夢を見た。
全身が濡れそぼる程の嫌な汗をかくような悪夢だった。
ざあざあと、ざあざあと雨が降っていた。車軸のように雨が降っていた。ざあざあと、ざあざあと。
カーテンを開ければ、現実でも雨が降っていた。この調子では、今日の戦車道の訓練は休みだ。悪天候下の訓練も大事なことだが、これほどの大雨となると、学園艦の運行にも関わる。戦車の運用は危険に過ぎる。
そうだ。幾ら戦車と言えど、雨には弱い。
雨は嫌いだ。あの日の事を思い出す。我が黒森峰女学園が、十連覇を逃したあの決勝戦の日の事を。
降り注ぐ雨を見つめていると、今がいつなのか、此処がどこなのか、夢なのか、現実なのか、全てが混じりあってわからなくなってくる。
あの日、私は見ていることしかできなかった。
川へと滑落していく戦車を、私は見ていたのだ。砲撃を受け、ぬかるんだ地面を履帯がずりずりと力なく滑って行き、あ、と思う間もなく川へと落ちていく様を。あの呆気ない一瞬を。私は動けなかった。動かなかったのではない。動けなかったのだ。戦略としてでも戦術としてでもなく、ただただ一個人として呆然として、指示を出すこともなく、ただ呆けていたのだ。
あの時真っ先に動いたのはみほだった。妹は颯爽と戦車を降りるや、躊躇うことなく川に飛び込み、救助に向かった。私は何をしていた。私はただそれを見ていた。
私が素早く指示を出していれば、みほは独断専行してまであんな無茶な救助に走らなかったかもしれない。私がフラッグ車を誘導していれば、プラウダにみすみす撃たせることなどなかったかもしれない。それで、私は、何をしていたんだっけか。ああ、そうさ。なにもできなかったのだ。ただただ、それを、見ていたんだ。
悲鳴を上げ、取り乱さなかったのは、ただ単に私が凍りついていたからに過ぎない。完全に頭の中が真っ白になって身動き一つとれなかったからに過ぎない。
あの日私は、何もしなかったのだ。
フラッグ車は撃たれ、黒森峰は敗北し、そして、そして西住みほは、あのバケツをひっくり返したような大雨の中、たった一人晴れ渡る様な笑顔で隊員を救助せしめたのだ。ああ、全くそれはヒーローの絵姿だったよ。ぞっとするほどに場違いな、子供のように無邪気な笑顔だったよ。
完全に凍りついた黒森峰の無能な隊長に、状況を把握できていない頭に綿の詰まった案山子共、雨の中僅かな隙を見つけて砲撃したはいいけれど、全体像をまるで見て取れていなかったプラウダの猪武者共。そんな有象無象の中で、たった一人お前だけが英雄としてそこに立っていた。ああ、これを悪夢と呼ばずして何が悪夢だ。
あの後、母は黒森峰の後援会からも、西住流の師範代たちからも、およそ考えられる限りの方面から砲撃を受け、それでもなお耐えていた。指揮官である私のもとにも非難の弾は矢継早に降り注いだ。勝負に絶対はない。しかし、西住流は勝利して当然の名家であり、黒森峰は常勝を掲げてきた名門なのだ。意気揚々と帰ってきたところを叱責された妹は部屋から出てこなかった。
母の方はどうしようもなかった。母は西住流の師範として、そしてやがては家元となる身として、全ての批判を受け止め、その上で尚西住流最強の看板を掲げて立たねばならなかった。戦車道西住流、高校戦車道、プロリーグの設立、世界への道、母は抱えるものが、背負うものが、多すぎた。私たち姉妹の面倒を見るには、あまりにも母の背は小さいのだ。
私はみほを何とかしなければならなかった。心無い大人たちの非難の嵐に揉まれ、沈み込む妹を慰め、再起させてやらなければならなかった。
だが現実は甘くなかった。そうだった。妹は妹であって、けれど人間ではなかった。
「私、戦車道止める!」
妹は沈んでいたのではない。拗ねていたのだ。
危機に陥った仲間を生身で助けに行くというこれ以上ない英雄的な行動を、褒められる所か敗因として挙げられたのだ。罵られたのだ。ああ、いや、いっそそんなことさえどうでもいいに違いなかった。どうして黒森峰が十連覇を逃したことが太文字で掲げられ、なにゆえに自分が仲間を救った英雄譚が僅か数行で片付けられているのだと、そちらの方にこそ妹は拗ねていたのだ。
そしてまた母が来ない事、私が来るのが遅かった事が更に妹を拗ねさせた。
お誂えの美談なのに見向きもされない、戦車隊のみんなも腫物でも扱うみたい、ありがとうと感謝すべき救助された娘たちも俯いて御免なさいとしか言わない、お母さんは叱りつけたきり顔も見せないしお姉ちゃんもこんな時間まで来てくれないし、ああ、そうだ、誰か気を利かせて私の好物のマカロンだって買って来るべきなのになんでみんな放置なのおかしいよどうしたの何か言ってよお姉ちゃんもうお姉ちゃん!
