大学に通う「私」の視点から語られる「戦車道の角谷さん」のお話。
毎週月曜日、三限目が終わったばかりの昼下がりに、私は角谷さんとささやかなお茶会に興じている。
旧棟傍のカフェテラス中程のテーブルが角谷さんの定位置だった。
その日も私が講義を聞き終えていそいそとやってきた頃には、角谷さんは何時ものテーブルの何時もの椅子に腰かけて、何時もの角度で差し込む陽ざしで出来た木陰に憩い、向日葵の柄をあしらったタンブラーをお供に、ぱらりぱらりと文庫本を捲っていた。
「こんにちは、角谷さん」
「ええ、こんにちは」
「相席よろしいかしら」
「喜んで」
角谷さんは読みかけの文庫本にしおりを挟んでそっと閉じ、にこやかに私を迎えてくれた。
カフェテラスの椅子は金属製のお世辞にも座り心地の良いものではなかったけれど、彼女の微笑みを前にそれがいったいどんな障害だというのだろうか。でもそのうち、クッションとまでは言わないけれど、下に敷くためのひざ掛けか何かを用意した方がいいかもしれない。スカートに跡がつくのだ。
角谷さんは私より一つ年下で、しかしとても理知的な人だった。小柄な体はしかし何時だって姿勢がよく、実際の身長よりも存在感をもって映った。目には知性の光が宿り、語る言葉の端々には教養を思わせた。
「今日は何を読んでいたのかしら」
「ハイペリオンを。キーツではない方の」
「シモンズね。やっぱりSFがお好き?」
「人に勧められたんです。でも、興味深い」
角谷さんは読書家だった。それもジャンルを問わず様々な本を読む。酷く淡々とした様子で読むので或いは物語にそれほどの興味などなく、読む為に読んでいる、時間を潰すために活字をなぞっているだけなのではないかと思うこともあったけれど、尋ねればきちんと話の筋も答えるし、彼女一流の感想も述べた。
初めて出逢った時も、角谷さんはこのテーブルで文庫本をぱらりぱらりと静かに捲っていた。
大学に入学したこと自体をゴールとして喜んでいる低俗な連中との会話に疲れ、果たして学ぶために大学へとやってきたものは自分ばかりなのだろうかと子供じみた妄想に囚われかけていた私に、彼女の姿は一枚の絵画のように映ったものだ。
主要な講義室のまとまる新棟から離れ、立地的にも機能的にも人気のない旧棟傍のうらさびれたカフェテラスは、ただ彼女一人をそこに置くだけで見るものの目と呼吸とを支配する芸術と化していた。喧騒から離れようとただ無心に足を進めていた私はその光景に呆然と足を止め、視線を釘付けにし、しばしの間自分が肺呼吸する生き物だということも忘れて凍り付いたように化石する他なかった。
彼女はあまりにも自然体だった。寛ぎ、憩い、他の何者にも邪魔されない世界がそこにあった。その何でもないような何でもない在り様が、彼女の内面に確かに蓄積された知性を空間ににじませ、無味乾燥としたカフェテラスに鮮烈な輪郭を刻み込んでいた。
いや、いや、いや!
いくら言葉を積み重ねてもあの時の衝撃を説明するには足りないだろう。
救いを求める貧者が荒野をあてどもなくさまよう中で、空を裂く一筋の流星に神を見るように、私はあのとき角谷さんに神を見たのだった。一目惚れというのならば確かにあれこそ一目惚れだった。
何を読んでいるのかしらと、決して積極的とも社交的ともいえない私に尋ねさせたものは何だっただろうか。気づけば私は敬虔なる信徒のように彼女のもとへ訪い、おずおずと話しかけていたのだった。
角谷さんはそれでようやく私の存在に気付いたというように顔を上げて、瑞々しい目をゆっくりと瞬かせて、それからゆっくりと世界が爆発した。というのは勿論私の主観の話だ。
角谷さんは微笑んだのだった。
それは勿論、心からのものということではなく、社交的な、人と会話するうえで程よいクッションとなる様な、そんな微笑みだったのだろうけれど、しかし蕾が柔らかく開くように咲いたその微笑みに、私はいっぺんに魅了されてしまった。上品なというほど着飾った微笑みではない。けれど無垢というほどあからさまでもない。十分な知性と教養とが生み出す、それは表情の芸術だった。私はこの大学で初めて人間と会話できたのだとその様にさえ感じていた。図体ばかり大きく知性の伴わない半動物どもではない、知性もった人間と会話ができたのだと。
