また同じく拙作「少女(?)達は少女(?)する 西住さんちの場合」お読みいただいているとようやく意味が通じる部分もございます。
夢の中でも逃げきれない
いまでも、私は逃げ出したいと思う時がある。背を向け、顔を背け、耳を塞いで目を閉じきって、何もかもを放り出して逃げ出したいと、そう思う時が。
いや、きっとずっとそう思い続けていたのだ。彼女の不純物のない硝子玉みたいに綺麗な目をむけられる度に、彼女の機械仕掛けの声音が愛を囁く度に、彼女の熟練工じみた精密な指先に触れられる度に、私は自分というものに耐えきれなくなって、すぐにも逃げ出したかったのだ。
どうして逃げ出さなかったのかと言えば、偏に逃げ道がなかったからに過ぎない。いや、逃げ道というよりは、逃亡先か。逃げて、逃げ続けて、落ち延びた果てのこの大洗で、もはや私に逃げる先はなかった。逃げ延びた先に、安息などありはしない。
私は自分が嫌いだった。生まれ落ちてからずっと、不幸面して結局のところ自分のことしか考えていない、無責任で自分勝手な醜い取り換え子が、大嫌いだった。もしも人生でたった一人誰かを殺してよいと言われたら、真っ先に殺すのは私自身だっただろう。
私はずっと誰かに愛されたかった。好きだよと戯れのように言ってほしかった。ただ触れられることさえ夢のように望んだ。それが得られないことを知っていたからだった。私は人と違いすぎた。私は人の子に生まれたけれど、人として生きるには余計なものが多すぎた。いっそ全くの人でなしの一匹の怪獣に生まれていれば、或いは彼女のように気儘に生きられたのかもしれなかったが、神様は私に人間性といういらぬ
いつだって私は半端ものだった。人にもなれず、神にもなれない、半端ものだった。
人間のように不完全なものになりたかった。わからぬことをわからぬままに受け入れ、知ることを、学ぶことを楽しみたかった。神のように完全なものになりたかった。何もかもを知り尽くして、悩むことも苦しむこともない境地に至りたかった。しかし私はどちらにもなれなかった。私は完全でも不完全でもなく、ただの欠陥製品だった。満ち足りることもなく、これから満たされることもなく、ただただ欠けていた。
私は逃げ出したかった。しかし逃げる先はもはやなかった。だからせめて私は罰を受けたかった。すべての罪を清算するため、正しく罰せられたかった。自分という存在がいまなお自分可愛さに醜く生きているという罪を罰せられたかった。そしてその上でなお赦されずただただ斃れたかった。もう終わってしまいたかった。
幸せな内に角谷杏というアルバムを閉ざしてしまいたかった。
信じることを、信じようとすることを、ついに諦めてしまう前に。
そんな恥知らずな願望をこじらせたからだろう。
私がこんな夢を、見るようになったのは。
夢は必ず西住ちゃんが泊まりに来る時に見た。
彼女が隣で寝息を立てている時に限って、私はその夢に沈んだ。どれだけ体が疲れ切っていようと、どれだけたくさんの自分勝手な怪獣の愛情を刻まれようと、私がその夢を見ないことはなかった。
それは大洗女子学園が廃校を宣言されてからをなぞるような夢だった。
ただ一つ現実と違ったのは、そこに西住ちゃんの姿がなかったことだった。
廃校を宣言され、戦車道の復活を宣言し、隊員を集め、戦車を見つけ出し、しかしそこに西住ちゃんの姿だけがなかった。かわりに絶望感だけが、穴を埋めるように色濃くそこにあった。
すでに何度目になるだろうか。私は夢を見る度に、廃校の危機を退けるべく戦った。いや、正直に言おう。私は罰せられるために戦った。現実において、西住ちゃんに、西住ちゃんただ一人に背負わせてしまった全てを、私は背負わなくてはならなかった。その偉業の全てを、その苦行の全てを、本来あるべき場所に納めなければならなかった。本来彼女が負うべきではなかった全てを、本来負うべきだった者に負わせなくてはならなかった。すべてを、清算しなくてはならなかった。
神が私に