妹の猛攻に、私は唖然として何も言えなかった。常々妹がまともではないと思っていたが、まさかここまで価値観が違うとは思わなかったのだ。いや、思いたくなかったのだ。妹にとっては西住流の歴史も、黒森峰の戦史も、先輩たちの無念も、後輩たちの動揺も、私の苦悩さえも、全て押並べて無価値だったのだ。そんなものは、自分が褒められるか褒められないかに比べれば些細なことだと言わんばかりに。
ああ、もう、無理だと、その時私は悟った。みほは、私のたった一人の妹は、西住流では、黒森峰ではきっとやっていけないのだと認めたのだった。西住みほと相対した時、受け入れた時、黒森峰にはもはや選択肢はなかったのだ。みほが黒森峰を支配するか、黒森峰がみほを放逐するか、そのどちらかしか。
私はみほを宥めながらも、みほの望むとおりにしてやろうと思っていた。転校したいというのならば、恐らくは勝手に全てを手続してしまうだろう妹の手伝い位はしてやろうと思った。この人間と重なり合う部分の方が少ない人間が手に余ったからだけではない。このどうしようもなくどうしようもな欠陥品が、それでも私の妹だったからだ。たった一人の妹だったからだ。
そしてまた、あの日のみほの決断を、私が密かに支持するだけの理由があったからだ。
だって、あの日、みほはエリカを救ってくれたのだから。沈みゆく戦車から、妹は逸見エリカを救ってくれたのだから。あの銀の毛並みも美しい、誇り高き猟犬を。
私は翌日から、みほがいなくなった後の調整を始めることにした。黒森峰が、西住姉妹の片翼という大きな歯車の欠損に引き摺られるようではいけなかった。私は意図してみほの悪い噂を流した。印象を操作し、みほの行いを責め立て、その穴を積極的に自分たちで埋められるよう煽った。
その過程で、私に都合の良いようにエリカを孤立させたことは否定しない。エリカが噂の出所のように思わせ、エリカが野心の塊であるように見せ、隊長に擦り寄る狡猾な女狐と思わせ、友を奪い、居場所を奪い、そして私の隣に据え付けたのだった。
あの一件ですっかり沈み込み、黒森峰への罪悪感、助けてくれたみほが責め立てられることへの申し訳なさ、そういった全てを私は柔らかく受け止め、歪めて行き、私に都合の良い犬を仕上げることにした。
その作業は妹を相手にするよりもよほどに楽だった。妹のすることをただなぞる様にすればいいだけなのだから。そしてエリカもまた、拠り所を必要としていたのだから。私が徹底的に奪い、奪い続けた居場所、与えた孤独、それらから逃げ出したがっていたのだから。
ああ、エリカ。私のエリカ。可愛い可愛い私のエリカ。
黒森峰に入学した時から、私はエリカを見ていた。新品の制服に着られるようにして、緊張して入学式に臨んでいたエリカ。戦車道を履修し、緊張した面持ちで先輩たちを見上げていたエリカ。初めて戦車に乗り、友達と一緒に不思議な昂揚感に任せて声を上げて笑っていたエリカ。みほと知り合い、半ば操作されながら、それでも健やかに成長していったエリカ。
ああ、そうだ。ずっと見ていた。ずっと見つめていた。
だって、エリカ、お前が私を見ていたから。
入学したてで、右も左もわからなかったろうに、お前は私を見つけるや否や、眩しくて見ていられない程に輝く目で私を見つめていた。西住流の娘という色眼鏡でもなく、黒森峰のエースというフィルターでもなく、ただただ西住まほという剥き出しの私を見つめて、きらきらと目を輝かせていたね。それはほんの一瞬だった。お前は声をかけることもできず、ただ恥じらうように目を伏せたのだった。でも、私にとってはまるで何年も何十年も視線にさらされたような思いだった。全くの、混じり気ない、純粋な憧れからくる視線は、まるで裸を凝視されるような物凄い羞恥と、燃え盛る炎に炙られるような強烈な熱を感じさせた。
あれ以来だ。あれ以来、私はお前に、逸見エリカに、年下のいたいけな少女に、恋をしていたのだ。
彼女なら私を満たしてくれるかもしれないと思った。彼女なら私を安らがせてくれるかもしれないと思った。
でも駄目だった。どうしても駄目だった。私は、私は子犬のように私に憧れの視線を寄越すエリカにさえ、恐怖を覚えずにはいられなかったのだ。
数多くの隊員を従え、多くのインタビューにもこたえ、西住流の娘として公の場に出ることも多い私は、しかし、実際の所、対人恐怖症の気があった。怖いというより、信じられないという方がいいだろうか。どんなに優しげな笑顔をしていても、どんなに誠実な言葉を向けてこようと、私はその裏におぞましい怪物がいるようで、何時も恐ろしかった。誰にも油断できず、誰にも心を許せなかった。その原因となったのは間違いなく、幼少のみぎりから私の後をついてきては私の心をすり減らせた、人間の顔をした人間でないものであるみほだろう。しかし、あいつと二人でいるときだけ、こいつは人間ではないんだという最初から理解できないことが前提となっている場でだけ、胸襟を開き寛げるというのは何とも皮肉な話だった。
