巨大なる一対の刃が、閉じる。
大切なものを守るため、未来へと進むためと、幼い少女は半神と化したその身を以って、今諸悪の根源たる醜神を討つ。
青白い光を帯びていた刃は、今は何事もなかったかのように元のまま閉ざされたいる。
だが、
"ギィィぃぃぃぃぃぃぃぃやァォォァァォぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぉぁぁぁぁぁぉぉぉぁぁぁぁっ!!!!"
その切っ先の延長線上で、まるで無理やり封を切られた風船のように体液を撒き散らす醜神の姿があった。胴体の真ん中で、二つに分けられた醜神の巨躯。その断面から、夥しいほどこぼれ出る体液の色は、皮肉にもハルが額から流す血と同じ、赤色だった。
そんな聞くに耐えない絶叫を上げのたうち回る醜神の姿を、ハルと、隣に立つユイは、ただ静かに見下ろしていた。
「…終わった……のかな?」
未だ血の跡が残る右目を閉じたまま、開いている左目を向けて、ユイは問いかける。
「わからない。でも、いくらあのオバケでも、もう何もできないと思う…」
肌と同じく、青白く染まった瞳で、ハルはただ静かに醜神を見続ける。
"お……オ、ノ、レェェェェェ…っ"
だが、未だ止まる気配なく己の血液を垂れ流す醜神が、動く二本の前脚を用いて決死の形相で立ち上がった。
「終わって……ないね」
その光景を見て、ユイは再度右目を開こうとするが、本人の意思とは反対に、その右目は決して瞼を上げようとはしなかった。既に力は失われ、限界以上に酷使されたのだから、ある意味当然の結果とも言える。
「あぐっ!?」
焼けつくような激痛に耐えかねたユイの肩を、ハルが慌てて支える。
「ダメだよ?! それ以上無理したら、ほんとに見えなくなっちゃうよっ!」
「そんなことっ!?」
ユイが声を張り上げた、その瞬間。
"…ほ……ほ、ろ……ビ……ヨォォォォっ!!"
怨嗟に満ち溢れた叫びをあげながら、醜神が己が力の結晶である黒い針を、血にまみれた己の口内から放つ。
その数、僅か一本。先程までとは比べ物にならないほどにボロボロで、醜神の血がべっとりと付着している。死に体の神が放つ、正真正銘、最後の一撃。
その矛先は、たかが供物の身でありながら、多くの絶望と悲しみを乗り越え、神を宿し、我が身を切り裂いた愚かな少女
では、ない。
神の矛先は、滅びゆく絶望の権化たる醜神が道連れに選んだのは、己が身を切り裂きし愚か者ではない。
醜神が道連れに選ぶのは、そんな愚か者が何より大切に思っている、少女の片割れ。あと一歩というところで乱入し、あまつさえ少女に神の刃を託した不届き者。
先程までの体への負担でまともに動くことすらままならないユイへと、針の切っ先が迫る。反射的に、ユイはボロボロな体に最後の力を込め、ハルを突き飛ばそうとした。
しかし
「ハルっ!!?」
それよりも早く、まるで友をかばうかのように、ハルが彼女の前に立ちふさがる。その小さな背中に、ユイは喉がはち切れんばかりに叫ぶ。
ダメだと、逃げてくれと。
その叫びを背中に浴びつつも、ハルは決してそこを動かなかった。
「いやだ…いやだっ!! もうユイを置いていったりしないっ!! ユイを死なせたりしないっ!! 絶対に帰る!! 一緒にっ!! 帰るっ!!!」
だが、願いは届かず。放たれた死の刃は、醜神の怨嗟と絶望を存分に乗せた矛先は、真っ直ぐにハルへと迫り
「いや、いやぁぁっ!? ハルーーーー!!」
友を守らんとする、小さな体を貫く
ことはなかった。
「……あ…………」
ハルの体の、ほんの数センチ手前。まさにハルの胸を貫く寸前の所で、針は停止している。
"………………"
その針の矛先を握る、青白い巨腕。色こそ先程までのハルの左半身を覆っていたそれだが、今のハルの肌は元の色白い彼女のそれに戻っているし、いかんせん大きさがまるで違う。
"……バ……ばか……ナ…"
巨大な赤黒い靄を握りつぶすかのような、おぞましい姿をした、もう一体の神が、ハルの後ろに音もなく顕現した。
「…ことわり……サマ…?」
"………………"
まるで自分を守ってくれたかのような土壇場に現れた神に、ハルは戸惑いながら声をかけようとした。
しかし
"ぐぉぉぉぉぉぉォォォォォォアァァァァァぁぁぁぁっ!!!!"
