以前、西住隊長はロボットだという噂があった。
何しろ滅多に笑わないし、口数も少なく、モノを言う時は理路整然としているし、隙というものがなかった。そして何より、隊長の休んでいる姿を誰も見たことが無かったのだった。
朝練は誰よりも早く来て準備をしていて、夜遅くまで隊長室の明かりが消えることが無い。成程ロボット呼ばわりされても可笑しくない。
黒森峰の眠らない隊長、西住まほ。その噂の厄介な所は、それが都市伝説などではなく、事実でしかないという真実だった。
痛恨の全国大会敗退を経て、黒森峰はより一層強くあることを求められた。後援会から求められ、識者とやらに求められ、そして自分自身に求められ、黒森峰は厳しさを己に課した。次はない、その強迫観念めいた執念が、屈辱を跳ね返す唯一の祈りだった。
そしてその頂点に立つ隊長は、誰よりも厳しくあらねばならなかった。他人に、そして誰よりも自分に。
私が都市伝説がただの都市伝説でないことに気づいたのは、練習後、隊長室で軽くミーティングを行い、互いにお休みを言い合って別れた後の事だった。寮の自室に戻り、夕食と入浴を済ませ、宿題を片付け、細々とした雑事を終わらせて、ようやく眠りにつきかけた私は、ふと手をやった枕元に何もないことで、携帯電話を隊長室に置き忘れていたことに気づいたのだった。おやと枕元を見て、鞄の中を漁り、パンツァージャケットのポケットをひっくり返し、そしてようやく隊長室で確認し、そしてそのまま置きっぱなしにしてしまった事を思い出したのだ。
携帯電話にセットした目覚ましのアラームがないのは不安だったが、まあ起きられない事はないだろう。明日の朝にでも取りに行けばいい。そう思いながらも気づけば脱いだはずのパンツァージャケットに手を伸ばし、私は外出の準備を整えていた。
潔癖という訳でもないし神経質という訳でもないが、有るべきものが手元にないというのはなんだか落ち着かなかった。それに副隊長というのは存外面倒が多い。朝からメールに電話にと文明の利器に振り回されることもざらだ。心安らかな安眠の為にも、仕方がなかった。
寮の門限はとうに過ぎていたから、先輩たちから連綿と受け継がれてきた抜け道をするりと潜り抜けて、私は夜にまろび出た。
夜気は冷え、ジャケット越しにも少し肌寒い。
寮から隊長室までの決して短くはない距離を、ジョギングして体を温めながら向かうことのメリットと、お風呂入った後だし汗かきたくないなという乙女心のデメリットがせめぎ合い、半端な小走りで向かった先で、私は奇妙な事実に遭遇した。
明かりがついているのである。
部屋を出るときに見た時計の示していた時刻は日が変わる少し前だった。
消し忘れだろうか。不思議に思いながらドアノブに手をかけると、手ごたえがない、鍵が開いている。鍵もまた、閉め忘れだろうか。嫌な予感は確信に変わりつつあった。
失礼しますと一声かけてドアを開ければ、その先では、退出した時と変わりなく、執務机に向かう隊長の姿があった。
「うん? エリカか。どうした」
「どうしたって……ああ、いえ、忘れ物をしまして……」
「ああ、携帯電話か。珍しいな、忘れ物なんて」
手ずからに携帯電話を渡されて思わずまじまじと見つめると、何を思ったのか照れたように顔を逸らされる。
「い、いや、中身は見てない。気にはなったけど、見てないから」
別にそんなことを気にしていた訳ではない。受け取った携帯電話を開いて、時刻を確認する。
「隊長は、お仕事ですか」
「ああ、消耗部品の単価が上がり気味でな。業者を、」
「いま何時だと?」
「うん? なんだって? 何時? ああ、時間か。まだ一時か、二時くらいだろう」
「…………もう、一時半なんですよ、隊長」
午前一時二十八分。それは明朝五時には朝練の準備を始めている人間が起きていていい時間ではなかった。夜中にふと目を覚ましてしまった人間だけが夜を呼吸していいのだ。それをこの人は、一体いつからここに座っていて、そして何時ここを去るというのだろうか。
聞けば、概ね三時くらいには寝るらしい。ここで。この隊長室の堅いソファで。
そして四時ごろには起きだして、珈琲を飲み、五時には朝練の準備を始めている。
「寮室には帰らないんですか?」
「あそこじゃ仕事ができないからな」
「ソファじゃ寝辛いでしょう」
「慣れたよ」
あっけらかんとした様子に、そして目の下に色濃い隈と、入学したときより格段に細くなった肩とに、私の堪忍袋の緒は容易くちぎれとんだ。
「じゃあ私もそうしましょう」
「ええ?」
「隊長独りで働かせているようでは副隊長の名折れです」
「いやだって、大変だろう」
この時爆発しなかったのは手元にグローブがなかったからだ。
「大変なのは隊長です」
困惑する――それさえも腹立たしいが――隊長を押し切って、私はその日から隊長と仕事を共にし、監視することにした。