私はエリカの憧れと尊敬と、そしてほんの僅かに恋心の混じる視線を受け止めながらも、それを信じきれずにいた。みほのおかげで私は人の心の裡を見透かすのが得意だった。しかし信じたいというバイアスが、私の判断を狂わせているのかもしれない。そんな小賢しい疑いが、私を身動きできなくさせていた。
そんな悩みの中だったのだ。みほが英雄となるべく、あんな事件を引き起こしたのは。
私は困り、悩み、そしてそんな中で沈み込むエリカを見つけ、チャンスではないのかと思ったのだ。エリカの胸の裡から湧き出る思いを、私は信じることが出来ない。しかし、私が作り上げたものならば、私がそうするように仕向けたものならば、私の作品ならば、私は信じることが出来る筈だ。
私は、私に憧れているように見える少女を材料に、私だけの
手に入れ、そしてそれが悪夢の始まりだったのだ。
エリカは私を愛してくれる。私だけを愛してくれる。私がそう作ったのだ。
私に恋をしてくれていた、逸見エリカを穢してまで。
エリカが私だけのものになってから、私はエリカが私に向けてくれていたあの鮮烈な視線が、どれほど貴重で、大切で、尊いものなのかを、嫌というほど思い知らされた。あの輝きはもうない。もう見ることなど叶わない。だって、私がそれを材料に、私の悍ましい欲望で塗り立てて、すっかり汚してしまったのだから。
もう返っては来ない。もう戻っては来ない。それでも、エリカは私のエリカなのだ。私がエリカの私であるように。
両手で顔を覆う。ぬるりと汗にまみれた顔と掌が、滑り合って気持ちが悪い。このまま溶け合って剥がれなくなって、呼吸困難にでもなって死んでしまえばいいのに。
両手を滑らせ、耳を覆う。雨の音は聞こえなくなった。そのかわりに、自分の筋肉の軋む音と、闇の中におぞましい私の鼓動が感じられて、吐き気を催した。
口元を覆う。私自身の裡から溢れる悍ましいドブ水が、腹の中で溜まって腐臭を放っているような気分だった。
私の体はどこまでも穢れた欲望に汚れていた。私自身が、私自身の為に行動した結果、私は私だけでなく、あの美しいまでに輝いていたエリカさえも、汚濁の中に突き落としてしまった。
私はみほが羨ましかった。妹が妬ましかった。大洗という新天地で、何処までも自由に遊び、自分の思うままに周囲を操って、手に入れがたい筈の神の落とし子さえ手中に収めた。人間の真似をする怪物が、人間以上に人生を謳歌している。その光景に私は切なくなった。羨ましく、恨めしく、妬ましく、それでも妹の恋路を応援し、祝福せずにはいられない姉というこの生き物が、何処までも愚かで悲しかった。
私は怪物になりたかった。名前のない怪物になってしまいたかった。誰もいない遠い荒野で、自分の好きなように歌って、吠えて、泣き叫んで、誰の目もない所で好きなように生きて、好きなように死んでしまいたかった。私は怪物になりたかった。人間のこころなんて持たない、怪物になってしまいたかった。
どうして妹ばかりが怪物に生まれてきたのだろうか。私も怪物だったなら、仲良く好き勝手自由に生きられたのだろうか。でも妹を思う度にそれは無理だろうとも思うのだ。あんなに好き勝手にやる奴同士が傍にいたら、きっと喧嘩になってしまうだろう。それに誰か一人くらい、あんな怪物を面倒に思いながらも手を引いてやらなけりゃあ、きっと無事には育たなかっただろう。私は怪物になりたかったけれど、それでも、どうしようもなく私はお姉ちゃんだったから。
ざあざあと、ざあざあと雨が降っていた。車軸のように雨が降っていた。ざあざあと、ざあざあと。
ざあざあと、ざあざあと。
思考を麻痺させるような雨音を聞きながら、私は携帯電話を手に取った。電話帳の一番上に登録された番号を素早くプッシュする。
コール音は一回だけで、相手は素早く電話に出てくれた。
『おはようございます、隊長』
「エリカ、たすけて」
『……すぐ行きます』
通話が切れる。ベッドにぐったりと倒れる私は、あとは待つだけでいい。10分もしない内に、私の忠実な
ああ、エリカ。早く来て。
雨は嫌いだ。あの日の事を思い出す。
美しかったお前を損ねてしまったあの日の事を。
ああ、エリカ。私のエリカ。可愛い可愛い私のエリカ。
私は怪物になってしまいたかったよ。でもなれなかったんだ。
だから、だから早く来て。私だけの