縁切りの神は、これまで彼女らが聞いた以上の咆哮をあげると、握っていた醜神の刃をそのまま握りつぶす。硬質物を握りつぶす、およそ聞いたことのないような音が響き渡る。
"…オっ……おのレェぇぇぇぇぇぇぇぇぉぇ…っ!?"
決死の一撃を、文字通り粉々にされた醜神が叫ぶのも束の間、縁切りの神はその場に落ちている刃を拾い上げる動作なく手元に引き戻すと、凄まじい速度で元の大きさの半分以下となった醜神に肉迫する。
"おォォォォォォォォォォォォぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!"
そして、雄叫びとともにその身が五つに分身。あの時、ユイと対峙した時に見せた一撃が、今度は醜神に迫る。五つに増えた神の体と刃、その全てが、およそ人が捉えられる限界をはるかに超えた速度で、醜神の体を駆け巡る。
"ギィイィィィィぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァぁぁぁぁぁぁぁ…………"
惨虐な嵐に見舞われた醜神の体から、残った脚なおろか触覚のように生えていた巨大な人の指や眼球全てが切り落とされる。
そして、残った僅かな頭部からの断末魔を最後に、醜神はその長い長い生涯を終えた。
「…っ! ねぇ、あれって……」
何かに気づいたらしいユイが、動かなくなった醜神の体を指差した。
「………きれい…」
血溜まりという言葉すら生ぬるい、まるで真っ赤な池のように広がっていた醜神の血と、そこに沈む体。その全てから、まるで蛍のように小さな光が、ぽつぽつと生まれ始めた。
「…すごい…」
一つ、一つ、また一つ。生まれ出る光はとどまることを知らず、一つの塊のようになって宙を舞う。
そして、ひとしきり宙を舞った後、光は呆然とするハルとユイの周りを駆け巡り、そのまま消えていった。まるで、二人に感謝の意を告げたかのように。
「今のって…今まであのオバケに騙されて死んだ人たちの魂…とか?」
半信半疑、といった様子のユイが、未だすこし呆然としながら呟いた。正真な話、そんなことがと思うが、聞かずにはいられなかった。
「そう…かもしれない。ううん……そうだとしたら、よかった。これでもう、あのオバケに嫌なことされなくていいから」
そう言ったハルの先には、ただじっと彼女たちを見つめるかの神の姿があった。そんな神に向かって、ハルはペコリと頭を下げる。それにならって、ユイもまた慌てて頭を下げた。
チャンスをくれたこと
何度も命を救ってくれたこと
力を貸してくれたこと
勇気をくれたこと
ここに至る全てに感謝を込めて、ハルとユイは縁切りの神に深々とこうべを垂れる。そして、じっくりと下げた頭を上げた時、そこにかの神の姿も、醜神の死骸も流れ出た血も、全て跡形もなく消えていた。
ただ、もうこれ以上ここに咲く必要のない彼岸花たちだけが、咲き残っていた。
「これで、本当におわり……かな」
苦笑混じりに呟くユイに、ハルも恐る恐ると言った様子で口を開いた。
「だと…おもう。もう、これ以上あのオバケに騙されて、山で死んじゃう人も、いないはず」
あの最後に醜神の死骸から生まれ出た光、その全てが醜神に唆され、哀れにも山で命を絶ってしまった人達の魂だとするなら、一体どれほどの人達がその命を弄ばれてきたのだろう。
しかし
「そうだね、前の時間? 世界? でなら、私もその一人だったのかもしれないし?」
冗談混じりにそう返すユイの顔を、ハルはじっと見つめた。右目は今も閉じられたままで、血の跡も消えていない。それでも、その笑顔は、その表情は、かつてのハルが救おうとして救えなかった、かけがえのないハルの宝物だ。
「……帰ろう、ユイ。一緒に」