われはロボットという小説です、と角谷さんは明瞭な声で答えた。アイザック・アシモフねと反射的に答えた私に、ご存知ですかと角谷さんはちょっと小首を傾げ、それから、よかったらと相席を勧めてくれた。
その日以来、私と角谷さんのささやかなお茶会は続いている。
タンブラーからのぼる珈琲の香りは、世界から取り残されたような枯れ果てたカフェテリアに、知的な会話からなる独特の一角を生み出させていた。
珈琲の香りは知性の香りだと嘯く私に、興味深い見解ですねと角谷さんは頷いた。
角谷さんはそれがどんな話題であれ、否定から入るということがなかった。私が迂闊にも卑近で卑俗な俗世の愚痴を持ち込んでしまったとしても、角谷さんはまず話をよく咀嚼し、そして批判ではなく批評をした。良いこと悪いこと、どうしてなのかなぜなのか、そこを決めるのではなく、ただありのままに評価した。判断は常に私の手元に残してくれていた。これがどれほど優秀な鏡なのかわからないものはいないだろう。私は角谷さんという鏡を通じて自分を見つめ直すことができ、そして残酷なほど冷酷なこの鏡に映った数字を見て、自身の心で判断を決めることが許された。
珈琲の香りについても角谷さんはまず黙ってただ私のささやかな論説に耳を傾けてくれた。
子供の頃、珈琲は大人の飲み物だと思っていた。不思議な香りに、真っ黒な水色、それから恐ろしく苦い。大人たちはみな珈琲を飲み、そして難しい顔をして何事か悩んでばかりいるようだった。自分が大人になって珈琲を飲み始めると、必ず珈琲を求める瞬間というものが自ずとわかってくるようになった。それは必ず精神的活動に付きまとうものなのだと私は考えた。疲れたとき、考えがまとまらない時、或いはこれから何かを始めようというとき、また或いは何事かを成し遂げたとき。
珈琲の香りは精神を和らげる。まともな状態へと調整すると言ってもいい。楽器がその時々に合わせて調律しなければ最高の音を奏でないように、人間の精神もまた、その時々に合わせて調律してやらなければよいパフォーマンスは期待できない。そのための道具が、少なくともそのための道具の一つが、珈琲なのだ。
いまや現代社会において、知性が発揮される場所にはきっと必ず珈琲の香りが揮発していることだろう。
「なんて、与太かしらね」
「いいえ、興味深いと思います」
角谷さんはやはり微笑んだ。
もともとは興奮作用を期待された珈琲は、ある種のトランス作用があると言っていいでしょう。落ち着いた時には高揚を、疲れたときには沈静を。知性が常に肉体という枷に囚われていることを思えば、その枷を解き放つとは言わないまでも、一時的に緩め、知性の自由なふるまいを許すことを思えば、成程珈琲の香りは知性の香りなのかもしれません。
打てば響くとはこのことだ。
どのような話題であれ、角谷さんが言葉に詰まることはなかった。それはつまり彼女の受け止められる範囲が私のささやかな知識よりもよほどに広範にわたるという事であり、彼我の圧倒的な差異を思わせたけれど、しかし角谷さんは知的な会話を無為に終わらせるようなことはなく、むしろ私を柔らかく引き上げて彼女の知識の一端に触れさせてくれているようでさえあった。そのことは悔しさや恥ずかしさよりも、ただただ彼女の智慧への感服を呼び起こすばかりだった。
話題は私ばかりが提供するものではなかった。
角谷さんは大抵今読んでいる本に関して私の意見を求めてきた。それは単なる感想であったり、作中の技術に関する疑問であったり、また人間性の機微に関する問いかけであった。私はせめて足元くらいにはついていけるようにと彼女の読みそうな本を先回りして読みふけり、ネットに散らばる考察や感想を読み解いてきたが、角谷さんは私のそんな小細工などはお見通しで、むしろ私のつたない感想をこそ好んでいる節があった。きっと角谷さんの中でとっくに問題は解決しているだろうに、私などの半端な解釈にいちいちなるほどと頷いては興味深そうに微笑むのだった。
また角谷さんは戦車道のことについても語った。
私は角谷さんと知り合う以前、戦車道というものをあまり評価していなかった。ある種の武道であり、スポーツであり、この大学では盛んにおこなわれているということは知っていた。だが評価はしていなかった。遠くでどんどんとやかましく音がするたびに嫌悪感を募らせていたと言ってもいい。野蛮で古臭いものだと頭から決めつけていたのだった。
