ガールズ&パンツァー 乱れ髪の乙女達   作:長串望

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プラウダ高校の場合 Side A

 夢を見た。

 どこまでも真っ白な雪原で、見失ってしまいそうなほどに小さな背中を追いかける夢だった。追いかける私の手足もまた不安になるくらい小さくて、どれだけ頑張って追いかけても、追いかけても、一向に追いつかなくて、泣き出しそうになりながら、それでもしんしんと降り積もる雪に掻き消されてしまいそうな背中を、一心に追いかけていた。

 そして、ああ、もう駄目だ、もう一歩も動けないと足が止まりそうになると、きらきらとした蜂蜜色の髪を翻して、その小さな背中は振り返るのだ。

「もう少しよちっちゃな泣き虫ノンナ。大丈夫。カチューシャがついてるから」

 その小さくて、けれど誰よりも大きな背中の持ち主は、頬と鼻の頭を真っ赤にして、鼻水を垂らしながらも偉大に胸を張り、私に手を差し伸べてくれたのだった。

 ひんやりとした室温に眠気が散っていき、私は最近狭く感じてきたベッドから起きだした。カーテンをそっと捲れば、ああ、思った通り、外では雪が降っていた。夜から降っていたのか、外はもう真っ白に雪が積もっている。雪が降り始めてくれたなら、暫くはいくらか暖かく過ごせるだろう。ただ、雪が解けて濡れた服を放っておくと風邪をひいてしまう。カチューシャの着替えを用意しておかなければ。

 手早く身支度を整え、外に出る。日曜日ということもあって、特に朝練のある部活をしていない生徒たちはまだ眠りの中にある様で、静かな物だった。耳を澄ませば窓の向こうから、雪の積もる音が聞こえてきそうだった。あんなにふわふわと軽そうだけれど、雪は降り積もるたびにきしきし、きしきしと、軋むように歌うのだ。静かな冬の歌だ。

 戦車隊の隊員たちは、そんな雪の中をうんざりした様子で黙々と練習に向かっていた。その面倒くさそうな気持ちは私にもよくわかった。雪は美しいし、雪の奏でる歌は心地よい。けれど風情や雅さと言ったものを除いて行けば、後に残るのは雪かきという重労働だけだ。

 あまり積もり過ぎれば入り口は埋もれるし、戦車は沈むし、鉄はキンキンに冷えて痛い位だし、冷えたエンジンはご機嫌斜めだし、距離感も狂うし、とにかく体力と精神力を取られる。今日もこれだけ積もっているようなら、練習前にみんなで雪かきをしなければいけないだろう。それで汗をかくと、体温が引いていくにつれてぐんと寒くなるのだ。

 私はご愁傷様と胸の中で呟きながら、きっと暖かく保たれているだろうカチューシャの部屋に向かう。誰に見られているとも解らないから、ピンと背筋を伸ばして、縮こまらないようにしっかりと手足を振って歩く。だが寒いものは寒い。自然、足は早足になる。しばらく暖を取らせてもらおう。もとい、カチューシャを起こしに行かなければ。

 ノックをし、返事がない事を確認してから、私はドアを開けた。予想通り、よく暖房の利いた暖かな部屋だ。さぞかしよく眠れたことだろう。しっかりと睡眠もとれたことだろうから、そろそろ冬の寒さと感動の再開をしていただこう。そう思いながら室内を進むと、果たしてカチューシャはそこにいた。ベッドの上ではなく、窓辺に佇んで、カーテンの隙間から外の雪景色をただ黙って見つめていた。

 幼子のように小さく、人形のように愛らしい横顔。しかしいま、じっと遠くの雪景色を、或いはそこに何がしかを投影して見つめるそれは、ひどく大人びたものに見えた。

 普段は何処までも子供っぽいカチューシャは、時折こうして、何歳も年上のような空気をまとって、物思いに耽ることがあった。

 その横顔に、不意に私は先の大会の事を思い出していた。準決勝で大洗に敗れ、決勝戦で大洗が勝ち上がるのを見届け、全てが終わった閉会式で、一年間我が校に誇らしげに掲げられていたあの優勝旗が西住みほの手に渡った時、カチューシャはあの横顔をしていた。