溢れる涙を瞳一杯にためながら、ハルは一度この場で失った左手を、ユイに差し出した。
「……うん。今度は…ちゃんとお家まで、一緒に帰ろうね」
差し出したハルの小さな手に、ユイもまた涙に馴染む視界の中同じく小さな手を重ねる。かつてここで断ち切られた手を、二人はきゅっと、強く握りしめた。
そして、互いに手を繋いだまま、二人はゆっくりとその場を後にした。二人の背後では、無数の彼岸花たちがその花びらを一斉に宙に舞わせる。
まるで、絶望に満ちた運命を乗り越えた二人を祝福するかのように。そして、もうこの場に自分たちが咲く必要ないと、その命を終えようとするかのように。
*****
朝日が昇りつつある薄暗い空の下、二人の少女たちは手を繋いだまま山を下る。登るときは違い、二人の表情には絶えることのない笑顔が浮かんでいた。ハルは額から流した血の跡が残っており、ユイもまた力の源であった右目は閉じたままだ。
しかし、それでも彼女たちは笑っていた。あの時とは違うのだから。
あの時、ハルは左手を失い意識はなく、ユイはすでにこの世の者ではなかったが、今はちがう。
軽くはないだろう怪我を負っている、だが二人とも生きている。それだけで、笑う価値はある。
「そう言えば、今だから聞きたいんだけど…」
少しだけ聞きづらそうに、ハルはユイに向けて疑問を投げかける。
「んー?」
対してユイは、そんなハルの様子をさしえ気にした様子もなく口を開く。
「えっと…あのね、今のユイは…その……
「…あー…」
恐る恐るといったようにユイの顔を伺うハルに、ユイは己の記憶と人格について簡単に整理してみる。
たしかに、今のユイは過去ないしある意味では未来のユイの記憶を引き継いでいる。あの悲劇の結末や悲しみを、自分のものとして記憶はしている。
だが、だからといって人格が変わったかと言われればそんな大きな変化は感じない。というよりも、元々今のユイもあの時のユイも突き詰めれば同じ人間なので、分からないというのが正直な感想だ。
「どうだろ、記憶も何もかも全部あるけど…一応は全部私なわけだし…うーん…逆にさ、ハルはどっちだと思う?」
「へぇっ!?」
投げかけた質問がさらに難しくなって返ってきたことに驚くあまり、素っ頓狂な声が出た。
「わ、わかんないよ。わたしには…今のユイも、あの時のユイも、変わらないから」
「ならさ、それでいいじゃん」
「え?」
どういうこと? と首をかしげるハルに、ユイは笑った。
「変わんないよ、今の私も、あの時の私も。私は私。一回死んで、オバケになって、ハルに迷惑かけて、そして…今こうして、ハルに助けられてここにいる。それじゃあ、だめ?」
問いかけるようなユイの言葉に、ハルはすこしだけ目を見開く。
「それとも、ハルはあの時の私は好きで、今の私は嫌い?」
そんなハルに、ユイは少しだけ悪戯な笑みを浮かべて再度問いかける。
「そ、そんなことないっ!!」
慌てて頭を振って、ハルはユイを見る。そして、ユイの手をきゅっと握り締めながら、自分の思いを紡ぐ。
「そんなこと、ない。あの時のユイも、いまのユイも、ユイは、ユイ。私の…一番の友達」
「……うん」
握り締められた手を、ユイもまた握り返す。
そうしてさらに歩くこと数分、二人は山の入り口までやってきた。入り口の向こうには、無事に洞窟を脱出したチャコと、本調子ではないだろうが、元気にしっぽを振るクロの姿があった。
あの時は、チャコしかいなかった。
一人しか、この先には行けなかった。
しかし、今は
「いこう、ユイ」
「うん。帰ろ、みんなで」
二人は、揃って木々が織りなす入り口を抜けて、その先のアスファルトに足をつけた。そして、駆け寄ってきた二匹の子犬を抱きしめた後、二人と二匹は、朝日が昇り始めた街を、ゆっくりと歩く。それぞれが、帰る場所へと。
