みほ杏の一応の一区切りということになるのでしょうか。
一人のキャラを立てるのにここまでくだくだしく書かなければいけない人間なんだよ私はと死にたくなる。
ふと気づくと、私は列車に揺られていた。
ごとごとと一定のリズムで揺られていた。
なんだか眠気を誘われる。ベルベットの座席は程よく硬く、車内の気温も暖かめで、実に寝心地が良さそうだ。
今は何処等辺を走っているのだろうか。見知らぬ土地だ。ちらと車窓に目を遣れば、曖昧な稜線にかかった上等なビロードの様な柔らかい暮れの紫と、その陰を柔らかく包む黒い闇、そしてそこに散らばって灯るきらきらと綺麗な明かり。
何処から来たのだったか。何処へ行くのだったか。窓に触れれば氷みたいにヒヤリとしているけれど、指先の凍みる様な冷たさとは裏腹に、頭の中は綿でも詰まったようで、どうにも考えが纏まらない。
「ここいらは北十字という辺りです。暫くはこんな調子ですよ」
不意に声がした。重たい頭をもたげてみれば、向かいの席に誰か座っているようだった。何だかもやもやとして、誰なんだか何なんだかわかりゃしない。ただわからないなりに、そのもやもやの向こうでにこにこと笑っている様な感じはした。
再度車窓に目を遣れば、空の端では沈むとも沈まない赤銅が、また反対の方の端では眠たげな眼をした三日月と、瞬かない星々が散らばっていた。書割じみたのっぺりとした景色に、ああ、そうか、そうなのかと納得する。
これは夢か。
夢ならば、この妙な状況も納得する。
そうと思えば気楽なもので、座り心地の良いベルベットの座席に深く腰を落ち着けて、肘置きに体を預けて、向かいの相手に目を遣る。相変わらずもやもやとして、にこにことしている。
きっと誰でもいいから、どうでもいい外見を当てられているのだろう。わが夢ながら適当なことだ。しかしこのもやもやは見続けていると、ピントが合わないような、居心地の悪さがある。
「じゃあ、西住ちゃんにしよう」
「はい、会長さん」
これは西住ちゃんだと決めると、もやもやは途端に姿を変えた。にこにこと笑う西住ちゃんだ。例の、誰もが気を抜いてしまいそうな柔らかな作り物の笑みまで、本物そっくりだ。どれだけ私は彼女が好きなのだろうか。こんな夢の中でまで、わざわざ作り物の笑顔と、ガラス玉みたいな視線なんて、夢のない再現度を誇るだなんて。
夢の中で位、自然に微笑んでくれる西住ちゃんを見ればいいものを。あんな救いようがない程に人間とずれた人間をそのまま思い浮かべるなんて、私も随分と物好きなものだ。
しかし、夢の中でなら、現実と違って私は西住ちゃんに好き勝手言える。何も包み隠す必要がない。起きている間は愚痴の一つもなかなか零せないんだ。知ってた? いつもいつも西住ちゃんに振り回されっぱなしで、最近胃薬が手放せなくなってたんだよ、私。精神安定剤にはまだ手を出してない。医師の診断書が出たら、生徒会長続けられなくなっちゃうからね。そしたら、西住ちゃんの隣にいられないからさ。
さて、じゃあ、何から話そっか。
中途半端は良くないし、一番最初からにしようか。
私の人生の物語を、始めよう。
物語の冒頭を飾るにはあまり景気のよろしくない話だが、私の人生というものはあまり素敵な始まり方ではなかったと思う。
何もどん底の不幸な境遇に生まれたという訳ではない。
基準をどこに置くかにも寄るだろうけれど、少なくとも、子供一人を出産して養育するのに必死にならなければいけない程に経済的に逼迫していた訳でもなく、酒や賭け事に溺れたり子供に虐待を振るったりするような両親に育てられた訳でもなかった。
概ね恵まれた家庭に、程々に健やかな環境で、大いに望まれて生まれてきたのだった。
両親の経済状況も人格判定も、ご近所との付き合いも社会の情勢も、これ以上ない黄金期とは言わないまでも悲観するような最悪でもない、いうなれば普通の誕生だった。
唯一そこに瑕をつけたのは、他でもない角谷杏少女自身だった。
非常に残念なことに、私には、角谷杏には、夢というものがなかった。
夢。希望と言い換えてもいい。
物心ついたとき、私は既にそれらを手放していた。というよりは、優しい母の腹の中に忘れてきたのか、或いは神様がうっかり取り付け忘れたのか、最初から持ち合わせがなかったのではないかとも思う。
何かが間違っている、何かが可笑しい、何かが狂っている、何かが噛み合わない。
その事に最初に気づいたのは、両親が私の為に用意した知育玩具が、欠片ほども理解できなかった時だ。
ひらがなやカタカナ、アルファベット、それらの印字されたボタンを押すと、その発音を示す音声が流れる安っぽい機械相手に、私は随分悩まされた。
日本地図の形を模したパズルに、日用品を模したプラスチック製のパーツを所定の位置に直す玩具。道徳的観念を養うという謳い文句の絵本。大げさな音声の当てられた派手な色遣いのアニメーションに無理のあるシナリオを詰め込んだビデオ。それに知恵の輪。
それらを前に、私はしばしば苦悩した。
『こんな幼稚なもので遊ぶことを強要されるほど私は悪い事をしたのだろうか』と。
何をむずかっているのかと困惑する両親が、カタログを前に悩む姿を見て、私はようやくそれらが当時の私ほどの年齢層を想定して設計された玩具なのであって、私の方が可笑しいのだと理解できたのだった。
普通の幼児は、それこそ頭の重みで真面な歩行さえも大変なお子様は、文字と発声の関連性をすぐには理解できないし、パズルの絵柄を全体像で記憶することもできなければ、日用品がどんな分類に当て嵌まるのかもわからないし、大人の望む道徳とやらを子供っぽいとは笑わないし、知恵の輪を頭の中で展開して解法を探ったりはしない。
そんな当たり前のことを理解するまで私は一年近くかけてしまったのだ。
両親はまともな反応を返さない我が子にさぞかし悩まされたことだろう。本当に悪い事をしたと思う。その反省もあって、私は両親が望むように、子供は子供らしく振る舞おうと決めた。それが三歳の誕生日の事だ。
私は人生経験の短さもあってあまり演技力に自信はなかったのだが、まあ子供というものはもともとぎこちない、人間になろうとしている動物だ。多少変な所があっても、両親はそれも個性だと私をかわいがってくれた。
本当に優しくて素敵な両親だ。
そんな両親を、そして善良な隣人達や、親戚の人たちを観察していくにつれて、特に私より年上の子供たちを見るにつれて、私はじんわりとした絶望の中、理解していった。
どうやら私という奴は、失敗作らしいのだと、幼いなりに理解した。理解してしまったのだ。
とんだ失敗作で、とんでもない欠陥品で、間違って生まれてきてしまったのだと。
私はどうやら優しく善良で、立派な両親に、報いることが出来そうにないと思った。だってそうだろう。どうやったら小学校に上がる前に中学課程までを理解する子供がまともな人間に育つというのだ。