 悔しさに泣くのでもなく、忌々しいと腹を立てるのでもなく、ただほっと、安堵したように、カチューシャはその光景をゆっくりと見つめていた。時間をかけて咀嚼するように、何度か小さく頷きながら、カチューシャは優勝旗が大洗の、西住みほの手に掲げられるのを見つめていた。そして大歓声と拍手の嵐の中、しみじみと呟いたのだ。

「ようやく…………ようやく、引っかかっていたものが取れた気がするわ。正しい場所に戻せたような、そんな」

 そして不意に子供っぽい常の表情を浮かべ、次は、私の後輩は負けないからねと小さな暴君は叫んだものだ。

 私は知っていた。カチューシャがあの勝利に納得していなかったことを。黒森峰の十連覇を阻止し、優勝旗を奪い取ったあの決勝の事を、今も悔やんでいたことを。

 あの日、当時の隊長に作戦を具申したのはカチューシャだった。追い込み、包囲し、打ち取らんと。果たして我らプラウダは、黒森峰を囲み、視界の悪い中、それでも何とかフラッグ車を射抜くことに成功した。成功してしまった。誰もが褒め称え、カチューシャを担ぎ上げた。けれどカチューシャは知ってしまったのだ。彼女の策に絡め取られ、射抜かれたフラッグ車は、その時車長が救助に走ったが為に、身動きが取れない状態だったことを。

 カチューシャの抗議の声は、もっと大きな歓声や、黒森峰の失態を嗤う声にかき消された。誰もが長らく黒森峰に独占されていた優勝をもぎ取ったことに、狂喜乱舞していた。カチューシャだけが間違っていると声を荒げていた。これは正しくないと。これは正しい勝利ではないと。これは正義(プラウダ)ではないと。

 小さなカチューシャの声はかき消され、納得のいかないままに隊長に就任したカチューシャは、それでも職務を全うしようとした。今回は正しくなかった。ならば、次は確かに正しく勝利し、正しく優勝旗を掲げよう。誇りと共にプラウダの名を叫ぼう。カチューシャはその為にも戦車隊を厳しく鍛え上げた。その癇癪を地吹雪と揶揄されようと、苛烈な遣り口を小さな暴君と綽名されようと、子供のような姿をちびっ子隊長と笑われようと、カチューシャは納得のために戦った。

 決勝戦で黒森峰を討つ。その目論見を盛大に挫かれた準決勝で、カチューシャはあまりの悔しさに感情を爆発させていた。けれど終わってみれば、カチューシャが奪い取った優勝旗は、確かに正しく奪われた者に、西住みほの元へと返ったのだった。勝てはしなかった。優勝は逃した。しかし、当初の予定とは違う形とはいえ、カチューシャは納得を得た。私には、その小さな肩に乗っていた、目に見えない重りが降ろされたような気がした。

「ああ、ノンナ。おはよう。雪が降ってるわね」

 私に気づいたようで、カチューシャは小さく微笑んだ。私も短く答え、カチューシャを着替えさせていく。いつの間にか、カチューシャの着替えや食事といったことを、私は当然のように手伝うようになっていた。カチューシャの手は小さく、指は短く、繊細な動きをしようにも難しい。おまけに癇癪持ちだ。ボタンをかけることにさえずいぶん時間を取られて、それさえ途中で怒りを爆発させてしまうことさえある。言ってみればこれはある種の介護なのだと私は思う。肉体的な不備を補ってやり、その上で、甲斐甲斐しく面倒を見ることでカチューシャの尊大な精神を満足させてやる。そして私もまた、カチューシャに尽くすことで喜びを覚える。互いに深く依存しあう事は危険かもしれなかったが、私達にはちょうど良い距離感のように感じられた。