また味方にも悩まされた。どう育てれば効率的なのか、蓄積された経験は如実に教えてくれるはずなのに、私は往々にして隊員との間に軋轢を生んだ。数字には出ない個人個人の思惑が、思わぬところで私の足を挫いた。ある意味において誰よりも信頼できる河嶋においてさえ、極限においては時に私の想像を超える瞬間があった。かつて西住ちゃんが隊員たちの個性を潰すことなく器用に伸ばしていったことを思うと、私はあまりにも不器用だった。人の心など理解できない、共感性というものを母親の胎の中に忘れてきた西住ちゃんは、しかし驚嘆すべき程に人の望みを把握していた。そこには心理を推測する計算式があった。そして人並みの共感性と心というものを持ち合わせているはずの私は、その心理というものを全く把握していなかった。人の心理と己の計算を信じる西住ちゃんには当然のようにできることが、人の心を信じることのできない私にはまるでできなかった。
私には西住ちゃんの猿真似さえできなかった。
ただただ経験則から、そうすれば勝てるという法則を導き出すことしかできなかった。そしてそれはかろうじて勝てるというだけであり、かつて西住ちゃんが不思議と生み出していった、奇妙な友情めいた関係性や、信頼めいた結束は生まれえなかった。
それでも私が曲がりなりにも全国大会を彼女抜きで勝ち抜いていったのは、偏に彼女にできたことが私にできないわけがない、たった一人の女の子に背負わせてしまった業を、私が背負えないわけはないという意地の一つ故だった。
そうして勝ち上がった私は、最大の関門である史上初の十連覇を遂げた黒森峰という壁を前に敗北するのだった。戦車の上から私を見下ろす、あの微笑みの前に下されるのだった。黒森峰という一つの巨大な機械を、完全に支配した全盛の西住みほを前に、ありとあらゆる戦術は覆され、私の全霊はひたすらに叩き潰されてきた。
私が彼女を知る以上に、彼女は私の戦術の全てを知っていた。私程度の付け焼刃など、西住姉妹という双翼を揃えた万全の布陣を前には、蟷螂の斧に等しかった。
その、筈だった。
その晩、私の砲弾が彼女の戦車を下すまでは。
幾夜繰り返したかわからない悪夢の果てに、私は、大洗女子学園は、強豪黒森峰さえもついには下し、誰もが信じられないという表情のままに優勝旗をその手にした。誰よりも実感のないままに優勝旗を受け取った私は、さてどうしたものかと困惑したものだった。
私は赦されたかった。すべてを彼女に押し付けた罪を赦されたかった。私は赦されたくなかった。すべてを放り出した罪を罰されたかった。
だが、私は勝った。勝ってしまった。
ダージリン、チョビ、ケイ、カチューシャ、西住姉、私はその誰が相手であっても、今や一定以上の勝算を確信しうる段階にまで来ていた。あまりにも迂遠で不器用な、莫大な経験の積み重ねからくる統計結果に過ぎない勝率だが、しかしそれでも、こんな私でも、あくまで私の記憶の中の彼女たちとはいえ、ある程度は行動を予測できるようにはなっていた。しかしただ一人、西住みほだけは、私の想定の外だった。ほかの面子よりも付き合いが長く、今や恋人同士であるにもかかわらず、私は西住ちゃんの行動だけは予測することができなかった。私が彼女の行動を計算するよりも、彼女が私の心理を暴く方が余程に早かった。
所詮は夢の中のことだと言えばそれまでだった。私がそれだけ西住ちゃんの実力を評価しているということであれば、それは間違いがなかった。しかしこれはこの私の夢なのだった。砲弾の受けるコリオリの力さえ演算に組み込まれたこの
その私が、生まれついての負け犬であるこの私が、よりにもよってその確信に基づいてエミュレートされた夢の中において、西住ちゃんを下す。その事実が私を混乱させた。
その混乱は、私があの平野に立つまで、変わらずに続いた。
あの対大学選抜戦の試合会場で、圧倒的戦力差を前に、絶望的な戦いを前に、困惑とともに佇むまで。
全国大会優勝後、私は動揺しながらも、すでに対策を取り始めていた。西住ちゃんが平然と築き上げたような各校との関係は、生憎と私には結べなかった。他校の協力は望めなかった。私は全国大会優勝、そして廃校の危機が去ったことを口実にしばらく戦車隊を休養させることを宣言し、ひそやかに戦車を隠した。戦車に乗りたいという嬉しい不満はあったが、しかし必要なことだった。エキシビジョンマッチも開催されないまま、私たちには再びの廃校の危機が迫るのだから。
