兼鉄道院総裁を務めていた後藤 新平(ごとう しんぺい)*5が鉄道院の工作局長を務めていた島 安次郎(しま やすじろう)*6に命じて、当時の国鉄路線を対象にした具体的な改軌計画を策定させていた。

 

其の計画は総予算6447万円(当時)で、本州の約6600kmに及ぶ国鉄の軌道を1919年から1923年に掛けて狭軌から標準軌への改軌を目指したが、予算が膨大過ぎる等の理由で賛成者が得られず、最終的には寺内内閣の後を継いで首相になった原 敬(はら たかし)*7が改軌を拒否した事によって日本国鉄における改軌論争は1919年2月の国会・貴族院特別委員会で「広軌(標準軌)不要」の結論が出て終焉を迎えた…筈だった。

 

 

 

ところが翌1920年初め、後に日本戦車道の中心的存在となる西住流の御膝元・熊本県熊本市で思わぬ“事件”が起きた。

 

 

 

其の日、西住流がドイツから輸入したばかりのA7V戦車を国鉄の熊本駅から貨物列車で戦車道の試合が開催される福岡県福岡市迄運ぼうとした処、狭軌の国鉄路線では「貨車で運べる車輌の最大幅が3m迄なのにA7Vは全幅が3.1m有る為に運ぶ事が出来ない」と熊本駅の担当者から告げられた結果、福岡市で予定されていた戦車道の試合が“戦車を輸送出来なくなった”為に中止となったのである。

 

此の事件を切っ掛けに改軌論争の顛末を知った西住流を中心とする戦車道の各流派から「昨年の改軌論争で標準軌に変える事が出来ていれば、レール幅が広がる分だけ鉄道で運べる貨物の最大幅も広がるから、此の問題は遠からず解決出来たのに!」と、政府に対して怨嗟の声が沸き上がる。

 

しかも、当時戦車道が“社会進出が著しい女性の為の新たな武道”として世間の注目を集めていた矢先だった為、其の声に国民も呼応した結果、「広軌(標準軌)不要」を結論付けた原内閣に対する批判が一気に全国へ広がったのだ。

 

其の結果……

 

 

 

「戦車を列車で運べないんじゃあ、戦車道の試合が出来ないぞ!」

 

 

 

「戦車に乗って試合会場迄移動したら、会場に着く前に戦車が壊れてしまう!何故鉄道で運ぶ事を政府は考えなかったんだ!」

 

 

 

「其の前に、道路上を戦車が走ったら道路が滅茶苦茶に壊れてしまうぞ!政府は戦車ならどこでも走れると勘違いしているんじゃないか!?」

 

 

 

「我が国には舗装道路なんてロクに無い*8から、未舗装の道路を戦車が走ったら、道路が穴ぼこだらけになるぞ!」

 

 

 

「今、欧米で戦車道が盛り上がっているのに、日本では試合会場迄戦車が運べないから戦車道が出来ないんじゃあ、我が国は到底一等国になれない…其れを知らずに改軌計画を中止した原首相は宰相失格だ!」

 

 

 

「そうだ、改軌論を葬って戦車道を葬ろうとする原首相は責任を取って辞任しろ!」

 

 

 

と言う批判が飛び交う中、遂に……

 

 

 

「全国で戦車道の試合が出来る様にする為、国鉄路線を狭軌から広軌(標準軌)へ改軌して、鉄道で日本中に戦車を運べる様にしよう!」

 

 

 

と言う運動が国民の間から立ち上がり、其れに原内閣倒閣を狙う野党勢力が相乗りする事態へ発展したのである。

 

此の事態は、当時の原内閣にとって寝耳に水だった。

 

実は、原首相は1908年から11年にかけて、当時の鉄道院初代総裁だった後藤 新平と改軌を巡り論争した事が有り、其の時も後藤が標準軌への改軌派で、当時衆議院議員で立憲政友会の主要幹部でもあった原は改軌反対派として争った結果、内閣の代替わりの際に原が後藤に代わって内務大臣兼務の鉄道院総裁となった為、標準軌への改軌計画を葬った経緯が有ったのだ。

 

つまり、原に取っては後藤を相手にした2度目の改軌計画を葬り去り、今度こそ日本の国鉄路線は建設費が安くて狭い山岳地帯でも敷設し易い狭軌と定めて全国へ路線を広げて行く方針を固めた矢先、あろう事か国民の側からちゃぶ台返しをされる格好になったのである。

 