 カチューシャの服を着替えさせ、髪をとかし終え、いつものように肩車して、私は隊員たちの元へと向かう。もう勝手に始めているだろうが、雪かきの指示を出さなければ。カチューシャは隊長であるし、そうでなくてもこの矮躯であるから雪かきなどさせられないし、私はカチューシャの面倒を見るのに忙しいし、そういう建前でこの肩車を通じてお互いの体温で暖をとりながら監督役が出来る。カチューシャはお腹を暖められるし、私はいい耳当てが手に入る。ウィンウィンだ。

 外に出ると、雪はいくらか強く吹き始めていた。あまりひどくなるようであれば、雪かきどころか、戦車道の練習も一時中断した方が良さそうだ。落ち着いたところで、除雪車を引っ張り出して本格的に除雪に取り組まなければならない。広さに限りのある学園艦であっても、辺り一面が真っ白に染まる雪の中では、人間という生き物はたやすく道を見失い、方向感覚をなくし、家のすぐ傍で遭難することさえあり得る。

 そうだ。あの時のように。

 カチューシャが私を先導して、助けてくれた時のように。

 カチューシャは雪の子供だった。他の学園艦でどのような呼び方があるかは知らなかったが、プラウダ高校では、学園艦の上で生まれた子供をそう呼んで祝福する習わしがあった。雪の子、プラウダの子、私たちの子。カチューシャもまたそうだった。ただ、カチューシャが特別だったのは、彼女が両親をもたない、本当の雪の子供、プラウダの子供だったことだ。

 プラウダ高校が青森港から出港してすぐ、カチューシャは見つかった。病院の前に厚く厚くくるまれて、そっと置いて行かれた赤ん坊がカチューシャだった。

 勿論プラウダ高校はすぐに青森港に問い合わせたけれど、結局赤ん坊の両親は見つからなかった。学園艦が寄港すれば、艦から陸へ、陸から艦へ、人の流れは多く、いちいち細かい所までチェックするわけにはいかない。小さな赤ん坊が一人そこに紛れ込んでしまうのは容易い事だった。

 この赤ん坊を、しかしプラウダの誰も捨てられた可愛そうな子だとは言わなかった。雪の中に生まれた、プラウダの子なのだと、そういうことにしたのだ。可愛そうな赤ん坊が、愛されるみんなの子供になるために。雪の子。プラウダの子。可愛いカチューシャ。赤ん坊は病院に勤めていた老夫婦が育てることになった。

 私がそんなカチューシャに出会ったのは、幼稚園に入園した時だった。網走市の幼稚園だ。学園艦には、基本的には幼稚園や小学校はない。学園艦で生まれ育つ子が少ない為、需要も少ないし、親元を離れて学園艦に入学してくるには、小学校以下の子供は幼すぎるからだ。

 老夫婦は定年も近いし、カチューシャが幼稚園に上がる頃に生家のある網走まで帰ってきて、老後をのんびり楽しみながら育てることにしたらしかった。

 カチューシャはその時から、小さな暴君だった。周りより背は低いし、肌は恐ろしく白くてすぐにほっぺたが赤くなったけれど、とにかくタフで、負けず嫌いで、そして子分思いだった。私はその暴君の一の子分だったのだ。

 カチューシャは小さい癖にパワフルだった。年上の子にも平気で噛みついたし、ちっちゃな掌なのに驚くほど腕力に物を言わせたし、泣き虫でカチューシャより小さかった私を引きずって、進める限り何処までも進んでいったものだ。この豆タンクは体の大きな子よりも、親が五月蠅い子よりも、随分保育士を悩ませたものだった。