かくして角谷杏の人生は、早々に闇に包まれたわけだね。
ごとごとと一定のリズムを刻む列車。
ベルベットの座席に、西住ちゃんと向かい合って、私はひとつ伸びをした。
昔の事を思い出したのなんて何時振りだろうか。当時の私は本当に面倒な子供だった。人生というものを過剰に評価していたんだ。きっと世界は薔薇色に輝いていて、エメラルドの都に続く黄色の煉瓦の道のように、素敵な展望が広がっているのだと。そして自分はどうやらそこから転がり落ちてもう二度と再起は望めないのだと、そんな面倒臭い事を考えていたのだから。
話していたら喉が渇いたなと思うと、西住ちゃんが水筒からお茶を注いで手渡してくれた。流石夢だ。不便しなくていい。
よく冷えたお茶を口にしながら車窓の外を見遣れば、日はすっかり沈んで、紫の帳も引っ込んで、ただ柔らかそうな夜の闇と、その上に散りばめられた砕かれた硝子片みたいな星屑、それに眠たげな三日月が見えるばかりだった。民家もみんな眠りについたのか、地に明かりはなく、まるでコールタールの海にでも沈んでしまったかのようだった。
「ここいらは白鳥の辺りですね。海岸もありますけれど、この列車は停まりません」
海岸か。夜の海も綺麗だけれど、何しろ学園艦住まい、海は見慣れたものだ。あえて見に行きたいとも思わない。ああ、でも、何時だったか西住ちゃんと眺めた夜の海は悪くなかった。私は西住ちゃんに何を言われるか、何をされるかと何時ものようにびくついていたものだけれど、結局あのときは何もなかった。西住ちゃんは何か言おうとして、結局言わなかった。あれはなんだったのだろうか。
「西住ちゃんは知ってる? 知ってるわけないよね。私の夢の中の西住ちゃんなんだから」
向かいの座席に腰掛けた西住ちゃんは、ただにこにこ笑うだけだ。変わり映えのしない表情だと思ったが、それもそうだ。私は西住ちゃんの表情をあまり知らない。本当の感情がむき出しになったのだって、きっとあの時の一度だけだ。あの、私に縋りついてきた、あの日だけ。
信じたい。
でも信じられない。
私の人生は何時もそうだったのだから。
シンデレラは魔法使いに魔法をかけて貰って素敵なドレスに南瓜の馬車を仕立てて貰い、舞踏会で見事王子様の心を射抜いた。
あんまりうまく行かなかった例だと、人魚姫は魔女に助けを乞うて、声と引き換えに足を手に入れ王子様の下へ辿り着いたけれど、その恋は果たされず泡と消えてしまった。
まあ、どちらにせよ、角谷杏の人生にそんな便利な魔法使いは現れてくれなかった。
私は自分が普通の道を歩いて行けるように、自分で自分の剪定をしてやらなければならなかった。両親の望む幸福な家庭を乱したくなかった。自分が普通ではないと気付かれて、みんなから変な目で見られたくなかった。
みんな。そう、みんなだ。当時の私にとっては世界が敵だった。いや、世界を敵に回したくなくて、世界に媚び諂っていた。普通でいることが私のたった一つの戦い方だった。私はとにかく、嫌われたくなかったのだ。だって誰も嫌いたくなかったから。
だが私はやっぱり不器用だった。
幼稚園での私は、隅の方で大人しくしている静かな子供だった。活発な子供たちに絡まれてはおろおろとする引っ込み思案な子だった。ともすれば虐められっ子になりそうなくらい、私は内向的だった。
言い訳がましいが、仕方がないだろう。私には彼らが何を考えているのか全く分からなかったし、彼らの遊びというものが何を目的に何を為そうとしているのか、それを理解しようと必死だったのだ。
勿論、今ではちゃんとわかっている。あれに意味などなかったのだと。彼らは本能の導くまま、自分の脳髄の命じるまま、衝動的に動き、交流し、進化の過程で神の御手によって作り上げられたチュートリアルに従って積極的に学習を繰り返し自身を成長させていたのだ。楽しいとか面白いとかいう感情は、つまり本来的に必要故に生まれるのだ。楽しいからやるし面白いからやる。そしてその結果彼らの脳は健全な成長を遂げ、健康に発達するのだ。
このことに気づくのが遅れたためか、私は実際に自分の体を動かしてようやく獲得できる運動神経とやらの発達に暫く悩まされたし、自主的に運動を始めるようになるまでどんくさいというレッテルから逃れられなかった。
小学校に上がって、私はまず一息ついた。幼稚園という狭いコミュニティではよい友人を探すことはできなかったが、小学校となれば管区は比べようもない。同等とは言わないまでも、せめて話の通じる相手は欲しかった。勿論、これはお菓子にはおまけがついていた方がついていないよりお得感があるという程度の話で、最初から期待はしていなかった。
ただまあ、行きも帰りも両親の送り迎えによって行動を制限される幼稚園より、自由時間の増える小学校の方がいろいろとできそうだとは思っていた。例えば図書室やコンピュータ室といった施設の利用もそうだし、放課後から門限までの時間は何ができるかと始まる前から楽しみだった。
結論から言えばその細やかな気の緩みが破綻を齎した様に思える。
私は小学校の貧相な図書室にも十分な手応えを覚えて、暇さえあれば籠っていた。家にある本は粗方読み終えてしまったし、そもそも両親はお世辞にも読書家とは言えず、たかが知れていた。
所詮は小学校に置いてある本が私の好奇心を十分に満たしたとは言えなかったが、しかし少なくとも図書室には邪魔者はいなかった。大抵の子供がそうであるように、同級生は本を読むより外で遊ぶことを選んだし、足繁く通う上級生も、読書に勤しむ後輩に無遠慮に絡むような礼儀知らずはいなかった。そこは人見知りの楽園だったといってもいい。
私は学術的な――勿論小学生向けに置かれている程度のものだが――書籍を粗方読み終えると、今度は棚を端から読んでいくことにした。選り好みをすることは選択肢を自ら狭めることだ。必ず順番に読むというルールを自分に課し、たとえあまり食指の動かない童話や子供向けの漫画本であっても最初の一ページから後書きに至るまでしっかり読み切った。
小学校二年生に上がる頃には私は我流ながら速読を身に着け、読書スピードは格段に上がった。これは二年生の子供が使える限られた時間を有効に扱うには、少々過ぎた能力だった。半ばほどで結末の読めた推理小説を棚に直した時、私は自分のペースが速すぎたことに気づいてしまったのだ。
その時瞑目してざっくりと暗算しただけでも、私は早ければ小学校を卒業するよりも先に図書室の本をすべて読み終えてしまう計算だったのだ。これは問題だった。蔵書数が一万冊行かない程度ではこんなものなのか。
しかしこの心配もやがて解決された。
市立図書館である。小学校の図書室に籠ってなかなかクラスと打ち解けない私を心配した両親は、しかし無理に馴染ませようとするより、私の個性を尊重してくれたのだ。あー、つまり、両親から見た私の個性ということだけど。読書好きで引っ込み思案というそれだ。