更に此の直後、首都新報社*9が「1919年2月の国会・貴族院特別委員会で『広軌(標準軌)不要』の結論が出る直前、国会での議論を知った島田流の家元が『欧米では鉄道で戦車を運ぶ事が多く、何れ日本でも其の機会が増えると思うが、欧米の鉄道は日本の狭軌よりも広い標準軌だから、もしかすると狭軌では運べない欧米製の戦車もあるかも知れないので、政府と鉄道院は念の為に狭軌でも欧米製の戦車を輸送可能か調査して欲しい』と言う内容の建白書を鉄道院経由で原首相宛に送っていたが、当時の鉄道院総裁で原の腹心でもあった床次 竹二郎(とこなみ たけじろう)*10は此れを握り潰しただけで無く、国鉄内部の広軌(標準軌)改軌派を弾圧し、改軌論者の多くを左遷した」と言うスクープを報道した為、国民は激怒。

 

此の結果、世論からの集中砲火を受けた原内閣は熊本での事件から数か月後の1920年春に総辞職、同年5月の総選挙で原が率いていた与党が惨敗して政権交代した後に誕生した新内閣は再び後藤 新平を鉄道院総裁に任命すると、後藤は原内閣時代に左遷されていた島 安次郎を始めとする改軌派の国鉄技術者を呼び戻して具体的な改軌計画の実行に取り掛かった。

 

そして新内閣発足後に開かれた国会では何事も無かったかの様に、先ずは本州の国鉄主要路線の標準軌への改軌予算が承認されたのである。

 

更に、此の流れは1923年に発生した関東大震災の復興事業において加速する。

 

震災後、鉄道院総裁と兼務で帝都復興院総裁として帝都・東京復興計画の責任者となった後藤は“此れを機会に被災地・東京の路線復旧も兼ねて、東京を含めた関東一円の鉄道路線を国鉄・私鉄を問わず全線標準軌化する”計画を国会に提出。

 

国会では巨額の予算が必要な点を巡り激しい議論になったが、国民からの「戦車道振興の為に戦車を貨物列車で運べる標準軌への改軌を急いで欲しい」と言う声や同じく国民の間で行われた「戦車道振興・鉄道改軌の為の募金運動」で1千万円(当時)を超える募金が全国から集まった事から後藤達賛成派と反対派の国会議員・関係者も歩み寄った結果、「標準軌への改軌路線対象は原則国鉄路線とし、私鉄路線に関しては各社の判断に委ねる」「予算の一部を募金で賄う他、無駄な工事が無いか計画を随時見直す事で国からの支出は出来るだけ抑える」と言う条件で計画を承認したのだった。

 

そして、此の後に新設された国鉄路線は全て標準軌で建設される事になった他、既に建設されていた九州・四国・北海道の国鉄路線も順次標準軌に改軌され、今私達が乗っている鹿島臨海鉄道・大洗鹿島線を含めた私鉄の路線も一部を除いて大半が標準軌で建設されて現在に至っている。

 

 

 

 

 

 

「戦車道って、国の政策を変える程の力が有ったんですね……」

 

 

 

良恵の話を聞き終わった後、秋山先輩が感心した声で“戦車道に夢を託した国民の声が日本の鉄道の軌間(レール幅)を変えた”物語の感想を述べると、良恵が丁寧な声でこう説明した。

 

 

 

「元々、改軌論争が政争に発展していた処へ戦車道が“社会進出が著しい女性の為の新しい武道”として世間の注目を集めていたから、戦車道に期待していた民衆が“政府が狭軌の鉄道を選択した事で戦車が運べなくなった”事を知って皆怒っちゃったんですよ」

 

 

 

其処で、私も頷き乍ら彼女へ向けて……

 

 

 

『其の御陰で、今私達が乗っている貨客列車に“レオポンさんチーム”のポルシェティーガーが載せられるんだから、先人の努力に感謝したいよね』

 

 

 

と語った処、彼女は「其の通りですよ!」と答えた後、こんな事を言い出した。

 

 

 

「もしも、日本の鉄道が狭軌の儘だったら此の決勝戦、ポルシェティーガー抜きで試合をやるしか無かったかも知れないですね…ポルシェティーガーって全幅が3.14mも有るから、狭軌時代の日本国鉄の車輌限界では最大幅が3mしか無いので貨車では運べなかった筈ですから」

 

 

 

すると秋山先輩が震え声で……

 

 

 

「そんな事…想像したく無いです!」

 

 

 

と口走った為、私と良恵もノリノリの声で……

 

 

 

「『そうですよね!』」

 

 

 

と話し掛けた処、突然私と良恵のチームメイト・野々坂 瑞(ののっち)希が仏頂面を浮かべつつ……

 

 

 