 引っ込み思案で口下手で、とにかく泣き虫だったチビの私がカチューシャに引き摺られるようになったのは、私が虐めっ子に大好きな絵本を取られてぎゃんぎゃんと周りの目も気にせず泣いていたのが原因だった。自主的なお昼寝中だったカチューシャはそれでぱっちり目を開け、ずんずんと私に近づいて、ぐいっと両耳を引っ掴むやおでこがくっつくほどに顔を寄せて、寝起きの不機嫌な声でうるさいと私を一喝したのだった。

 びっくりして涙も引っ込んでしまった私をじろじろと眺めて、いつもどこに行く時でも抱えていた絵本がない事に気づいたカチューシャは、眠たげな半眼のままきろきろと室内を見回して、絵本を奪った虐めっ子を探し出した。そして戦車を思わせる重たく着実な足取りでずんずん歩み寄り、挨拶もなしにまたあの不機嫌そうな声で、返しなさいと舌足らずに要求した。

 虐めっ子たちは年上だったし、体も大きかったから、最初は嫌なこったと舌を出していたけれど、あらそう、とカチューシャが笑うと途端に縮こまった。普通の笑い方ではなかった。にいっと口角を上げて、唇を持ち上げ、歯茎が見える位に歯並びのいい歯を見せつける笑い方だった。肉食獣の威嚇めいた笑いには、幼稚園の誰も逆らえなかった。カチューシャはそうすべきだと思ったら、誰が相手でも噛みついたからだ。ああ、つまり、物理的にも。安普請の幼稚園の柱には歯並びのいい歯形が今も残っている。

 絵本を平和的に取り戻したカチューシャは、またずんずん戻ってきて私に渡して寄越すや、ごろんとその傍で丸くなっておもむろに昼寝を再開した。私はどうしたらよいものかと困惑したが、カチューシャが傍で寝ていると、虐めっ子たちも寄ってこないことがわかったので、そっとしておくことにした。

 それからカチューシャは何時だって泣き虫のノンナを引きずって歩くようになった。今思えば私が虐められないように傍についていてくれたのだろうが、なにせ本人の好奇心や、小さな体に収まらないエネルギーの発散に付き合わされるものだから、私は何時だって半べそで必死について行ったような記憶がある。

 そんな泣き虫ノンナが、手を引かれなくてもカチューシャの後ろをついて歩くようになったのは、あの冬の雪の日の後からだった。

 みんながぐっすりと眠っているお昼寝の時間中、いつも勝手にお昼寝をしていたカチューシャは一人すっかり目が冴えていて、窓の外に白いものがちらつき始めたのを見つけるや否や、うとうとしかけていた私の手を取り引きずって、外へ飛び出していったのだった。

 雪虫が出てきてたから、もう降るだろうって思ってたの。カチューシャはそう笑って、ちらちらと降る雪の中、楽しそうにくるりくるくると踊っていた。その度に蜂蜜色のさらさらした髪が揺れて、雪みたいに白い頬は薔薇色に染まって、ちっちゃな掌をうんと空に伸ばして雪を受け止めようとする姿などは、幼心にも妖精の様に思えて、すっかり目が冴えてしまったのを覚えている。

 雪がどんどん降り積もっていく様にカチューシャはすっかり喜んだ。その時は彼女が雪の子、プラウダに生まれ育った幼子なのだとは知る由もなかったけれど、きっとカチューシャは雪の妖精で、雪が降るとたまらなく嬉しくなってしまうのだと、ずいぶんロマンチックな事を考えていた。そんな風にふわふわしたことを考えていたから、カチューシャが私の手を引いて、幼稚園の敷地から出て行ってしまった時も、止めるどころかわくわくした気持ちで付いて行ってしまったのだった。