読書が好きというより、本相手ならレベル差から生じるコミュニケーション不和を考えなくていいし、学習にもなるしというただそれだけの話だったのだが、しかし両親が連れて行ってくれた図書館は私の楽園となった。
蔵書数はぐんと増えたし、その質も種類も段違いだった。私はそれから毎日のように、退屈な小学校の授業が終わるや否や、駆け足で図書館に向かい、より上等な本を漁るようになった。いやもう、本当に幸せだった。小学校の呆れるほどにのんびりとした教育課程とは違い、自分のペースで自分の望む分野を学べたのだ。おまけに邪魔者もいない。
しまいには家での普通の子の演技も面倒になって、休日にもなれば私は自分で弁当をこしらえて終日図書館に籠り、門限ぎりぎりに帰ってくるという生活を送るようになった。
幸いにも、両親は私が本好きで勉強熱心な子なのだと、私の個性を理解し受け止め応援してくれようとした。全くもって勘違いでしかないのだが、勿論私は何も言わなかった。その方が都合がよかった。小学校の幼稚な連中に合わせたり、優しい両親に偽りの姿を演じ続けたりする苦悩を思えば、図書館での生活は全く最高だったからね。
まあ、しかし、これに関しても私はもう少し節度を持つべきだったよ。もっと周囲とコミュニケーションをとって、当たり前の生活をするべきだった。西住ちゃんはそこらへん、上手い事やったみたいだよね。それもそうか。私は人間が怖くて、西住ちゃんは人間が不思議だった。私は人間を避けて、西住ちゃんは人間を観察した。その違いだ。
嗚呼、全く、本当に私は救いようのない馬鹿だったよ。
それこそ、見下してた幼稚な連中と大差なかった。
私は何処までも「今」しか見ていない子供だった。未来というものを想像さえしたことがなかったんだ。将来性のない子供だったんだよ。何時までもこの時が続けばいいだなんて、ネバーランドの住人だった。
でも、ピーターパンは厳しいんだ。
大人になれば、ネバーランドを出て行かなきゃいけないのさ。
窓の外はすっかり夜に覆われて、天も地も境が曖昧で、列車が進んでいるんだか戻っているんだか、どっちが上でどっちが下か、それさえ分からなくなる程だった。
私は干し芋を齧りながら一息ついた。
夢ってのはまったく便利なものだね。小腹が空いたと思えば干し芋の袋を西住ちゃんが渡してくれた。
私は干し芋が好きだ。故郷の味ってのもあるかもしれないし、今でも、今になっても、こんなになっても、両親がよく送ってくれるからというのもあるかもしれない。
だが一番好いているのは歯ごたえだ。適度に顎を使う。口唇期固着って訳じゃないんだろうけどさ、精神の安定を図るいいアイテムだ。タバコ吸ったり爪を噛んだりするより余程健康にはいいだろうしね。
干し芋の味は昔から変わらない。家で食べていた時から、ずっと。今となっちゃこれくらいが、両親とのつながりなのかもしれない。辛うじて両親が私を見放さないでいてくれるっていう、そういう。
「ついさっきアルビレオの観測所を過ぎましたから、もう鷲の停車場の辺りでしょう」
「ふーん。停まるの?」
「停まりません。この列車は急行なんです。停まる程、大事な停車場が少ないから」
どういう意味だろう。私の夢の中の西住ちゃんなのに、私の現実で見る西住ちゃんみたいに底が知れない。
現実と一緒で、あんまり深く考えない方が精神安定上いいのかもしれない。
さて、どこまで話したのだったか。
そうそう、私の犯した、またまた犯した、大失敗についてだった。
悲しいことに、世の中奇跡も魔法もないらしい。
まあ、私自身の選択ミスに過ぎないけれど、とにかく奇跡は起こらなかった。まあ願ってもいない努力してもいない奇跡なんて起きようがないけれど、しかしそれでも、すっかり油断していた私の背中を蹴り飛ばす程度の奇跡は欲しかった。
私が随分高等な本を読んでいることに気づいた両親が、私にあるテストを受けさせたのは、私が小学校六年生に上がった頃だった。
その頃になると私もまあ、大人になったというか、周囲の子供たちの成長もあって、まあまあ周囲に気を許して、相変わらず幼稚な思考にはついていけないもののあしらう程度に相手は出来るようになっていた。
ようは動物の面倒を見ているのだと思えばいいのだ。言葉が通じる分もっと楽だ。私は教師という職業の困難さを思って随分教師に優しい気持ちになれたし、こんなイレギュラーまで担当しなければいけない担任教師には憐れみさえ抱いたものだった。
世間的には友人と呼べる相手も何人か見繕えた。この女の子などというものは簡単なものだ。流行り物とグループ内の関係性。これにさえ気を付ければあとは愛らしい声で意味もない事を囀るだけの可愛らしい小鳥に過ぎない。ちょっと誘導してやれば、本好きで内向的な杏ちゃんを守ってくれる可愛いナイト様の出来上がりだ。
クラスの中で浮きも沈みもしない、成績は一番ではないけれどそこそこに良い方、交友関係も良好、両親が望む理想の娘を演じられていたと思う。
まあ、そんな風に油断していたから、私は致命的な断絶を経験することになったのだが。
両親が私に受けさせたテストというのは、それまでに見たことがない類の物だった。知能検査と、何かしら芸術的なセンスを問う物など、創造性を量る様なものだった。
食後の些か気の緩んだ時間帯であったのも悪かった。家でぼんやり寛ぐ比較的演技の少ない時間帯であったのも悪かった。比較対象が近くにおらず平均が察せない環境だったのも悪かった。
いや、何が悪かったなどと、そんなものは言い訳に過ぎないか。
私は両親が、受験の参考になどと白々しくも述べた説明を頭から信じてしまった。まさか両親が自分に嘘を吐くはずなどないと、自分の事を棚に上げてすっかり信じ込んでいたのだ。
私は柄にもなく張り切って、ついつい頑張ってしまった。それまで経験してきた型にはまった試験形式とは違ったため、ついつい面白くなって真面目に取り組んでしまった。何事も程々に周囲に合わせよという自分自身のルールを忘れてしまっていた。
試験の結果、私は文句なしの怪物の判を押されることとなった。
小学生でこの能力は普通ではない。もっと専門的な施設で学ばせるべきだ。この才能は神からの贈り物だ。ギフテッドだ。両親に試験の結果を説明する白衣の男は私を褒め称えた。私は隠し損ねたのだ。
両親は茫然と、しかし、何処か予期していたというような目で私を見た。ああ、そうだ、所詮子供の浅知恵だったのだ。自らを育み見守ってきた両親をだましとおせるなんて、そんな甘い考え。
両親は私に詰め寄った。どうして今まで隠していたのか。何故黙っていたのか。私たちを騙していたのか。私たちの知っている杏は偽物だったのか。最初は静かに、しかし段々と声高に、両親は私を責め立てた。
