第三十六話 呼んでますよ、天衣さん
川神学園の夏休みには普段は受け持ちが違う教師の指導を受けられるというシステムが登場した。
人気が集中しているのは有名なカラカル兄弟の授業。他にもルーによる体育指導や梅子の歴史の授業も人気がある。
逆に人気がないのは麻呂の歴史であったが、今年はもう彼の姿を見ることはない。
とにかく、この夏休みの講習システムを利用すれば勉強時間が短縮できると知った学生は積極的に利用している。特進クラスであるSクラスの面々はもちろん、直江大和もその一人だった。
今回はカラカル・ゲイルの授業を受けていた。
「皆さん勉強熱心デシタネ! 私も教え甲斐がありマース!」
彼の弟であるゲイツは大企業を興しただけあって当然の頭脳を誇る。
しかし兄であるゲイルもまた頭脳明晰であり、非常に分かりやすい授業内容ということもあって本当に人気である。
大和も周りを見渡したが、ゲイルの授業を見る目が真剣そのものであると分かる。
勝負の夏ということで成績にハングリーな者は多い。真面目な生徒も多ければ教師側であるゲイルのやる気も上がり、授業の質が更に良くなる。
資料をまとめ、授業を終えたゲイルは去っていく。
「授業の質がFクラスとは大違いだな………結構タメになるぞこれ」
大和は授業内容のノートを見返したり、細かく修正したりしていた。
成績自体は優秀である大和だが彼の所属はFクラスだ。Fクラスの成績は底辺に位置するとされ、受けられる授業内容も全く変わってくる。
故にこういった質の高い授業を受けられることはありがたかった。
「でしょう? 大和君もSクラスにくればこういった面白い授業をたくさん受けられますよ」
「おぉーっ! 大和がSクラスに来るなら僕もっと張り切る~!」
成績トップを誇る葵冬馬も当然授業には出席していた。隣には榊原小雪もはしゃいでいる。更に間を挟んで井上準もいつものようにスキンヘッドを輝かせている。
彼ら葵ファミリーはSクラスには珍しく大和には好意的に接してくれる人物で、その口調からはSクラス昇進を望んでいるようだった。
三人ともSクラスでは優秀な成績を誇るため、大和同様に成績トップを狙うクラスメートからは妬まれている。
「そうだな………今年はともかく来年は狙ってみてもいいかもな」
「珍しいな坊主。 てっきり来ないと思ってたが」
「坊主はお前だ。 いや、自分の時間は作りようはあるがこういった機会は中々なさそうだからね」
大和がFクラスに入ったのも単純に風間ファミリーが多いからである。
しかし大和も二年、やがては進路を決めなければならない。その時に成績優秀であればそれに越したことはない。
今までであれば渋っていただろうが、人生設計を考える大和にとっては無視できない誘いであった。
来る可能性があると言っただけで小雪はもちろん、弁慶と義経らの顔も明るくなる。
「大和がSクラス……いいね~。 いつでもどこでも大和にお酌~♪」
「飲みすぎはダメだぞ弁慶。 でも大和君が来るなら義経も嬉しい!」
川神水を一口する弁慶。仕草の一つ一つが艶めかしい。フェロモンが漂ってくるかのようだ。
対する義経は優等生で模範的な少女ということもあり立ち振る舞いが可愛らしい。髪留めには以前大和が贈ったものをつけてくれている。
どちらも女の子としての魅力があった。
「兄貴が来るのなら歓迎だ。 俺の
「おぉ……那須与一が山猿を慕っているという情報は本当じゃったか」
普段は中二病かつ皮肉屋な与一も大和に対しては心を許している。
恐怖の対象でもある弁慶を制し、言動のそれが自身のそれを上回り、義経も大和を慕っているからだ。
そんな与一達の発言に不死川心は少なからず感心していた。
「不死川さん、大和君を山猿なんて呼ばないでくれ」
「呼ばれたくなければSに入ればよいのじゃ。 そうすれば此方も山猿と呼ぶ理由がなくなる」
好意を寄せている相手への悪口に少し悲しくなった義経が注意を呼び掛ける。
だが物言いはともかく、これらの面々は大和がSクラスに入ってくることに関しては歓迎ムードだ。
編入試験があれば受けてみるのも悪くはないと考える大和だった。
彼の反応に満足したらしく、冬馬の興味は別の方向に向けている。誰かを探しているかのような仕草だ。
「それにしても、英雄やあずみさんはともかくマルギッテさんもいませんね」
「確かに珍しいね~。 私に敵意むき出しだから来ると思ってたんだけど」
「軍のお仕事ってそんなに忙しいのかな~?」
Sクラスの中でも存在感のある三人の姿が見えないのだ。
その中の一人、九鬼英雄は九鬼家の長男として既に仕事に着手しており多忙の身。彼に仕えるあずみもまた専属の従者として常に彼と行動している。だから川神学園に来れないことも多いのだが、それでも英雄の成績は学年2位と凄まじい。
マルギッテは現役のドイツ軍少尉であり、彼女も決して暇な人間ではない。彼女がここにいないということは軍の仕事が忙しいということである。
(そういえば北陸から帰ってからマルさんとあずみさんの姿を見てないな……)
先日、北陸で死神の異名を取る男と交戦した。
その実力は圧倒的で国際的にも危険人物と断定されるほどだ。その影響で仕事が出来てしまったのだろうか。
気になる点はあるが、あれについては九鬼家従者部隊から緘口令を敷かれている。例え親しい人物であろうと、無関係者には公言できない。
「ま、気にしても仕方がないな。 飯でも食いに行くか」
「じゃ一緒に行くよ。 お酌してちょーだいね」
「義経もいくぞ! 与一もホラ!」
「俺もかよ!? ……ま、いいか」
夏期講習システムを利用する学生のために夏休みの間であっても食堂は平常運転している。
腹を満たすべく大和は食堂に向かって歩を進めた。
後を追うようにして弁慶らも付いていくる。食事は一人より複数いた方が楽しい。各々注文をした後に席に座る。
「そう言えば大和君は次の授業何か取っているのか?」
「俺、橘のお姉さ………じゃなくて天衣先生の体育授業取ってるんだ」
「そうなのか?」
午後には橘天衣による体育の授業を取っている。
そんな大和の発言を受けて義経達の顔は意外そうな表情になっている。確かに大和はどちらかといえばインドアな人間であるために体育を選ぶとは思ってもいなかったのだ。
彼自身もそれは理解していたがだからと言ってこんなにも驚かれては心外だ。
「何だよその顔は。 失礼だな~源さん家の義経は」
「はぅぅ! ご、ごめんなさい…………」
「おぉぅ、我が主が大和にひれ伏している………まるで頼朝さんが相手みたい」
とりあえず不機嫌そうな表情と白々しい声色で言ってみる。
すると義経がすぐにシュン、と頭を下げながら謝った。武士道プランのために生み出された英雄がたった一人の男の前に屈している。
この事実に弁慶や与一は唖然としてした。
「でも意外と言やぁ意外だな。 何でそんな授業を取るんだ?」
「ま、最近色々と騒動に巻き込まれるんで多少なりとも体力つけた方がいいかなって」
肩を少しだけ見せた。そこには怪我によって包帯を巻かれている。
武士娘程ではないにしろ、身体能力が良ければ避けられたかもしれないあの一撃。さすがに回避性能が売りである彼がこれ以上攻撃を受け続けるわけにもいかない。
百代や京からの提案もあり、大和はその授業を受けることにしたのである。
「痛そうだね………川神水吹きつけとく?」
「消毒かい! ってか川神水はアルコールじゃないし」
「因みに私が口に含んで、吹きつけるの」
「次怪我したら是非ともお願いします」
弁慶が川神水をちらつかせた。一応心配してくれているのだが本音を言えば大和と川神水を飲む口実が欲しかっただけだ。
さすがに何の効果もなさそうだと拒否しそうになったが、切り返しの一言であっさり承諾する。
結局は大和も男だった。大和の反応に弁慶は嬉しかったらしく、キャッキャッと騒いでいる。
「ん~やりぃ! ということでお酌お酌~♪」
「弁慶、これ以上大和君に迷惑をかけてはダメだ! どうしてもというなら義経が……」
「止められるものなら止めてみせなよ~うりうりうり~~~!」
「うわっちょっ!! べ、弁慶ひっつきすぎだってば………!」
弁慶と大和の距離が想像以上に近く、少々頬を膨らませた義経が引き剥がそうとする。
しかし主従関係が逆転している状況で義経が彼女に勝てる道理はない。
あっという間に逆に義経が取り押さえられ、後ろから巻きつかれてしまう。川神水の影響もあって、熱っぽい息が義経の首をくすぐる。
「あ、あぁ……んっ………や、大和君……助けてぇ………」
「何かとセリフだけ聞くとエロイんだけど周りの目が痛いので助けてしんぜよう」
男としてはどうしても反応してしまいそうな、義経と弁慶の色っぽいやり取り。
だがここは川神学園、公共の場。さすがにこれ以上発展してしまうのはまずいと鉄壁の理性を働かせた大和が重い腰を上げた。
「弁慶、メッ!」
「う? う~~~……………」
「ほれ、義経から離れる」
「……仕方ないね。 はい」
まるで犬をあやすようなやり取りだ。
大和は一子相手にそのような躾を良くしており、実質プロと言える。酔いもあって弁慶は大和を前に素直に弁慶から離れた。
ちゃんと言うことを聞いた子にはご褒美、と言わんばかり大和が弁慶の頭を撫でる。
「それでよろしい。 あんまり義経に迷惑かけちゃダメだよ」
「大和がそう言うなら~~~」
(…………っ!! 兄貴、お前は凄ぇよ……! 姐御をここまで完璧に躾けるなんて!)