「嵐に良恵。今なら高速道路が有るから、トランスポータ(戦車運搬車)ーに乗せて運べば大丈夫でしょ!?」

 

 

 

とツッコんで来た為、思わず私と良恵は“てへぺろ”顔を浮かべつつ……

 

 

 

「『え~と…そうでした』」

 

 

 

と声を揃えた処で、秋山先輩を始めに何時の間にか私と良恵の話に聞き入っていた西住隊長達・戦車道の仲間が一斉に……

 

 

 

「「「アハハ!」」」

 

 

 

と笑い出したのだった…嗚呼、あの時は本当に恥ずかしかったなあ(苦笑)。

 

 

 

と言う訳で、其の時は“軽い冗談”で終わったが…此の後の決勝戦で“レオポンさんチーム”のポルシェティーガーが試合の行方を左右する重要な役割を果たす事になろうとは、此の時の私達は知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

そして決勝戦会場へ到着した私達・大洗女子学園戦車道チームは……

 

 

 

「皆さん、此処が陸上自衛隊・東富士演習場ですよ!」

 

 

 

「「「わあーっ!」」」

 

 

 

菫の掛け声を聞いたチームの皆が歓声を上げると次々に……

 

 

 

「凄く広い!」

 

 

 

「富士山が見える!」

 

 

 

「其れに空が青くて綺麗!」

 

 

 

と感嘆の声を上げる中、秋山先輩も嬉しそうに「此処で試合が出来るなんて!」と甲高い声を上げた為、五十鈴先輩が戸惑い気味に「そんなに凄い事なんですか?」と問い掛けた処、秋山先輩はキッパリとした声で……

 

 

 

「戦車道の聖地です!」

 

 

 

と断言した為、私は戸惑い気味に彼女の声を聴いていた皆に向けて……

 

 

 

『此処は陸上自衛隊が持っている本州最大の演習場にして、日本戦車道の世界では“野球の甲子園・サッカーの国立競技場・ラグビーの花園”に相当する場所ですからね』

 

 

 

と説明したので、皆も納得し乍ら頷き合っていた処、瑞希が少し御道化た声で「嵐や私達は去年に続いて2度目ですけどね」と付け加えた直後、舞が……

 

 

 

「西住隊長も去年此処に来ているけど……」

 

 

 

と言った為、私は“去年の全国大会で西住隊長が優勝と引き換えに人命救助をした事件”を思い出して“今の一言で、西住隊長がショックを受けるのでは!?”と思い、真っ青な顔になると思わず……

 

 

 

『舞、言って良い事と悪い事が有るでしょ!』

 

 

 

と注意した処、彼女も其の事に気付いたのか、西住隊長へ向けて頭を下げてから「御免なさい……」と謝罪したのだが、当の隊長は平然とした表情で……

 

 

 

「舞ちゃん、大丈夫だよ。去年の大会の事なら気にしていないし」

 

 

 

と告げた為、私も心配気な声で『…本当ですか?』と問い掛けたが、隊長は小さく頷いた後……

 

 

 

「其れより、原園さん達も去年の中学生全国大会では悔しい思いをしていた筈だけど、大丈夫?」

 

 

 

と私や舞・瑞希・菫の“群馬みなかみタンカーズ組”に問い掛けて来た為、私は思わず……

 

 

 

『あっ、はいっ!今日は去年の試合で出来なかった分迄頑張ります!』

 

 

 

と答えたら、瑞希・菫・舞の三人も声を合わせて……

 

 

 

「「「勿論!」」」

 

 

 

と答えた処、其れを聞いた西住隊長が「じゃあ、皆頑張ろうね!」と話し掛けた直後、私達の前に河嶋副隊長がやって来て……

 

 

 

「じゃあ、そろそろ時間だから指定のピットへ行くぞ!もう戦車も到着している筈だ!」

 

 

 

と告げた為、私達も一斉に「「『はいっ!』」」と答えて移動を開始した。

 

 

 

廃校撤回を賭けた黒森峰女学園との全国大会決勝戦開始迄、あと2時間である。

 

 

 

 

 

 

(第88話、終わり)

 

 

*1
上越線の高崎~水上駅間で運行されている蒸気機関車(D51-498号機かC61-20号機)牽引による臨時快速列車。2018年(平成30年)10月6日に「SLみなかみ」から改称された。

*2
鉄道用の物は運転台が片側だけしか無い蒸気機関車やディーゼルカーの方向転換に使う。

*3
当時の日本では此れを「広軌」と呼んでいた。本来、広軌とは標準軌である1435㎜を超えるレール幅の事。

*4
1852年生~1919年没。軍人出身(最終階級が元帥陸軍大将)の政治家で、日露戦争当時の陸軍大臣(第一次桂内閣)。また1916年~18年に掛けて第18代内閣総理大臣を務めた。