白衣の男は困惑したように私を庇った。彼女は優秀で、周囲に合わせる努力をしていただけで、何も悪い事などしてないと。
しかし私にはわかった。これは積み重ねの結果なのだと。
両親はずっと昔から、私に違和感を抱いていたのだ。自分たちの生んだはずの子供が、自分たちの知らない何か薄気味悪い生き物の影を引き連れていることを感じていたのだ。両親は純朴で善良な人たちで、私が不器用に演じる角谷杏のボロの一つ一つに心惑わされ、疲弊していたのだ。ああ、ああ、その通りだ、その通りだよ。私はずっと両親を欺いてきた。そしてその報いが来たのだ。
だが、そんなに悪い事をしただろうか。ただ安穏に平穏に暮らしたいというただそれだけのことが、こんなにも責められることだろうか。
きっと、責められることだったのだろう。だって彼らは何も悪くないのだ。彼らもまたただ平穏で幸福な家庭を望んだだけの優しく善良な人たちなのだ。私という異物が、それを壊してしまったのだ。これではギフテッドどころか、チェンジリングだな。急激に瓦解していく平穏の中で私が思ったのはそんなことだった。
どうしようもなく悲しかったけど、でも涙は出なかった。
ただ、どうやら無償の愛なんてものは存在しないのだなと、また一つ私の中の信仰が砕ける音を聞いただけだった。
車窓の外では、煌々と赤く燃える星が、遠く遠く、ずっと遠くで、でも目を離せなくなる位に美しく瞬いていた。他に伴う星もなく、孤独に燃える星の光。こうして私の目に映るあの赤色は、一体何年前の光なのだろう。
にこにこと笑う西住ちゃんを、ぼんやりと眺めてみる。西住ちゃんもまたよくわからない子だ。何光年も隔ててやっと届く星々の光みたいに、意味も理由も消失してしまった輝きだけが私の下に届いていて、そこにはおよそ交流というものがなく、ただ傍目には成立しているように見える会話の真似事を、周回遅れの残像相手に繰り広げているような気持ちにさせられる。
きっと。
きっと、そんなに遠くはないのだ。星々程遠くはないのだ。
手を伸ばせば届くほどには、私たちはきっと近いのだ。だけども私には、とてもじゃないけれどそんなことは、手を伸ばすなんてことは、恐ろしくてできない。何かを求めるということは、裏切られるかもしれないという恐怖と隣り合わせだ。何よりも大切で、手放せないものだからこそ、私はいよいよもって手を伸ばすことが出来ない。
手放せないのに、手を出せない。
出来の悪い言葉遊びだ。
向かいの座席に座る夢の西住ちゃんは、気にした風もなく赤い星の光を眺めて、歌うように囁いた。
「綺麗ですね。蠍の火です。皆の本当の幸いの為にああして燃えているそうです」
「本当の幸いって?」
「さあ。わかりません。でも虚しく捨てた命がああして孤独に燃えているんですから、幸せというものは得てして、人の徒労を眺めて。ああ自分じゃなくてよかったと安堵するようなそんな気持ちなのかもしれませんね。蠍はああして死んだ後まで自分のむくろを燃やして、人々にそれを教えてやっているんでしょう。それさえも徒労なのに」
にこにこと笑いながら随分なことを言う。西住ちゃんらしくもない皮肉だ。
いや、違うか。
これは私の夢なのだ。
ならば、これも、この言葉も、私の裡から生まれてまろび出たものなのだろう。
本当の幸いね。そんなものがあるのならば、私の計算できる範疇に置いておいてほしかったものだ。
さて。私の人生には良い妖精も悪い妖精も登場してはくれなかった。どんなに易しい魔法さえも私の人生に関わらず、どんなに優しい悪夢さえも私の人生を変えなかった。予定外の波乱もなく、予想外の展開もなく、粛々と私の人生は終息していった。
小学校を卒業し、中学へと進学するにあたって、私がどれだけ安堵したか、筆舌に尽くしがたい程だった。学園艦にさえ乗り込んでしまえば、あとはもう両親のあんな顔を見ないで過ごせるのだ。
白衣の男は私に、私の様な子供ばかりを集めた専門的な施設を紹介し、両親もそこへの進学を勧めたが、私は生まれて初めてともいえる我儘を通した。私が望んだ進学先こそが、大洗女子学園だった。
大洗を選んだのは、単に一番都合がよかったからだった。小型に分類される大洗女子学園は、贔屓目に言っても人気のない学園艦だった。目立つ特産はなく、人気の観光要素もなく、優れた経歴もなく、有体に言って落ち目だった。私の小学校から進学を希望するのは、私一人だけだった。
そしてだからこそ私は強く大洗女子学園への進学を希望したのだった。
私はとにかく逃げ出したかったのだ。とうとう化けの皮がはがれ、幸せな家庭に何処からか紛れ込んでしまった取り替えっ子の私に、居場所などなかったのだ。両親の私を見る目はもはやあの優しく柔らかい眼差しではなく、何処か怯え、対処に困るといった浮ついた目線だった。
白衣の男が学校にも話を通したせいだろうか、狭いコミュニティで私の異能はあっという間に知れ渡ってしまっていた。昨日までか弱い私を守ってくれた愛らしいナイトたちは、クラスに潜んでいた魔女を弾劾する司祭たちに早変わりした。「お高く止まって、陰で自分たちを笑っていた厭らしい奴」というのが新しい私のレッテルだった。
友情というものは随分安いものだ。一番の友達だと言ってくれた子も、もはや私と目を合わせてくれはしなかった。涙は出なかった。張り裂けそうな胸の中から、ついぞ言葉の一つも吐き出せなかった。彼女たちの友情は偽りだったかもしれないが、しかし先に偽り騙していたのは私なのだから。最初から存在しないものを失うことなどできないと、友情なんてものは最初からただの幻想だったのだと、自分を慰めることしかできなかった。
それまでのしがらみの一切から解き放たれて、大洗女子学園の土を踏んだ時の私の気持ちは、全くもって晴れやかとは言えなかった。両親の見送りをそこそこに振り払って乗り込んだ学園艦で、私が最初に感じたのはただただ虚しさだった。希望を胸に、煌めく星々のような輝きを目に宿した新入生たちの間で、私だけが目を伏せ溜息がちだった。
何故ならそこは私にとって新天地などではなく単なる逃亡先の仮宿に過ぎなかったからだ。
気分は外国に高跳びした政治犯だ。想像でしかないが。
新たな生活を始めるにあたって、私は方針を定めた。
それは『嫌われない事』だ。
好かれる事は諦めた。愛される事は期待せず、信じる事を放棄した。
最低限、嫌われなければもうそれでいい。傷付かなければもうそれでいい。
私は気さくな態度を心がけ、頼み事を断らないようにした。とはいえ、私は自分が不器用な人間だと自覚していた。演技などしてもすぐにぼろが出る。だからそれは結局、元より私自身の自然な在り方だったのかもしれない。