頭を撫でられた弁慶は気持ちよさそうに目を細める。
完全に主導権を大和に握られていたが、本人はそれでも良さそうだった。そんな彼女達の様子に与一は激しく感激していた。
畏怖の対象であった弁慶が、直江大和と言う男の前では無力化されているのだから。
「ん? どうした与一?」
「………兄貴、俺はお前にどこまでもついてくぜ!!」
「お、おう」
益々羨望の対象にされてしまったようだ。
中二病から逃れる方法はもう無いのだろうかと大和も頭を抱える。けれども扱いづらい与一を更に御することが出来るのだから良しとしておく。
「義経も! 義経も大和君についていくぞ!」
「私も~~~」
「ハハハ…………」
これは頼もしいと大和も苦笑いした。
与一の反応でつかれきってしまったことが原因で、義経と弁慶の視線には気づかなかったが。
☆
それから一時間後、校庭には多くの生徒が集まっていた。
大和のほかにも岳人や翔一に普段の成績が悪いためか育郎も参加している。Sクラスからは準なども参加していした。
男性陣が圧倒的に多いのだが、女性も一子や小雪など少しだが参加している。
彼らの中心には、この学校に来たばかりの新米教師が。教師と言ってもまだ研修生と言う扱いのだが元々の能力の高さによって教師としても十分なスペックを発揮している。
「おお………私の講習にこんなにも生徒が来てくれるとは…………」
彼女の名は橘天衣。
元武道四天王だったが現在は不幸な巡り会わせが続いてその称号も剥奪、自衛隊も辞めてしまった。
だが最後に天が遣わした幸運の使者、大和のおかげでここの学園を紹介された。武道四天王や自衛隊であった経験を活かし、体育を教える教師となっている。
「いやでも実際大人気ッスよ橘先生」
「そりゃそうだぜ、橘先生の授業は面白いし美人だもんな!」
同じく講習に出ている翔一と岳人は当然と言う反応を見せた。
自衛隊の経験のおかげで天衣は指導の仕方が凄く分かりやすく、丁寧と評判だ。その中には厳しさを覗かせるも、途中襲い掛かる不幸とそれに伴うギャップのおかげで彼女の隠れた可愛らしさが露出するという萌え成分。
更には美人という事が相まって男性人気が非常に高い。
「ならばそれに応えなければな。 では………おっと!」
早速指導を始めようとする天衣の頭に鳩の糞が落ちてきた。
しかし歴代最速のスピードクイーンの名に恥じないその回避能力でヒットしなかった。
時々見せ付けてくれるこの超人的な能力も人気の一つである。
「危ない危ない……。 改めて今日は『名前鬼』というゲームを行うぞ」
「名前鬼………鬼ごっこのようなものか?」
準がそれとなく推察している。
他の面々も似たような想像を浮かべている。
「基本はな。 そしてお前達にはこのフィールド内で争ってもらう」
その一言を告げるとあっという間に天衣が彼らの周りを一囲みするかのように素早く回る。
一瞬で彼らの周りを綺麗な丸の線が囲った。
地面に綺麗に、しかし鋭く刻まれた線は簡単に消えそうにも無い。
「これから全員、この円の中で鬼ごっこをしてもらう。 走っていいのは鬼だけ、そして鬼が追いかけていいのは最初に狙いを定めた一人だけだ」
「え? でもこれだけ狭いとすぐ捕まるんじゃないかしら」
一子の言うとおり鬼にとっては相当有利なフィールドだ。
囲われた面積は20名という人数に合わせているとは言え余りにも狭い。
彼女や小雪など足の速い人間が鬼になればあっという間に独壇場となることだろう。
「そのために追いかけられた人間は別の人間の名前を呼ぶんだ。 そうすれば鬼は呼ばれた人間になり、また誰かを追いかけなければならない」
大和の脳内が思考フェイズになる。
体育の講習だけに確かに脚力も必要だが、即座に誰かに鬼を言い渡す機転、冷静さ、そして頭脳が有するこのゲーム。
一子や小雪は自慢の脚力があるので大分余裕を漕いでいるが、天衣はそんな彼女達に意地の悪い笑顔を向けている。
「それでは始めるぞ。 鬼は………榊原小雪、お前からだ」
「了解なのだー!」
どうやら天衣はそんな彼女の自信を買って最初の鬼として指名したようだ。
指名された小雪は張り切っている。トントンとつま先を跳ねさせるだけでバネのように跳躍している。
普通に逃げるだけでは、絶対に追いつかれてしまう。
「始め!!」
「きいいぃぃぃ――――――ん!! 始めはノッポ君だー!!!」
「誰がノッポ君だ!」
最初の鬼が狙いをつけたのは岳人だ。
確かに彼の足こそは遅いものの、その巨漢ゆえのリーチがある。万が一鬼に指名されてはその長い腕で周りの人間は一瞬にして捕まってしまう。
彼を潰すことは悪い判断ではなかった。だが、小雪の読みは聊か甘かった。
「えっと、こうすりゃオッケーだっけか? 大和」
「はいよ。 ユキ、タッチだ」
「え」
岳人は全く逃げる素振りどころか動じていなかった。
彼は小雪が目の前に迫る直前、大和の名を呼ぶ。こうすることで鬼は大和になる。
そして彼の手が伸ばされ、小雪の肩に触れた。大和は岳人の傍に立ち、いつでもタッチ出来るよう陣取っていたのだ。
「榊原小雪、アウトだ。 タッチされた者は罰ゲームとしてスクワット10回!」
「えぇ~!? そんなぁ~~…………」
「分かっただろう皆。 このゲームは身体能力だけではない。 相手を見極め、どうすれば自分の危機を脱しつつ相手をアウトにさせられるかが勝利のカギとなる」
優勝候補であった榊原小雪が最初の脱落者となった。
彼女には悪いが、これも大和の作戦通りである。アイコンタクトで会話できる中となっている彼らは即座に連絡を取り合い、狙われた場合の対処を指示していた。
少々嫌らしい戦略かもしれないが、同時に必勝法でもある。
「敵を取ってよハゲー!!」
「人に物を頼む時はハゲなんて言っちゃいけません!」
さすがに悔しかったらしく、敵討ちを準に託した。
ツッコミを入れつつも気合を入れている準。今日もスキンヘッドをツルリと光らせている。
「なら次の鬼は井上、お前だ」
「はいよ。 ……こっからが本物の、狩りの始まりじゃァァァァァ!!!」
小雪の敵を討つべく、準がかける。狙いは大和だ。
脚力では一子や翔一には追いつけない、かといって岳人を狙ったのでは先程の二の舞。
だからこそ司令塔でもあり厄介な人物でもある大和を狙うのだ。
「キャップ!!」
「おう! 任せな!!」
狙い通り、と言わんばかりに大和が翔一を呼ぶ。
少々距離があったが、彼の脚力ならばすぐに詰め寄れる。その目論見どおりあっという間に準の背後を取った。
ところが彼は全く慌てていない。
「そうはいかねぇぜ!! 川神一子!!!」
「え!? アタシ!? あ、はい!!」
咄嗟に準が名前を呼んで鬼を切り替えた。
対象は一子だ、名前を呼ばれた一子は戸惑いながらも駆け抜けていく。近くにいた一人の男子にタッチし、脱落させた。
「アウト!! ………今のはいい切り返しだったな」
コンビプレーをしてくることは明白だった。
だからこそ準は自分を狙わずに周りを狙うであろう一子の名を挙げたのだ。回避されたが、だからと言って敵を討てたわけでもない準の覇気は尚止むことが無い。
「ふっふっふ……坊主共、蒼の力の前に沈むがいい……」
「坊主はお前だろーが! それに蒼の力って何!?」
大和の突っ込みが冴え渡るも井上準のスペックは圧倒的だ。