かつては、西住ちゃんを気に入ったダージリンを筆頭に他校が協力してくれた。サンダースに力を借り、戦車を隠してもらいさえした。しかし、それらの協力は得られない。彼女らが友誼を結んだのは西住ちゃんであって、私ではないのだから。
大洗女子学園廃校を知って連絡をくれたのは、以前より付き合いのあったチョビだけだった。
「お前、大丈夫か?」
電話がつながるなり、短くも鋭く尋ねてくる安斎千代美に、私は素直に答えるしかなかった。大丈夫ではないが、いつものことだと。いつもこうだったと。
個人的な付き合いがあるとはいえ、さんざんなやり口で勝利を奪ったアンツィオは、彼女一人の意志では動かせないだろう。それでも、仮にも優勝校を廃校にするというのはおかしいと、抗議活動をしてくれると彼女は言ってくれた。我が夢の中ながら、まったくいい奴だった。或いは私が、普段は思いもしないながら、心の底ではこいつをそう言う奴だと思っていたのだろう。
もしも大洗の廃校がもっと早く決まっていたら、或いは私は安斎千代美を我が校に誘っていたかもしれないと不意に思い至った。それは戯言めいた思い付きだったが、しかし、きっとそうしただろう。
そう告げると、彼女は今からでもと口にしかけたが、しかし、結局は口をつぐんだ。今の彼女には、背負うものが大きすぎる。何を言い訳するでもなくただすまないとだけ呟いたのが、私には安斎千代美の何よりの友情の証のように思われた。
さて。
結局のところ、我が大洗女子学園はなんとか大学選抜チームとの試合にこぎつけた。
助けは全く期待できない。三十両対八両の殲滅戦。理想的とは言えない精神状態の隊員たち。かつてとは比べるべくもない歪な練度。いくらか同情的ではあるものの、戦車道にふさわしくない野犬の末路として眺める観客たち。全く絶望的だった。
けれど、その絶望を前にして、私はいっそ清々しかった。
これでようやく夢が終わるとそう思ったからだった。これでようやく私は罰せられるのだと思ったからだった。何かの間違いのように黒森峰を下してしまった、その過ちもこれで清算されるのだと。
それが西住ちゃんのものではないことが残念だったが、しかし、あの灰色の砲弾が私を貫くその瞬間が待ち遠しくさえ感じられた。
私は全力でもってこの勝ち目のない戦いに挑もう。西住ちゃんに押し付けてしまった全てを、きちんと背負いなおして、そしてその重みにきちんと潰れよう。
さあ。
さあ。
さあ。
「はあ、やっぱり戦車というのはなんだかおおそろしないものですねえ」
不意に、夢が歪んだ。
それは明白な異物だった。
かつてにおいてもこの場にいたことはない誰かが、私の隣に立っていた。
「これがみほお嬢様のよく仰っているへったーとかいうのですか。まあ随分かわいらしい丸っこい戦車ですねえ」
酷く呑気な声だった。
そしてそれは
私の夢の中にあって、しかし私の知らない声を、私の知らない何者かが発していた。
冴えない色の和装を、自然に着こなした女性だった。年の頃はいまいちよくわからず、若いと言えば少女のように若くも思えたし、かと思えば苔むした岩のように泰然とした年経た気配も感じさせた。全体に胡散臭い空気を、胡散臭い女がまとって、いつの間にか佇んでいた。
何者とも知れない女性が、なんともどうでもよさそうにぺちぺちとヘッツァーの側面に触れながら、わけもわからず呆然としている私を気にした風もなく勝手に何か言っている。
「いえね。みほお嬢様が最近寝つきが悪いと仰るもので。ああ、いえ、幼い時分から放っておいても勝手にすぴすぴ眠りこけている悩みのなさそうなみほお嬢様のことではなくて、なんでも今お付き合いさせていただいている角谷さんのお嬢さんが魘されているそうで、自分のこと以外でそんな風に夢中になられるのは文字通り夢の中でも何となく気に食わないとか、まあこれまた自分勝手なことを仰るのです。しかしまあ実際見に来てみればこれはまたみほお嬢様とは正反対に神経の細い、いえいえ繊細そうなお顔ですねえ」