積極性に欠け、その癖やらせれば大抵の事には優秀な結果を残し、頼めば断ることをせず、どんな無理難題でも何とかしてくれる。それが、そんなものが、当時から今にかけて作られた私の評価だ。
馬鹿馬鹿しい。積極性に欠けるのも当然だ。私は自分に自信がない。やらせれば結果を残すのは当たり前だ。結果を残せなければ私の存在に意味などないのだから。頼みごとを断らないのも自然な事で、嫌われるのが怖かっただけに過ぎない。無理難題なんて一つもなかった。どうしてお前たちが自分でやらないのかと言いたくなるほどに、それは簡単に過ぎる問題でしかなかったのだ。
私は多くの悩みを相談され、多くの問題を解決し、多くの人間に頼られ、多くの失望を経験した。思春期の多感な年頃の悩みなど、軽々しくは扱えないものもあった。しかし大抵の場合彼女らが持ち込むのは、本当に本当に下らない物ばかりだった。どうしてお前たちは自分でやらないのか。どうしてもう少し頑張らないのか。どうしてそんなにも無邪気に人を頼れるのか。
私は世界に対して抱いていた信仰が揺らぐのを感じた。私は自分がある程度の才能を有していることは自覚していた。しかしそれでも、世界というものは広くて、高くて、自分程度では及ばぬ所に基準があるのだと信じていた。ルールがあればそれを守るのが当然で、課題があれば意欲を持って取り組むのが当たり前で、誰もがより良くあろうとするのが自然だと思っていた。そんな世界と比べれば自分という存在はまだまだ小さなひよっこで、だからこそ私は自分が頑張らなくてはいけないし、それこそ生きる甲斐だと思っていた。
だが人と触れ合えば触れ合う程に、現実というものにぶつかればぶつかる程に、私はそんなものが幻想であると思い知らされていった。人にとって世界とは世間であり、自分の身の回りでしかなく、目の届く範囲とは驚くほど狭い。ルールは破るためにあり、課題があればできるだけ楽をしようとし、自分より下があることに安堵し今より落ちない事にだけ腐心し、よりよい環境になるとすればそれは零れ落ちてくる何かを拾った時でしかない。
それは私の中に行き場のない憤りを生んだ。お前たちはもっとやれる筈なのにと、お前たちはもっと頑張れる筈なのにと、お前たちはもっとよくなれる筈なのにと。どうしてやらないのか、どうして頑張らないのか、叫びだすには至らない、しかし確かに臓腑を灼く憤りがあった
どうして。
どうして、私だけが頑張らなくちゃいけないのだと。
頑張るまでもなく誰より優秀で、頑張る必要すら見当たらない世界で、頑張っても報われない人生なら、私の今まではなんだったのかと。私の産まれてきた意味はなんだったのかと。私のこの才能はなんだったのかと。両親にあんな顔をさせ、友達を失い、それでも頑張らなくちゃいけないのか。
嫌われたくないと、疎まれたくないと、仲間外れにされたくないと、そのために足掻きもがき頑張らなくてはいけないのか。
何もかもばからしくなって、それでも私は遣り方を変えられなかった。それが角谷杏という人間だったから。もはや変えようのないスタイルだったから。嫌われるのを恐れ、自分でも信じていない希望に縋り、振り返ることもできずさりとて前を見つめることもできず、俯いて足元をにらみながら歩き続けるのが私の精一杯だった。立ち止まれば、私はきっと死んでしまうのだった。
私のやる気のなさが、かえって妙な信憑性を生んだらしく、私を頼る人間は増え、比例するように私の心は摩耗した。私はもう誰も信じられなくなっていた。その癖、信じるのを諦めることが出来なかった。小指の先程度の希望を、捨てることが出来なかった。信じたい。だが信じきれない。気を紛らわせるため、口元寂しさを誤魔化すために間食が増えたが、身長は伸びず、体重も増えなかった。戻すことが多くなって、寧ろ少し痩せた。
私を慕う人間も増えた。私に好意を持つ人間も増えた。私はそれをありがたく思いながら、しかし数値化できないそれらの感情を信じることが出来なかった。第一、虚構で出来た私を信じ頼る連中の、何を信じればいいというのだ。
高校に進学し、生徒会に推薦され、より多くの信頼を集める様になってもそれは変わらなかった。ただただ重荷が増えて、そしてそれを捨てられない自分の生真面目さが恨めしくなるだけだった。
私が、私自身が信頼できるのはその時点でたったの二人だけだった。河嶋桃と小山柚子。無能な広報と有能な副会長の二人だけだった。
河嶋は無能だった。頭は悪い、運動神経も決してよくはない。型にはまった考え方しかできず、その型すらもあやふやにしか覚えていない。無駄にプライドが高く、精神面は豆腐もいい所で感情的で沸点も低い。私が軍人だったら真っ先に銃殺刑にしているだろういい見本だ。
だが河嶋は、私が大洗で初めて信じた相手だった。
何をさせても救いようがなく、癇癪持ちで疎まれがちだった河嶋は、私の遣ることなすことにくっついて回っては、誰が命じた訳でもないのに、私が面倒な頼み事の解決に奔走する度にそれにつきあった。何の役にも立たず、寧ろ足を引っ張るばかりで、すぐに泣きだすこの駄犬に、どうして自分に付きまとうのかと聞いたことがある。
答えはこうだった。
「私は自分を信用できないが、貴女の事は信頼できるからです」
自分が無能であることは知っている。自分が感情をコントロールできず、すぐに心折れそうなことも知っている。だから自分が嫌いだったと。自分がだめたと知っているから。
河嶋は信用できない自分の代わりに、絶対的な指標を求めた。そしてそれが私だったのだという。何故かと問えば、優しいからだと返ってきて、軽く失望した。そして続く言葉に瞠目した。
「貴女は優しいから、どんなに嫌でもしがらみを振り払えない人だと思うので」
私は生徒会に入る際、河嶋を連れて行った。それが河嶋への応えだった。
小山は私と似た人間だった。他人を信じられない人間だった。数字しか信じない人間だった。それは未練を引きずる私よりもよほど清々しい位に吹っ切れた信仰だった。小山が私の下についたのは、偏に河嶋が私についたからだった。
小山は昔からの河嶋の友人だった。小山は他人を信じないが、河嶋の事は信じていた。何故なら河嶋がこれ以上ない程救いようがない無能だったからだ。自分の掌の上で転がせる程度のことしかできない無能。そしてだからこそ小山を裏切らない。それは歪な形かも知れなかったが、小山にとって他と比べようのない友愛だった。
私は小山を副会長に選んだ。私が本当に心の底から絶望した時、何もかもを丸投げする引継ぎ先には、有能で似通ったタイプの人間が欲しかったからだ。結局、もしもの時に最後まで立っていたのは河嶋で、小山はその信仰ゆえに諦めたのだから、わからない話だが。
私の学園生活は粛々と終わりに向かっていた。何事もなく、失望のままに終われそうだった。私の物語に妖精は出てきてはくれなかったけれど、出てきてもきっと無意味だった。もう妖精の粉を体に浴びても、私はきっと飛び立てず、冷たい海へと落ちていくだけだろうから。