伊達にSクラス入りしておらず、頭脳も身体能力も確実に大和達のそれを圧倒している。元より戦闘力は愚か頭脳面でも頼りにならない育郎はさすがに彼を恐れた。
「お、おい大和。 どうするんだあのハゲやべぇぞ!」
「落ち着け。 ………よし」
大和も彼の洒落にならない戦闘力の高さを懸念していた。
無駄にスペックの高いロリコンを如何にして沈めるか。大和の作戦はすぐに決まった。
彼の表情の変化はすぐに天衣にも見抜けた。頭脳面ならまだしも体力面ではこの面々の中でも最下位になるであろう直江大和がどう出るのか、天衣には興味が沸く。
「なら次の鬼は福本育郎からだ。 行け!」
だからと言って教師と言う立場上贔屓は出来ない。
そんな彼女の目に留まったのは育郎だ。
美人教師からの指名を受けた育郎は一瞬にして絶頂を迎えたかのような優越感に浸っている。
「よーし! ならばまずはお前からだ死ね大和ォ!!」
「ってオイ!! 作戦を俺に振っておきながら襲ってくるんかい!!」
「うるせぇ! 我が魍魎の宴にとってお前はデスノートに書き込まれるべき名前なんだよォ!」
指名された育郎はわき目も振らずに大和に向かっていった。
強敵である準に向かっていかなかったのは先程の二の舞になると判断したからだろう。ただ大和に飛び掛っていったのは明らかに私怨の要素が強い。
大和は呆れつつも、すぐに作戦を切り替える。
「井上準」
「なっ? お、おう! ほれ、タッチだ」
「何ィッ!?」
何と大和は準の名前を呼んだ。
まさか敵側から呼ばれると思っていなかった準は一瞬と惑いつつも反応し、手を伸ばす。
触れたのは育郎だった。完全に背後をがら空きにしていたのが彼の敗因だった。
「福本はアウト! 外に出てスクワットだ!」
「ちっくしょぉ~………大和の裏切り者ォ~………」
「真っ先に裏切って狙ってきたお前が言うなし」
危機回避した上に邪魔者も排除で出来て一石二鳥の大和であった。
だがまだ安心できない、井上準は完全に大和達に狙いを定めている。周りの有象無象如きでは彼の相手にならないのは明白だ。
冷静になりつつ、周りを見定める。
「次だ。 直江大和が鬼だ」
「はいよ。 んじゃ行くぜワン子!」
そして鬼は先程狙われた大和になった。
彼が狙うのは一子。頭脳面ならまだしも身体能力の面では何もかも劣っているというのに彼女を狙っている。
天衣もその考えが解せなかったが、一子はただ冷静に相手を見定めている。
「甘いわよ大和! 井上準!!」
「また俺か!? ちっ、タッチだ」
標的にされた一子は準の名前を呼んで回避する。
また鬼に指名された彼は仕方なく周りの人間に手を伸ばした。ボクシングを習得しているだけあって手の出し方は鋭く、早い。
周囲の人間に名前を呼ばせることなくアウトにして見せる。
「次の鬼はそうだな………風間翔一!」
「へへっ! 俺の出番か! じゃぁ行くぜ井上ーっ!」
自慢の脚力で一気に近づいていくる。
その名の通り風の如き速度と勢いだ。天衣の目から見ても、速度こそは余裕で目に捉えられるが恐れを知らないその姿勢を評価する。
「ちっ、なら今度はお前だ島津岳人!」
「俺様か………なら悪く思うなよ大和!!」
「そうはいかねぇ! ワン子!」
名前の呼びあいによる攻防が続く。
他の連中も武道の訓練を受けていたりしたものが多く、中々粘ってくるため一瞬たりとも緊張が緩められない。
そんな最中、大和はこっそりと誰にも狙われにくく、尚且つこの場全体を見渡せる位置に移動する。
「キャップ! 行くわよぉーっ!!」
「そうはイカの金時計ってな! 井上準!!」
「アイツら実は俺が好きなのか? ほいよ、タッチ」
準も徐々にではあるが違和感を感じている。
何せ敵側である自身の名前を呼んでいるのだから。普通なら、仲間同士で連携して追いつめてこうとするはず。
ところが彼らは協力どころか時々仲間同士を狙っている。
無論勝負である以上、当然と言えば当然なのだが自身を倒すまでは協力するものかと思っていたのだ。井上準はそんな違和感を抱きつつ、また周りの人間にタッチする。
(………なるほど、大和の作戦………こういうことか)
天衣は誰よりも離れた位置でそれを目の当たりにしている。
故に逸早く大和の作戦に気付いた。
溜息をつきつつも、「確かに反則ではないな」と苦笑いをこぼしている。
「井上準!」
「おう、タッチだ! ………ったく、何回俺の名前を呼べば気が済む―――――………!?」
また周りの人間をアウトにして向き直る。
その時、準はようやく気付いた己他の立たされていた状況に。だがもう遅い。
―――――彼の周りには、風間ファミリー以外誰もいない。しかも、彼らは準を取り囲んでしまっていた。
「ありがとな井上。 周りのモブ共を片づけてくれて」
「うぉぉぃ!! こんなのアリかー!!!」
「まぁ正攻法ではないが、面白い抜け道だ。 ルールには反していないし、当然アリだ」
そう、大和の作戦とは井上準以外の周りを一掃することだった。
このゲームにおいて敵は彼だけではない、周りの人間も敵となる。だからこそ大和はその不安分子を片付けさせたのだ。
後に残るのは井上準と風間ファミリーだけ、そうなれば持ち前の連携で包囲し、潰すだけ。
天衣も邪道のように見つつも発想力の高さに感心していた。
「畜生がぁぁぁぁぁ!! こうなったら最後まで戦アベシッ!!!」
最後まで粘ろうとしたが、やはり防ぎきれなかった。
翔一のタッチをそのツルリとした頭に受け、とうとう優勝候補であった井上準が脱落した。
「よーし皆ご苦労…………ん?」
労いの言葉を大和がかけようとした矢先だった。
今度は大和が取り囲まれていたのだ。他でもない、風間ファミリーに。
「大和よぉ………ヨンパチの言ったことは事実だぜ。 俺様達はお前が羨ましい!!」
「魍魎の宴って何かは知らねーけど、キャップに勝てると思うなよ!」
「へっへーん! こういう所で下剋上しないと!」
彼らは密かに結託していたのだ。
厄介な井上準を潰した後に最近調子に乗っている軍師を潰そうと。
取り囲まれては身体能力が皆無に近い大和ではどうしようもない。
「お前ら!! なんて卑怯な!!!」
「「「大和が言うな―――――!!!」」」
「だあぁぁぁぁ!! こんなの無理ゲーだろぉぉぉぉ!!!」
結局大和はタッチされ、沈んだ。
☆
「あ~いい湯だったァ~」
日も落ち、夜を迎えた島津寮。
女子の入浴時間も終わり、大和は風呂場から出てきた。今回は京の変態染みたアタックも無かったためにじっくりと湯を堪能で来て上機嫌だ。
風呂上がりに何か冷たいものでも飲もうかと冷蔵庫のある食卓に顔を出した。
「あ、橘のお姉さん」
「大和か。 何か飲み物が欲しいのか?」
「うん、ぶどうジュース頂戴」
「分かった。 ほら」
天衣が何やら思案顔でお茶を啜っていた。
彼女にぶどうジュースを頼み、手渡してもらう。地味なことかもしれないが、役に立てたと天衣は嬉しそうだ。
些細なことでも幸せと受け取れることはある意味でいいことだと大和も思うところである。
ぶどうジュースを一気に飲み干した彼はふと、天衣の表情が重いことに気づく。
「どうしたの? 何か暗い顔してるけど」
「お見通しか………実は明後日の講習の計画を立ててな」
「マメだねぇ」
「マメにもなるさ。 私の仕事だからな」
暗い性格と不幸体質のせいで隠れがちだが彼女自身はとても優秀な人間で、尚且つ自衛隊仕込みの真面目な気質だ。
どんな仕事も熱心に取り組むし、綿密な計画をしっかりと立てる。