*****
ここで物語が終わるのであれば、どれほど幸福なことだったであろう。しかし、運命の悪戯は、まだ終わってはいなかった。
時間遡行とは、その字が示す通り時を渡ることだ。つまり、縁切りの神によってハル本人の時間が巻き戻ったのではなく、捉え方によっては
で、あるならば。
戻るべきではないものもまた、戻ってしまっているのだ。
確かにハルは、ユイとクロを救った。醜神によって奪われるはずだった命を、神の力を借りながらも救ってみせた。
だが、
言うなれば、ハルがユイを救ったが故に生まれてしまった、望まれない奇跡。その負の奇跡が、今まさに彼女らの前に立ち塞がろうとしていた。
*****
「ハル、ほんとに大丈夫?」
空き地にてチャコとクロを寝床に送り届けた後、ユイはいつもようにハルを家まで送ろうとした。しかし、
「ユイの方がいっぱい怪我してるし、家も近い」
という珍しくハルの強い意見の元、二人が現在いるのはハルではなく、ユイの家の前であった。
「ちゃんとひとりで帰れる? 道わかるよね? でも怪我してるしーー」
まるで年の離れた妹を心配するかのようなユイの言葉に、ハルはむすっとなって反抗する。
「別に大丈夫だもん。それに怪我してるのはユイもだよ。目だってまだあけられないんでしょ?」
「あ…えっと…それはー…」
そらみたことか。心なしか、ふんすっと言ったようなハルの表情に、ユイはおそらく生まれて初めてハルに対してしどろもどろになっていく。
「もっと自分を心配してよ、ユイ。私は大丈夫だから、ちゃんとお医者さんに見てもらってね」
これが一種の姉離れというものなのだろうか。そんな少しばかり嬉しさと寂しさの混ざり合った感情の中、ユイはやれやれと言った様子で口を開いた。
「はーい。でもお医者さんにいくのはハルもだよ。あと、消毒もね?」
「ぎくっ」
やっぱりか。消毒という言葉を聞いて青ざめている親友の顔を満足げに見ながら、ユイは自宅の扉へと向かっていく。
やがて、思い出したかのようにハルへと振り返り、
「ハル、花火の下見、また行こうね」
「っ!? うんっ!」
嬉しそうに頷くハルを見つつ、今度こそ背中を向けて扉へと向かう。扉をくぐったユイを見て、ハルもまた自宅へと向かうため、ユイの家に背を向けた。
「…………」
だが、一抹の不安がハルの胸をよぎった。それは、ハルがいくら足を動かそうと、ハルの胸の内から消えることはなかった。
*****
「ただいま…」
最低限のボリュームで、ユイは帰宅を知らせる言葉を口にした。目のことや穴が空いた服など、諸々について言い訳を考えなければいけないため、少しばかり周りへの意識が疎かになっていた時だった。
バンっ
なんて生半可なものではない。まるで棍棒で殴られたかのような衝撃が、靴を脱いだばかりのユイの頭部を襲った。
そのまま壁に頭を叩きつけられ、一瞬残された左目の視界が明滅するが、続けて襲って来た髪の毛を強い力で引っ張られれる痛みで視界が色を取り戻す。
「痛……いっ!!」
目線を上げれば、そこにはやはりというかなんというか、ユイがこの世である意味怪異より見たくないものがいた。
「ガキのくせに生意気に夜遊びか? あ? 」
おそらくユイの帰宅するなり前から起きていたのだろう、寝間着姿の無精髭を生やしたユイの父親が、彼女の髪を左手で引っ張りながらそう言った。
「別にっ…! あそんでたわけじゃー」
「言い訳してんじゃねぇぞクソガキがっ!!」
あそんでいたわけじゃない。そう伝えようとするユイの頬に、一切の聞く耳もたずに平手を撃ち抜いた。平手というが、大の大人が、背丈の小さい女子児童に向けてやれば、体を横倒しにするには十分過ぎる威力を発揮する。
バチンっ!!