楽しい事を考えなくては、空は飛べないのだ。
「ここいらはケンタウルの村がある辺りです。随分来ましたね」
「停まるの?」
「停まりません。余り長く停まりたくないんでしょうね」
さてさて、どういうことだろう。私の夢の西住ちゃんだというのに、随分と意味深なことを言う。
車窓に指をやれば、氷のように冷たくて、指先が凍ってしまうようだった。列車の中は暖房が利いていて暖かいが、外は随分寒いらしい。
「西住ちゃんはさ、私のこと好き?」
「ええ、好きですよ、会長さん」
「ありがとう。私も好きだよ」
戯れにそんな会話をしてみる。酷く虚しくなった。
夢の中なのだ。何処までも自分に都合よく、自分に気持ちがいいように夢見ればいいのに、私という人間は夢の中でさえ、彼女の言葉を信じることが出来ないのだ。
好きです、愛していますと幾度となく囁かれ、口づけを交わし、体を交え、それでも私は、未だに彼女を、恋人の事を、信じることが出来ないでいる。
私は西住みほに恋している。自分でも笑いたくなるほど、滑稽なほど、彼女に恋し焦がれている。そんな恋にうかされた状態でさえ、私は彼女の囁く愛を信じられない。信じたいけれど、信じきれない。信じた瞬間に裏切られることが怖すぎて、もしそうなってしまったら今度こそ立ち上がれない気がして、全てお遊びでしたという笑顔が脳裏をかすめて、恐ろしくなって。
車窓に映る私の顔は、本当に、全く、ひどい物だった。
私の物語に西住みほというヒロインが現れたのは、つい最近の事だ。
ヒロインと言っても、彼女は随分と属性を詰め込み過ぎた多機能戦車みたいな有様だったけれど。
学園廃校の危機という邪悪なドラゴンを前にして、私が最初に考えたのは、生徒たちの転校先と大人たちの再就職先だった。逆らおうという気はなかった。ああそうなのかと、そんなものなのかと、ただ諾々と受け止めただけだった。
それが何故戦車道を復活させてまで抗うことにしたのかと言えば、河嶋がそれを望んだからだった。そんな、ひどい、私たちの学園を、せめて三人一緒に卒業したかった、そんな風に泣き叫んだからだった。
私は河嶋の事が嫌いではなかった。苛立たされることもある程の無能だったが、少なくとも彼女は真っ直ぐな人間だった。悲劇を悲劇と悲しみ、嫌なことは嫌なことだと叫んで見せる位には。頼られた以上、私は助ける他に遣り方を知らなかった。復活したての戦車道で、全国大会を制覇するなど不可能に思えたが、せめて夢だけは見せてやろうと、お膳立てをしてやろうと。
だから河嶋が西住みほという鬼札を見つけ出してきた時には、およそ世の中阿呆程神に愛される物かと瞠目したものだ。
西住ちゃんは、西住流という名家に生まれながら、昨年度大会において敗退の原因となり、責任を取ってか逃げ出してか黒森峰を離れて戦車道のない我が校にやってきた、というのが調査の結果だった。
哀れなヒロインだと思いながらも、私は彼女を戦車道に組み込むことを躊躇いなく決定した。彼女には我が校の存亡の危機を救う白馬の王子様の役をこなしてもらおうと、圧力をかけてまで戦車道履修を強要した。
その結果がアレだ。あの始末だ。
名門聖グロリアーナ女学院を、河嶋の無能が招いた大失態からひっくり返し、市街戦で反撃して見せたあの手際。最終的には一手及ばなかったが、最初から万全であれば或いは全く別の展開だったかもしれない。
我の強い素人集団をまとめ上げて、それだけの指揮を見せつけた西住ちゃんに、河嶋も小山も期待を大にしたらしかったが、私はそのときすでに背筋に嫌な悪寒を感じていた。
試合中徹頭徹尾変わることのない一貫とした態度。年下とは思えない冷静な判断力。そんな、黒森峰で鍛えられたであろう戦車道の能力の事などではない。敗北を喫した際の、あの何処にも漏れ出さないよう丁寧に封をした、しかしどろりと濁った瞳に垣間見えた悍ましい憤怒。そして一時間と経たずそれをあっさり掻き消してしまう程の切り替えの早さ。西住みほという人間に感じていた違和感が決定的なものになった瞬間だった。
これは敵に回してはいけない人間だと、悟った瞬間だった。
哀れなヒロインから、お仕着せの白馬の王子様、そしてその時、彼女は私の中でさらに凶悪なドラゴンの相まで持ち合わせることとなってしまった。
無理矢理彼女を戦車道に巻き込んだという負い目が既にあった。これ以上貸しを作るのは危険だった。しかしそれでも大洗女子学園は、西住みほというたった一人に頼らなければ、その命脈を保つことが出来ないのだ。
そんな危機感が、何故どうして何時の間にやら恋心になど摩り替ったのか。或いは生物としての本能が、危機に対して積極的に誤解を起こす吊り橋効果の様なものなのかもしれない。だが切欠はどうだっていい。恋というものは意味もなく起こり、その中身は後から肉付けされるのだ。どこが好きだのこういう所に惚れたのだのは、あとから自分で自分を騙す事さえしながら後付されていくものだ。
しかし、私が決定的に恋を自覚した瞬間というのは、多分あの時だと思う。
雪原の猛威、プラウダ高校との試合の折、彼女は諦めを口にした。いや、違うか。自分のプライドを守るため、傷が浅い内に降伏を選択しようとしていた。はなはだ不快ではあるとはいえ、仲間に無謀な戦いをさせるわけにはいかないという大義があれば、彼女はそれに耐えられただろう。
だが生徒会は、河嶋は、敗北に耐えられなかった。何故なら敗北は学園そのものの終わりを意味するからだ。
私は戦車道復活の裏にあった真実を語り、その上で選択を求めた。河嶋には悪いが、しかし決定権は西住ちゃんにあった。これ以上彼女に何かを強要することは出来なかった。
多分、西住ちゃんにとっても学園が沈もうがどうしようがさほど興味はなかっただろう。居心地のいい住処、勝手のいい戦車隊、それらが失われることは確かに無視できない損失だが、賭けに出てリスクを負うならば、また新しい土地で同じ様な事をした方がいいと考えたかも知れなかった。十分名は売れたのだ。
西住ちゃんがそうしなかったのは、立ち向かうことを決めたのは、私がいたからだと思う。自惚れではない。西住ちゃんはあの時、これが大きな貸しになるということを理解したのだ。そして学園の頂点にあり、本人も優秀である角谷杏を、言葉一つで支配できる立ち位置を把握したのだ。
それは西住ちゃんにとってなかなかおいしい話だったのだろう。プラウダに仕掛けることは賭けだったが、しかし十分におつりが返ってくる程度のリスクでしかないと思わせる位には。
そして彼女はやった。一時の恥を容易く飲み干して、嫌がっていたあんこう踊りで隊員を鼓舞し、危険な雪中索敵に平然と人をやり、Ⅲ突を雪下に埋めるという場合によっては救出作業が必要になる作戦さえ用いて、雪上戦においてプラウダを食い破ったのだった。