だからいかにも知性の申し子と言うべき角谷さんが戦車道をやっていると聞いた時は大いに驚いたものだった。私のなんとも無礼な反応に、しかし角谷さんはおかしそうに笑ったものだった。そしてこう嘯いたのだった。知性の先端は常にある種野蛮なものかもしれませんと。
角谷さんは私の中にある忌避を感じ取って、私に戦車道を押し付けたりはしなかった。そういった理知的な対応と戦車道に対する先入観の矛盾に苦しんだ私は、雑誌やSNSで戦車道の情報をあさった。そうした中で得られた情報は私の中で勝手に出来上がっていた野蛮なイメージを取り除き、清々しいスポーツの印象を与えた。しかしそれでも何故は残った。角谷さんが言うほどに知的だとは思えなかったからだ。
降参して尋ねる私に、角谷さんが柔らかな言葉で説明してくれた戦車道は、なるほど確かに知的で、そして野蛮だった。
角谷さんは自分が経験したという戦車道の試合の様子を交えながら、それがどんなものかを説明してくれた。相手がどのような戦車を保持しているか。自分たちの戦車はどうか。それらの相性は。性能は。地形はどうか。自分は相手のことをどれだけ知っているか。相手は自分たちがどれだけ知っているのかということをどれだけ知っているか。試合が始まる前にすでに情報での戦いがあった。対戦校に忍び込んでの諜報さえあったと聞く。そして作戦だ。相手の車両と、そして相手が自分たちの車両をどう判断するかを考慮し、地形にあった作戦を立てる。時にはその作戦を相手が読むことを想定して更なる作戦を組む。
実際に試合が始まったならばその実践だけではない。常に予想外は起こり、その場その場で判断していかなければならない。試合の映像を見て私が思っていたより、戦車の中というものは狭苦しく、そしてその視界と言ったら殆ど極度の近視眼の象のようでさえあると角谷さんは評した。実際に砲撃を加えようとしている車両でさえ、まともに見えているわけではないという。その戦車が恐ろしく滑らかに市街を走り回り、僅かな間隙を狙って砲撃する様は全く持って正気の沙汰ではないと思わせられた。
ブラインドチェスみたいなものですと角谷さんは笑った。
どの戦車がどのあたりにいるだろうか、今自分はどのあたりにいるだろうか。それらを狭い視界と無線通信からの情報で頭の中に組み上げ、現実での挙動に咄嗟に合わせていく。時には安全な装甲から顔を出し、場の空気を読む。全てはただ相手を打倒して自陣の勝利を導くために。
なるほど、知性の先端は野蛮の場において磨かれるのだった。
角谷さんは戦車道を楽しんでいるようだった。愛しているというほどではないにせよ、この知的なゲームが角谷さんの知性を磨いているのは間違いがないように思われた。
月曜日は午前中で講義の終わってしまう角谷さんが、こうしてカフェテラスで時間を潰しているのも、戦車道の練習が始まるまでの時間潰しだという。それまでの時間潰しは読書であり、いまは私がそうだ。私と一冊の文庫本とは、きっと角谷さんの中でほぼほぼ等価値でしかないのだろうと思うことはあったが、あえてそれを口にするほど私は野暮ではなかった。
たとえ角谷さんの時間潰しに過ぎないとしても、この知的な会話を楽しめることは、
「おーい西住ちゃん!」
「もう西住じゃないですよ会長さん」
「それを言ったら私も会長じゃないんだけどなあ」
時間が来た。来てしまった。
迎えにやってきた小柄な少女へとむける角谷さんの目は、もはや私に向けていた琺瑯質のそれではなかった。
「あ、それでは先輩、また月曜日に」
「ええ、また……また、月曜日に」
角谷さん……旧姓西住みほさんは、鞄に文庫本を収めるように、すでに私への興味を失っていたのだった。
‡ ‡
「お友達、よかったの?」
「え? ああ、あの人ですか。時間潰しに付き合って頂いただけですから」
「学部の人?」
「どうなんでしょう。聞いたことないです」
「……お名前は?」
「……さあ、遅刻するといけませんから急ぎましょう」
「西住ちゃん、クラスメイトの誕生日暗記してたバイタリティどうしたのさ」
「会長さんと違って私のリソースには限界があるんですよ」
「残酷な人間と評すべきか、優しい機械と妥協すべきか」
「そういえば前に読みましたよ、われはロボット」
「どうだった?」
「時間潰しにちょうどいいページ数でした」
「ああ、そう……」