まるで紙風船を思いっきり潰したような破裂音とともに、ユイの小さな体は床に叩きつけられる。右目の痛みに勝るとも劣らない衝撃が、ユイの体を駆け巡る。
「がっ…あ…」
過剰すぎる衝撃と、断続的に熱を放つ右目の痛みが、辛うじてユイの意識を閉ざす寸前のところで保っていた。だが、そんな娘の様子を気にかける様子はなく、むしろ吐き捨てるようにして睨むと、再度ユイの父親は倒れる娘の髪を引っ張りそのままリビングに投げ入れた。
「あ……う…」
もはや痛みに反応するのがやっとのユイの背中を、父親の足が踏みつける。
「がっ…はぁっ!?」
痙攣すらしそうなほどにのたうつ娘の様子を気にするまでもなく、父親はおよそ人間性を疑うかのような言葉を投げかける。
「一体誰に似たんだよおい。学校で親に迷惑をかけるようなことはしちゃいけないって習ってねぇのか? ざっけんなよてめぇっ!!」
一回、二回と、父親はボロボロの娘の体を踏みつける。
「がはっ……ぐえぁっ…」
「ちっ!? 汚ねぇなっ!!」
度重なる内蔵の圧迫から、吐瀉物を吐き出すユイの背中めがけて、父親は先程よりも大きく足を上げて踏みつけようとする。
「ユイっ!? 何してるのやめてっ!?」
そこに異変に気付いた母親が慌ててリビングにやってきて、顔面蒼白でユイを抱き上げる。
「……お…かあ…さん…」
「ユイっ!? ユイっ!?」
右目から流れるような血の跡や、吐き出したものによって衣服や顔を汚した我が子を、母親涙ながらに必死に抱きしめる。
「邪魔だどけ。ガキのくせに夜遊びしてるクソガキを教育してやってんだよ」
だが、そんな妻と娘の様子などまるで意にかいすることなく、父親として、人間としてありえないほどに酷薄な言葉を放つ。その言葉に耐えかねたのか、はたまた、それまで堪えていたものが爆発したのか、ユイの母親はキッと目を釣り上げて夫のはずである男を睨む。
「ふざけないでっ! あんたこそユイに何してるのよっ!? 実の娘を殺す気っ!?」
「だから教育してるっつってんだよっ!! いいからどけっていってんだろうがぁっ!!」
怒鳴り散らす男の右足が、ユイの母親の顔面に直撃する。声を上げることもなく後ろに吹き飛ぶ母親と、その手から投げ出されて床を転がる娘。
「…おかあ…さん…お…かあさんっ!!」
鼻血を出して意識を失う母親に、ユイは必死に声を上げ、手を伸ばす。
「あーー……うるせぇぇなもうっ!!!」
叫び、半狂乱に陥った男が足を思いっきりユイの頭部めがけて振り下ろすべく、足を持ち上げるが、当のユイは上から迫る男の足に気づいていない。
そして、男が持ち上げた足を振り抜こうとした、その時。
ユイではない。父親でもない。母親でも、もちろんない。
この家の住人の、誰でもない新たな声が、その場に響いた。
「やめてぇっ!!」
「……あぁ?」
色素の薄い金髪を振り乱し、肩で息をしながらも、少女は…ハルは、ユイを傷つける存在に向かって叫んだ。
「やめてよ、ユイにひどいことしないでよっ!!」
「…ハ…ハル…?」
この場にいないはずの親友の叫びに、ユイは倒れたまま顔を向ける。そこには、今しがた別れたはずのハルが、自分の父親を強く睨みつけている光景があった。
「…んだガキ。誰が上がっていいって言った? 勝手に人ん家上がって好き勝手言ってんじゃねぇぞゴラぁぁぁっ!」
「あうっ!?」