そんな彼女の几帳面さもまた魅力の一つと言えるだろう。
「で、今度はハイキングだったよね」
「ああ。 体力向上の一環でな」
「ハイキングか………確かに夏らしい」
夏場の山登りは人によって好き嫌いが分かれる。
確かに炎天下の中、重装備で山を登っていく様は苦しい。しかしそれを乗り越えた時の達成感はそれ相応のものがある。
それに今回はハイキング、そんなに激しい山を登るわけでもない。
「だが私自身ハイキングはあまり経験したことがない」
「そうなんだ。 山登りとはやっぱり違う?」
「………私の場合は遭難サバイバルになる」
これ以上聞くと天衣のトラウマが蘇ってしまいそうだ。
咄嗟に大和は話題を切り替えることに。
「うちの連中結構物好きだから集まると思うよ。 それに登りきった後はバーベキューとかしたら盛り上がるだろうし」
「バーベキューか………あくまで授業だが、その一環であれば問題ないか」
さりげないアドバイスを送る。
折角掴んだこの川神学園の教師という仕事をモノにして欲しい大和は、生徒の気質を教えたうえで具体的な案を出した。
天衣も柔軟さを見せ、検討してくれる姿勢を見せる。
「………ただ問題が他にも山積みだ」
「例えば?」
「私は川神の地理を余り知らない。 出歩きたくないしな」
天衣はまだこの川神に来て日が浅い。
地理を知らぬのも無理もないが、それに拍車をかけているのが彼女の不幸体質。
翔一の真逆をいく不運体質のせいで島津寮から出ればあらゆる不幸に襲われてしまう。翔一が普段住んでいるこの寮や、川神学園であればある程度緩和されるのだがハイキングともなればそうはいかない。
「それにこの近辺の山は川神山に連なる山のみと聞く」
「あー、川神山………その近くともなれば確かに躊躇うよね」
彼女が悩んでいる最大の原因が分かった。
川神山、それは地元民なら知らぬ者はいない恐怖の心霊スポット。数十年前までは自殺のメッカとして有名になり、山が閉鎖されたほどだ。
さすがに川神山自体には登らないとは言え、その近くの山ともなれば恐怖も出てくるだろう。
「心霊スポット、私の不幸体質…………終末が訪れるぞ」
「じゃぁやめるの? ハイキング」
「……かと言ってこれも仕事、やらないわけにはいかない。 下見どうするかな……」
どうやら既にハイキングは決定事項のようだ。
彼女の真面目な気質からすれば今更覆すわけにもいかないのだろう。しかしその顔にはやはり戸惑いの色が見える。
これから向かう場所が最悪の場所に加え、自身の不幸体質を加味すれば無理もない話だ。
そんな彼女を一人死地に送り出すのは軍師として気が引ける。
「なら俺と一緒に行こうよ、下見に」
「えっ?」
信じられない、とでも言うような間の抜けた声が返ってきた。
けれども大和の眼は力強く天衣を捉えている。
「地理が分かんないんでしょ? だったら一緒に行ってコース設定した方が効率いいよ」
「ダメだ、私の不幸に巻き込まれればお前が危ないんだ!」
「その時はお姉さんが守ってくれるから大丈夫」
自信満々に言い切った。
だらだらと説得を続けても天衣は折れてくれない。ならば強気な態度で主導権を握り、無理矢理にでもその気にさせる。
主導権さえ握ってしまえば、彼女は嫌でもそれについていく形になるだろう。
「危険だと言っている! お前を私の不幸に巻き込みたくない!」
「じゃいーや。 俺一人でその山に行ってこよ~」
「なっ!? そ、それもダメだ!!」
天衣が悲痛にも近い声を上げた。それだけ大和を大切に扱ってくれているということだろう。
嬉しい気遣いではあったが、今は不要。大和は更に畳みかける。
ただでさえ危険な山に行かせたくないと天衣が立ち上がった。
「なら一緒に行くってことで決まりだね」
「……仕方ない、ここが最大の譲歩か……。 分かった、では明日の昼下見に行くから頼むぞ」
「アイ・サー」
約束を取り付けたことで大和も上機嫌だ。
真面目な天衣に約束させれば、それを反故することはまずない。
早速明日の準備をするべく、大和は部屋に戻って行った。
「………やれやれ。 しっかりしていると思えば手のかかる弟分だな」
「フフ、それは天衣さんだけだよ。 はいお茶」
後々になってとんでもない約束をしてしまったものだと、天衣は座り込んでため息をつく。
そんな彼女の元に注ぎたての熱いお茶が渡される。
お手伝いロボとして寮に住みついているクッキーだった。今は自称愛嬌のある第一形態である。
「クッキー、ありがとう。 ……しかし私だけ、と来たか」
「だって基本、風間ファミリーじゃ大和は頼りにされてるし百代を宥められるもの大和だけだし」
「確かにな……見ていてそれは分かる」
川神百代とは今や学校の教師と生徒という関係になっている。
その関係上、彼女と顔を合わせることは最早日常茶飯事。その際に大和に絡みつく姿は常に見ている。その時の彼女は、武神の名を持つ者とは思えない穏やかさを見せていた。
大和の存在がそれだけ大きいということは見てとれる。
「それに大和の両親は常に世界を飛び回っているから、甘えられないと思うんだ」
「……………………」
「だからさ、しっかりしている分甘えたいんだと思うよ大和は」
クッキーはそう言いながら翔一の部屋へと戻って行った。天衣はクッキーの言葉を脳内に響かせながら差し出してくれた湯のみを見る。
濁ったお茶の中に、一本の茶柱が立っていた。
「あ、茶柱………」
些細なことではあるが、幸運の象徴でもあると言われる茶柱。
それがまさか自分にも立つ日が来るとは思ってもみなかった。この不幸体質も、島津寮に住みついてやっと中和できるほどだ。
つまり不幸こそ襲ってこなかったが、かと言って幸運に巡り合えたわけでもない。
―――――それがここに来て、初めて巡り合えた。
「……やるか。 心霊スポットなどに、私の不幸体質などに大和を襲わせるものか!」
自分を頼りにしてくれている男がいる。
ならばそれに答えるのが女というもの。天衣はしっかりと立ち上がり、何があろうと完遂すること、そして大和を守り抜くと心に誓った。
その瞳に今まで自分に打ちひしがれていた彼女はいない。
橘天衣は今、燃えていた。
「なんと橘天衣まで………大和はどこまでフラグを立て続けるの……ギリギリ」
その様子を蔭から眺めていた京であった。
☆
次の日、空はこれでもかというくらいの快晴に見舞われた。
雲一つなく、天気予報などを見てもしばらく雨は降らないと予報が出ている。日射病や熱中症などが怖いが、ハイキング当日に雨に降られるという事態は避けられそうである。
大和と天衣は、これから登る山のふもとで準備していた。
「ふーっ、暑いね~………」
「ああ。 途中休憩をこまめに挟んでいこう」
これから大和と天衣の二人はハイキングコースを登っていくことになる。
無論整備された道ゆえに途中までは安心だが、ただ登っているだけでは授業にならない。ある程度普通のコースを外れた設定を作らなければならない。
準備に関しても抜かりのない大和はしっかりと周辺地図及び山の高等図を所持している。
これを見ながら、二人は歩を進めた。
「このまま行くと分かれ道になって、右側に行くと初級者コースに………」
「! 待て大和!!」
その時、天衣が静止を掛けた。
振り返ると後方から不快な羽音が聞こえる。そう、大量のスズメバチがこちらに向かって飛んできた。