 雪の白で姿を変えていく街並みに私たちははしゃぎ、ついつい遠くまで行きすぎてしまった。流石にそろそろ帰らなくてはと思った頃には、雪は勢いを強め、風も吹き始め、空から降る雪も地面に積もった雪も滅茶苦茶に吹き荒れ、あれ程慣れ親しんだ道はすっかり真っ白に染まって、前も後ろも右も左も、それどころか上も下もわからなくなってしまいそうな有様だった。おまけに当時の私たちは幼稚園でも一二を争う矮躯で、吹き上げられた雪を真正面から顔に浴びてしまって、その度に体温と方向感覚が奪われていくのだった。

 酷い地吹雪の中、私たちは何とか幼稚園に戻ろうと歩き続けたけれど、何しろ雪に染められて行きと全く違う景色になってしまったものだから、何処をどう歩いているのか私には全く分からなかった。ただ黙々と私の手を引いて歩くカチューシャに引き摺られるばかりだった。

 行けども行けども変わらない景色と、ますます強くなる吹雪にとうとう私は泣き出して、自分でも喜んでついてきたくせに、もう嫌だ、歩けない、寒い、怖いと随分泣き喚いた気がする。その度にカチューシャは私の手を握りしめて、歯並びのいい白い歯を見せてにっかり笑うのだった。

「大丈夫、大丈夫よちっちゃな泣き虫ノンナ。カチューシャがついてるわ」

 ぽろぽろ泣きじゃくって酷い顔の私を、カチューシャは笑顔を絶やすことなく慰めて、辛い寒いとわめくたびに、暖かそうな帽子を、マフラーを、ぐいぐいと私に押し付けて、これで寒くないわとやっぱり笑うのだった。

 よっぽど寒そうな格好で、頬も鼻の頭もすっかり真っ赤にして、ずるずると鼻水を垂らしながらも、カチューシャは縮こまることもなく背筋を伸ばして胸を張って、私の手をしっかり握ったまま、足元が埋まるくらいに積もった雪の中を、豆タンクよろしくずんずん進んでいくのだった。私が遅れそうになるとぐいぐい引っ張って、風が吹くと私が体の陰に隠れるように立ち位置を変えて、ちょくちょく振り返っては、大丈夫よちっちゃな泣き虫ノンナ、もうすぐよ、と笑うカチューシャが、何だかとても大きなお姉さんに思えて、何だか妙に安心した私の涙は凍りつく前にすっかり引っ込んでしまった。

 実際のところ、子供の足で往復できる距離なんてたかが知れているもので、私が思っていたよりもずっと短い時間で私たちは幼稚園に辿り着き、まだ他の皆は昼寝の最中だと知って不思議に思ったものだ。居なくなった園児二人を探してうろうろと園の中を見回っていた保育士は、カチューシャがわめく声でようやく私たちが雪まみれで玄関に立っていることに気づいて、大慌てで二人を回収してくれたのだった。さしものカチューシャもすっかり体力を使い切ったようで、保育士がバスタオルで包んだ時には鼾をかいて寝ていたものだ。

 その後、湯を沸かしてくれた保育士によって、たらいのお風呂ですっかり暖められた私たちだったが、私に防寒具をすっかり寄越してしまったカチューシャは三日ほど風邪で休むことになってしまった。私は申し訳ないのと、カチューシャがいないと虐められるのではないかという思いで震えそうになったが、むしろ、あのカチューシャを寝込ませたという妙な畏敬の念をもって見つめられ、姐さんなるとんでもない綽名を頂戴し別の意味で震える羽目になった。

 戻ってきたカチューシャは全くいつも通りで、有り余るパワーを発散し続ける豆タンク振りは変わらなかったが、私を吹雪の中連れ出してしまったことを反省しているのか、或いは自分のいない間に私がいじめから解放されていることを悟ったからか、もう手を取り引き摺るようなことはなくなった。むしろ私が一人でも頑張れることに安心したのか、そっとしてくれるようになった。だからその後も私がカチューシャの後ろをついて回るようになったのは、私が好きでついて行こうとそう思ったからだった。