だが、すでに怒りが頂点に達している男が、そんな侵入者に容赦を加えるはずはない。平手ではなく、正真正銘、男の殴り拳がハルの色白な頬を撃ち抜いた。側面から大きな衝撃を受けたハルの体は、横に吹き飛ぶだけでは飽き足らず、壁に叩きつけられた衝撃で頭を打ち、額から血を流して倒れた。
先程の山での戦いの時よりも、明らかに多いであろう血を額から流すハルの体はピクリとも動かない。
「そん……な…」
親友の無残な姿に、ユイは目の前が真っ白になるほどの怒りが込み上げてくるのを感じた。
だが、どれほどの怒りが込み上げようと、ユイの体は意思に反してまるで動こうとしない。
「ぐ……う…うぅぅぅぅあぁぁぁっ!!」
どれほど叫んでも、体は動かない。そんなユイの叫びを聞いてか、男は本来は座るために使うはずの丸椅子の脚を持ち上げ、そのまま振りかぶるようにして構えた。
「うるせぇ。まずはこの人ん家に勝手に上がるクソガキからーー」
そう言って、男は振りかぶった丸椅子を倒れ伏すハルに向かって振り下ろす。
(なんで…なんでよっ!? せっかくあのオバケを倒せたのにっ!! クロを助けられたのにっ!! ハルが助けてくれたのにっ!!)
目の前の非情な現実を前に、ユイは奥歯を踏みしめる。どれだけ手を伸ばそうと届かず、傷ついた右目は未だ開かない。
(これじゃぁっ!? なんのためにここまで…もう一人の私はっ! ハルはっ!! )
いやだ、こんな結末は。変えた未来の行き着く先が、こんなものなど。認められない、認めるわけにはいかない。
そんな心の叫びが、ユイの口から漏れ出す。
「いやだ…もうやだよぉ……」
全てに耐えてきた少女の心の防波堤が、破れる。
「誰か…だれか助けてぇっ!!」
ガンっ!
鈍い音が、小さめなリビングに響き渡る。思わず目を瞑ったユイの耳にも、なにかを叩きつけるような鈍い音が響いた。
だが、
「そこまでに、していただけます?」
そこには、この場の雰囲気にどう考えても相応しくない、にっこりと目を細めて笑う、淑女然とした女性がいた。
「……え…おば……さん?」
ユイの視線の先には、振り下ろされる椅子の脚を掴みとる、見知った女性の姿があった。
「ごめんなさい、ユイちゃん。そんな傷だらけになるまで…助けてあげられなくて」
僅かに悲痛なもの声に込めた女性は、そのまま力任せに椅子を男から奪い取る。女性としては高めな身長と、完璧に整ったプロポーション。年齢を感じさせない若々しい表情に、色素の薄い長い金髪を三つ編みにして前に垂らしている。この、柔和ながらもどこか研ぎ澄まされた氷のような雰囲気をもつ女性を、ユイは知っている。
「おばさん…おばさぁん…っ」
だからこそ、この人物がここに来てくれたことが、どれだけ安堵できることか、知っている。今まで、あらゆる理不尽に耐え抜いてきた少女は、目の前の女性の姿を見て、大粒のような涙を流した。
「…だれだ、おまえ?」
突然の乱入者が続いたと思えば、凶器を奪い取られたことの困惑を隠しつつ、ユイの父親はすぐ横に立つ女性にそう尋ねた。
「勝手にご自宅に上がってしまい、申し訳ございません。昨夜未明から行方の知れなかったうちの娘が、こちらの家に上がっていくのを目にしたので、つい」
少しも申し訳なく思っていないだろうその女性…ハルの母親は、早口にそうユイの父親に返答した。ハルの母親がそういうや否や、一人の男性が、二人の脇をすり抜け、倒れ伏すハルをそっと抱き起こした。
「あぁっ!? 次はだれーー?!」