「うぇっ!? ちょ、ハイキングコースにスズメバチ!?」
「私に任せろ!!」
「え!? た、橘のお姉さん、待って!!」
普通、ハイキングコースとは誰でも楽しめるように整備されている。
故にスズメバチなど本来は出現するはずがない。
大和は背負っているリュックから虫よけスプレーを取り出そうとしたがそれよりも先に天衣がスズメバチの大群に向けて駆けていく。
あんな猛毒を持つ虫の大群に突っ込んでいくことはさすがの武道家と言えども危険。
その大群の中を、天衣は駆け抜けた。
「…………御免」
すると飛んでいた蜂は一斉に地に落ちていく。
一匹残らず、急所に一撃を打ち込まれていた。歴代最速のスピードクイーンとしての実力を衰えさせていたなかった天衣にとって、スズメバチの大群などアリの群れに等しかった。
「おぉ~。 さっすが橘のお姉さん。 これなら今後も大丈夫だな」
「ああ、絶対にお前を守って見せるからな大和」
(ヤベ、今日のお姉さんすっげぇ頼もしいんだけど)
いつもはトラブルに巻き込まれる度暗くなっている天衣だが今回は凄まじく明るい。
この調子なら本当にトラブルが起こっても乗り越えられると大和は確信した。スズメバチの大群を葬り去った後にもう一度地図を覗き見る。
「で、この道左右に分かれていて右が初心者、左が上級者コースだって」
「ふむ、出来るなら上級者がいいか………」
「因みに地元の人達によると武道家のためのエクストラコースがあるらしい」
「なん………だと………。 それで、その道はどこに?」
地元民にしてはやたら中二病なネーミングだと大和は呆れながら指をさした。
その方向は右でも、左でもない。真ん中だった。
真ん中には道はない。ただ草むらと雑木林が広がっているだけである。
「この道に真ん中を行くとそのコースに行けるらしい」
「なるほど、地元民しか知らないわけだ」
「結構キツイらしいけど、川神ならではの自然にも出会えるらしいね」
「一応そのエクストラコースに行ってみるか。 危険が過ぎるようなら切り替えていこう」
「アイ・サー」
初心者コースはもとより、上級者コースなど時間さえあればいつでも登れる道。
天衣はあくまで授業としてコースを設定しようとしていた。
であれば地元民しか知らないというそのエクストラコースに登ってみる価値はある。早速二人は真ん中の、整備されていない道を突き進んでいく。
「………エクストラ、とは聞いたがそんなにゴツゴツした岩とかないな」
「あくまでハイキングだからね。 そんなトレーニングコースとかじゃないだろうし」
「だな。 ただ上り坂は結構急だからいい運動になるだろう」
エクストラ、という名を冠しているだけあって意外と足腰を要した。
だが道中角ばった岩や湿地帯があるわけではなく、歩きやすかった。道中は倒木などもあったが、それが自然の道を作り出しており時には神秘さも感じさせる。
森に差し掛かったころ、大和達は小川に差し掛かった。
「お、綺麗な川だ。 どうやらこの上流で川神水の元が取れるらしいね」
「そうか。 (スズメバチ処理なう)」
「ついでに言うとこの奥には大きな滝があるみたい」
「滝か。 自然の大迫力も感じ取れるしいい場所だな。 (クマ処理なう)」
「うん、滝の上側につながる道もあるらしいけよ」
「そこは調査したほうがいいな。 ではその滝に向かうとしよう。 (食虫植物処理なう)」
説明を聞きながらも、しっかりと危機を対処している天衣であった。
再び道なき道を進んでいく。
森は深くなっていくが、常に上から日光が差し込んでおり基本は明るかった。これならば夕暮れになっても迷う心配は少ないだろう。
そう考えながら歩いて行くと徐々に木が少なくなっていくことに気づく。
「………おぉ! これがその滝か!」
「俺も見るのは初めてだけどこれはすっごい迫力だな~………」
二人の眼の前には、巨大な滝があった。
轟音を立てながら大量の水を吐き出しているその姿はまさに壮大。ナイアガラなどの世界三大瀑布とは比べられるわけがないが、周りの大自然がむしろ迫力の中に存在する神秘さを引き出している。
しばらくは大和と天衣もそれに見とれていた。
「………で、橘のお姉さん。 俺の手を握ってどうしたの?」
「……え? あ! い、いや………すまない大和………」
「別に謝ることないよ?」
そんな圧倒的迫力で、かつ癒される光景に自然と天衣が手を伸ばしていた。
するり、と綺麗に入り込んだ指の感触に気付いた大和。彼の言葉に思わず天衣が動揺している。
見るからに無意識だったらしく、大和も特に気にしていない様子だった。
「そ、そうか……。 それにしてもここはいい場所だな! うん!」
「だね。 周りにも枯葉や草とかもないし、バーベキューをしても大丈夫っぽいね」
「ただゴミ処理や火の気には気をつけないとな。 綺麗な場所なんだから汚すのはタブーだ」
余り人の手が入らない故か、周りにゴミはない。
こんな綺麗な場所に学生達が多く来るのだ、絶対に汚してはならない。その辺りの管理も十分注意点となるだろう。
「それで、この滝の上に登るルートは?」
「少し回り道になるけどあっちから登れる坂があるようだ。 体力のある奴はそこの岩壁でロッククライミングよろしく登れるっぽいし」
「ロッククライミングは危険だが……この岩壁は出っ張りが多く材質も丈夫だな。 それほど高くはないだろうから登れるだろう」
一応形式的には授業であるため、天衣は最大限の安全を確保するつもりだ。
だからといって過保護になるつもりもない。ある程度の自由及び怪我は自己責任で、というものが普段の川神学園の方針なのだ。
元より、元軍人である天衣もずっと甘えさせるつもりはなかった。
「じゃ、俺達は坂から普通に上がろうか」
「ああ」
大和はあくまで一般人、岳人のような体力や行動力がないために普通に坂から上がろうとした。天衣もそれに同意する。
彼女にとってこの程度の高さの岩壁、登るどころかジャンプ一つで飛び越えられる。
しかし、今回同行するのは生徒。中には体力のない者や女性の生徒も存在する。そんな生徒達の視点に立って、しっかりと観察する必要がある。
「ふむ、道は抜かるんでいない……。 歩きやすく、滑り落ちる心配もないな」
「だね。 傾斜も思ったより緩やかだったし」
滝の上まで続く道は案外歩きやすかった。
この手の不安要素としては泥濘による転落事故などが挙げられる。しかしその危険性もないようなので一安心した。
やがて滝の上に到達する。そこからは凄まじい水しぶきが落ちており、日光も相まって虹を作り出している。
「おー! こんな景色が地元にあったなんて……!」
「見晴らしもいい。 先程まで歩いてきた道が見えてくるな」
ごうごう、と落ちていく水。掛かる虹。そして広がる森。
川神の大自然を一望できる絶好のスポットだった。ここにたどり着くまでさすがに体力を消耗した大和であったが、この景色を見れば満足せざるを得ない。
「ふぉっふぉっふぉ。 これは珍客がいたものじゃのう」
壮大な景色に見とれていると背後から老人の声。
しかも聞いたことのある声だ。
数秒前までそこに存在しなかったはずの老人、その正体は。
「あ! 学長!」
川神学園の学長こと、川神鉄心だった。
武の総本山、川神院の総代にして生ける武神である彼である故に意外と多忙の身であるはず。
だからこそ、こんな場所に姿を現したことに驚いているのだ。