そうだ。私はあの日、西住みほに恋をしたのだ。何処までも自分本位で、自分の興味と楽しみ一つの為だけに、圧倒的不利な戦況を覆す事さえもしてのけるこの化け物に、大いに呆れると同時に憧れたのだった。何一つ自分の好きなようにできなかった角谷杏という物語を振り返って、そこにヴァリヴァリと凶悪な破壊音を引き連れてやってきた利己主義の塊に、私は大いに翻弄されたのだ。
それは何処までも純粋な輝きだった。誰からも自由で、世界の方をこそ間違っていると断じる様な、そんな強い輝きだった。誰が見てもまともではないその輝きを、しかし私は美しいと感じたのだった。
お姫様で、王子様で、邪悪なドラゴンで、そしてどうしようもなく私を惑わせる。
その後の私は本当に滑稽なもので、試合を重ねる度、日を経る度、それこそ顔を見る度に、彼女への恋慕を色濃くしていった。
それは彼女が私に告白の言葉を寄越し、みっともなくも泣きながら受け入れたあの日から、ずっと変わっていないのだ。
ただ一つ、私が彼女の愛を信じられないだけで。
「会長さんは、どうして信じられないんですか?」
「怖いからね。今までずっと、私はそういうのを信じてこれなかった。無償の愛なんて嘘っぱちで、永遠の友情なんて夢まぼろしで、恋愛なんて一時の気の迷い。裏切られたら怖いから、傷付くのが怖いから、信じられないんだ」
「会長さんは、どうしたら信じてくれますか?」
「わからないよ。信じ方なんて誰も教えてくれなかった。信じさせてくれる人生じゃなかった。いいじゃないか、信じられなくても。曲がりなりにも恋人同士で、キスだってセックスだってした。傷付かないよう、表面上で馴れ合おうよ。それでも十分幸せだしさ」
「会長さんは、本当にそれでいいんですか?」
「よくないよ。全然よくない。でもさ、でも、それしかできないんだ。傷付きたくないんだ。怖いんだ。それって悪い事かな。私達はヤマアラシなんだよ。お互いを刺さないようにさ、適度に距離を取るのがいいんだよ」
「会長さんは、本当に本当に」
「止めてよ!」
夢の中の西住ちゃんなのに、本当に私の思うとおりにならない。
なんでそんなことばっかり言うんだ。放っておいてくれ。このまま程よく暖かい列車に揺られて、楽しい事だけ思い出しながら微睡んでいたいのに、西住ちゃんのせいで嫌な事ばかり思い出す。
もう、放っておいてくれよ。めでたしめでたし、二人は何時までも幸せに暮らしましたでいいじゃないか。
そう、叫びそうになった瞬間、ぎいい、と音を立てて列車が急停車した。
ぐらりと倒れそうになる私の体を、西住ちゃんが軽々と受け止める。
「あ、ありがと」
「立てますか?」
「うん、大丈夫」
「それでは降りましょうか」
「へ? もう終点?」
「終点はまだ先です。でも会長さんはここで乗り換えです」
ずるずると引き摺られるようにして車外に放り出される。暖房の利いた車内とは打って変わって、真冬の様な凍える寒さだ。凍りついた夜空の片隅では、南十字星が冷たく瞬いている。
「こちらです」
西住ちゃんが手を引いて行った先には、もう一本線路が走っていて、そしてそこには、列車ではなく戦車が停まっていた。
車高が低い、亀の甲羅のような装甲に、突き出した砲塔。車体に描かれたエンブレムは、漫画じみた描写で駆け足を表現された亀だ。
38(t)ヘッツァー仕様。
私の、私たちの戦車だ。生徒会の、カメさんチームの。
西住ちゃんのエスコートで乗り込み、座りなれたポジションに人形でも置くかのように押し込まれる。操縦席には西住ちゃんが乗り込み、エンジンを始動させた。普段見ない光景に、頭がくらくらする。夢だけど、なんなんだこれは。
「西住ちゃん、たしか運転はあんまり、」
「舌噛みますよ」
ヘッツァーは急発進し、枕木にがたがたと揺れながら明かりの一つもない夜闇を駆け抜けて行く。
「ど、どこいくのさ?」
「どこがいいですか?」
「へっ?」
がったんがったんと、最悪の悪路を最悪の運転で走りながら尋ねてみれば、寧ろ聞き返される。
「ヘッツァーは会長さんの戦車ですから。行きたいところはどんな悪路でも乗り越えていきますし、行きたくない所には馬で引いても進みませんよ」
どこでもいいならさっきの列車でもよかっただろう。列車の中は暖かかったし、明るかった。座席は程よく硬く、横になったらさぞかし寝心地がよかっただろう。
それと比べてヘッツァーは戦車だ。乗り心地はお世辞にもよろしくない。寒いし、座席は堅いし、明るくもない。横になるほどのスペースもないし、鉄と油の匂いもする。
「それもよかったかもしれませんね。きっと何一つ不自由なく、もう心配することもなく、西住みほの事で心惑わせることもなく、穏やかな旅が楽しめたことでしょう」
ああ、きっとそうだろう。何処へ行くかは知らないが、あの列車は今よりましな所へ連れて行ってくれただろう。暖かな車内。心地よい座席。ここではないどこかへ連れて行ってくれる素敵な列車。
「…………」
「引き返しますか? 今なら間に合いますよ」
「…………西住ちゃんは、一緒に行ってくれるの?」
「ええ、会長さんが行くなら。だって会長さんの夢ですから」
「ああ、うん、そうか。そうだよね」
そうだ。これは夢なのだ。この西住ちゃんも、夢なのだ。
「いや、いいよ。このまま行こう。あの列車には夢の西住ちゃんがいてくれるけど、本物の西住ちゃんは戦車じゃないと追いつけそうにない」
「了解しました。それで、どちらまで?」
「大洗女子学園までお願いするよ、運転手さん」
「はい、喜んで」
がりがりと激しく音を立て、ヘッツァーは加速する。悪路に荒い運転は盛大に車体を揺らし、戦車の狭い鉄の胎内で、私は激しく前後左右に振り回され、ガツンと一撃頭を打ったかと思うと、そのまま意識を失ったのだった。
「会長さん! 会長さん!」
間近で叫ぶ大音量に、眉をしかめる。なんだかあちこち痛いし、瞼の裏で光が明滅するようにがちかちかする。微睡むには随分喧しい。
「うっ……ぇ……なに…………」
声を出そうとしたけれど、上手く出てこない。
「会長が目を覚ました!」
「担架まだ!?」
「救急車もうすぐでーす!」
いろんな声が聞こえてくる。そんな中、しつこく会長さん会長さんと繰り返す声があって、はいはい私が会長ですよと重たい瞼を持ち上げると、土で汚れた頬もそのままに、西住ちゃんがこちらを見下ろしていた。
「会長さん、大丈夫ですか! わかりますか!」
初めて見る顔だった。すっかり血の気が引いて真っ青で、表情筋という表情筋がすっかり強張ったのか、怒ったみたいな無表情で、口元ばかりが激しく何やらまくしたてている。
「ほ、ほら、西住、会長も混乱してるから」