*5
1857年生~1929年没。医師から官僚・政治家を歴任した人物。医師としては明治15年に板垣 退助が岐阜で暴漢に襲われて負傷した事件(「板垣死すとも自由は死せず」の発言の発端となった)の際、彼の治療を行っている。他には満鉄初代総裁、逓信・内務・外務大臣や第7代東京市長等を歴任。1923年の関東大震災後には内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事した。

*6
1870年生~1946年没。新幹線生みの親の一人で宇宙航空研究開発機構(JAXA)の前身・宇宙開発事業団(NASDA)の初代理事長だった島 秀雄の父親。

*7
1856年生~1921年没。新聞記者から外務省・農商務省の官僚を経て政界に進出、逓信・内務大臣を経て1918年に第19代内閣総理大臣となる。平民出身で爵位が無く、しかも戊辰戦争時の賊軍扱いだった東北出身者(現在の岩手県盛岡市出身)で初の首相となった為、「平民宰相」と呼ばれた。史実では首相在任中の1921年11月4日、東京駅で国鉄鉄道員に胸を刺されて暗殺される。

*8
大正時代処か、昭和初期でさえ日本では舗装道路の割合は極少なかった。例えば零戦の試作機である海軍・十二試艦上戦闘機を名古屋の三菱重工業大江工場から各務原飛行場へ運ぶのに牛車を使っているが、其の理由の一つが名古屋の市街地以外のルートは未舗装道路だった為にトラックが使えなかったから。日本で舗装道路の建設が本格化するのは戦後暫く経った1950年代からである。

*9
本作独自の設定。後の首都新聞社の前身。明治初頭に創業した中堅新聞社で発行部数は当時の大手全国紙よりもやや少なかったが、政財界に関する的確な報道で大都市圏では評判が高く、富裕層を中心に高い人気が有った。

*10
1867年生~1935年没。官僚出身の衆議院議員で鉄道院総裁の他、内務・逓信大臣や政友本党(1924~27年迄存在した政党)総裁も務め、首相候補にも挙げられたが人望が無くて一度も首相になれず「万年首相候補」と揶揄された。一方で鉄道員の福利厚生に尽力し、公傷退職者を救済する為に鉄道弘済会の創設に尽力している。




此処迄読んで下さり、有難う御座います。
第88話をお送りしました。

さて、今回は序盤で“本作世界の日本の鉄道は標準軌が中心となっている”と言う“大法螺”を吹きましたが…此れ、実はガルパン世界では重要なファクターなのです。
作中、良恵の台詞にも出て来ますが、TV版第10話「クラスメイトです!」の中で大洗女子戦車道チームを乗せた貨客列車が走行している場面、あれは現実の日本の標準的な鉄道規格の狭軌では“レオポンさんチーム”のポルシェティーガーを貨車に乗せる事が出来ないのです。
実際にはレール幅(軌間)の問題だけでは無く、日本の国鉄/JR在来線では貨車や駅・トンネル等の規格に当たる“車輌限界”の内、全幅が3mでして、此れだとポルシェティーガーの車体幅が3.14mなので日本国内の貨物列車では運ぶ事が出来ません。
因みに陸上自衛隊の国産戦車で唯一鉄道輸送を考慮していた61式戦車の最大幅が2.95mの為、此れが事実上日本の鉄道で運べる戦車の最大幅だと言えますので、戦車道で使える戦車も重戦車クラスだと国鉄/JR在来線の貨物列車では運べない物が結構有ると思います。
と言う訳で、今回はポルシェティーガーを日本の鉄道用貨車に乗せる事が出来る合理的な理由説明を試みましたが、如何だったでしょうか(実は、大正時代の戦車道草創期の戦車で全幅が3mを超えるのはA7V位しか無いのは秘密)。
其れと戦車道チームを運んだ列車の編成も変えてみましたが、御気付きになったでしょうか?
個人的には鹿島臨海鉄道の6000系2輌だけでは戦車8輌を運ぶのにパワー不足だと思うし、鹿島臨海鉄道にはディーゼル機関車もあるから…ね?(鉄オタ的拘り)
尚、今回の話を書くに辺り、明治から大正に掛けて実際に議論になった「改軌論争」を絡めていますが、丁度此の議論が一区切り付く頃にガルパン世界の日本では戦車道が勃興すると言うタイミングの良さには、書いていてつい笑ってしまいました。

其れでは、次回をお楽しみに。

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