「学長までここにいらしていたのですか?」
「来るも何も、ここは元は川神院の修練場の一つなんじゃよ」
「そうだったんですか? ハイキングコースって聞きましたけど」
「新入りの訓練のための緩やかなコースだったんじゃ。 まぁ今はあんまり使ってないがのう」
なるほど、と天衣が呟いた。
この景色の中であれば確かに絶好の訓練場所になるだろう。川の勢いも強めである故に、水泳訓練では相当体力がつきそうである。
「で、その使ってない修練場に気配を感じたら来てみればお主らがいた、というワケじゃ」
「すみません学長。 今度の私の夏期講習でこの道を使おうと思いまして」
「ふむ………まぁそれなら構わんじゃろう。 元より橘先生の授業は体力強化、この道は打ってつけじゃろう。 水泳は勿論、バーベキューも出来るしのう」
鉄心はその武道家として視点と器で許可を出してくれた。
川神院の修練場であるならそう簡単に使えないものと思っていたが、あっさり許可を出してくれたことで思わず大和と天衣は親指を立てあう。
あの生徒達ならばこのコースはいい運動になるはず。使わない手はないだろう。
「それにワシも同行させてもらうしのう。 ふぉっふぉっふぉ」
(あ、なるほど。 監視にかこつけて女子の水着を拝もうって魂胆だなこりゃ)
(………浅はかな………)
彼の魂胆が垣間見えたことで大和と天衣も呆れ顔だ。
これで川神院の総代なのだから世も末である。
「まぁそういうワケじゃ。 ここをコースに設定すること自体は問題ないぞ」
「ありがとうございます。 では今度の講習はこの道を使わせていただきます」
「うむ。 ただ最近ここの地盤が緩いらしくてな、地震なんかが起これば崩れる危険もあるらしいしの。 余り滝の上に登らん方がよかろう」
どうやらその警告も、鉄心がここに訪れた目的の一つだったらしい。
確かに最近地震も多く、地盤がガタガタになる個所も多いと聞く。最も鉄心や百代クラスの実力者にもなれば、その一声で地震を起こすことくらい容易なのだから恐ろしいものである。
とにかくこの滝の上は登らない方がいいという警告を、天衣は真摯に受け止める。
「分かりました。 それでは大和、ここを下り―――――………っ!?」
その時だった。大地から凄まじい轟音が上がる。
轟音に合わせて地面も激しく震えていた。森からは鳥達が一斉に空へと避難する。
一方人間である大和達はこの地鳴りにただ慌てるしかない。
「うぉ?! ま、マジで地震!?」
「二人とも、ワシに掴まれ! 空に避難………」
武神として、飛行能力も持ち合わせている鉄心が動こうとした時。
なんと大和の真下にある地面が一気に崩れだしたのだ。
大和は武道家でも何でもない、ただの人間。そんな彼が空中に放り出されれば何もできない。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「大和ぉぉっ!!」
そんな彼を助けようと真っ先に動いた天衣。
彼女は同じく空中に放り出された岩の破片を足場に次々と飛び渡っていく。スピードクイーンの名に恥じないその圧倒的速度ですぐに大和を抱えた。
大和を抱えた天衣はすぐに地面に降り立つ。その手際、まさに元とは言え武道四天王である。しかし。
「えっ?」
地震がまだ続いていたことに加え、下は水しぶきによって抜かるんでいた。
それらが天衣の足を掬ってしまいバランスを崩す。何とか持ち直そうとする彼女であったが、持ち前の「不幸体質」がそれを許すはずもなく。
「うぉあ!?」
「くぅ!?」
天衣はもちろん、彼女に抱えられていた大和も一緒に水の中に入り込んでしまった。
それだけならばまだいいのだろうがここは滝、滝の勢いに巻き込まれれば二度と上がってこれないかもしれない。更には地震の影響で崩れた崖の破片が降り注いでいる。
万が一にでもそれを頭部などで受けてしまえば致命傷に繋がるかもしれない。
「いかん! 川神流、神風!!」
鉄心が掌を突き出す。
そこから打ち出された衝撃波が、まるで意思を持つ風のように吹き荒れる。
これだけの揺れにも関わらず彼の衝撃波は滝壺周辺の水を全て吹き飛ばす。そこから、大和と天衣の姿が見えた。
「橘先生! 今じゃ!」
「は、はい!」
その一瞬の間に天衣は再び大和を抱え、飛び出した。
今度は先程のようなミスを犯しはしない。さすがに揺れも今度こそは収まったらしく、辺りは静かになっている。
滝も、数秒前と何一つ変わらない姿で水を吐き出し続ける。
「助かりました学長」
「なぁに。 ……にしてもスカート捲りのために開発した技が役に立つとは」
最後の辺りの鉄心のセリフが聞き取れなかったが、きっと碌でもないことだろう。
天衣が気にする理由はもうなかった。
「それよりも大和、無事か?」
「い、痛てて………な、なんとかね」
「って腕! 怪我してるじゃないか!」
大和の意識自体ははっきりしているようだが、左腕を抑えている。
どうやら岩の破片が腕に当たってしまったらしく、赤く腫れていた。
もしかすると骨折の可能性も否めない。赤く腫れる彼の腕とは正反対に、天衣の顔は青ざめていく。
「ま、待っていろ! すぐに病院に送り届ける!」
「ちょ、うお!?」
形振り構わず、天衣は飛び出した。
その姿はもう見えない。あのスピードならば街の病院にまですぐにたどり着けることだろう。
鉄心もとりあえず二人が無事であったことに安堵しながら周りの破片を片付け始める。
「よっと。 ………さて、どうなることやら」
破片を粉砕しながら、鉄心はそんな言葉をふと呟いた。
☆
そして日は沈み、夜。
島津寮の食卓ではここに住んでいる寮生全員が集まっていた。寮母である島津麗子は寮の掃除以外では顔を出さないため、夕食は由紀江が作ってくれることになっている。
もちろん夕食をつつくその光景に、大和も参加していた。
「いただきまーす。 ………ん、この生姜焼きイイね!」
「ありがとうございます。 ……ところで大和さん、腕の方は本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だって。 病院の先生に診て貰ったけど、骨にもヒビとか無いって」
幸いにも大和の方は軽傷で済んだようだ。
怪我を負ったのも利き腕ではない、左腕であり日常生活にも支障はなかった。
それを見て周りの仲間達も胸を撫で下ろした。
「そうか………。 全く、ここ最近の大和は皆に心配かけてばっかりだぞ」
「クリスの言うとおり、もうちょっと自分を大切にしてよ」
「悪かったってば」
クリスと京の両名からも厳しい視線を投げつけられる。
と言っても今回は自然災害によるものなのだから気をつけろ、と言われても難しい話であるのだが。
ふと大和はこの食卓に天衣の姿がないことに気づく。
「ところで橘のお姉さんは?」
「ああ、それなんだが………」
「あれ以来部屋に籠りっきり。 ゲンさんが菓子差し入れも反応なし」
忠勝と翔一もお手上げ、という表情だった。
今朝までポジティブだった分、かなり卑屈になってしまっているようだ。その様子を昨夜から見守っていたクッキーも、非常に心配していた。
「橘さん、大和を守るって意気込んでいたからね………」
道理であの落ち込みようだと、全員が納得する。
守らなくてはならない人間が怪我を負ってしまったというこの事実は何物にも代えがたいものだ。由紀江もその辛さを知っている人間の一人である。