 やがて長じてくると、微妙に管区が違ったのもあって、私達は別々の小学校に入学することになった。家が隣近所という訳でもなかったので自然と疎遠になり、手紙を交わそうにも住所も知らず、電話しようにも番号も知らず、幼く口下手だった私は親に強く主張することもできず、結局それきりだった。

 泣き虫だった私が、カチューシャなしでも小学校で頑張れたのは、あの日のカチューシャの背中がずっと胸の中にあったからのように思う。小さな体で、鼻水を垂らしながら、それでも私を引きずって、笑顔で励ましてくれた、あの偉大な背中が。私もああなりたい。出来たら今度は後ろじゃなくて、隣をずっと歩いていきたい。その思いが、私を頑張らせてくれたように思う。それから物理的にも、身長がぐんぐん伸びて生意気な男子に舐められることも少なくなったおかげもあると思う。

 やがて、プラウダ高校に入学した時のあの衝撃は今もよく覚えている。聞きなれぬ東北弁や、馴染のない露西亜情緒に縮こまっていた私は、入学式で新入生代表が答辞を述べるために段に上がった時、思わずあっと声を上げそうになった。

 そこには彼女がいた。

 あの日と殆ど変らない、あの豆タンクが、小さな暴君が、雪の妖精が、カチューシャが、段に上がっていた。マイクに届かなくて急遽木箱を足元に置いてもらって、マイクを最大限低くして、それでも殆ど頭しか見えていないけれど、それは確かにカチューシャだった。

 私はもうその瞬間から彼女の事しか見えていなかった。ずっと憧れていたあのカチューシャが、ずっと離れ離れだったあの雪の妖精が、いまそこにいるのだ。

 私は入学式が終わるや否や、喜び勇んで早速彼女に会いに行き、何年経っても治らない口下手を恨みながら、それでも何事か言おうともごもごと挨拶らしきものを言ったような気がする。勢いの余り抱きついてしまわなかっただけよかったかもしれない。

 それ程の歓喜は、しかしすぐにしぼんでしまった。カチューシャは私を覚えていなかったのだ。

「あんた、随分おっきいわね。頭が高いわ」

 そっけない返事だった。返事というかもう、ざっくりと外見を見た感想みたいだった。すっかり忘れられていた。しかし仕方がないのかもしれない。私にとってカチューシャは忘れられない背中だったが、カチューシャにとっては何時も後ろを歩いていた泣き虫なのだ。何年も離れていては、覚えている方がおかしい。

 私はすっかり凹んだが、それでもカチューシャの傍にいられるのは確かだった。カチューシャが戦車道をやると知れば私もすぐに履修し、カチューシャが高い所のものが取れず腹を立てそうであればその前にさっと取ってやった。戦車に乗れなければすぐに寄って助けてやった。

 周囲からはカチューシャの腰巾着だと言われ、ご機嫌取りだと嗤われ、カチューシャ本人からも別に私の面倒なんか見なくてもいいのよとは言われたけれど、私は決して止めなかった。私はカチューシャの隣にいる為なら何でもしようと思ったのだ。この程度の事は喜んでやるくらいには、幼少期にカチューシャが私にしてくれたことは大きかったのだ。

 その関係は今でも続いていて、こうして肩車する姿もすっかり馴染んで、もう誰も私たちの事を嗤ったり、不自然に思ったりはしない。カチューシャもまた私が面倒を見ることを受け入れ、いろんなことを任せてくれるようになった。

「ノンナ、何かいいことあったの?」

「いいえ、カチューシャ。雪が積もったらカチューシャを掘り起こすのが大変だと思って」

「もう、幾ら小っちゃくたって埋まったりしないわ!」

「そうですね。埋まらないようにしっかり雪かきしましょう」

「もう、ノンナ!」

 後どれだけ頑張ればそうしていいのかはわからないけれど、いつかきっと隣に立てる日まで、あなたの少し後ろにいさせてほしい。

 あの夢の日を胸に、私は貴女を追いかけるから。

 

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