河嶋が後ろから羽交い絞めするようにして、ようやく西住ちゃんが離れるが、それでもかなりもがいているようだった。こんなに暴れる西住ちゃんもまた初めて見た。これは放したら危なそうだ。河嶋がんばれ。特訓の成果を見せろ。
なんだかわからない内に体を起こそうとすれば、小山にそっと押さえられた。頭を打っているから、まだ横になっていた方がいいと。
大人しく横になって、何となく視線を巡らせると、近くにヘッツァーが見えた。履帯をこちらに見せて、完全に横転している。ぼんやりとそれを眺めているうちに、だんだんと事情が思い出されてきた。
「あー…………落っこちたんだっけ」
練習試合中の事だった。土煙が酷く、西住ちゃんを真似て自分の目で戦場を見てみるかと、慣れない事をしたのが悪かった。タイミング悪く、岩に片側が持ち上がった瞬間に砲撃を受けたようで、ヘッツァーは勢いよく横転。私はすっぽ抜ける様にして放り出され、頭を打ち付け痛いと思う間もなく気を失った、という顛末だったと思う。
どうやらそれで慌てて試合を中断し、私を介抱しているという場面なのだろう、これは。
寝起きで頭が回らないのと、西住ちゃんご乱心という極めてレアなシーンに、なんだかこっちは驚く暇もない。ゆっくり視線を巡らせれば、死刑宣告を待つ犯罪者じみて青ざめた顔で立ち尽くすのは一年生共か。多分、ヘッツァーにきつい一撃をかましたのは彼女たちだろう。自分たちが誰かを傷つけてしまったということがかなりショックなのだろう。
これが原因となって後々に響いては困る。私はへらりと何時もの笑みを作って、軽く手を振ってやった。
「上手くなったね。参った参った」
ふんわり軽く言ってやれば、それで緊張の糸が切れたのか、おいおいと泣き出す少女達。泣きたいのはこっちだ。後でいろいろフォローしてやらなければなるまい。
そうしていると、再び西住ちゃんが迫ってきた。流石に少し落ち着いたのか、先程までの狂乱振りは鳴りを潜めていたけれど、相変わらず顔は強張って蒼白だ。
「会長さん、会長さん」
「あ、はは。西住ちゃん、隊長がそんなに慌てちゃダメだよ」
「いいんです。会長さんが目覚めなかったら、戦車なんて」
「戦車なんて、なんて言っちゃダメだよ」
軽くたしなめると、不満そうに歯を食いしばる西住ちゃん。しかし一応戦車隊の前だ。そういう発言をしては士気に関わる。
しかし、自分が気絶しただけでそこまで言ってくれると、嬉しくはある。
これも演技なのかという疑いがもたげてきて、吐き気がする。
それを堪えて、私は笑顔を作った。疑いは、捨てられない。でも、信じることを諦めるのは、もう止めにしなければ。
「はは、西住ちゃんは、ほんとに私のこと好きだねえ」
「好きです。大好きです。何度も、言ってるじゃないですか!」
「ありがとう。私も好きだよ」
「……ッだから!」
「あのね、あのね、西住ちゃん。私、かなり面倒臭い女だよ」
「知ってます。知ってて好きなんです」
「それにほら、年上だし、卒業したら大学行っちゃうし」
「たった一年です。すぐに追いつきます」
「こんな貧相な、子供みたいな体だしさ」
「良く知ってます。でも好きです」
「好きって言ってもらっても信じきれなくてさ、キスしてても怖くなっちゃうし、大事にされるほど不安になるんだ」
「でも、それでも、好きなんです!」
「きっと、何時まで経っても、どこかで信じきれないままで、ぎくしゃくするんだ」
「それでも!」
「だからさ」
「えっ」
「だから、信じさせてよ。私、本当に面倒な奴だから、すぐくらーくなっちゃうけど、でも、私のこと好きならさ、信じさせてよ」
「…………はい! 一生かけても!」
私はすぐそばに屈みこんだ西住ちゃんの顔に手を伸ばすと、間髪入れずにその唇を奪った。ガツンと勢いよくぶつかって、唇を切ったのか血の味がする。仕方がないじゃないか。勢いでやったんだし、私からキスするのは初めてなのだ。
ぶつかってきた私に驚いた西住ちゃんも、すぐにそれがキスなのだと気付いて、寧ろお返しとばかりに私にのしかかり、唇を押し付け舌を絡めてくる。そう来なくては。そう仕向けたのだから。
西住ちゃんで塞がれた視界の外から、悲鳴が聞こえてくる。黄色い悲鳴という奴だろうか。
「か、かいちょー!?」
「に、西住殿ご乱心!?」
「こ、こここ告ってたよ! ぷ、プロポーズしてた」
「やだもー!」
「あっさり先を越されましたね、沙織さん」
「きゃー!」
「キスだー! キスしてる!」
「救急車来てるぞ馬鹿!」
騒ぎ立てる戦車隊に、失神する河嶋。非常に居心地の悪そうな救急隊員。周囲が目に入らないくらい興奮しているのか、はたまた開き直ったのかキスを続行する西住ちゃん。物凄く恥ずかしいし、きっと卒業した後も伝説になる様なとんでもない痴態であることは間違いないが、これも保険だ。
これだけの面子の前でこれだけしっかりと見せつけたのだ。マイノリティということもあって今までは隠していたが、完全に公認となったわけだ。しかも見た目には、怪我をした小柄で貧相な会長を、戦車隊隊長が押し倒して居るような絵面だ。
さしもの西住ちゃんも、これだけやらかして私をあっさり捨てるようなことは出来まい。信じる。信じたい。だがまだ怖いのだ。だから臆病な私は、こうして保険をかけるのだ。
西住ちゃんもきっとそれがわかっているから、公衆の面前であえてこうして見せつけて、私を縛ることにしたのだろう。
「もう放しませんからね、会長さん」
「こっちこそ」
私たちはこういうのがお似合いなのだと思う。捩じれて拗れて歪んで捻くれて、それでもがたがた言いながら回る噛み合わせの悪い歯車みたいに。
結局強引に引き離されて救急車で運ばれるまで、私たちはお互いの面倒臭さを再確認したのだった。
私の、私たちの物語が幸福のままに終わるのか、それはちょっとわからない。
何せ私たちはまだ十代で、性別だとか、家柄だとか、この先随分沢山の障碍が待ち受けていることだろうから。
幸福に終わるも不幸に終わるも、すべてはこれからだ。
ただ、きっとそんなに酷い事にはならないとは思う。
懸念していた戦車隊のメンバーの動揺も少なく、同性同士の付き合いもやんわりと受け入れてくれたようだ。女子高という土台が同性愛についての忌避感を薄めてくれたのだとしても、それ以上に仲間としての信頼があったのだと、信じられるようにしていきたい。
心配をかけた西住姉に、どうやらなんとかなりそうだと連絡を送ったら、何故か西住母の方から直筆の手紙で娘をお願いしますという短いながら切実な便りをいただいた上、愛用しているという胃薬まで頂戴した。なんだか途端に親近感の湧く話しだ。
前途多難に思えた道も、どうやら暖かい理解と支援がある様で、私達は何とか頑張っていけそうだ。
これにて角谷杏の不幸物語は幕を閉じ、これからは、信じることを始めた少女と、大切なものが出来た少女の恋物語が、きっと続いていくことだろう。
それが、私の人生の物語。