彼女だけではない、周りの仲間達もその痛みを知っている者ばかりだ。
「……………あ、あの。 私、橘さんに御夕飯を届けてきますね」
「うん。 まゆっち、お願い」
本来なら大和が届けたいところであったが、それだと天衣の負担も益々大きくなるかもしれない。
そういう意味では適役だと考え、由紀江に頼んだ。
作ったばかりの豚肉のしょうが焼き、サラダ、そして炊きたての白米をお盆に載せ由紀江は階段を上がる。
「橘さん。 御夕飯をお持ちいたしました」
『………………すまない、今は食べられる気分じゃない』
ドアをノックしてみるも、向こう側から帰ってきたのは何とも暗い声。
今朝張り切って出かけた天衣とは真逆の声色に由紀江も思わず怯んでしまいそうになる。
「ですが、少しでも食べないとお体を悪くしますよ」
『まゆっちのご飯食べれば貴方も幸せ、皆幸せ』
『………………少なくとも、私が良くなって良い事はない』
相当思いつめている様子だった。
ドアで遮られて中の様子は全く見えないが、布団でもかぶっているのだろうか。
この凄まじいネガティブな思考は、由紀江も嘗て陥ったことがあるだけに共感はできた。―――――と、同時にどこか苛立ちも覚える。
(……なるほど。 以前の私は……皆さんに、こんな風に映っていたのですね)
黛由紀江も、風間ファミリーに加わった当初は天衣程ではないが自分に対しては卑屈だった。
時々そんな自分に対し仲間達が注意を呼び掛けてきたことがある。その理由が今、ようやく理解できた。
『まゆっち、ここは………』
「はい松風。 ………橘さん、失礼いたします」
由紀江は手にしていたお盆を一旦床の上に置いた。
すぐに自室に戻り、あるものを取り出す。それは愛用していた真剣。正直言えば、これを持ち出すのは不本意。
しかしこれが天衣のためになるのなら、と由紀江の瞳に迷いはなかった。
空気すらも切り裂く一閃が、部屋のドアを綺麗に切断した。切り裂かれたドアの向こうには、やはり布団を被って蹲っている天衣がいる。
「なっ………!?」
「……ご安心ください。 麗子さんには私の方から謝っておきます。 ドアも弁償いたしますから」
まさか普段奥手な由紀江がこんな強引な手段を用いてくるとはさすがの天衣も思いもしなかったらしく、激しく驚いていた。
ドアについては責任を負うということだが、最早そこは気にするべき点ではない。
「すみません。 ですがどうしても苛立ちを隠しきれなくて」
「………何?」
「大和さんが元気なのに、貴方が塞ぎ込んでいることにです」
ここまで真っ直ぐな視線を向けてくる由紀江は見たことがない。
否、戦闘中にもなればさすがにいつものような頼りなさは消え、武人としての凛とした姿勢を見せてくれる。嘗て天衣と対峙した時もこの目だった。
だが今の彼女は戦闘するためにその目になっているのではない。天衣を奮い立たせるために、その目をしている。
「………弟すら守れなかった姉なんだぞ私は」
天衣の真面目すぎる性格だからこそ圧し掛かる責任感。
まさしく由紀江もそんな感覚を味わった事がある。だからこそ、立ち直らさなければならない。
「ではお聞きしますが、貴方は大和さんのことをお考えになったことがありますか?」
「……大和の、こと……?」
唐突ではあるが、大和についての話題を振られた。
想像以上に面食らったような表情をしている天衣。ある意味予想通りだと、由紀江は確信する。
「……先程からの貴方は、大和さんの顔色を窺う余り大和さん自身の事を考えていないように見えます」
「なん、だと………」
「私の知っている大和さんは責任感の強い方……。 貴方がそのように塞ぎ込めば、大和さん自身も責任を感じているはずです」
父親譲りの厳しさが、彼女に現れる。
普段温厚な彼女だけに天衣にも印象強く映っているようだ。それと同時に天衣が振り返る。
今まで、由紀江の言うとおり「大和のことを考えたことがあるのか」どうかを。
「………貴方は、大和さんにこれ以上の負担を負わせる気ですか?」
「……………」
「少なくとも、ここで閉じこもることは貴方自身のためにも大和さんのためにもなりません」
ここで激情に駆られるような天衣ではない。
冷静に自己分析を続けている。―――――どれだけ、自分が無様であったかを。
そしてどれほど大和に情けない姿を見せ続けてきたかを。
「………ふっ。 確かにな……何とも情けない様だ」
「でしたら、もう自分のすべきこと……お分かりですよね?」
まさかこの由紀江にここまで言われるとは思わなかった。
年齢なら自分よりも下なのに。どうして彼女はここまで強くなったのだろうか。少なくとも父親―――――黛大成の影響だけではない。
風間ファミリー、特に大和の力添えが強かったはずだ。
でなければ、いつもは頼りない印象しか与えない由紀江がここまで頼もしくなるはずがない。
「………ああ。 大和に、明日は楽しみにしていろと伝えてくれ」
数秒前とは打って違った力強さに満ち溢れていた。
「はい。 それと、こちらが御夕飯になります」
「いただこう」
部屋の明かりをつけ、天衣は差し出された夕食を一気に平らげた。
といっても男性陣のような食べっぷりではなく、あくまで女性として丁寧にであるが。
「………さて。 今まで情けない姿を見せつけた分、頼りにさせないとな」
「ふふっ、その調子です」
『全く、最近の若ぇモンには困ったモンだぜハッハー』
そうと決めた天衣の行動は早かった。
すぐさま今までコースを振り返り、地図に安全かつ体の刺激になるようなコースを書き込んでいく。その際に注意事項なども忘れずに明記しておく。
次に救急箱などの道具点検を行う。迅速かつその丁寧な動作に由紀江と松風も何の心配も抱かなかった。
☆
翌日。空は快晴だった。
時刻は正午を少し過ぎた辺り。降り注ぐ日光は肌を焼くかのように熱い。しかし、それは滝の近くでバーベキューをしている彼らにとっては全く問題無しだった。
川神学園の生徒達の数多くが、橘天衣が企画するこのハイキングに参加していたのだ。
「水泳をする際には滝壺に近づきすぎるな! 運動をしないものはバーベキューの準備をしろ」
そこには、しっかりと指導をしている天衣がいた。
参加者全員の安全を確保するために常に周りに視線を張り巡らせている。時に厳しく、時に優しいその声で生徒達の動きをコントロールしていた。
「うむ、良い指導じゃな。 さぁて、ワシも『監視』に戻るかのふぉふぉふぉ」
その指導の手際、正確性は鉄心も認めるほどだった。
彼は天衣の指導に一安心すると再び女子の水着観察に戻る。こうしてみると、今回の天衣の講義には意外な人物も数多く参加していた。
「さぁどんどん焼くよ~!」
「手伝うぜクマちゃん。 俺様、肉を焼くのは得意だからな!」
「しゃーねーな。 俺も手伝うか。 勘違いすんなよ、暇だからだ」
それは運動が不得意な熊飼満も例外ではない。
バーベキューを計画に組み込んだ、と口コミしただけで参加を決意してくれたのだ。無論ここにたどり着くまでも大変だったが、食に対する意地が何とか彼を繋ぎ止めた。
そんな彼を労うかのように岳人も手伝いに入る。肉に関する拘りは、満も認めるところだった。
更には料理上手な忠勝も手伝ってくれれば言うことはない。
「私もお手伝いいたします」
『まゆっちの料理力は川神一ィィィィ!!』
更には学年こそ違えど、由紀江も手伝ってくれる。