三時まで仕事を、硬いソファでうつらうつらと眠りにつくかつかないかといった頃に早くも一時間は過ぎて起床し、歯を磨き、顔を洗い、身だしなみを整え、珈琲を飲む。五時前には戦車を軽くチェックし、朝練の準備を始め、ちらほらと集まってくる隊員たちと共に戦車を立ち上げ、六時から本格的に朝練を開始。七時半頃に解散し、シャワーを浴び、朝食を済ませ、授業を受ける。休み時間の度に隊員や整備課からの連絡を受け、対処。昼休みは昼食を取りながら隊長とミーティング。仮眠でも取りたいところだけれど、隊長室に籠って算盤を弾きはじめるので隣で検算。午後の授業を終えればその足で隊長室へ向かい今日の方針を確認。その後夕方まで練習し、日の暮れる夕方には安全の為にも解散。シャワーを浴びて夕食を済ませたら、隊長室へ向かい今日の反省。その後、各班からの細々とした報告を一つ一つ確認し、対処が必要なものは対処。整備課からの整備報告、要請、発注書類の確認、納品書のチェック、エトセトラエトセトラ、そして気付けば午前三時に気絶するように倒れ込み、午前四時には蘇生したての小鹿のゾンビの様に半ば痙攣しながら起床。以下繰り返しだ。
一日目はまだ眠いで済んだ。二日目は全く頭が回らず、一つの思考に時間を大分とるようになった。三日目になると慣れたようにも感じられたが、寝不足が常態化しただけだった。四日目には授業中に居眠りをし、本気で心配された。五日目には手足の冷えが酷くなり、酷く喉の渇きを覚える。食欲は低下。お腹が空いているのかどうなのかよくわからなくなってくる。三度の食事が上手く喉を通らない代わりに、チョコレートバーなどを不定期に補給するようになる。五日目……六日目だったか? 多分六日目。顔を洗っていると目が痛いわけでもないのに、涙が流れ続けた。ぼんやりとシャワーを浴びていたら三十分も経っていた。
七日目が限界だった。朝から思考は散漫で、授業中も単純な四則演算を何度も間違え、冷えのせいか指先が上手く動かず何度もペンを落とした。指揮は滅茶苦茶でとんでもない所で撃破され、おまけになんとか戦車から這い出たはいいものの、盛大に躓いて転倒。大空に羽ばたかんとするように両腕はだらんと広がり、全く無防備に頭から地面に落下したらしい。
らしいというのはどうにもその記憶がないからだ。戦車を出たのは憶えているが、煌めく陽光がまぶしすぎて、遮ろうと手を上げたあたりで意識がブラックアウトしている。
目が覚めたのは病院だった。病室の清潔なベッドの上で、まず見知らぬ天井に眉をしかめ、ゆっくりと体を起こして辺りを見回して、エリカ、と呼ぶ声に振り向いて新種の妖怪みたいな壮絶な顔をした隊長を発見した。
「えりか、えりか、」
「はい、エリカですよ」
「あ、えあ、えと、あ、ああ、お医者、お医者さん」
「あーっと、ナースコールこれですね」
ぽちりとボタンを押して、ああ、ああ、と声にならない声、嗚咽にならない嗚咽を漏らす隊長をあやしている内に医師がやってきて、急にきりっと背筋を伸ばした隊長の横で、軽く様子を見られ、経緯を説明してもらった。
なんでも戦車から転倒し頭を打ち、何針か縫ったとかなんとかいう話だったけれど実感はなかった。確かに頭にはガーゼが当てられネットが巻いてあるのだけれど、麻酔が効いているのか痛みどめが効いているのか、それともまだぼんやりしているのかよくわからない。
今日は一応様子見で入院して、明日の朝には退院して大丈夫だといって医師は去っていった。それが早いのか遅いのかはよくわからなかったが、寝ている間にすっかり処置を終えてしまうのだから医術というものは全く大したものだと妙な感心をしたのは覚えている。
改めて隊長を見てみると、先程までの伸びた背筋は何処へやら、青菜を塩漬けにでもしたような萎びれ具合で、めそめそしょぼしょぼしている。何だかよくは分からないままに頭を撫でてやると、何だか胃液の匂いもするので大方どこかで吐いてきたらしい。
「ご、ごめん、ごめ、なさ」
「はいはい、大丈夫ですからね」
「わた、わたしが、無理させたからっ、わたし、」
「無理してないですよ」
「でも、でもわたしが、あまえて、」
「無理してないですって。隊長と同じことしてるだけなんですから」
少し強めに言うと、隊長は押し黙った。いっそ死んでしまいそうなほどに顔はげっそりとやつれ、握りしめた拳は真っ白になっていた。
「でも、そうですね。無理だと思うなら、無理しないのが、一番ですね」
「……ええ」
以前、西住隊長はロボットだという噂があった。
何しろ滅多に笑わないし、口数も少なく、モノを言う時は理路整然としているし、隙というものがなかった。そして何より、隊長の休んでいる姿を誰も見たことが無かったのだった。
朝練は誰よりも早く来て準備をしていて、夜遅くまで隊長室の明かりが消えることが無い。成程ロボット呼ばわりされても可笑しくない。
けれど今は下らないジョークで笑う事もみんな知っているし、天然が入ったとぼけた発言を放り投げることもあるし、ビールサーバーから噴き出したノンアルコールビールでびしょ濡れになる間抜けな姿も周知の事だ。
だから、黒森峰の眠らない隊長、西住まほの噂は、ただの都市伝説だ。そういうことに、なっている。