何を、言っているのか。
「神経が細いと言えば奥様もまあ自分のことでもないのに随分とご心配されて、やっぱりお悩みになるのが趣味なんでございましょうかねえ。角谷さんのお嬢さんが最近文通で教えてくれるお薬がなんだか強いものになってきたようで、体の方は大丈夫なのかしらと、まあ自分のお腹の具合もゴロゴロ悪い癖に人様の心配をするもので、やっぱりみほのせいかしらきっとみほのせいなのねなんて、冬眠明けの熊みたいにうろついて、かと思えばご不浄におこもりになられたり、全く持って面倒くさい、もとい見ていてあんまりなものですから、まあよくわからないなりに何か解決とはいかないまでもお手伝い差し上げた方が面白いかなあと思い立ちまして」
不快で、不可解で、不気味だった。私の夢の中なのに、私の記憶にない女が、私の想像もしない言葉を吐いている。
「こうして繋いでみたので、まあそろそろ御出でになるとは思うのですが、ああ、あれ、あちらで御座いますね」
やる気のない投げ遣りな手が、ぞんざいに指示した先に、私は見るはずのない影を見た。きゅらきゅらと音を立て整然とととのえられた陣形を守ってやってくるくろがねの城を。
「大洗女子学園、西住まほ以下二十二両。試合に参戦する。短期転校の手続きは済ませてきた。戦車道連盟の許可も取り付けてある」
我が大洗に出し抜かれ、人跡未踏の十一連覇を阻止された黒森峰女学園の誇る鋼の牙城、鋼鉄の虎が、大洗女子学園の旗を掲げてそこにあった。
そこにいるはずのない、いてはならない姿だった。
「どうして来た、黒森峰!」
自分の夢に、自分で文句を言う。これほど不毛なことはないだろう。しかし私は叫ばずにはいられなかった。どうして、何故、と。
「どうして、どうして来たんだ! これで、これで終われるはずだったのに! 私は今度こそ、今度こそ正しく……ッ!」
答えなど出るはずのない、誰にも理解されることのない叫びに、しかし、彼女は答えたのだった。
キューポラからするりと現れ、鋼鉄を踏みしめ、彼女が笑った。
見るもの全てを安らがせる様な、自然と心が和み、のどかな気持ちにさせられる様な、そんな計算し尽された作り物の笑顔。その笑顔を見るためにここまで来たのだと、そう思わせるような笑顔だった。
「答えは、『女の子は恋をしていたから』」
その一言は、かつての問答を思い起こさせた。黒森峰にいるはずの彼女が、口にすることなどないはずの一言だった。
「君は、君は『西住ちゃん』なのか!?」
馬鹿げた問いだ。自分の夢に、自分で問う。夢の中の存在に、真贋を問うなど。だがしかし、私は目を離せなかった。今まで何度となく夢の中で見続けた姿だった。黒森峰の制服に身を包み、完全無欠の笑顔を浮かべて、私を見下ろす彼女の姿。しかしいま、夢の中の登場人物であるはずの彼女は、禍々しいほどの存在感をもって仁王立ちしていた。
「さあ、さあ、対選抜戦なんていう消化試合はさっさと終わらせましょう。夢の中とはいえ夜は短いんです。折角だから楽しみましょう。この後はイベント盛りだくさんなんです。告白したりされたり、忙しいですよ」
ふざけたようなことを、至極真剣に嘯いて、西住ちゃんは真直ぐに私を、私だけを見つめている。
「こんな下らない夢で私の睡眠時間と会長さんとの夜が邪魔されていたのだと思うと不快です。巻いていきましょう」
試合開始の合図もなく、二十二両どころか悍ましいほどの黒い海となって、無数の戦車が野を越え山を越え、耳が痛くなるほどの砲声を交わしながら私の夢を蹂躙していく。エミュレートが限界を迎えて、あちこちで処理落ちが起きて、テクスチャははがれ空は裏返り、夢が壊れていく。
「さあ、待ちに待った告白イベントです。覚悟はいいですか?」
それはとても甘ったるさなど感じさせない、ロマンの欠片もない一方的な宣言だった。
そしてどうやら私は、それでいいらしい。それがいいらしい。私のエミュレートできない西住ちゃんが、私のエミュレートできない結末を突き付けてくる。それが何とも言えず、不快で、不可解で、そしてたまらなくたまらないのだった。
どうやら、私は夢の中でも逃げ切れないようだった。