料理に関しては何の心配もいらないだろう。
「おぉっ! 熊飼殿の料理は美味しいからな~。 早く焼けないかな肉!」
「クリ~? 野菜も食べなさいってアタシ、言ってるよね~?」
「うっ!? い、犬………何だその怖い視線は………」
先程まで泳いでいたクリスと一子は料理の焼きあがりを心待ちにしている。
しかし相変わらずクリスの目に映っているのは肉ばかりのようで野菜には目を向けもしない。栄養バランスには厳しい一子の眼が、あやしく光っている。
ああなってはさすがのクリスも、彼女に勝てる道理はないだろう。
「あーあ。 これは野菜ルート突入かな」
「クリス、南無」
卓也と京も、野菜をいやいや放り込まれるであろう彼女の姿を想像して合掌した。卓也は今回、演劇のための体力付けとしてこのハイキングに参加した模様だ。
京の場合は風間ファミリーが多く参加するから、という理由であるが。
参加者、という意味では他にも意外な人物は存在する。例えば大王よろしく大笑いしているこの男。
「フハハハ! なるほど、これが紋も認める料理の腕か! 香りの段階から品格が違うわ!」
「………まさかお前もこれに参加するとはなー」
そう九鬼英雄だった。
世界を相手に駆け回る彼も立派な川神学園の一員、しかし普段ならばカラカル・ゲイルやゲイツの授業を受けているものだと誰もが思っていた。
おまけに忍足あずみも先日の一件の影響からかしばらくは来ないものだと考えていた。
翔一も思わずそんな一言を発してしまう。
「何、気にすることはない。 橘天衣の講義には以前から興味があったのだ」
「橘さんもいずれは九鬼のための人材になる予定なのですっ☆」
「なるほどねぇ」
どうやら名目上は「橘天衣の監視」らしい。
彼女自身が絶大な戦闘力を有していることに加え、そのネガティブ思考も懸念要素であった。
だが立派に指導している彼女の姿を見ればそれも杞憂だった、とすぐに考えを改めてくれる。
「熊飼よ、肉が足りなければどんどん追加するぞ! あずみ!」
「はい、英雄様ぁ!!」
「やれやれ。 英雄も随分ハイになってますね」
「若もだろ。 俺はともかく、若もこの授業に参加するとは思わなかったよ」
そんな彼らを傍から見守っているのはSクラスの参謀こと葵冬馬。
学年一位というその成績と引き換えに体力面は得意分野ではない彼であるだけに、体を使うこの授業に参加することに驚いているものは少ない。
無論、それは彼の家族同然の存在でもある準や小雪も同じである。
「いえいえ。 私も橘先生の授業を受けたかっただけですよ、異性としてね」
「おー。 トーマが橘先生をロックオンしたのだー」
「葵冬馬………教師ですら範囲内ですか。 末恐ろしい……」
イケメン四天王こと「エレガンテ・クアットロ」の称号に恥じないナンパの姿勢を見せつけてくる。
今回は授業に参加したマルギッテも、恐ろしさを抱かせてしまうほどの守備範囲だった。
「マルさん助けてくれ~! 犬が野菜ばかり食べさせようとするんだぁ~!」
「………お嬢様、本来ならば助けたい所ですが………」
と、ここでクリスが泣きついてきた。
彼女の背後にはいつもとは違う迫力を伴った一子が立っている。食に関しての拘りは風間ファミリー随一、彼女の眼の前で食べ残しは勿論偏った食生活は即彼女の警戒網にかかる。
そしてその腐った食生活を叩き直すべく、徹底的に詰めよってくるのだ。
「駄目よマル! 肉ばっかり食べてちゃ体に悪い! 軍人なら分かるでしょ?」
「………川神一子の意見に賛成していますので今回ばかりはお助けできません」
「マルさんの裏切り者~~~!!」
さすがに甘やかせてばかりではない、時には厳しさを見せるのも姉貴分の役目。
心を鬼にしてクリスを突き放した。
「クリス! 火の気の近くで動き回るな!」
「す、すみません」
「それから野菜、シジミ、お米食べろ!」
「は、はい! (なぜシジミまで……?)」
そこで天衣の注意が飛んだ。
泳いでいる生徒達だけを見ているのではない、ちゃんと周りにも気を配っているのだった。
「おい、働かざるものは食うべからず! バーベキューにありつきたきゃ手伝え!」
「そうだな、義経も手伝う!」
「主が手伝うってんなら仕方ないね。 ………ねー与一?」
「分かったから姐御、魔手で腕を引かないでくれ!」
岳人からの救援要請がかかった。
さすがに四人だけでこれだけの人数分のバーベキューを用意するのは骨が折れるようだ。真っ先に名乗りを上げたのは源氏一派。
相変わらずの仲の良さで混ざりに来てくれる。
面倒くさがりの弁慶と与一も手伝ったが、不器用ではないので順調に焼きあがってくる。
「モモ先輩。 皆さんに配ってあげてください」
「はいはい。 ま、クマーンの料理食べさせてもらえるんだし仕事しますか」
今まで泳いでいた百代も、由紀江の指令を受けて料理を皆に運んでいる。
水着のまま配膳する彼女の姿は何とも魅力的であったそうな。
「オラ焼けたぞ。 モロ、椎名。 お前らも配膳手伝え」
「アイ・サー」
「お任せアモーレ」
焼きあがった肉や野菜を紙皿に乗せ、それを卓也と京が皆に配る。
こうした手際の良さから参加者全員にお皿が行き渡った。
「それでは全員、残さず食べるように!」
天衣の一言で全員が一斉に肉にありついた。
食の伝道師、熊飼満が味付けしただけにジューシーで、濃厚な味わいが広がる。肉の硬さも硬すぎず、柔らかすぎず。
野菜の方も英雄が差し入れてくれたものだけに甘みがあって、皆の箸が進んだ。
口にした誰もが、幸せそうな顔つきになっている。天衣は、まだ口をつけていなかったがこれだけの人数が楽しそうにしていることに思わず嬉しそうな顔つきになった。
「…………それで、橘のお姉さんはどうなの? 今」
そんな彼女の背後から声が聞こえた。若い男の声だ。
自分のことを「そんな呼称」で呼ぶ者は一人しかいない。彼もまた、この講義の参加者。
公私こそ割り切っているものの、天衣にとって今最も守りたい存在。彼の明るい声を聞いては、天衣も相応の明るさで返さなくてはならない。
「橘先生と呼べと言っているだろう。 ……でもな、私は今幸せだぞ大和」
天衣は今までで一番幸せな顔で返した。―――――直江大和、その人に。
続く
どうも、キャンプで肉を零してしまったために肉なしカレーを作る羽目になったことがありましたテンペストです。
今回は天衣さんのお話でした。天衣さんのエピソード、アニメ含めても少ない方ですから書きづらかったですな今回は。おかげで一ヶ月以上も遅れてしまいました、申し訳ありません。
ただ天衣さんは「幸せにしてあげたい」という個人的願望があったので、そういう目標を定めた意味では書きやすかったかも。
コメント見てて思ったのですが、天衣さんが好きな人が多いという印象を受けたのである意味執筆し甲斐のあるエピソードでもありました。あー早くA-5発売しないかなー。義経や天衣さん攻略したいよ~。
余談ですがまじこい本編中に出てきていない場所や風景に関しての描写はジブリを参考にしております。
……でもジブリばかりではネタが尽きそうなので、なんかいいアニメとか作品があれば教えてくださいまし。
さて次回ですが大学の方が忙しくなるので投稿が遅れる可能性があります。ご了承ください。
次回は久々登場のあの一家中心のお話にする予定です。どうかお楽しみに。
それでは感想ご意見お待ちしております!