「夫です、あなた、ハルは?」
叫ぶユイの父親を最低限の言葉で遮り、ハルの母親は男性…ハルの父親であり自身の夫である男性に問いかける。
「うーん…出血の割には大した怪我じゃないよ。でも頭を打ってるから、じきにくる救急車にはのせるよ」
穏やかそうなハルの父親は、そっとハルを床に寝かすと、今度はたおれるユイ元に駆け寄る。
「おじ、さん…」
安心感から、涙が止まらないユイの頭をそっと撫でつつ、簡単にユイの状態を確認する。
「よく頑張ったね、ユイちゃん。怖かったろう、もう大丈夫だから」
その言葉に、ユイは嗚咽をこぼして泣き始める。そこへ、意識を取り戻したらしいユイの母親が、少しフラつきながらも娘の元にやってきた。
「あの…この子もそうですが…そちらの娘さんは、ハルちゃんは大丈夫なんですか?」
心配そうにつぶやくユイの母親に、ハルの父親はその容姿に違わない穏やかな声で、諭すようにして口を開く。
「ええ、大丈夫です。少々頭を打っているので、念のため精密検査を受けさせますが、脈拍などは問題ありません。ユイちゃんの方も、打撲ないし打ち身はあれど、直接命にかかわるような怪我はしていないでしょう。ただし、その右目に関してはしっかりとした検査や治療が必要になりますので、この後一緒に病院へ行って診てもらいましょう」
スラスラと事態の詳細を述べたハルの父親に感謝を述べたユイの母親とユイに笑いかけ、ハルの父親は娘の元に戻っていった。眠るハルの手を握っているあたり、やはり親としては心配なのだろう。当然のことであるが。
「わかってるよな? お前ら家族揃って不法侵入だぞ? ふざけやがって」
その隣では、相変わらず無茶苦茶なことをほざく男がいたが、対するハルの母親は夫が頷くのを確認すると、先程とは打って変わって柔和な表情を向けた。
「ええ、承知しております。ですので、いちど警察の方へ参りましょう。本来なら当事者全員で行くことが望ましいですが、今はことがこと。子供たち二人は病院に行かなければなりませんし、その付き添いも必要かと。ですので、ひとまずは私と、
「いや、それは……」
優しく、ゆっくりと
「いや、別に、その、あれだよ。警察に行くほどのことでもないってこれは」
そんな弱々しい言葉を聞いたハルの母親の口角が、上がった。なまじ美人な顔立ちなために、その冷たい笑顔はいっそう凄惨な表情を作り出していた。事態を見守るユイやユイの母親が思わず身震いしてしまうようなその表情に、彼女の夫ですら苦笑いを浮かべている。
「あら、なぜでしょう? あなたは被害者、私は加害者のはずです。私が困ることはあれ、あなたにとって不都合など、何もないはずですよ?」
「い、いや…別に…だから…」
どうして? と小さな顎を手の平に乗せて首をひねるその姿は、場違いながらも魅力に溢れる女性のそれだった。
だが、ユイと、ハルの父親は知っている。これは、一度怒らせたら、不動明王すら遥かに凌駕するほどに恐ろしい彼女が、激怒している合図だ。
「大丈夫です。私が捕まることはあれ、あなたが捕まることはないのでは? それにほら、すでに夫が呼んでくれていますので」
彼女が窓の外を促すと、まるで計ったようにサイレンの音が聞こえてきた。救急車の音はもちろん、パトカーの音もたしかに聞こえている。
「い、いいから。そのガキ連れてさっさと帰れよ、お、俺には関係なーーー」
ズガンっ!!
ここまで来て、あまりに無責任な言葉を吐こうとした男の耳を、鋭利な殺意が込められた拳が掠めた。その拳は男の耳を掠め、後ろの壁に直撃。ユイの見間違いでなければ、我が家の壁に、打ち付けられた細い拳を中心に、放射状の罅が入っている。
「ひ、ひぃっ!? な、な、なにすんだよおまえっ!!?」
その惨状を目の当たりにした男は、尻餅をついて後ろに逃げようとするが、後ろは今しがた彼女に殴られた壁があり、大した距離は逃げられない。
「はい、罪状追加です。これで警察に行きやすくなりましたね」
にっこりと笑っているが、正直その細められた目は一切笑っていないことはその場の全員が分かっている。
「だ、だからいいって行ってんだろっ!? 帰れ…帰れよぉぉっ!?」
さっきまでの威勢は何処へやら、半ベソをかきながら情けない声を出す男の胸ぐらを掴み、彼女は男を無理やりその場に立たせる。
「ぐえっ!?」
「いえいえ、そういうわけには参りません。可愛い娘を…
大の男の胸ぐらを、華奢な女性が片手で掴み上げる光景は、すごいを通り越してもはやホラーである。
掴む右手に力を込めつつ、彼女は優しく、しかし底冷えするかのような声音で、ゆっくりと問いかける。
「ひ、ひぃぃっ!?」
「さあ、いかがなさいます? このまま大人しく警察にいきますか? それとも…………一度、あなたも病院の方へいかれますか?」
すぅっと開かれた瞳でそう問われれば、男は黙ってうなだれるしかない。簡単な話だ、このまま大人しく警察にいって全てを白状するか、一度病院のベッドを経由して同じことをするかの違いしかないのだから。
「よろしい」
その場に捨てるように男を地に下ろすと、それきり男は動かなくなる。すでに家の前から聞こえて来たサイレンの音や、この女性がいる限り抵抗は無駄だと察したのだろう。
彼女はそのまま眠る娘の片手を取る。
「よく、頑張ったわね。ハル…」
傷口を触らぬよう、優しくハルの頭を撫でるその姿は、先程までの鬼神のような雰囲気はどこにもない。
その後、あらかじめの段取りは伝えていたのだろう、インターフォンがなったと思えば、警察がユイの家に入ってきて、座り込むユイの父親を連行していった。同じくハルの母親もそれにならってパトカーに乗せられていったが、去り際に微笑みながらユイに手を振るその姿を見て、心配は無用と判断した。
警察と入れ替わるように入ってきた救急隊員は、ハルとハルの父親を救急車に乗せていった。どうやら救急車は二台いるようで、もう片方にはユイがのるらしい。
慣れない救急車で病院へ搬送されながら、ユイは傍に座る母親にずっと手を握られていた。これからどうなるか、などなど諸々なことに思いを馳せていると、自分を呼ぶ声が耳に聞こえた。
「ねぇ、ユイ」
頭に包帯を巻かれた母親が、優しくユイの名前を呼ぶ。
「うん?」
何だろうか、っと軽い気持ちで母親の返答を待っていたユイは、だが次の瞬間には思わず傷口に支障をきたすかもしれないレベルの答えが返ってきた。
「お引越し、しよっか」
「……へっ?」
山の神よりも、人間の方がよっぽど扱いずらい…どう乗り越えさせるかずーーーーーーーーーーっと悩んだ末が、ハルのお母さん魔改造。モデルになったキャラクターが知りたい方は「PSO2 魔人」とかで、画像検索すれば見れるかと…自分でも無理やり感半端ないとは思いますが、これが私の限界でした…
色々ありましたが、次回エピローグの予定です。